終章 流れる河 2
隣の病室のドアをノックした。聞き覚えのある声で返事があった。ドアをゆっくりとスライドする。
ベッドには患者衣姿の沙耶が腰掛けていた。
「沙耶!」
僕が駆け寄ると、沙耶は人差し指を唇に縦に当て、苦笑した。
「ここ、病院だからね」
「色々な事が起こりすぎて、まだ頭の中がぐるぐるしてるんだけど、河原で急に地面が崩れた時、『あっ、もう死ぬのかも』って思った。痛みとかは無くて、ただただ恐怖。‥今までのバケネコと呼ばれた人たちもみんなあの恐怖を感じたのかな」
沙耶は訥々と語る。
「意識が無くなる瞬間にさ、誰かに手を掴まれた気がしたの」
「手を?」
「うん。それで、救助された時、私の腕を白瀬が強く握ってたんだって。それでバラバラにならずに、二人とも救助できたっていってた。‥‥ありがとね」
そうか、僕の手は届いたんだ。よかった。
「それで、白瀬って‥‥本当に、その、『閨狐』とかっていう妖怪なの?」
沙耶がおずおずと訊ねる。
「うーん、『妖怪』って表現は引っかかるけど、どうやらそうらしい。だって、僕の額には閨狐紋が確かに現れていたし、実際に時渡りを5回も経験したからね」
「でも閨狐ってこの吉野瀬出身の一族なんだよね?白瀬の両親って、このあたりの出身なの?」
「これは僕の仮説になるけど、伝承、伝説が本当なら閨狐の一族は根絶やしになったわけではなく、妬まれ嫉まれながらも近隣の村人と家族を設け、だんだんと同化していったんじゃないかな。そもそも、吉野瀬の語源が狐瀬から来ているのもそれを示唆している。だから、吉野瀬村の人々の中にはかなりの数の閨狐の子孫はいると思う。その中で、数百年の間に村外に出た人も当然いただろう。その意味で、閨狐の末裔って実はたくさんいるんだと思うよ」
「じゃあ、なんで白瀬が」
「『夏祭りの夜』『閨狐の末裔が』『何かしらの排他的な殺意を向けられて』発動するのだとしたら、これはそんなに確率が高いわけじゃなさそうだよね。加えて、僕と沙耶は図書館でバケネコの伝承や『代官とむすめの話』にも触れていた。十岐川の神力の依り代になりやすくなっていたというのもあるかもしれないね」
怪談を話していると、霊を引き寄せる、そういう可能性もあるよな。
「『閨狐紋』が出る確率はものすごく低かったってことね」
「うん。川名家の先祖が千枚通しで引っ掻いて閨狐紋を偽装したのは猪俣範頼氏の手記にも明らかだ。それと、もうひとつ」
僕は社務所の書斎から手に入れたシグネットリングを取り出した。
「表面が焼け焦げている。たぶん、ライターで刻印面を炙ってバケネコの額に押しつけていたんだと思う」
「‥‥まるで、烙印だね」
「そう。これは吉野瀬の負の歴史だ」
僕はシグネットリングをまたポケットにしまう。
「ま、当代の当主は全員バケネコ還しに直接的に関わっていない。これをきっかけに吉野瀬村が開明的になっていけばいいと思うよ」
「うん‥‥」
そしてその日の夕方、僕たちは吉野瀬村に戻ってきた。
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