彼女のこと
予定より早く書きあがりましたので、投稿日を6月8日に変更しました。
急な変更で申し訳ありません。
楽しんでいただけたら幸いです。
生まれ落ちる時代が、身分が、違っていたなら良かったのにと、どれだけ思ったことだろう。
抱えきれないほどの後悔と、罪と、愛。
僕はただ、君を愛していたかった。
ただ──。
維織さん、と名前を呼ぶ声に、勢いよく振り向く。
「芣苿乃」
慶事用の紺青の袴を身につけているところを見ると、就任式が終わった後すぐに来たのだろう。門をくぐってこちらへ歩いてくる彼女に、手を差し伸べる。
客間に案内し座布団に座ると、彼女に笑いかけた。
「当主就任おめでとう」
軽い調子で言ったつもりだったが、彼女は浮かべていた笑顔を少し曇らせて俯いた。
「ありがとうございます…」
しまった、と思ったが、かける言葉は咄嗟には見つからない。せめて、と慰め代わりに彼女の頭にそっと手を乗せた。
彼女の眼から落ちた水滴が、はた、と地面を濡らした。
涙の理由を知らぬ訳ではないのに、いや、知っているからこそ、僕はひどく動揺した。
「どうしても許せないんです…父が殺されたことが。当主になったのだから、下手人を見つけようなんて考えずに民や家族のことを考えなければならないと──恨みを持ったままではいけないと、わかっているのですけれど」
彼女の父が暗殺されてからほどなくして、体が弱く病がちであった彼女の母も亡くなっている。心労がたたったのだろうと、言いはしないが誰もが思っているだろう。彼女にとって父を殺した下手人は、両親の仇も同然だ。
芣苿乃はしばらく俯いていたが、やがて手の甲で涙を乱暴に拭い、顔を上げた。
「情けないところをお見せして申し訳ありません」
彼女はぎゅっと唇を引き結んで言った。
罪悪感と自己嫌悪と歯がゆさとが綯い交ぜになって、僕の心を蝕んでいく。それを彼女に悟られないよう、僕は穏やかな微笑を取り繕った。
「ここには僕しかいないから、泣いたって罰は当たらないんじゃないかな」
「…でも」
芣苿乃は視線を揺らし、微かに首を振った。
「妹が、臥せっているんです。あの子は体が弱いから、私が…しっかりしないと」
それは、誰かに言っているというよりは自分に言い聞かせているように聞こえた。
芣苿乃より五つ下の妹は母に似て体が弱い。ただでさえ両親を立て続けに亡くし動揺している妹にこれ以上心労は掛けられないから、弱音を吐いてはいけないと芣苿乃は己を律しているのだ。
それでも自分一人では抱えきれなくて、当主就任を報告するという名目のもと、ここへ来たのだろう。毅く脆い彼女が僕の前でだけ泣くことが、僕は少し嬉しくてその何倍も悲しい。
「君の責任も重圧も、僕が代わりに背負うことはできないから」
躊躇いがちに手を伸ばし、彼女の背に手を回す。
「君にしてあげられることなんて、こうして話を聞くことくらいだよ。…せめてそのくらいは、役に立たせてくれないか」
小さな頭が腕の中で震えた。
「なぜ、お父様は殺されたの…?なぜ、お母様は…」
死んでしまったの、と消え入りそうな声で彼女は問うた。
「なんで、」
その続きは、声にはならなかった。押し殺した嗚咽とともに、彼女の涙がゆっくりと僕の衣に沁み込んでゆく。その泣き方は、見捨てられた幼子が身を引き絞るように泣くのとよく似ていた。
どれだけそうしていただろうか。やがて芣苿乃は泣き止み、そろそろと頭を上げた。泣きつかれたのもあるのだろう、まだ疲労は表情に色濃く残っていたが、追い詰められているような焦燥はなくなっていた。
「もう大丈夫?」
優しく声を掛けると芣苿乃は気恥ずかしそうに頷いた。
「あ、あの…ありがとうございました」
ううん、と首を振って頭を撫でると、芣苿乃はふっと表情を緩めて苦笑した。
「これじゃあ私、子どもみたいですね」
そんなことないよ、と返そうとして、思い直す。そういえば、庭の椿がそろそろ咲きそうだった。
「じゃあ、子どもの頃みたいに庭の花を見に行こうか。桜はまだ先だけど、椿が蕾をつけたんだ」
芣苿乃がパッと顔を輝かせた。彼女は昔からここの庭を見るのが好きだ。
廊下に出て中庭の方へ行くと、雪景色のあちこちに濃い桃色が散っていた。まだ咲いていないからか目立たなかったけれど、芣苿乃は破顔した。
「もう少し経てば咲くと思うんだけどね」
そう言うと、彼女は少し首を傾け、蕾をそっと撫でた。
「蕾も綺麗ですよ。色鮮やかで」
そう言いながらも、芣苿乃は椿の蕾を手放し、まだ枝ばかりが広がる桜へ近寄り、見上げた。
「私、ここの桜が一番好きです」
彼女はどこか遠い眼差しをしていた。僕は少し首を傾け、問う。
「花をつけていなくても?」
「咲いていなくても、咲いているときと同じくらい綺麗です」
桜を見つめる芣苿乃は穏やかな笑顔を浮かべていた。
「もう少し、頑張ろうって気になるんです」
彼女の何気ない一言は、その純粋さゆえに僕の胸を抉った。
これから先、僕はこの罪悪感を抱き続けなければならない。それはいい。それが贖罪であり責任だ。
でも、もし……彼女が望むのなら。
僕はつい、口を滑らせてしまった。
「もし…もし、下手人が見つかったらどうする?」
芣苿乃は弾かれたように僕の方を振り向いた。
「有り得ないだろうけれど、もし下手人を殺しても、自分が罪に問われることはないような状況が揃っていたら…」
僕の問いに芣苿乃は面を伏せた。表情が抜け落ちたその顔からは、何を考えているのかは読み取れなかった。
しばらく逡巡した後、芣苿乃は躊躇いがちに口を開いた。
「…下手人を前にして理性を失っていたら、もしかしたら」
殺してしまうかもしれません、という芣苿乃の声は掠れていた。それでも彼女の眼は僕を真っすぐ見つめている。
その瞳の奥に浮かぶ信頼の色に耐えきれなくなって、僕は目を逸らした。
「嫌なこと思い出させてごめんね。変なこと訊いてごめん。忘れて」
自嘲気味に謝ると芣苿乃は大きく頭を振って、僕の手を取った。
「向こうの方も見に行きませんか?雪が積もってて綺麗です」
いいよ、と頷いて笑みを浮かべ、足を踏み出した。
その手が、淀んだ心を少しだけ溶かしてくれた気がした。




