第4部 第5話【 色を失った絵筆 】
美術館の一角に、いつも一人だけ、
筆を握ったまま
画布の前で立ち尽くす少女がいた。
まだ
十を少し越えたばかりだろうか。
周囲の人々が
次々と色鮮やかな絵を仕上げていく中、
彼女の画布だけは、
いつまでも真っ白なままだった。
聖王アーロンがその様子に気づき、
静かに歩み寄る。
「描けぬのか?」
少女はびくりと肩を震わせ、俯いたまま
小さく頷いた。
「……色が、分からないのです。
故郷が
焼かれてから、何もかもが灰色にしか
見えなくて」
アーロンは
少女の傍らにゆっくりと腰を下ろし、
その手をそっと取った。
「それでいい。
灰色の絵も、また一つの絵だ。
……無理に色を探さずともよい。
今そなたの
目に映るものを、そのまま描けば
よいのだから」
少女は驚いたように顔を上げる。
誰もが
「色を取り戻しなさい」と励ます中、
聖王だけは、
灰色のままでいることを咎めなかった。
「灰色でも、いいのですか」
「もちろんだ。……それに、灰色にも
また、
深い灰、淡い灰、様々な陰影がある。
そなたの
目にしか見えぬその世界を、
そなたの手で描いてみせよ」
少女は震える手で、そっと筆を
画布に走らせた。
灰一色の絵は、しかしそこに込められた
感情の
濃淡によって、見る者の胸を静かに
打つものへと変わっていく。
セレスティアもまた、
その様子を
少し離れた場所から見守り、
静かに微笑んだ。
「アーロン様は、色を教えるのではなく、
その人自身の
色を見つけるのを待っておられるのね」
「ああ。
……俺の力で塗り替えるのは容易い。
だが、それでは
この子自身の心は、いつまでも
他人任せのままだ」
数日後、少女の画布には、無数の淡い
灰色が
幾重にも重なり合い、まるで夜明け前の
空のような、
静かで美しい濃淡が広がっていた。
それは
彼女が、自らの手で見つけた、最初の
一歩だった。
一方、帝国北方の国境では、覇王
レグナが、
隣国との緊張状態にあった係争地の
視察に赴いていた。
長年の小競り合いで荒れた大地に、
レグナは静かに黄金の光を灯す。
「奪い合う理由すら忘れた土地に、
これ以上血を流させはしない」
境界線の大地を肥沃な緩衝地帯へと
作り替え、
両国の民が共に耕せる農地へと変える。
争いの火種は、
静かに実りの土へと姿を変えていった。
明朝 7:30 に投稿します。




