第11話 説明できない戦果
王立記録院の閲覧室には、窓から差し込む午後の光が細長く伸びていた。
エリアスは机の上に三冊の記録を並べ、順番に頁をめくっていた。魔王討伐遠征の公式報告書、帰還後に編纂された戦果記録、そして討伐に参加した兵士たちの証言をまとめた資料。いずれも王国の歴史を後世に伝えるために作られた、正式な記録だった。
そこに記された勇者一行は、四人しかいない。
勇者アルト。記録係エリアス。治癒師セレナ。魔術師ノエル。
戦士ガレクの名は、どの頁にも見当たらなかった。
エリアスは、記録の端を指で押さえたまま目を閉じた。
ガレクがいた。
その事実を、彼は覚えている。王都へ帰る道中、重い荷物を片手で持ち上げては、エリアスの歩調が遅いと文句を言っていた。食事のたびに肉の分け前を気にし、アルトが危険な場所へ先走れば、悪態をつきながら追いかけていた。
そうした光景は、いまも彼の記憶に残っている。
しかし、記憶は証拠にならない。
少なくとも、王国の記録を扱う人間として、エリアスはそう考えてきた。記憶は曖昧で、都合よく形を変え、後から聞いた話にさえ影響される。本人がどれほど確信していても、記録や物証と照らし合わせなければ、事実として扱うことはできない。
その原則を守ってきた彼が、いまは記録の側を疑っている。
しかも、疑う根拠となる記録もまた、何かに書き換えられている可能性があった。
エリアスは目を開け、遠征報告書の後半を読み返した。
魔王城の外郭を突破した際の戦闘。崩落しかけた通路での防衛。魔王の間へ続く大扉の破壊。そこには、アルトの活躍が詳しく記されていた。
勇者アルト、単身で敵の攻勢を押し返す。
勇者アルト、崩落する通路に踏みとどまり、後続部隊の退路を確保する。
勇者アルト、魔王城の防衛線を突破し、決戦への道を切り開く。
どれも勇者の功績として記録されている。文章は整っており、記述に大きな矛盾もない。王国が勝利の証として残した記録なのだから、当然といえば当然だった。
だが、エリアスは頁を戻した。
後続部隊の退路を確保した、という一文が気になった。
崩落しかけた通路で防衛戦を行ったというなら、敵の攻勢を正面から受け止めるだけでは足りない。後ろにいる者たちが通り抜ける時間を稼ぎ、通路が完全に塞がる前に、敵を押し返すか、少なくとも足止めする必要がある。
アルトなら、敵の攻撃を受けながら前へ進むことはできただろう。彼の剣の腕と判断力を、エリアスは疑っていなかった。
しかし、記録にある状況は、それだけで説明できるものだっただろうか。
エリアスは別の資料を引き寄せた。
こちらは、遠征に参加した兵士たちが帰還後に提出した戦闘報告をまとめたものだった。公式の戦果記録ほど整った文章ではない。書き手によって表現にばらつきがあり、同じ戦闘についても、見た位置や記憶の違いから細部が一致していない。
それでも、現場にいた者の言葉には、編纂された記録とは異なる手触りがあった。
エリアスは該当する戦闘の報告を探した。
通路の幅は、兵士二人が並んで進むのがやっとだった。天井の一部が崩れ、足元には砕けた石材が散乱していた。敵は狭い通路を利用して攻め込み、後退する兵士たちを追い詰めていたという。
報告の一つには、こう書かれていた。
勇者が前方で敵を引きつけている間、後方からの追撃が止んだため、負傷者を含む隊員が通路を抜けることができた。
エリアスはその一文を二度読んだ。
敵の追撃が止んだ。
公式記録では、アルトが敵を押し返したことになっている。ならば、兵士たちが通路を抜けられたのも、アルトが敵を引きつけ、撃退したからだと考えるのが自然だった。
しかし、別の報告には違う記述があった。
崩落した石材の陰で、何者かが敵の進路を塞いでいた。大柄な戦士が盾と武器を使い、狭い通路へ敵が押し寄せるのを防いでいたように見えたという。
その兵士は、戦闘の最中に負傷しており、目撃した人物も顔までは確認できなかった。記述はそこで途切れていた。
エリアスは椅子の背にもたれた。
大柄な戦士。
盾と武器。
狭い通路で、敵の進路を塞ぐ。
ガレクの姿が脳裏に浮かんだ。彼は体格に恵まれ、力も強かった。正面から敵を打ち倒すだけでなく、味方が通り抜けるための場所を確保することにも長けていた。
だが、目撃者は名を書いていない。装備の特徴も不明で、別の戦士だった可能性は否定できなかった。
エリアスは手帳を開き、まず報告書の記述をそのまま書き写した。
その下に、別の行を設ける。
大柄な戦士が通路を防いだ可能性。ガレクの働きと一致するが、人物を特定する証拠はない。
書き終えてから、彼はしばらくその文章を見つめていた。
以前の彼なら、記録にない名前を推測で補うことはしなかっただろう。証拠が足りないなら、分からないと書いて終わりにしたはずだ。
今も、その原則を捨てるつもりはない。
ただ、分からないという言葉で、目の前の矛盾まで片づけてしまうわけにはいかなかった。
エリアスは次の戦闘記録を開いた。
魔王城の外郭に設けられた防衛陣地。そこでは、敵の大型兵器による攻撃を受けながら、勇者一行が突破口を開いたとされていた。公式記録によれば、アルトが敵の攻撃をかわし、兵器の防御を破壊したことで、後続の兵士たちが陣地へ突入できたという。
戦果だけを見れば、疑問を差し挟む余地はない。
だが、現場の状況を記した別資料には、兵器の攻撃が一時的に途絶えたという記述があった。攻撃が止まった理由については、兵器の故障、操作者の混乱、勇者による破壊など、複数の説明が並んでいる。
そのうちの一つに、兵器の射線へ飛び込んだ戦士が、攻撃を受け止めている間に勇者が接近した、という証言があった。
エリアスは眉を寄せた。
大型兵器の攻撃を、ただ一人で受け止めることはできない。少なくとも、記録に残るような短い時間であっても、攻撃を逸らすか、装置の動きを妨げる必要がある。
それを可能にするだけの力と技術を持つ者がいたのなら、その働きは戦果の一部であるはずだった。
しかし、公式記録には勇者の行動しか書かれていない。
エリアスは資料を机に広げ、複数の記述を見比べた。報告書の書き手は異なり、戦闘の細部も一致していない。それでも、いくつかの場面には共通する形があった。
アルトが敵の中核へ接近する。
その間、敵の攻撃が一時的に止まる。
後続の兵士たちが突破口を通る。
公式記録では、これらの出来事はすべてアルトの働きによって成立したことになっていた。
けれど、現場の記録を読む限り、アルトが敵の中核へ到達するまでの時間を、誰かが作っていた可能性がある。
誰かが前に立ち、敵を押しとどめていた。
誰かが味方の退路を守っていた。
その人物の名前は、どこにも残っていなかった。
エリアスは手帳を閉じ、記録院の窓から外を見た。王都の街路には人々が行き交い、遠くから荷車の音が聞こえていた。魔王が倒れ、戦争が終わったことを、誰もが疑っていない。勝利を記念する旗はまだ街のあちこちに掲げられ、広場では討伐隊の功績を称える演説の準備が進められている。
人々が信じている歴史は、ひとつの物語として完成していた。
勇者が魔王を倒した。勇者が敵を退け、仲間たちを導き、王国を救った。
その物語は間違いではない。
アルトが魔王を倒したことも、彼が数々の危険を乗り越えたことも、エリアスは知っている。ガレクの働きを取り戻すために、勇者の功績を否定したいわけではなかった。
むしろ、アルトの功績を正しく記すためにも、記録に残されていない部分を確かめる必要があった。
一人の力で成し遂げたことにされている戦果が、実際には複数の人間の働きによって成立していたのなら、それは単なる名前の書き落としでは済まない。
何が起きたのか。その出来事を成立させたのは誰だったのか。そして、なぜ記録はその一部を失っているのか。
エリアスは再び机に向き直った。
遠征報告書の余白に、彼は短い印をつけていった。後続部隊の退路確保。大型兵器の攻撃停止。崩落した通路での防衛。どれもガレクがいた証明にはならない。しかし、どれもアルト一人の功績として読むには、説明の足りない部分があった。
記録に書かれた戦果と、現場に残った痕跡。
二つを照らし合わせるたびに、公式の物語には小さな隙間が現れた。その隙間を埋める人物の名は、記録から消えている。
エリアスは、そのことを手帳に書き留めた。
ガレクが存在したと断定できる証拠は、まだない。
ただし、ガレクがいなければ説明しにくい戦闘の記録は、確かに残っている。
その二つを混同してはならない。推測を事実として書けば、彼自身が記録を歪めることになる。だからこそ、疑問を疑問のまま残し、別の証拠と照らし合わせ続ける必要があった。
彼は手帳の頁をめくり、最後に一文を加えた。
戦果の記録は残っている。だが、その戦果を成立させた者のすべてが記されているとは限らない。
ペンを置いたとき、閲覧室の時計が時を告げた。
エリアスは資料を一冊ずつ閉じた。記録に記された戦果は変わらない。魔王討伐の功績も、アルトが勇者である事実も、そこから消えるわけではない。
変わったのは、彼がその記録を読むときの意味だった。
かつては、書かれた内容を正確に保存することが記録係の役目だと思っていた。いまは、書かれていないものが何を意味するのかも、見過ごせなくなっている。
ガレクの名が消えたことで、過去の戦闘そのものが別の形に読み替えられていた。
人が消えれば、その人がしたことも消える。
そして、その働きによって成立した出来事だけが、別の誰かの功績として残る。
エリアスは手帳を懐にしまった。
記録は過去を保存するためにある。だが、保存された記録が過去のすべてを語っているとは限らない。
そのことを、彼はようやく理解し始めていた。




