第10話 残された傷跡
アルトの盾をもう一度調べる必要がある。
エリアスは、武具庫を出てからずっと、その考えを頭の中で繰り返していた。
昨日までガレクが使っていたはずの装備は、今朝には跡形もなく消えていた。武具庫の係は、持ち主の記録が空白になっていたことすら覚えていない。エリアスが見たものを証明できる人間は、ほかにいなかった。
しかし、すべての物証が同時に消えるわけではないらしい。
アルトの盾には、まだ傷が残っている。記録からガレクの名前が失われても、盾についた傷まで説明を変えられたわけではない。少なくとも、エリアスが知る限りでは。
その傷が何を意味するのか、もう一度確かめなければならなかった。
アルトは、城の北側にある訓練場にいた。
魔王討伐を終えたばかりの勇者に、今すぐ剣を振るう必要はない。だが、アルトは朝の訓練を欠かさなかった。兵士たちが木剣を打ち合わせる音の向こうで、彼は一人、盾を構えていた。
金属の縁が朝日を反射する。アルトは盾を正面に据え、木剣を持った訓練相手の動きを受け止めた。衝撃を逃がすように半歩だけ足を引き、相手の剣が流れたところで、盾を押し出して間合いを作る。動きに無駄がなかった。
エリアスは、訓練が終わるまで声をかけなかった。
戦いの最中に盾を使う者の動きは、剣を振るう者とは違う。攻撃を受けるだけなら、正面に構えていればいい。しかし、仲間を守りながら戦うとなれば、盾の向きも、足の位置も、身体を傾ける角度も変わる。誰かの前に立つためには、自分の身を守る動作だけでは足りない。
以前、アルトの盾を見たとき、エリアスはそこまで深く考えていなかった。
その傷が誰かを守った結果なのではないか。そう推測はしたものの、アルト自身が説明できない以上、それ以上のことは分からなかったからだ。
今は違う。
ガレクの存在を示す証拠が、ひとつずつ失われている。だからこそ、残っている傷を、ただの傷として片づけるわけにはいかなかった。
やがて訓練相手が一礼し、木剣を下ろした。アルトは盾を腕から外し、近くの台に置いた。額の汗を拭い、ようやくエリアスに気づいた。
「また記録の話か」
「盾を調べたい」
アルトは、すぐには返事をしなかった。
「昨日も見ただろう」
「昨日は傷を確認しただけだ。今日は、傷がどのように生じたのかを考えたい」
「俺にも分からなかった傷だ。見たところで、答えが出るとは思えないが」
「答えが出るかどうかは、調べてから決める」
エリアスの言葉に、アルトはわずかに眉を動かした。
以前なら、彼は記録を確かめれば答えに近づけると考えていた。記録は出来事を整理し、記憶の曖昧さを補うものだった。だが、今では記録そのものが信用できない。残された物証を調べることも、記憶を頼りにすることも、どちらも不完全だった。
その不完全さを認めたうえで、何が分かるかを探すしかない。
「少しだけ時間をくれ。盾を傷つけるつもりはない」
「そんなことを心配しているわけじゃない」
アルトは盾を持ち上げた。
「調べたいなら、ここでやればいい」
訓練場の隅には、使い込まれた木製の作業台が置かれていた。アルトはそこに盾を載せ、革の留め具を緩めた。盾の裏側には、腕を通すための帯と握り手が取り付けられている。革は汗と雨にさらされ、色が濃く変わっていた。金具にも細かな傷があり、長い旅路で何度も使われたことが分かる。
エリアスは手帳を開き、盾の表面を観察した。
最も目立つのは、左側の縁にあるへこみだった。金属が内側へ押し込まれ、その周囲には放射状の亀裂が広がっている。縁を補強する金具も一部が歪んでいた。正面から受けた攻撃の痕跡はほかにもあるが、この傷は形が違う。
エリアスは傷の位置と大きさを手帳に記し、盾を少しずつ傾けた。光の当たり方を変えると、へこみの底に細い擦過痕が見えた。金属が強く押し込まれた際に生じたものだろう。だが、それだけで攻撃の方向を正確に特定することはできなかった。
「この傷を負ったときのことを覚えているか」
「覚えていない」
「戦いの最中にできたことは?」
「それは間違いない。ここまで傷んだ盾を、ほかのことで作るのは難しい」
アルトは盾の縁を見下ろした。
「ただ、いつ、何を受けたのかは分からない。魔王城にたどり着くまで、戦いは何度もあった。すべてを覚えているわけじゃない」
「この傷ができた戦闘も、思い出せない?」
「思い出せない」
返事は短かった。
エリアスは、その声に苛立ちを感じなかった。むしろ、アルトが自分の記憶について、それ以上のことを言えないのだと分かった。
彼は盾を裏返した。握り手の付近には、革の表面が擦り切れた箇所がある。腕を通す帯も、左側だけが強く引っ張られたように伸びていた。これらは長年使えば生じる変化であり、それ自体に特別な意味があるとは言えない。
しかし、盾のへこみと合わせて考えると、気になる点があった。
左側の縁に大きな衝撃を受けたなら、盾を支える腕にも負担がかかる。もし正面からの攻撃を受けただけなら、アルトは身体の前に盾を構え、衝撃を正面で受け止めた可能性が高い。ところが、この傷は盾の端に近い位置に集中している。
誰かの身体を覆うように盾を傾けていたなら、同じような傷が生じることはあり得る。
もちろん、逆もあり得た。敵の攻撃が斜めから当たっただけかもしれない。盾を構え直す瞬間に受けた衝撃かもしれない。傷の形だけから、特定の状況を断定することはできなかった。
エリアスは、その考えを手帳に書きかけ、途中で筆を止めた。
「何か分かったのか」
アルトが尋ねた。
「まだ分からない。ただ、この傷は、正面から攻撃を受けたときにできる傷とは少し違う」
「どう違う?」
「盾の端に衝撃が集中している。誰かをかばうために盾を傾けたのなら、こうなる可能性はある」
アルトは盾を見つめた。
「誰かをかばった?」
「その可能性がある、というだけだ」
「俺が?」
「お前の盾なんだから、少なくとも盾を使ったのはお前だろう」
「そういう意味で聞いているんじゃない」
アルトの声に、かすかな険しさが混じった。
エリアスは筆を置いた。アルトが何を確かめたいのか、彼にも分かった。誰かを守ったのだとすれば、それは誰だったのか。盾の傷がその事実を示しているのなら、なぜ本人が覚えていないのか。
そして、エリアスが言うガレクという戦士が、その相手だったのか。
「ガレクのことを覚えていないのは、変わらないんだな」
エリアスが尋ねると、アルトはしばらく黙った。
「名前を聞けば、お前が何を言いたいのかは分かる。だが、俺の記憶には、その名前に結びつく仲間がいない」
「俺の手帳には、ガレクのことが書いてある」
「それは聞いた」
「昨日まで、俺は本人にも会っている。武具庫で装備も見た。今朝には、その記録も装備もなくなっていた」
「お前の手帳には残っているんだろう」
「今のところはな」
その言葉に、アルトは顔を上げた。
「今のところ?」
「手帳も完全ではない。以前から、書いた記憶のない文章や、不自然な空白が見つかっている。自分の記憶だけでなく、手帳もいつまで頼れるか分からない」
エリアスは手帳を閉じた。
「だから、別のものを調べている。記録が変わっても残る痕跡があるなら、それを複数照合する。ひとつの証拠が消えても、ほかの証拠まで同じように消えるとは限らない」
「だが、その盾の傷が何を意味するのかは、まだ分からない」
「そうだ。分からないことを、分かったことにはしない」
アルトは何も言わなかった。
以前のエリアスなら、盾の傷をガレクの存在を示す証拠として扱おうとしたかもしれない。だが、今の彼には、そうすることができなかった。傷は誰かを守った可能性を示している。しかし、その誰かがガレクだったと証明するものはない。
確かなことと、推測にすぎないこと。その二つを分けておかなければ、彼自身が望む答えに合わせて証拠を解釈してしまう。
それでは、記録を残す意味がない。
エリアスは改めて盾の傷を確かめ、今度はへこみの周囲だけでなく、盾全体の損傷を記録した。表面には剣で切りつけられたような傷が複数あり、下部には地面に擦った跡があった。中央付近には、打撃によって塗装が剥がれた箇所もある。
それぞれの傷は、盾が長い戦闘をくぐり抜けてきたことを示していた。だが、傷のすべてが同じ戦闘で生じたとは限らない。いつ、どこで、何を受けたものなのか、個別に特定することはできなかった。
それでも、傷の位置には偏りがあった。
左側の縁には、盾の中央部とは異なる方向から力が加わったような変形が集中している。エリアスはその箇所を簡単な図にし、ほかの損傷と区別して記録した。
「盾以外の装備も見せてもらえるか」
「剣や鎧か?」
「可能なら。盾だけを調べても、判断できることには限りがある」
アルトは少し考えたあと、訓練場の脇に置かれた荷物へ向かった。遠征から持ち帰った装備の一部は、まだ整理が終わっていなかった。魔王城から戻ったばかりであり、武具の点検や修理も途中のままだった。
アルトは荷物から胸当てと肩当てを取り出し、作業台に並べた。
胸当てには、正面から受けた攻撃によるへこみがあった。肩当ての縁は擦り切れ、留め具の一つが交換されている。いずれも戦闘で生じた損傷として不自然ではない。
エリアスはそれらを確認し、盾の傷と比較した。
装備全体を見ても、ガレクの存在を直接示すような特徴は見つからなかった。アルトが多くの戦闘を経験したことは分かるが、誰とともに戦ったのかまでは分からない。盾の傷とほかの装備の損傷を合わせても、特定の人物を指し示すには情報が足りなかった。
それでも、エリアスはひとつ気づいたことがあった。
アルトの装備は、全体として正面からの攻撃を受けた損傷が多い。盾を構えて敵と対峙し、前線を維持する戦い方をしていたことがうかがえる。一方で、盾の左側にある大きなへこみだけは、そうした損傷の並びから少し外れていた。
もし誰かを守るために盾を傾けたのなら、その瞬間だけ、アルトの戦い方は変わっていたことになる。
それは、ガレクが仲間を守っていた可能性とも矛盾しなかった。
ガレクが前に立って敵の攻撃を受け止め、アルトが別の仲間を守るために盾を動かした。あるいは、ガレクが危険にさらされたとき、アルトが盾を差し出した。どちらも想像の域を出ないが、戦場で仲間同士が互いを守ること自体は不自然ではない。
エリアスは、考えついた状況を手帳に書くことはしなかった。証拠が示しているのは、盾に特殊な傷があるという事実までだ。その先の出来事は、今の段階では空白のままにしておくべきだった。
「何か見つかったか」
アルトが再び尋ねた。
「傷の特徴は記録できた。だが、誰を守ったのかは分からない」
「なら、俺が誰かを守ったという話も、まだ仮説にすぎないわけだ」
「そうだ」
エリアスが即答すると、アルトは意外そうに彼を見た。
「お前は、俺にガレクの存在を認めさせたいんじゃないのか」
「ガレクが存在したことは、俺の中では疑いようがない。だが、それを他人に伝えるためには、俺がそう信じているというだけでは足りない」
「そのために、盾の傷を調べている?」
「盾だけじゃない。物資の記録も、地図も、戦闘の記録も調べる。別々の証拠が同じ方向を指しているなら、そこから考えられることが増える」
エリアスは手帳を開き、最後にもう一度、盾のへこみを図に描いた。
「この傷だけでガレクの存在を証明することはできない。だが、これを調べる意味がないとも言えない」
アルトは、盾に視線を落とした。
彼の表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。記憶にない仲間を、記憶にないまま守っていたのかもしれない。あるいは、盾の傷は単に戦闘中に生じた偶然の損傷であり、エリアスの推測は何の意味も持たないのかもしれない。
アルトには、そのどちらも否定するだけの材料がなかった。
「この傷ができたときのことを思い出そうとしても、何も浮かばない」
やがて、彼は静かに言った。
「戦った相手も、周囲に誰がいたのかも分からない。ただ、魔王城までの道のりを考えると、覚えていない戦闘があってもおかしくはない」
「それは、誰にでもあることだ」
「そうだな。だが、お前の話を聞いてから、何かを忘れているのではないかと考えるようになった」
アルトは、盾の縁を指先でなぞった。
「忘れていることがあるとして、それが本当にガレクなのか。それとも、お前の記憶が間違っているのか。今の俺には判断できない」
「それでいい」
エリアスは答えた。
「分からないことを、無理に決める必要はない。ただ、分からないまま放置すれば、確かめる手段まで失われるかもしれない」
アルトは顔を上げたが、反論はしなかった。
エリアスは手帳に、盾の損傷についての記述をまとめた。左側の縁に集中する変形。中央部の損傷との違い。盾を傾け、誰かをかばった場合に生じる可能性。どれも、確認できた事実と、そこから導かれる仮説を分けて記した。
そして、最後に一文を加えた。
――物理的な痕跡は、記憶や記録が変わった後にも残ることがある。ただし、いつまで残るかは分からない。
書き終えたとき、エリアスは武具庫で見た空の棚を思い出していた。
昨日、そこにはガレクのものと思われる盾があった。今朝には消えていた。人々の記憶だけでなく、装備の記録まで失われていた。物理的な痕跡が残ることがあるとしても、それが永遠に残る保証はない。
この盾も、いつか変わってしまうのだろうか。
エリアスは、目の前の盾を見た。
今のところ、傷は残っている。誰がその傷を負わせたのか、誰を守るためにできたのか、確かな答えはない。だが、傷が存在するという事実だけは、彼の記憶とは別に、目の前にあった。
彼はその事実を手帳に残し、盾の図を描いた頁に印をつけた。
「調べさせてくれてありがとう」
「礼を言われるようなことじゃない」
アルトは盾を持ち上げ、革の留め具を締め直した。
「ただ、これでガレクがいたと証明できたわけではないんだろう」
「そうだ。まだ足りない」
「なら、次は何を調べる」
その問いに、エリアスは少しだけ考えた。
これまで、アルトは調査を止めるよう求めていた。真実を追うことに不安を抱き、過去を掘り返すことそのものを避けようとしていた。その彼が、今、自分から次の調査について尋ねている。
それは信頼とは違う。アルトはまだ、ガレクの存在を認めてはいない。エリアスの記憶が正しいと納得したわけでもない。
ただ、説明できない傷を前に、すべてを否定することが難しくなったのだろう。
「戦闘の記録を調べる。盾の傷ができた時期を特定できなくても、遠征中に何が起きたのか、別の記録から確かめられるかもしれない」
「公式の戦果記録か」
「それも含めてだ。報告書に書かれた結果と、実際に残っている痕跡を照らし合わせる」
「そこにガレクの名前がなくても?」
「名前がないからこそ、調べるんだ」
アルトはしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。
「分かった。俺にできることがあれば、協力する」
その言葉は、全面的な賛同ではなかった。真相を知りたいという積極的な意思が固まったわけでもない。それでも、アルトは調査を止める側から、調査の行方を見届ける側へ、ほんの少しだけ立場を変えた。
エリアスは、それ以上を求めなかった。
彼は手帳をしまい、作業台の上に並べた装備を元の場所へ戻すのを手伝った。盾を持ち上げると、金属の重さが腕に伝わった。何度も攻撃を受け、傷つきながらも、まだその形を保っている。
人の記憶は、失われることがある。記録も、いつの間にか書き換わることがある。だが、変化が起きる前に生じた物理的な損傷まで、すべてが同じ瞬間に消えるとは限らない。
そのわずかな時間が、今のエリアスに残された手掛かりだった。
訓練場を出る前、彼は一度だけ振り返った。アルトは盾を腕に装着し、傷のある左側をじっと見つめていた。何かを思い出そうとしているようにも見えたが、やがて彼は視線を外し、盾を下ろした。
思い出せないものを、無理に思い出すことはできない。
だからこそ、エリアスは残されたものを調べ続ける必要があった。
盾の傷は、まだ消えていない。
だが、それがいつまで残るのか、誰にも分からなかった。




