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ふたりのこと

※自傷の描写が含まれますので、苦手な方はご遠慮ください。

 兄上に朧の存在を打ち明けた夜から五日後。

 水上家の本家近くの山中、僕は木の根の上に腰を下ろした。

 せめて逃げてくれと兄上に言われ、僕はあの後すぐ家を出た。僕が御上の暗殺を謀った罪に耐えかね、家を出る旨を書き置いて姿を消したという話が世間に公表されたのは、その三日後──たった二日前のことだ。兄上がうまく話をしたようで反逆者として追われているのは僕だけだが、その分僕の捜索の手は国中に及んでいる。兄上はそれを見越して、隣国に逃げられるように三日間の猶予を設けてくれたのだろうが、僕は他国に逃げる気は微塵もなかった。

 僕はゆっくりと空を見上げた。木々の間から満月の光が漏れていた。綺麗な夜だ。

 ふと、僕の名前を呼ぶ小さな声が聞こえた。ここへ来たということは、昼の間に忍び込んで潜ませておいた文を読んだのだろう。

「ふみの」

 僕を探しに来た彼女を、呼びかけて後ろから抱きすくめた。年齢のわりに背の低い彼女は、背の高い僕の腕の中にすっぽりと収まった。

 腕の中の小さな体は緊張してさらに縮こまって、静かな声で「放してください」と言った。

 それには応えず、再度彼女の名前を口にする。

「芣苿乃」

「⋯放して」

 さっきの固い声とは裏腹に、今度は何かを恐れているようにか細い声だった。

 芣苿乃が何を恐れているのか、僕は知っていた。彼女のためを思うなら、明かさずに死んだ方が良いことも。こうしてここへ呼び出したのは、彼女に不誠実でありたくない僕の勝手だ。

 芣苿乃の身体を手放し、彼女の前へ回り込んだ。

 彼女の顔を覗き込み、口を開く。

「君の父上を殺したのはね、」

 一度切って、にっこり微笑んだ。ちゃんと、芣苿乃からは悪役に見えるように。

 芣苿乃は怯えたように瞳を揺らした。

「やめてください。噂なんて、私は気にしていませんから…」

 幼子のように懇願するその声は、今にも泣きそうな、頼りない声だった。

 けれど、彼女が口にした最初で最後の「お願い」を、僕が叶えてやれることはない。聞かなければ、彼女も後悔と自責で苦しむだろうから。

 それなら、せめて、悪役にならなければ。

 僕は笑みを一層深めて囁いた。

「僕、だよ」

 芣苿乃は驚かなかった。僕がそう言うことを、わかっていたようだった。

「理由が、あるんでしょう…?」

 僕は否定も肯定もしなかった。曖昧に微笑んだまま、眼下を指さす。

「追手がもう近くまで来てるみたいだ。悠長にしてる時間はない」

 山の麓にちらちらと見える光はおそらく提灯の火だろう。今日は月も明るい。見つかるのは時間の問題だ。

 僕は懐から仕込み扇子を取り出し、芣苿乃へ差し出した。 

「憎い仇が目の前にいるんだ。これ以上の好機はないよ」

 芣苿乃は驚いたように眼を見張った。目尻から一粒、涙が零れ落ちる。

「できません。あなたを殺すなんて、私には」

 頬を伝う涙を優しく拭ってやりながら、僕はこの上ない幸せを感じていた。

 ──僕の前ではよく泣く彼女が、心底愛おしかった。

「逃げてください。私なら時間を稼げますから」

「無駄だよ。もう包囲されてるだろうから、無事に山を下りることすらできない」

 それでも、と言い募ろうとした芣苿乃を遮って言う。

「ここで死ななくたって、すぐに捕まって極刑に処される身なんだ。君が咎められることはないよ」

 死ぬなら君に殺されたい──言葉にはしなかったが、(さと)い彼女が僕の言葉の裏に気付かぬはずがなかった。それでも芣苿乃は、泣きながら首を横に振るばかりだった。

 そうだ。それでいい。

 僕は涙を拭う手を止め、仕込み扇子の鞘を払った。銀色の刃が月明かりに照らされて鈍く光る。

 もしも彼女が望むなら、と思ったから訊いたけれど、もとより、芣苿乃に望まぬ罪を背負わせるつもりはない。

 僕は大きく息を吸い、──切っ先を腹に突き立てた。刃は鳩尾(みぞおち)あたりを深く貫き、骨に当たった。

 息が上手く吸えない。頭を(つんざ)くような耳鳴り。視界が明滅し、色が抜け落ちていく。

 冷汗が全身から吹き出し、力が抜けていくのを感じた。

 その場に崩れ落ちる途中で、細い腕に抱きとめられた。か弱いと思っていたはずの腕は、存外力強かった。

 口から溢れた血が、二人の衣を汚した。

「…っ、ご、め、…ね」

 うまく息が吸えないせいで、声がかすれてしまう。ごめんね、と再度言おうとした僕を芣苿乃が制した。

「話さないで。止血、しないと」

 致命傷なのは明らかだった。止血の甲斐もなく、血はとめどなく溢れていく。

 急所をわずかに逸れてしまったと思っていたけれど、意外と深手なのかもしれない。

 既に思うように動かない腕を上げ、彼女の手に自分の手を重ねると、芣苿乃はハッとしてこちらを見た。

「いい、から…かお、みせて…」

 芣苿乃は目を見開いて、止血していた手を止めた。覚悟を決めたように口を横一文字に引き結んで、僕の手を取り、僕の上半身を膝の上へ抱き寄せる。

 その表情は苦悶に歪み、けれど涙はなかった。苦しそうな、悲しそうな、それでいて怒っているような。

 ──ああ、僕はやっぱり、君が好きだ。

「こんなっ、こと、いっても…、めいわく、だろ…けど」

 浅くなっていく呼吸を一生懸命整えて、言葉を紡ぐ。

「あい、してる。……なに、よりも、だれ、よりも…」

 芣苿乃は瞠目した。僕の体を支える手が、少し震えていた。

 こんなときに言うことじゃないよね。言い置いて死ぬなんて卑怯だよね。

 わかってる。ごめんね。

 僕は臆病だから、こんなときじゃないと言えなかったんだ。

「ぼく、なんて、わすれて…しあわせ、に」

 なって、と続けようとした言葉は、僕の頭の下に差し込まれた腕に遮られた。彼女は僕をゆっくり抱き起すと、自分の唇を僕の唇に重ねた。

 深い口づけの後、彼女は静かに言った。

「忘れられるはずがないでしょう」

 やや怒気を孕んだ声やじっと僕を見つめる眼は、忘れて、と言った僕を(なじ)っていた。

「私があなたの愛情に気付かないほど鈍感だとでも思っていたのですか。それとも向けられた情愛を利用して甘えるだけ甘えて、都合が悪くなったら切り捨てるような人だと思われていたんでしょうか。…こんなにも愛を私に注いでおいて、──忘れろだなんて、身勝手にもほどがあります」

 彼女の眼の奥に潜む怒りはしばらく僕を見つめていた。僕がその眼差しに耐えきれなくなる直前、芣苿乃はふいっと目を逸らした。

「あのとき」

 虚空を見つめる彼女の眼は遠い目をしていた。それまでの怒りなど嘘のように穏やかだった。

「ここの花は大丈夫だって、あなたが言ってくれたから。重荷が一つ消えてなくなったような気がして…」

 声が頼りなく震え、だんだんと小さくなっていく。

 芣苿乃は口を噤み、大きく息を吸った。涙を堪えようとすればするほど、その眼は濡れていく。

 その瞳から一粒、涙が零れ落ち、僕の手を濡らした。

「父の仇だとか、大罪人だとか、…そんなことでは測れないほど、愛しているのです」

 芣苿乃は泣きながら、微笑んだ。静かに涙を流し、慈愛に満ちた手で僕の手を握った。

 維織さん、と名前を呼ぶ芣苿乃の声を最後に僕の意識は薄れていった。

 今年もまた、桜が咲く。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

次回作の投稿は冬頃を目途に、決まり次第、活動報告にて連絡させていただきます。


   * * *


読者様の想像にお任せしたいので、普段はあまりこういうことは書かないのですが、

今回は入らなかった裏話があるのでそれと、感想を少し書きたいと思います。

一読者の個人的な意見だと思って、興味のある方だけお付き合いください。



彼らの結末は苦しいものでした。

──生まれ落ちる時代が、身分が、違っていたなら良かったのにと、どれだけ思ったことだろう。

維織が言っていたように、もし少しでも置かれた立場や考え方が違ったなら、彼らがこんなに苦しむことはなかったのでしょう。


でも。

そう思えるほど深く、人を愛すことができた。

そのことこそが、幸せなのかもしれないと私は思います。


河津桜の花言葉は、「思いを託します」。

蓮華草(レンゲソウ)は、「あなたと一緒なら苦痛が和らぐ」。

「芣」は、花盛りのさまを表します。


…彼女のその後の人生は、また別の機会にでも。

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