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15:近くて遠い帰り道

 大きな窓からは、日光が差し込み、気持ちのいい風も吹きこんでくる。


 私はダイニングキッチンの床にぺたんと座り込んでいた。

 301号室と同じ造りの部屋だけども、家具も何も無い。壁も天井も床も真っ白でとても明るくて爽やかだ。

 私の前の床には、万年青の鉢植えが置かれている。

 私は、胡坐(あぐら)をかいて向かいに座っている咥え煙草の画家さんを見た。市松人形のサチヨさんが膝の上に乗っている。


 あれ、いつからそこにいるんだろう、サチヨさん。


「どこか痛むところは無い? ぶつかったりしていない? 大丈夫?」

 画家さんが心配してくれる。私は体を少し動かして手の指をにぎにぎと閉じたり開いたりした。

「はい、大丈夫です。どこも痛みません」

「良かった。いきなり、鉢植えを持って窓の向こうの部屋から飛び込んできたから、心配したよ」

「飛び込んできた?」

「うん、そこの窓から。荷物も背負っていたのに身軽だったからびっくりした」

 窓の外の部屋から? 全然覚えていない。


「約束してたのに、お茶を出せなくてごめんね。部屋の中が全部変わってしまってね。まあどっちにしろ、僕はもうすぐここを出て帰るんだけど」

「お気遣いなく。でもどこに帰るんですか?」

「うん、彼岸へね。とても遠いけど、きちんと歩いて行けば近いってモモヨに教えてもらった」

 彼岸へ? ああそういえば画家さんは死者だった。でも今でも全然そうは見えない。煙草の煙がどこかへ流れていくけど、匂いはしない。

「やっとお知り合いになれたのにお別れって、残念です」

「うん、僕も。お茶を飲みながらゆっくりお喋りがしたかったなあ。美味しいお饅頭も用意してあったのに消えちゃった」


 画家さんは煙草を深く吸うと、ふうっと青白い煙を吐いた。

「僕ね、名前だけは思い出せないけど他の事は色々思い出したんだ。帰る前に君に話せるだけ話しておけってモモヨが言うから……君は名前は何ていうのかな?」

「天城です。天に城です」

 画家さんは少しだけ困ったような表情で私を見た。


「天城さんは、僕のお嫁さんになるために、あの窓の向こうの部屋に来た訳じゃないよね」


 私は驚いて首をぶんぶんと横に振った。

「そんな、違います、私は」

「やっぱり。うんわかってる。じゃあ朱山さんが僕と君の結婚の儀式を準備してたのも知らないんだ」

「もちろんです。全然知りません」

 私が画家さんのお嫁さん? 結婚の儀式? どういうことだろう。画家さんは手に持った煙草から立ち上る煙を見ながら、ゆっくり話し始めた。


「僕ね、ずうっと昔だけど本当に画家だったんだよ。花や人形が好きで、そういう絵を描いて少しだけ売れてはいたけど貧乏だった。親兄弟は死んで独りだったけど、仕方ないと思ってた。でもね、本当に好きな人が出来たんだ。あの人の笑顔が大好きだったから、結婚してお嫁さんになって欲しかった。あの人と一緒に暮らしながら絵を描いていたかった。でも……駄目だった。僕は、悲しくて辛くて、電車に飛び込んだ」


 私は黙って聞いていた。今なら、画家さんの好きな人への悲しい気持ちも辛さも、少しだけわかる。


「本当に愚かだった……死んでからわかったんだ。何より一番好きなあの人にも苦しい思いをさせてしまった……後悔して後悔して、ずっと後悔して、自分の部屋の暗がりでうずくまっていた。どうすればいいのかわからなかった。その時、死者と話が出来る朱山さんが僕の部屋に来たんだ。僕は電車に轢かれてバラバラの死体になったから、丁度いいって」

 はあ? バラバラ死体だから丁度いいって、さらりとひどい事を言う人だな朱山さん。

「朱山さんは、僕に言ったんだ。僕の願いをかなえてやる。その代わり、願いがかなったら、光の教祖になって朱山さんの祭壇に鎮座する約束をしろって」

「何ですか、それ。光の教祖? 『光の調和団』とやらの神様になれってことですか?」

「説明はしてくれなかったから良くわからない。でも僕は、明るい所に行けるならと約束したんだ。そしたら朱山さんは、僕が好きだった人を連れてきて嫁にしてやるって言った」


 私は少しぞっとした。まさか画家さんの好きな人を……本当に他人を利用することに躊躇が無いんだな……。

 その時、窓の向こうから何かサイレンのような音が風に乗ってかすかに聞こえた。何かあったんだろうか。この窓、カーテンが必要だな。


「でも僕は、それは絶対にやめてくれと言った。だってあの人は、僕が死んだ時に無関係になったんだから。でもね、僕は寂しかった。だから朱山さんに、僕の願いはお嫁さんとずっと一緒にいることだって言った。朱山さんは、必ず僕の嫁を連れてきてやると約束してくれた。でも見つけるのには時間がかかる、だから違う世界で絵を描いて待っていろって。その時は、どこかで寿命で亡くなった女性に朱山さんが説明というか説得して、僕のお嫁さんとして連れてきてくるんだろうと思った。お見合い結婚みたいなもんだとね。だから知らない人でも、精一杯大切にしようと僕は決めた」


 そうだったのか……どれぐらいの年月、画家さんは独りでこの世界にいたんだろう。


「それから僕は、この世界に来た。と言っても気が付いたら部屋の外がこうなってたんだけどね。そして世界に絵を描いていった。楽しかったからいっぱい描いた。家や花や空を思う存分描いたんだ。でもそのうちに、どんどん、何だか妙になっていったんだ。家の構図が狂ったり角度がおかしくなったり、遠近が歪になったり。僕は青空が好きなのに、時々変な夕焼け空になったり」

「私も、この世界の夕焼け空を見た事がありますよ。画家さんが描いた空じゃ無かったんですね」

「うん……僕は夕焼け空はね、見ていて悲しく感じるから苦手なんだ。でもね、変だなと思っただけで放置していた。どうすればいいのかわからなくなって、絵を描くのをしばらく止めた。そしたら朱山さんが、僕が綺麗好きだからって洗濯機を置いてくれた。だから洗濯ばかりしてた。楽しかったけど、それでも時々寂しかった。だから君たちが、窓の向こうの部屋から話しかけてくれた時は嬉しかったよ」


 私が座っている場所から見える隣の真っ白な部屋に、黒い風船人形のようなモノ、首を吊った人間が幾つもぶら下がってゆっくり揺れている。嫌な眺めだから、私は目を逸らした。


 画家さんは、短くなった煙草をぎゅっと握り締めた。そして開いた手には煙草は無く、その手で画家さんは膝の上のサチヨさんの頭を優しく撫でた。

「それで君たちと話した後ね、この人形のモモヨが僕の部屋へ訪ねてきてくれたんだ」

「え?」

「モモヨはとても利口で、色々な事を教えてくれた。僕はもう彼岸に帰らないといけないって。最初は嫌だって言った。お嫁さんを待っていたし、僕の絵で出来上がってるこの世界にいたかったんだ。でもモモヨと話しているうちに、思い出して、考え直したんだ。朱山さんとの約束は無しにしようって。でも僕は帰るならお嫁さんと彼岸に帰りたい、そしてお嫁さんの隣で絵を描いていたいってモモヨに言った。そしたらね、自分が僕のお嫁さんになるって言ってくれたんだ」

「お嫁さんに? 市松人形のサチヨ……モモヨさんが?」

「うん。自分には人形の魂があるから、自分をお嫁さんとして彼岸に連れて行けばいいって」


 その言葉を聞いて、どうしてだか体中が固く痛くなった。人形の魂。サチヨさんがいなくなる。私が子供の時からずっと一緒だったサチヨさん。でもサチヨさんの顔を見ても、何を考えているのかわからない。


「そしてモモヨは、お嫁入りの為に一番立派な衣装に着替えたと僕に見せてくれた。凄く嬉しかったよ。モモヨがずっと一緒にいてくれるなら、僕はもう寂しくない。だから七夕の日に彼岸に帰る事に決めたんだ」

「七夕の日って、今日ですね」

 画家さんは、ちょっとだけいたずらっ子のような笑顔を浮かべた。

「実はね、7月7日は僕の命日なんだ。だから丁度いいと思ってね。モモヨもそれがいいと言ってくれた」


 床がかすかに揺れた。何だろう? 窓の外から何かざわざわと騒がしい気配が漂ってくる。

「……彼岸に帰るって決めたあと、朱山さんが突然部屋に来たんだ。家賃の支払い日じゃないのに。そして言われたんだ。僕の嫁が見つかって、ようやく準備が出来たから結婚の儀式を僕の命日である七夕にやるって。僕は凄く困った。だから、約束を取り消してくれと頼んだ。でも駄目だった。なぜそういう恩知らずな事を言うのか、自分がどれだけ金を使って苦労して嫁を準備したと思ってるんだって、怒鳴られた」

 画家さんは溜息をついた。

「その時に、窓の向こうの部屋に住んでいる娘がやっと馴染んだから、僕の嫁にするんだって言われた。それが天城さんの事だったんだな」

「はあ? 私をですか?」


 ――やっとあんたも馴染んできたね。


 朱山さんの妙な言葉を思い出す。馴染んだって意味は不明だけど、理沙さんにも「ようやく見込みのある若い子が入って来る」と言っていた。つまり朱山さんは、一番最初……私があの部屋を借りようとした時から、画家さんの嫁にするつもりだったんだ。どこを見込まれたかは謎だけど、301号室は死んだ人のお嫁さん候補のための部屋だったんだ! とんでもなく嫌な『事故物件』じゃないか! 画家さんは嫌いじゃないけど、腹が立つー!


「……でも僕はもう、モモヨをお嫁さんにするって決めてた。君には好きな人がいるし朱山さんの計画は何も知らないってモモヨが言うから、僕がいなくなれば朱山さんも諦めるだろうと思ったんだ。そしたらいきなり、僕の部屋がこんな何もない真っ白な部屋になってしまったんだ。絵も描けなくなったし、洗濯機も無くなった。どうすればいいのか途方に暮れていたら、モモヨが来て、少し待てと言った。だからじっとここに座っていた。そしたら、ものすごい揺れがあって、君が窓の向こうの部屋から飛び込んで来たんだ」

 画家さんが、しばらく膝上のサチヨさんを見てから私に言った。

「これで僕の覚えていることは全部話したからね。モモヨがそろそろ出発しようと言ってる。途中まで一緒に行こう。窓の向こうの部屋に戻る道をモモヨが教えるから」

「あ、はい」

「この部屋からは向こうの部屋に戻れないんだって。不便だねえ」


 画家さんが立ち上がるのと同時に、私も立ち上がった。側にあったナップザックを背負い、万年青の鉢植えを手に持つ。そして、サチヨさんを抱えた画家さんの後から玄関を出た。玄関と言っても扉は無い。出てすぐにある鉄製の階段を、カンカンと足音をたててしばらく下りて草地のような地面に立った。そのまま、ゆらゆらと揺れたり、地面に半分埋まったような家々の間を歩く。

 画家さんが歩きながら、教会のような建物を指差した。

「ここの家は全部僕が描いたんだけど、あの絵は上手く描けなくて未完成なんだ。塔に鐘を入れて鳴らそうと思ってたんだけどね」


 やがて建物が無くなり、広々とした草原のような所に出た。左右に線路が伸びていて、線路を越えた向こうは青空の下、どこまでも続く菜の花畑が満開で黄色に輝いている。美しい眺めだ。


 画家さんが肩越しに言った。

「線路は最初からあって、僕が描いたんじゃないんだ。時々電車が走る音はするけど、見た事はない。どうしてだろうね。でも僕は菜の花が大好きなんだ。だから彼岸までの道は満開の菜の花畑になっているんだって」

「とても綺麗ですよね。ここだけ春みたいで」

「そうだね。僕は菜の花を見ながらだったら、どこまでも歩いて行けると思う」

 画家さんが立ち止まって振り向いた。

「天城さんはここまでだよ。僕とモモヨはこの線路の向こうに行くからね。ここでお別れだ」

「……」

 私は画家さんの腕の中のサチヨさんを見た。そうか、サチヨさんはもう私の方を見ないんだ……私は何だか泣きそうになった。

「わかりました。どうか気を付けて」

 その時、私はふと思いついて抱えていた鉢植えを画家さんに差し出した。

「画家さん、餞別にこの鉢植えを持って行ってください。万年青は縁起のいい植物なんです。日光にこまめに当ててやってくださいね」

 彼岸にも、日光ってあるのかな。画家さんは思い切り笑顔になった。

「うわあ、いいの? 万年青の事は知ってるよ。ありがとう。遠慮なく貰うね」

「持ちにくいかも。重くないですか?」

 画家さんは、サチヨさんと受け取った万年青を両腕に抱えて笑った。

「平気平気。嬉しいなあ。大事にして、いつか絵に描くからね」

 私も嬉しくなって笑った。大切な物だったけど、画家さんが喜んでくれるならこれでいい。画家さんは空を見上げた。

「この青空もね、僕が描いたんだよ。この色はとても気に入っているんだ。彼岸までこの青空は続いている。天城さんが戻る世界にも続いているといいな」

 私も青空を見上げて言った。

「きっと続いていますよ。これからは、青空を見るたびに画家さんを思い出しますね」

 私はサチヨさんの顔を覗き込んだ。立派で可愛い市松人形のサチヨさん。

「さようなら、サチヨさん……モモヨさんかな。画家さんと仲良くね」

 画家さんが言った。

「天城さん、モモヨが線路沿いに火が燃えているのが見える方向に進めって。少し熱いけど、そちらに行けば戻れるって」

「はい、わかりました」

「それじゃあ、さようなら」

「……さようなら」


 画家さんは私に背を向けると、線路を越えて菜の花畑の中を歩いて行った。振り向かず、真っすぐ歩く画家さんの姿はやがて見えなくなった。


 私は見送りながら、涙が出そうで出なかった。これで良かったんだ……その時、足元が少し揺れた。そうか、画家さんがいなくなったからこの世界が変わるのかもしれない。早く私も元の世界、窓の向こうの部屋に戻ろう。

 私はとりあえず遠くに見える、立ち上る黒煙に向かって線路沿いに歩き出した。やがて何軒かの家が燃えているのが見えて、私はゆっくりと近づいた。画家さんの描いた家が燃えている光景は悲しい。確かに熱さを感じるけど、でもここから先はどう進めば。と思った瞬間、いきなりどこからかガラガラ! という大きな音がして、見上げると私の頭上に炎の塊が降って来た……。



 物音がしなくなり、閉じていた目をそっと開けた。

 私は、白っぽくて何もない殺風景な空間の床にぺたんと座り込んでいた。どこだ、ここ。

 急に何もかも思い出した。そうだ、301号室で朱山さんに襲われて建物が揺れて……白河氏の叫び声も聞こえた。そしてどうやってか画家さんの世界に入り込んで画家さんを見送って、家が燃えていて……。


 歌が聞こえる。可愛い女の子の声で、誰かが歌っている。


 赤いべべ着た

 かわいい金魚……


 私の目の前に、市松人形のサチヨさんがちょこんと座っている。私は思わず身を乗り出し声をかけた。


「サチヨさん!? 画家さんと一緒に彼岸に行ったんじゃないの?」

 サチヨさんはにっこりと微笑んだ。


「やっとお話しができますわね、ひのか」

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