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彼のこと

 芣苿乃と出会ったのは、僕が十になってすぐの春頃だった。もう、十一年も前の話だ。

 国中に点在する神社は、人を襲う妖を祓う役目を持つ。水を源流とする結界術、火を源流とする浄化術、木を源流とする治癒術、金を源流とする封印術の四つの術を使って、妖を祓ったり妖による怪我や病を治癒したりといった役目を担っているのだ。

 芣苿乃は結界術を扱う神社を総括する水上(みかみ)家の長女で、僕は治癒術を扱う神社を総括する枦木(はしぎ)家の次男だった。水上家と枦木家、封印術を総括する金依(こより)家、浄化術を火伏(ひぶせ)家の四家門の間には表向き上下関係はないことになっていたが、実際は枦木家が総括している形だった。妖と対峙する者にとって、妖による怪我を治癒する術に長けた枦木家の協力は必要不可欠だからだ。

 北部に本家がある水上家と西部に本家がある枦木家は、物理的な距離の近さと術の相性の良さから行き来が多かった。特別仲が良いというほどでもなかったが、他の二家門と枦木家との間よりは結びつきが強かったように思う。

 枦木家へ後継ぎの挨拶に来た彼女は、鮮やかな緋色の布地に白や黄色の小花があしらわれた中振袖を着ていた。

 本来、中振袖は十五より上の娘が着るような晴れ着だ。まだ七つだったはずの彼女はしかし、後継ぎとして厳しくしつけられていたので、落ち着いた佇まいで中振袖が良く似合っていた。──今思えば、このときにはもう、惹かれていたのかもしれない。

 双方の親が世間話をしている間、僕は芣苿乃を誘って庭の花を見に行った。堅苦しい挨拶から抜け出すための口実だったが、彼女に立派な庭園を見せてやりたいという下心ゆえでもあった。

 名家の庭園らしく多種の花が植えられ整えられた庭は、ちょうど桜や椿の季節だった。僕は彼女の手を引き、時折り花の説明を口にしながら庭を見て回った。珍しい濃い桃色の河津桜や優しげな薄桃色の椿、蓮華草(レンゲソウ)三角草(ミスミソウ)。けれど美しい花々とは裏腹に、芣苿乃は物憂げな表情で眺めるだけだった。

 ──なんで、悲しそうな顔をしてるの?

 芣苿乃はハッとして顔を上げ、目を伏せた。

 ──申し訳ありません。

 謝って欲しかったのではないのに、彼女は俯いたままそれ以上何も言わない。

 ──怒ってるわけじゃなくて。ただ、楽しくないなら戻ろうかと思って。

 彼女はしばらく躊躇(ためら)うように黙っていたけれど、僕がじっと待っていると口を開いた。

 ──花を見て、綺麗と思わないわけではないのです。でも…。

 芣苿乃は視線を揺らした後、息を吸って消え入りそうな声で言った。

 ──花を眺めていると、豊かな大地や、安全な水や、腕のいい庭師や…そういう、花が咲くために必要な環境は、私たちが守っていかねばならないことを実感してしまうのです。

 妖が跋扈(ばっこ)する世で人々が安全に暮らすためには、水上家が担う結界術は必要不可欠であり、それを総括する立場には責任が伴う。そう言い含められて育ってきた彼女と気楽な次男の僕とでは、背負っているものの重圧が違い過ぎたのだろう。あの時の彼女には花だけでなく、世の中の全てが重荷として映っていた。

 しかし当時の僕は、それにも気付かず守れる確証のない約束をしてしまうほどには子どもだった。

──なら、ここの花はこの家のものだし、僕が絶対に守るよ。

 屈託のない笑顔を浮かべる僕を、彼女がどういう気持ちで見ていたのか。同じ重圧を背負っていた兄ならわかったのかもしれないが、僕は結局わからなかった。僕が知っているのは、彼女がしばらく目を瞬いてふっと頬を緩めたことだけ。

──また、見に来てもよいでしょうか。

 彼女が笑ったところを見たのはそれが初めてだった。僕は頷きながら、その笑顔に見蕩れていた。

 芣苿乃はそれ以降、四季折々には必ず枦木家を訪れるようになった。それが跡継ぎとしての義務であったのは確かだが、双方の親がいずれ僕と芣苿乃の縁組をと考えていたことも理由の一つだろう。

 兄は厳しい教育を受けていたけれど、僕は直系としての最低限の教育だけ受けていれば放っておかれていたから、芣苿乃と会うことは難しくなく、僕らは段々と惹かれていった。


   * * *

 

 芣苿乃が水上家の当主になってからの初めの三月(みつき)は、順風満帆とまでは言わないが好調だった。当主が変わった当初はその混乱から人に害をなす妖が北部のあちこちに巣くっていたが、芣苿乃は枦木家、火伏家や金依家の手を借りながら、素晴らしい手腕で北部の混乱を収めていった。

 それが一変したのは、父上が倒れたころだ。

 父上が病に臥せったのを皮切りに、御上(おかみ)の治世はだんだんと荒れていった。もともと(まつりごと)への関心が薄いお方だったが、口うるさい父上が倒れたからだろう、以前にも増して市井への関心がなくなったようだった。

 御上が政をしなくなったことで、はじめ能吏は民のために東奔西走していたが、悪吏がのさばるようになると段々と職を辞す者が増えていった。世が荒れれば人が荒れ、妖も荒れる。妖は瞬く間に人々の脅威となっていった。四家を始めとする各地の神社は可能な限り妖の暴走を止めようとしたが、原因である治世が良くならない以上、悪化を遅らせる程度の効果しかなかった。

 妖の暴走に比例して父上の具合は悪くなっていき、床から起き上がれないほどになった。医者は胸の病だと言い薬を処方したが、効いているとは到底思えなかった。手が離せない兄上に代わり、僕と母上とで看病を続けたが、日に日に悪くなっていく病状はもう父上が長くないことを示していた。

 ある夜、僕は一人で父上の看病をしていた。

 珍しく父上の意識ははっきりしていて少しだけ具合が良さそうだったので、母上は仮眠を取っていた。

「維織、水が飲みたい」

 はい、と頷き、父上が体を起こすのを手伝って、吸い飲みを渡す。

 父上は水を飲み、何かを言いかけて、口を閉じた。

「どうかしましたか?母上を呼びますか?」

 具合が悪いのかと思いそう言うと、父上は首を振った。

「いや。おまえに話さなければならないことだ」

 父上が口ごもるなんて珍しいな、と思いながら黙っていると、父上は言いにくそうに口を開いた。

「ここからの話は、朧の主として聞いてくれ」

 僕が口を挟む隙も与えず、父上は一息に言った。

「このままでは民が苦しむ。宰相も家老らも、御上に意見したものは(みな)罷免されてしまい、もはや成す(すべ)はない。私は枦木家の当主として、国の重鎮の一人として、──(おぼろ)に御上の暗殺を依頼したい」

 僕は息を呑んだ。病で弱っているとはいえ、御上を暗殺する危険性がわからぬ父上ではない。

 わかったうえで言っているとするならば、──僕が思っているより、この国は危ういのかもしれない。

 父上が言うのなら、もうそれしか方法がないのだろう。超えてはならない一線に足を踏み出すのを感じながら、僕は深呼吸をし、ゆっくり眼を開いた。部屋の陰へ声をかける。

相済(あいすみ)

 音もなく男が現れ、僕の前に膝をついた。

「話は聞いていたな?御上の暗殺、頼めるだろうか」

「命じられれば、何なりと」

 普段通りの声色で頭を垂れる相済に、僕はなぜか突き放されたような気がした。無理だと言ってくれれば僕は命じないのに、と思って、わかった。──僕の命で彼らを危険に晒す覚悟が、僕はまだできていないのだ。

 膝の上の拳をグッと握りしめる。今更、そんな半端な覚悟でいてはいけない。

 息を吸って、僕は口を開いた。

「御上の暗殺を命じる。その間、他のあらゆる任務は免除する」

「御意」

 相済はそう答えると同時に、陰に紛れ姿を消した。

「すまないな。辛い役割を担わせて」

 父上の謝罪に、僕はドキリとした。命令を下したくない真意を見抜かれているような気がして、何気ない素振りで首を振る。

「僕は指示を出しただけですよ。本当に辛いのは実際に働く朧や、この国を建て直さねばならない兄上たちですから」

 だからせめて、このくらいは。

 父上は哀しげな眼差しで僕をじっと見て、何かを言いかけた。しかしそれが声になる前に、襖の向こうから母上の声が聞こえ、襖が開いた。

 それから父上と話す機会は一度も無かった。父上は翌日の朝、意識を失い、御上の暗殺が成功した日の夜、それを見届けたかのように亡くなった。

 御上の葬儀が終わり、父上の葬儀も終わった日の夜、僕は兄上の部屋を訪れた。

 まだ少し肌寒い夜だった。

「兄上、少々よろしいでしょうか」

 (ふすま)越しに部屋の中へ声を掛けると、少しして襖が開いた。夜着を纏った兄が不思議そうな顔で立っている。

「夜遅くに珍しいな。何かあったのか?」

 兄弟仲は良い方だが、夜遅くに自室を訪ねたことなどこれまで一度もない。怪訝に思うのも当然だ。

 僕は首を横に振った。

「いいえ。人目を憚る話があるのです」

 兄は眉根を寄せ、僕を部屋に招き入れた。

「とりあえず入れ」

 ありがとうございますとお礼を言いながら中に入り、座布団に座る。

「それで、いったい何の話なんだ」

「話すより見て頂いた方が早いでしょうから…相済」

 部屋の陰に声をかけると、目元以外を黒い布で覆った男が音もなく現れた。

 兄はぎょっとして体勢を崩した。僕は静かに口を開く。

「朧と呼ばれる暗躍部隊の長です。彼らは実の名を持ちませんので、彼のことは相済とお呼びください」

 枦木家には、朧と呼ばれる暗躍部隊がある。暗器を扱った暗殺技術から素手での戦闘まであらゆる技術を叩きこまれており、その職務は暗殺から諜報まで多岐にわたる。五、六人からなる精鋭部隊で、その存在は枦木家の当主と朧の主しか知らない。

 朧の主は()()()()()()()()()()から選出され、複数人いる場合は性別を問わず適正のある者が選ばれる。朧は当主が暴走した場合の抑止力的側面も持つためだ。

「…新たに就任した当主には、朧の主が説明をしに行くことになっています。今代は僕なので、僕が」

 僕の説明に、兄は信じられないというように眉をひそめた。

「いったいいつから…」

「ほんの半年前…叔父上が住まいを移される少し前からです」

 僕の返答に、兄は少し表情を緩めた。

「それなら、まだおまえが彼らを動かしたことはそんなにないんだよな?」

 兄は僕の立場を案じてくれているのだ。それがわかるからこそ、これから話さなければならない事情を考えると憂鬱だった。兄の心配を無下にするようなことを言わねばならないことが辛かった。

 僕は視線を床に落とし、重い口を開く。

「……。今回彼を呼んだのは、そのことで兄上に相談することがあるからでもあるのです」

「そのこと?」

 兄は怪訝そうに首を傾けた。僕は息を吸い、平常心を装って続ける。

「僕が、病床の父上に頼まれて彼らに下した命令──先日崩御された御上の暗殺命令についてです」

「っ、暗殺⁉」

 刮目し息を呑んだ兄に頷いて、説明を続ける。

「先代の治世がどのようなものであったかは兄上もよくご存じでしょうから言及はしませんが…。ひどい有様であった民を父上は案じていました。即位なされた此度の主上──先代主上の実の息子の奏上でさえ聞き入れられることはなく、苦言を呈した心ある高官は罷免されてしまい、父上は先代の主上に見切りをつけたのだと思います」

 思い当たる節があるのだろう、兄上は顔を顰めながらも頷き、続きを促した。

「それで…」

「はい。父上は僕に御上の暗殺を命じられ、僕はそれに従って彼らに命令を下しました。結果は…」

 言い淀んだ僕の後を継いで、兄が言う。

「成功、したんだな?」

「暗殺自体は、成功しました。しかし、潜入した朧の一人が捕縛されてしまい…。彼は獄中で自死しましたが、他の朧が少し跡をつけられていたようです。途中で撒いたそうなので向こうも確証を得られているわけではないようですが、枦木家に疑いがかかっています。そうだな、相済?」

 相済は声もなく首肯した。兄がぐっと拳を握りしめ、唇を嚙む。

 僕は真っ直ぐ兄の眼を見据え、口を開いた。

「ですから兄上、お願いを聞いていただけませんか」

「ああ、どうにかしよう。他の四家の力も借りれば、何とか…」

 僕は兄の提案に静かに首を振った。

「そうではありません。朧の存在だけは決して知られるわけにはいきませんから、曖昧な決着をつけるわけにはいかないのです。──なのでどうか、全て僕一人の企みだということにしていただけませんか」

 兄は驚いたように眼を見開き、鋭い眼差しで僕を見た。

「駄目だ。そんなことになったら枦木家はどうなる」

「今代の主上は慈悲深い方ですし枦木家には被害が及ばないようにしますので、心配いりません」

「だとしてもおまえは反逆罪で処刑だろう。駄目だ」

 低い声で怒りを露わにして言う兄を、僕は見たことがなかった。それは紛れもなく僕に対する愛情からくる怒りで、今の僕にとっては嬉しいと同時に苦しい。

「これだけの機密が僕一人の命で守れるのなら安いものではありませんか」

 兄上、お願いします、と頭を下げると、兄はため息を吐いた。眉根を寄せ、呆れた表情で僕を見る。

「おまえは昔からこうと決めたら動かないところがあるけどな、今回は自分の命がかかってるんだぞ。この件は大事ではあるが、そこまで思い詰めることじゃない。疑いがかかっているだけでまだ証拠を掴まれたわけではないだろう」

「……」

「母上の気持ちだって考えてやれ。父上が亡くなったばかりなのに、今度は息子まで死ぬんだぞ。それも大罪人として。芣苿乃さんも…おまえならわかっているだろう」

 情に訴えられると僕は弱い。兄もそれをわかって言っているのだ。

 事実、母上や芣苿乃に対しては酷い決断だとも思っていた。

「わかっています。……わかっているからこそ、辛いのです」

 手のひらに視線を落とす。僕の手は既に、血に塗れている。

「御上は朧に暗殺を命じましたが、…水上家の前当主は、僕が直接手を下したのです」

 兄は瞠目した。

「だけどおまえは、以前から彼女のことを…」

「…だから、ですよ。あのままでは、芣苿乃もろとも刑に処されていた」

 父上に呼ばれたときのことはよく覚えている。晩秋の、同じくらい肌寒い頃だった。

 全ての人が妖に襲われないよう、結界の内に住めるように工夫すべきだと説く芣苿乃の父を、結界術を独占したい先代の御上(おかみ)は疎ましく思っていらした。あのままでは無実の罪を着せられて親子共々処刑されていただろう、と思うほどに。

 御上の思惑にいち早く気付いたのは父上だった。芣苿乃の父を助けてやりたいという私情もあったのだろうが、妖に対峙する術者を総括する立場として水上家が処刑され没落することだけは避けたかったのだろう。父上は死刑に処すのは行き過ぎではないかと幾度となく奏上したが、効果はないようだった。

 御上のご意思が変わることはないと悟ると、父上は僕を部屋に呼び芣苿乃の両親の暗殺を命じた。

 水上家が没落するよりは、御上にとって邪魔な水上家当主を排除する方がまだ被害が少ないと考えたのだろう。 

 次の朧の主に指名された十五の頃から、僕は秘密裏に叔父から様々な暗殺技術を習っていた。芣苿乃の父の暗殺は、僕が正式に主となってから初めて朧に下す命令だった。

 父上は淡々と事情を説明していたが、表情からは苦渋の決断であったことが窺えた。一度は命を拒んだが、頼むと頭を下げられてはそれ以上父上を非難することはできなかった。

 一方で、朧に命令を下すことも、どうしてもできなかった。芣苿乃の父の生死を他人の手に委ね、何食わぬ顔をして芣苿乃と接する自分の姿など想像もしたくなかった。

 悩みぬいた末、──僕は自らの手で芣苿乃の父を(しい)した。

「…僕に、芣苿乃の傍にいる資格はありません」

 僕は赦せない。彼女を慰める自分を。彼女の父を殺す以外何もできなかった自分を。

 淡々と話す僕を、兄はじっと見つめていた。

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