第9話 誰も知らない戦士
朝になっても、王都は何事もなかったように動いていた。
城の尖塔には朝日が差し、広場では荷車が石畳を軋ませていた。市場へ向かう商人たちは荷を積み、門番は交代の兵士に昨夜の出来事を伝えている。魔王が倒され、長く続いた戦いが終わった街には、以前の暮らしを取り戻そうとする人々の活気があった。
その光景を、エリアスは城の回廊から眺めていた。
昨日まで、彼の知る世界にはガレクという戦士がいた。
大柄な身体に重い鎧をまとい、戦場では誰よりも前に立つ男だった。口数は多くなかったが、仲間が危険にさらされれば迷わず動いた。エリアスの記憶にあるガレクは、そういう男だった。
だが、今朝、兵士たちにガレクのことを尋ねても、誰一人として彼を知らなかった。王都に帰還した勇者一行は四人。勇者アルト、記録係のエリアス、治癒師セレナ、魔術師ノエル。それが人々の知る歴史になっていた。
ガレクがいたはずの場所だけが、きれいに空いている。
それを異常だと感じているのは、どうやらエリアス一人らしい。
彼は回廊の手すりから離れ、記録室へ向かった。
昨日までなら、ガレクの存在を証明するものを探すのは、過去の旅路を調べる仕事だった。今は違う。ガレクの存在を知る者がいなくなり、記録までもが書き換えられている。昨日見つけたものが今日も残っているとは限らない。調査を先延ばしにすることは、証拠を失う危険を受け入れることと同じだった。
記録室の扉を開けると、紙と革と古い木材の匂いがした。棚には遠征報告書や物資の台帳が並び、窓際の机では数人の書記官が筆を動かしている。誰もが自分の仕事に集中していた。
エリアスは、自分が昨日まで何を調べていたかを思い返しながら、まず遠征の公式記録を取り出した。
魔王討伐遠征。出発日、経由地、戦闘の記録、帰還日。必要な項目が整然と並び、王国の書式に従って記載されている。報告書の末尾には、遠征に参加した者の名が記されていた。
アルト。 エリアス。 セレナ。 ノエル。
四人だった。
昨日までなら、ここにはガレクの名前もあったはずだ。少なくとも、エリアスはそう記憶していた。だが、今目の前にある書類には、追記の跡も削除の跡もない。紙の表面は滑らかで、インクの色にも不自然な違いは見られなかった。
彼は別の報告書を開いた。
戦闘記録。野営地の記録。負傷者の一覧。王都への帰還報告。どれも同じだった。四人の名前が記され、四人で成し遂げた遠征として整理されている。ガレクという名前が書かれていた痕跡すら見つからなかった。
エリアスは書類を机に並べ、しばらく動かなかった。
記録が最初から四人分だったのなら、まだ理解の余地はある。自分の記憶違いか、旅の途中で見聞きした誰かとガレクを混同している可能性も、理屈の上では否定できない。
だが、彼の手帳にはガレクについて書いた記述がある。昨日までの会話も、部屋で見た装備も覚えている。何より、ガレクが存在していたという感覚は、曖昧な夢のようなものではなかった。
それなのに、記録は四人だと告げている。
エリアスは手帳を取り出し、昨日の記述を確かめた。
ガレクの部屋を訪ねたこと。彼が自分を知らなかったこと。武具庫で見つけた盾と鎧。翌朝には部屋が空になり、武具の記録まで消えていたこと。
文章は残っている。少なくとも、この手帳の中では。
エリアスは新しいページを開いた。
――王国の公式記録は、現在、勇者一行を四人として扱っている。
そこまで書き、筆を止めた。
この一文は、事実を正確に記している。しかし、それだけでは足りない。なぜ四人になったのか。いつ変わったのか。変化が起きたことを示す証拠は何か。どれも分かっていなかった。
彼は次の行に、昨日までの自分の記憶をそのまま書き足そうとした。だが、すぐに筆先が紙の上で止まった。
自分の記憶を証拠として記録することに、どれほどの意味があるのだろう。
手帳に書かれているから正しいのか。自分が正しいと信じているから、そう書いたのか。仮にこの手帳の記述が正しくても、他の人間にとっては、エリアスがそう主張しているという事実しか示さない。
彼は結局、余白に小さく書いた。
――自分の記憶以外の証拠が必要。
書き終えると、手帳を閉じた。
まずは、自分以外の人間が触れたものを調べるべきだった。誰かが作り、運び、使い、記録したもの。ガレクの名前が消えていても、彼が存在しなければ説明できない何かが残っているかもしれない。
エリアスは記録室の奥へ進み、遠征時の物資台帳を探した。
棚の配置は昨日と変わらない。彼は補給の時期ごとに台帳を取り出し、遠征報告書と照らし合わせていった。水袋、保存食、火打ち石、包帯、薬草、替えの革紐。細かな物品の数は、出発時だけでなく、途中の補給や消費まで記録されている。
五人分としては、わずかに多い。
その違和感は、以前にも確認していた。物資の数量だけで六人目の存在を証明することはできない。余分に持つことはあるし、破損や紛失に備えて予備を用意するのも珍しくない。だが、補給のたびに似たような差があり、消費量にも五人だけでは説明しにくい部分がある。
エリアスは数字を手帳に書き写し、台帳の頁をめくった。
ここでも、ガレクの名はなかった。
しかし、物資は名前を覚えていない。
誰が使ったかを記す欄が空白なら、記録から人の名が失われた後にも、数量だけが残ることはある。そう考えれば、物資の記録は公式の遠征報告書とは違う角度から過去を調べる手掛かりになる。
エリアスは、以前に調べた補給記録の数字と、今目の前にある台帳の数字を並べた。単独では意味を持たない差も、複数の記録で同じ傾向を示せば、偶然だけでは片づけにくくなる。
少なくとも、調べる価値はあった。
記録室を出るころには、窓から差し込む光が机の端まで伸びていた。エリアスは台帳の閲覧を終えたことを係の書記官に告げ、次に武具庫へ向かった。
昨日、ガレクの装備を見つけた場所だった。
扉の前には、交代の兵士が立っていた。エリアスが身分証を示すと、兵士は簡単に確認して通した。武具庫の中では、鎧を磨く音や金属を置く音が響いている。棚には剣や槍、盾が整然と収められ、壁際には修理を待つ装備が積まれていた。
エリアスは、昨日ガレクのものだと判断した盾が置かれていた区画へ向かった。
そこには、別の盾が収まっていた。
大きさも形も似ているが、表面には目立った傷がなく、縁の補強金具もまっすぐだった。昨日見た盾とは違う。少なくとも、エリアスが覚えているものではなかった。
彼は棚の下を確認し、隣の区画を調べた。修理用の台も、部品を保管する箱も、昨日と同じ場所にある。だが、持ち主の記載が空欄になっていた装備の記録は見つからなかった。
武具庫の係に声をかける。
「昨日、ここに大きな盾がありませんでしたか。縁がへこみ、補強金具が歪んでいたものです」
係は手にしていた布を止めた。
「修理待ちの盾なら、いくつもありますが」
「持ち主の欄が空白になっていた記録もあったはずです」
「空白ですか。記入漏れなら、あとで確認しますが……」
係は棚を見渡し、帳面を開いて確かめた。だが、該当する記録は見つからなかったらしい。彼は困ったように眉を寄せた。
「昨日、何かご覧になったのですか」
「確認したいことがあっただけです」
エリアスは、それ以上説明しなかった。
ここでガレクの名を出しても、相手には通じないだろう。昨日まで存在していたはずの装備が消えたと訴えたところで、証拠がなければ、記憶違いとして扱われるだけだ。
武具庫を出る前に、エリアスはもう一度、棚の装備を見渡した。
盾はある。鎧も剣もある。武具庫そのものが変わったわけではない。ただ、昨日までそこにあったはずの一組が、最初から存在しなかったかのように消えている。
その変化を説明できるものは、どこにもなかった。
次に向かったのは、遠征に参加した者たちの帰還後の報告を管理する部屋だった。そこには、戦後の装備点検や修理申請、負傷者の申告など、遠征報告書には記されない細かな記録が保管されている。
エリアスは、戦闘で破損した装備の一覧を求めた。
係は書類を何冊か取り出し、机に積み上げた。アルトの盾、セレナの杖、ノエルの魔術具。個々の装備について、破損箇所や修理の必要性が記録されている。だが、ガレクの名はなかった。
エリアスは、盾の記録を開いた。
アルトの盾には、複数の損傷が記されていた。表面の裂傷、縁の変形、補強金具の損耗。以前に本人から聞いた話や、実物を見て確認した傷と一致する部分もある。
その中に、左側の縁付近に生じた大きなへこみの記録があった。
エリアスは、そこを指で押さえた。
あの傷は、単純に正面から攻撃を受けた場合とは少し違っていた。盾の一部が内側へ押し込まれ、周囲の金属に複数の亀裂が広がっている。何かを防いだ傷であることは考えられるが、それだけでは、誰を守ったのかまでは分からない。
それでも、装備の損傷は戦闘の痕跡だった。
公式記録には四人しかいない。だが、物資の消費には説明しにくい差があり、地図には記録された行程と一致しない道が残り、アルトの盾には用途を特定できない傷がある。さらに、昨日まで存在していたガレクの装備と記録が、今朝には見当たらなくなっていた。
一つひとつを取り出せば、どれも決定的ではない。
物資は余分に用意されたのかもしれない。地図の道は別の調査隊が使ったものかもしれない。盾の傷はアルト自身が負ったものかもしれない。武具庫の記録についても、エリアスの記憶違いだと説明することはできる。
しかし、すべてを別々の偶然として扱うなら、偶然はずいぶん都合よく重なっている。
エリアスは、報告書を閉じた。
これまでの彼は、リゼットの存在を証明することにこだわっていた。彼女の名前が書かれた記録を見つければ、誰もが彼の話を信じるはずだと考えていた。だが、名前が記録から消されるのなら、名前を探すだけでは足りない。ガレクの消失は、そのことを嫌というほど示していた。
必要なのは、誰かの名前がなくても残る痕跡だった。
装備の傷。物資の数量。地図に残された道。戦闘の結果。異なる目的で作られた記録の中にある、小さな食い違い。それらが同じ人物の存在を指し示すなら、ひとつの記録が失われても、すべてが無意味になるわけではない。
エリアスは手帳を開き、今日調べた内容を記した。
物資の数量には、五人の旅として説明しにくい部分がある。装備の記録には、戦闘の痕跡が残っている。アルトの盾の傷は、誰かを守った可能性を示すが、対象は特定できない。ガレクの装備は、昨日確認したものが見つからなかった。
その後に、短く一文を加えた。
――複数の痕跡を照合する必要がある。
書き終えたところで、手帳の頁をめくる指が止まった。
自分の記録も、いつまで残るのか分からない。昨日見つけた一文が今朝も残っていたからといって、明日も同じとは限らない。自分の手帳だけを頼りにすれば、いつか自分以外の誰も知らない事実ばかりが積み重なり、最後には自分自身の記憶と区別できなくなるかもしれない。
その危険を、今のエリアスは無視できなかった。
手帳を閉じ、彼は窓の外を見た。
王都では、ガレクの消失は事件ですらなかった。誰も彼を覚えていないのだから、探す者も、悼む者もいない。勇者一行は四人で魔王を倒し、四人で帰還し、四人で勝利を祝った。公式記録に記された歴史は、初めからそうだったかのように整っている。
だが、エリアスは知っていた。
昨日まで、ガレクはいた。
そして、リゼットもいた。
彼らが存在したという事実を、記録の欠落だけでなかったことにはできない。たとえ証拠が一つずつ消えていくのだとしても、残された痕跡を照らし合わせることはできる。
エリアスは手帳を懐にしまい、記録室へ戻るために歩き出した。
次に調べるべきなのは、物資の消費と戦闘の記録を、別々の資料から照合することだった。ガレクの名が失われたあとにも、彼の働きが残っている場所があるかもしれない。
その痕跡まで消えてしまう前に、見つけなければならなかった。




