19:葉陰と青空(後編)
私の頭上で、木の葉が風でざわざと鳴った。
私はすぐに言葉の内容が理解できなかった。サチヨさんが私を突き落とした? でもあの時は確か事故の衝撃で放り出されたって……。
「どういう事ですか? サチヨさんは私が衝撃でベランダから放り出されたって言ってましたよ」
白河氏は、私の手を握ったまま言った。
「先に謝っておく。俺はひのかさんを守ると約束したのに、何も出来ずに危険な目に遭わせて怪我をさせた。本当にごめん」
謝罪? うろたえた私は、何も言えずにただ白河氏の顔を見ていた。
「サチヨが突き落としたのは、ひのかさんが生きたまま死者に近づいていた『縁』を完全に切るため。そのためには、危険だけど思い切った手段が必要だった。ひのかさんがサチヨに殺される状況、ひのかさんが死ぬ状態……高所から突き落とされて火炎に落ちる。そして身代わり人形であるサチヨはひのかさんの<死>を引き受けて、燃えて消えた。ひのかさんは、火炎で火傷をする事で『縁』が切れた。そして元凶の朱山の婆さんは、因果応報で破滅した」
白河氏は一旦言葉を止めて、眉間にシワを寄せて軽くしかめ面をした。
「参った、あらためて言葉にするとキツイ。さすがのサチヨも、自分がひのかさんを突き落としたと言えなかったんだよ」
私は青ざめるのが自分でもわかった。
「そんな、サチヨさんが……白河さん、知ってたんですか?」
白河氏は、私から目を逸らして言葉少なに言った。
「色々口止めをされていた。詳しい事は、最後に俺に伝えてきた」
――詳細は落ち着いたら誰かが説明してくれるでしょう。
サチヨさんの言葉を思い出す。白河氏にどんな風に伝えたんだろう。
白河氏は少し先にあるベンチに私の手を引いて連れて行き、私を座らせて手を離してから隣に並んで座った。どこからか漂ってくる土の匂いが気持ち良く感じられる。
「サチヨは、臨機応変に動けるように、ひのかさんの荷物に紛れて301号室に付いて行った。そして俺を見つけた。朱山の情報を教えてやるから下僕になれと言われたので、俺は受け入れた。ただし、最初のうちは俺からひのかさんへの連絡は厳禁だった。とにかく、朱山の婆さんが拝み屋としてひのかさんに接触してからだと。
初めてのひのかさんへのメールの返信、あれサチヨが指示した内容だったんだよね。まず自分の名前がモモヨとだけ伝えておけと命令されて、嫌だと抵抗したけど無駄だった」
白河氏は苦笑し、私も最初のメールが素っ気ない内容でむくれたのを思い出して、少し笑った。
「俺はあの倉庫からマンションの2号館を見ていた。ひのかさんからの『招待』を待ちながらね。その間にサチヨは着々と2号館内の連中を子分にして、建物内を動き回っていた。
朱山の婆さんも、何か邪魔者が入り込んでいるとは感じていた。でもその頃から体調がどんどん悪化していて、2号館に出入りどころか近寄れなくなり、真向かいの1号館で見張っているしかなかった」
「私、朱山さんに避けられていると思ってたんですけど、体調が悪かったんですか」
「うん。サチヨとは姿の見えない睨みあいみたいな状態だったんだよ。朱山の婆さんは体調も悪くなっていた。でもそれ以上に能力の衰えと、莫大な借金の重圧で精神的な暴走が始まっていた……理沙さんは側にいたけど単に気難しい年寄りだと思っていた。無理もないけどね。そして5月のあの夜、2号館の雰囲気が変わった。サチヨが朱山の婆さんを誘い込もうと連中に派手に暴れさせたんだと思う。
そしてサチヨと遭遇した。何があったのかは、サチヨも言わなかったからわからない。あの時は用心のためか、俺との繋がりも遮断していたから……朱山の婆さんに怒り狂っているのがわかって、すぐにひのかさんからメールが届いた。そして事態が動き出した」
白河氏は、ふっと息を吐いた。
「あの日接触した事で、サチヨは朱山の婆さんの目的を知った。サチヨは俺にひのかさんの部屋を調べろ、その時に万年青を持って来いと言ってきた。万年青は魔を祓う強い力がある。ただし、俺は厳重に口止めもされていた。朱山の婆さんが侵入して来たこと、ひのかさんを死者の嫁に仕立てようとしていた事とか。画家の世界が出現した時、サチヨは画家から詳細に聞き出せと騒いで大変だったよ。
サチヨは、この時から俺にあまり話しかけなくなっていたので、俺は別に動いていた。今にして思うと、画家と接触してたんだな。人形の魂を分けてモモヨの幻想を作り、画家と一緒にいるようにしてやった。画家は満足し過去を思い出し、彼岸に帰ると決めた。そこでサチヨは一番大事な着物に着替え、ひのかさんの家を出てから完全に沈黙した。
そして俺は、7月7日の夜に『光の調和団』で七夕の儀式を盛大にやると理沙さんからの連絡で知った。七夕の儀式はさほど重要じゃないし、信者が減ってから何年もやっていなかったんだよ。だから気になって、当日は婆さんの家を見張っている事にした」
楽しみにしていたのに、行けなくなった七夕のお祭り……私は俯いた。白河氏は淡々と話し続ける。
「弱っていた朱山の婆さんは、画家の世界に何とか入り込んでもモモヨには気づかなかったと思う。突然画家が7月7日の命日に彼岸に帰ると言い出したので、猛烈に焦り、急遽結婚の儀式をする事にした。儀式には信者の参加が必要だ。だからもう少し先、9月に行われる教団の創立記念祭で儀式を予定していたんだと思う。でもここに来て全ての計画が崩壊しそうになった。画家を捕えてはいたが、自分から彼岸に帰る事を阻止は出来ない。だから必死で足止めをして、大急ぎで七夕の儀式を準備し信者を集めておき、ひのかさんに襲い掛かった」
白河氏はふうっと息を吐いて言葉を切り、私はぽつりと尋ねた。
「儀式って、朱山さんは何をするつもりだったんですか」
「口にしたくない。ろくでもない事だよ」
白河氏は吐き出すように言ったので、私は黙ったけれど、きっと朱山さんに殺されたんだろうなとぼんやり考えた。何だか現実感が無いけど。
「サチヨは入念に計画をたてて、7月7日の夜に呪いと仕掛けをまとめて朱山の婆さんに叩き返した。黒い霧を消し、捕らわれ隠されていた連中と2号館を晒し、何らかの方法で運転手に車を突っ込ませ、炎上させた。ひのかさんの縁を切り、画家の世界を破壊した。かなり弱っていた婆さんは一たまりもなかったと思う……サチヨも事前に俺に言っておいて欲しかった。まさか何もかも一度に全部やるとは思わなかったよ。愚痴だけどさ。
サチヨは最後に言ってた。ひのかさんはただの火じゃない、巨大で強力な火炎の力で徹底的に縁を切ったと。それぐらい<死>は強いんだよ。まして朱山の婆さんの呪いで、ひのかさんは生者でありながら、死者に近づいていた。だからサチヨはあらゆる手段を使って建物を燃やし、ひのかさんを突き落とした」
私は黙ってベンチから立ち上がると、小道を歩き出した。白河氏も立ち上がり、私の後を歩いてきた。
「サチヨさんは、私が助けに行くと知ってたんでしょうか」
「それは、わからない」
悔しさがこみあげる。
「私は、サチヨさんに操られていたんでしょうか」
「それは多分ない。でもサチヨはひのかさんを守るために、全てを利用して動かした。それでひのかさんの心が傷つき、たとえ憎まれてもね。それが『身代わり人形』の役割だ」
「……」
「ひのかさんの『身代わり人形』として消えるのがサチヨの宿命であり、願いだった。サチヨは最後まで、消える瞬間までひのかさんを守った。それだけは確かだよ」
私は立ち止まって足で地面を蹴った。サチヨさんの歌声を思い出す。わかっている、サチヨさんがどれだけ私を大事に見守ってくれていたか。
「私は守られるだけで、何も知らず、とことん無力でした。それが悔しいんです。私が今生きているのは、サチヨさんのおかげです。でも今の私は空っぽです」
白河氏は無言で私のそばに立っている。私は涙声で尋ねた。
「白河さん、私はもうサチヨさんに会えないんですか?」
白河氏は静かに言った。
「会えない。それが決まりだ」
「私、サチヨさんにちゃんとお別れも出来なかったし感謝も出来なかった。それが悔しいんです」
白河氏が不思議な事を言った。
「決まりは決まりだ。でもひのかさんがサチヨの事を覚えていたら、この世界では、もしかしたら上手くいくかもしれないよ」
「え?」
私は顔を上げて白河氏を見た。なぜだろう、白河氏の上に降る木の葉の影が濃く感じられて、陰影が鮮やかだ。白河氏は目を細めて私を見た。
「どうしてサチヨは、ひのかさんを画家の世界に入り込ませたんだろうな」
「いやそれは、仕方なかったんじゃないですか。ベランダは画家さんの世界と繋がってたんでしょう? 放り出せば、どうしても……」
白河氏は、横にある樹にもたれるようにして、樹の枝を仰ぎ見た。
「それが正解なんだろう。でも俺は、ひのかさんを画家の世界に入れたくなかった。絶対に。だから、これだけはサチヨに文句を言いたいね」
「……どうしてですか? 私は画家さんとお別れが言えて良かったと思ってますけど」
思わず、少しだけ反抗的な口調になってしまう。
「ひのかさん。ひのかさんはあの時、死者に近づいていた。その状態で死者の世界に行き、死者と話をして彼岸をその目で見た。それは本当に危険で恐ろしい状況だったんだよ」
私の方を見た白河氏の顔には、見た事もない厳しい表情があった。
「俺は彼岸を見ているけども、あくまで生きて立っているここ、此岸からだ。でもひのかさんは、彼岸を間近で見た。画家はひのかさんを連れて帰ることが出来たんだよ。永遠の彼岸へ」
思わず大きく息を吸った。確かにあの時、線路の向こうに行く事に抵抗は無かったような気がする……。
「あの時画家が誘えば、ひのかさんはついていったかもしれない。ひのかさんも言ってだろう、妙に色々忘れていたって」
「でも、画家さんはお嫁さんとしてモモヨさんを……」
「ひのかさんを連れて行く気にならないように、その為にサチヨが幻想の『身代わり人形』を作り画家に渡した。自死した死者とは話が通じにくい。そしてあの画家は恐ろしく執着心が強かった。ただ性格は悪くなかったのが幸いした。サチヨが念のために、ひのかさんに万年青を持たせたのも良かった」
画家さんの別れを思い出していた私は突然、すうっと気が遠くなるような感覚に襲われた。線路の向こう、どこまでも続く菜の花畑が眼前に広がる。
「……菜の花畑、本当に綺麗でした……」
私がぼんやりと言うと、白河氏が私に近づき右手を固く握ってから語気を強めた。
「ひのかさん! ひのかさんの<死>との『縁』は切れた。でもひのかさんの霊感で見て感じた<死>が身の内に残っている。サチヨは画家の世界を燃やして、彼岸への道を消した。もうそこには決して行けない。だから気をしっかり持って、その光景は思い出さないようにして欲しい。頼む」
私は白河氏の真剣な顔を見ながら、涙が滲んできた。何だろう、この怖くて悲しい、でも優しく引き込まれるような感覚は。
「はい……わかりました」
私は何とか震え声で返事をした。
「まだ怪我が完全に治ってないのに、厳しい事を言って本当にごめん」
「いえ……話してもらえて良かったです」
<死>が身の内に残っている? 何となくわかる、この妙な感覚。でも弱気になっちゃ駄目だ。深呼吸をしてしばらくしたら、ようや視界がはっきりした。
ざあっと音がして、吹く風が夏の匂いを運んでくる。
急に私の手を握る力が無くなった。見ると、白河氏が私の手を離して立ち、じっとこちらを見ている。
「全部話したから、やっと言える」
何だろう? 私はきょとんとした。
「俺はひのかさんが好きだ。ひのかさんと、こうやってずっと一緒にいたい。どこにも行きたくない。ひのかさんにも、ずっと俺と一緒にいてどこにも行かないで欲しい。でも嫌ならそう言って。そしたら俺はここから消えて、2度とひのかさんの前に現れない」
一瞬意味がわからなかった。好き? 私を?
……そうだ、本当は私もずっと一緒にいたい。空っぽだけど、何もわからないけど、でも絶対にこの人と離れたくない。
私は手を伸ばし、とにかく力任せに両手で白河氏の水色のシャツの胸元を握った。じわじわと嬉しいけど、頭の中は大混乱している。でも白河氏が消えたりするのは絶対に絶対に嫌だ。
「嫌じゃないです! 嫌じゃないですから消えないでください!」
焦って叫ぶ私を白河氏は両腕で軽く抱きしめてくれた。わー! わー! かすかに白檀の香りを感じる。何だろう……ひどく不思議だ。
白河氏は、くすくすと小さく笑った。
「怒った仔猫みたいだな。良かった。振られたらどうしようって、気が気じゃなかったよ」
「振るって、そんな」
「だってさっき、会いに来なくていいって言われたし」
「いえあれはその、考えすぎという奴で、えーと忘れてください」
私は赤くなって、白河氏の胸元でうーうー小さく唸り、それからふと思い出した。
「でも、本当にいいんですか?」
「ん? 何が?」
「白河さん、理沙さんの事を好きなんでしょう? 私の事は、その。私も理沙さんは好きですけど」
口ごもる私に向かって白河氏が呆れたように言った。
「はあ? 何それ。俺と理沙さんはただの仕事仲間だよ」
「だって前、私に理沙さんの事が大好きだって言ってたじゃないですか。だから」
しばらく首をひねって考えていた白河氏が、ああ、と呟いた。
「理沙さんを紹介した時のあれか。いやそりゃ俺の言い方も悪かったけど、意味が全然違うよ。俺はひのかさんに惚れてるんだよ。ていうか一目惚れだったんだから」
私は目をぱちぱちさせた。
「一目惚れ? え、それっていつからですか?」
白河氏は苦笑しながら、私から離れるとまた右手を握り私の顔を見ずに言った。
「本当に素直で鈍感だな。そりゃ初めて会った時だよ、ドジっ娘」
また2人で、手を繋いで樹々の間の小道をゆっくりと歩く。
縁って不思議だな。家を出たいと望んで、それで色々な事に巻き込まれ、サチヨさんは消えた。でも私は、白河氏に出会った。これも私の運勢なんだろうか。
私は私の手を握る白河氏の手を見下ろした。大きくて頑丈で、そして暖かくて安心する。さっきまでの、ぐちゃぐちゃの感情やサチヨさんへの悲しみが和らぐようだ。でも、いいんだろうか。私は白河氏に甘えてばかりだ。これから嬉しくて、もっと甘えてしまうかもしれない。無意識にサチヨさんのように守って欲しいと思うようになったら……白河氏の負担になったりしたら……。
「どうしたの? 考え込んで」
そう聞かれて、私は急にずっと言いたかった事を思い出した。
「えっと、七夕のお祭りに行けなかったのが残念だったな、と」
「ああ。そうだった。来年は必ず行こう。これからは、ひのかさんの行きたい所にはどこにでも一緒に行けるよ」
「……こうやって白河さんと手を繋いでいると、とても安心します」
「良かった。俺もひのかさんが隣にいてくれたら安心するよ」
「白河さん、でも私、白河さんの役に立てそうにないし、まだ何も出来ないし」
私が口ごもると、白河氏は言った。
「俺はひのかさんだから一緒にいたい。何も焦らなくていいよ。サチヨの事も思い出も。俺の事も話すよ。これから毎日、ゆっくりたくさん話そう」
白河氏が立ち止まったので、私も足を止めた。
ふうっと、自分が今どこにいるのかわからなくなる。
風が吹き、周囲の樹々の葉がざわざわと奏でる音以外、世界は無音だ。
時間も何かも止まっている。私はどこに立っているんだろう。
真夏の炎天下なのに、ここは夏じゃない。
まるで私と白河氏しか存在しないような無限に広がる空間。
木陰が濃くなり陰影が2人を包む。白河氏はゆっくりとメガネを外し、私の方を向いて、初めて見る不思議な微笑を浮かべた。でも私を見ていない。
「ひのかさんは自由に生きて、行きたい所に行って。でも俺はずっと一緒にいる。どこまでも。ずっと。いつまでも」
しばらくどこか遠くに視線を漂わせてから、何かに気づいたように私の顔を見て瞬きをした。ゆっくりと、世界が元に戻る。
「……本当に暑いな。長話になってごめん。冷たい物を飲みに行こうか? それから家まで送るよ」
メガネをかけた白河氏の表情が元に戻ってほっとした私は、元気に返事をした。
「はい、いいですね。何だか初めて会った時を思い出しますね」
白河氏が笑う。あの日は冬で寒かったなあ。
――ひのかさんがサチヨの事を覚えていたら、この世界ではもしかしたら、上手くいくかもしれないよ
忘れないよ、サチヨさん。ずっとサチヨさんの事を覚えているよ。
白河氏と並んで公園の中を歩きながら、私は白い飛行機雲が尾を引く真夏の空を見上げた。
※次回、エピローグで完結です。




