第12話「番の調和と真なる神託」
顔を打ちつけると覚悟して目を閉じたセレスティアルの身体は、硬い石畳に激突することはなかった。
落ちる直前、背後から猛烈な勢いで吹き込んだ風とともに、力強く太い腕がその細い腰をしっかりと抱き留めたのだ。
勢いのまま、厚い布地に覆われた熱く硬い胸板へと激しく引き寄せられる。
「セレスティアル」
耳元で張り裂けるように叫んだのは、怒りと絶望と、深い恐怖がないまぜになったユリスの声だった。
彼が自分の本当の名前を呼んだのは、これが初めてのことだった。
鼻腔を強く打つのは、冷ややかな雨の匂いと、深く青い森の香り。
瘴気の残り香を完全に吹き飛ばすほどの、濃密なαのフェロモンが広場全体を制圧するように広がっていく。
ユリスは冷え切ったセレスティアルの身体を抱きしめたまま、その場に崩れ落ちるように両膝をついた。
「目を開けろ。私を置いていくな」
震える大きな手が、血で汚れ、青ざめたセレスティアルの頬を包み込む。
ユリスの眼差しは、これまでにみたどんな姿よりも乱れ、痛々しいほどに懇願の色を帯びていた。
セレスティアルは重いまぶたを押し上げるようにして、わずかに視界を開く。
焦点の合わない視界の先に、ユリスの深く澄んだ青い瞳が揺れているのがみえた。
「ユリス、様……ごめんなさい、私……」
かすれて音にならない声を紡ごうとする唇を、ユリスの熱い指先が強く塞いだ。
「喋るな。すぐに魔力を回す」
ユリスはセレスティアルの額に自身の額をぴたりと押し当て、抱きしめる腕の力をさらに強めた。
肌と肌が密着した部分から、ユリスの強大で清冽な魔力が、怒涛の勢いでセレスティアルの枯渇した体内へと流れ込んでくる。
それは単なる魔力の譲渡ではない。
運命の番として結ばれた魂が、互いの欠けた部分を補い合い、完全に一つに溶け合うための本能的な調和の儀式だった。
ユリスの深い青の魔力と、セレスティアルの体内にわずかに残っていた純白の光が、絡み合うようにして混ざり合い、美しい銀青色の輝きへと変貌していく。
二人の身体を中心にして、温かく柔らかな光の波が円形に広がっていった。
それは、セレスティアルが一人で放っていたような痛みを伴う鋭い光ではない。
命を削るのではなく、命を育み、癒し、すべてを優しく包み込むような、慈愛に満ちた浄化の光だった。
光の波は神殿の広場を抜け、王都の隅々までを瞬く間に駆け抜けていく。
地面にこびりついていた瘴気の残滓は完全に消え去り、枯れかけていた街路樹が青々とした葉を取り戻す。
空を覆っていた不吉な雲は跡形もなく吹き飛び、どこまでも高く澄み渡る青空が広がっていった。
王都を満たしていた死の恐怖が、静寂と温かな光のシャワーによって完全に洗い流されたのだ。
やがて、浄化された空の彼方から、黄金色の光の粒子が雪のように静かに舞い降りてきた。
広場に倒れていた人たちが次々と身を起こし、その奇跡のような光景を信じられない面持ちで見上げている。
『世界を救うのは、偽りの器ではない。運命に結ばれし二つの魂の調和なり』
空から降ってきたのは、声なき神託の響きだった。
それは、セレスティアルの自己犠牲による浄化ではなく、ユリスとの深い結びつきこそが、この世界を真に救済する鍵であったことを明確に告げていた。
温かな光の雨の中で、セレスティアルの身体にゆっくりと熱と感覚が戻ってくる。
胸の奥を満たすのは、恐怖や罪悪感ではなく、すべてを委ねることのできる心の底からの安心感だった。
「……ユリス様、私、生きています」
「あぁ。あなたは、私の腕の中にいる」
ユリスの低い声はかすかに震えていた。
彼はセレスティアルの身体を壊れ物を扱うようにそっと抱き直し、銀糸のような髪に深く、祈るように口づけを落とす。
男であり、Ωであり、偽物の聖女であったセレスティアル。
そのすべてが暴かれ、罰を受けるはずだった運命は、神託の光と、彼を強く抱きしめる神官長の熱によって完全に書き換えられた。
二度とこの腕から逃れることはできないのだと、肌に染み込む甘いフェロモンの香りが静かに告げていた。




