第12話 教会の古い記録
教会の記録庫は、王立記録院から歩いて二十分ほどの場所にあった。
王都の中心部から少し離れた丘の上に建つ大聖堂は、戦勝を祝う旗で飾られた街の中でも、昔と変わらない静けさを保っていた。石造りの外壁には長い年月によって刻まれた黒ずみがあり、正面の扉には歴代の聖職者たちが手入れしてきた細かな彫刻が残っている。大通りから聞こえてくる人々の声も、厚い壁を隔てた敷地内では遠く感じられた。
エリアスは入口の前で足を止め、建物を見上げた。
王国の記録院が保管しているのは、主として行政文書や軍事報告、土地や物資の管理記録だった。対して、教会には王国が成立する以前から受け継がれてきた文書がある。歴史の記録だけではない。古い儀式の手順、封印に関する記述、過去に起きた異常現象の報告。公的な歴史から外れた事柄であっても、教会はそのすべてを廃棄せずに保管してきた。
少なくとも、エリアスが調べた範囲ではそうだった。
王立記録院の資料だけでは、ガレクの存在を説明できない。戦闘の記録には不自然な空白があり、公式の戦果と現場の証言は完全には一致しなかった。そこから先へ進むには、別の組織が残した記録を調べる必要がある。
そして、リゼットのことを考えれば、歴史そのものが変わっている可能性も無視できなかった。
エリアスは扉を押し開けた。
聖堂の内部はひんやりとしていた。高い天井を支える柱の間に長椅子が整然と並び、奥の祭壇には色ガラスを通した光が落ちている。祈りを捧げる人々の姿はまばらだった。魔王討伐の後、教会は勝利への感謝を捧げる場所として賑わっていると聞いていたが、この時間帯には静けさの方が勝っていた。
エリアスは受付の聖職者に身分を示し、記録庫の閲覧を申し出た。
「歴史と封印に関する古い記録を調べたいのです。魔王討伐以前のものも含めて」
聖職者は差し出された書類に目を通した。年齢を重ねた男で、白い祭服の袖口には、長く使い込まれた跡があった。
「目的を伺ってもよろしいですか」
「魔王討伐の記録に、説明のつかない不一致が見つかりました。王国の資料だけでは確認できないため、教会の記録と照合したいのです」
「不一致、ですか」
「戦闘に関する記述と、実際に残っている痕跡が一致しません。それに、記録から消えている人物がいる可能性があります」
男はすぐには答えなかった。
エリアスは、相手がどの程度まで事情を知っているのかを推し量ろうとした。しかし、表情から分かることは少なかった。驚いているようにも見えなければ、話を聞き流しているようにも見えない。ただ、書類へ視線を落としたまま、言葉を選んでいるようだった。
「教会の記録は、王国の記録とは性質が異なります。閲覧には制限がございます」
「制限があることは承知しています。閲覧できる範囲で構いません」
「お待ちください」
男は書類を持って奥へ下がった。
エリアスは入口脇の椅子に腰を下ろした。壁には、過去の大災害や戦争から人々を救った聖職者たちの肖像が飾られている。肖像の下には名前と功績が記されていたが、その一つひとつが、いまの彼には妙に気になった。
功績を記すことは、誰が何をしたのかを後世へ伝えることだ。
しかし、記録に名前がなければ、その働きは誰にも知られない。あるいは、別の人物の功績として残ることさえある。
ガレクに起きていることが、過去にもあったのだとしたら。
そう考えたところで、エリアスは思考を止めた。可能性を思いつくことと、事実として認めることは違う。彼はその区別を、何度も手帳に書きつけてきた。
しばらくして、先ほどの聖職者が戻ってきた。
「閲覧を許可できる資料は限られます。古い封印に関する記録には、現在も扱いを定められているものがございますので」
「分かりました」
「案内いたします」
記録庫は聖堂の裏手にある別棟の地下に設けられていた。狭い階段を下りると、空気に紙と乾燥した木の匂いが混じり始めた。壁に取り付けられた灯りが石床を照らし、奥へ進むにつれて外の音は聞こえなくなった。
地下の記録庫には、年代ごとに整理された書架が並んでいた。巻物を収めた箱、革表紙の書物、紐で綴じられた文書の束。長い年月を経た紙の色は一様ではなく、端が崩れかけたものもあった。書架の間には閲覧用の机が置かれ、各机には資料の取り扱い方を記した札が添えられている。
案内役の聖職者は、奥の机に数冊の書物を置いた。
「まずは、こちらをご覧ください。古い災害の記録と、封印に関する一般向けの記述です。さらに詳しい資料については、改めて申請が必要になります」
「ありがとうございます」
「閲覧中に、記載のない頁や不自然な欠落を見つけた場合は、勝手に補記しないでください。原本の状態を確認する必要があります」
その言葉に、エリアスは顔を上げた。
「欠落があることは、珍しくないのですか」
「古い記録ですから。火災や湿気、虫害で失われた頁もあります。写本を作る際に、書き手が内容を省略したこともあるでしょう」
「それ以外の理由で、記録が欠けることは?」
聖職者は彼を見た。
「それ以外、とは」
「たとえば、記録に書かれていた内容そのものが、後から失われたような場合です」
男の視線が、机の上の書物へ移った。
「記録が失われる理由は一つではありません。人が意図して削ることもあれば、記録を残した者が誤った情報を書いていたこともあります。記録というものは、いつでも完全とは限らないのです」
答えとしては、もっともだった。
しかし、エリアスが尋ねたかったのは、紙の損傷や人為的な削除ではない。彼の手帳には、書いた記憶のない文章が残っていた。王国の記録は、存在しなかったかのように整えられていた。さらに、ガレク本人が消えた後、彼の装備まで見当たらなくなった。
それらを単なる記録上の不備と呼ぶには、あまりにも多くのことが重なっている。
だが、ここでそのすべてを説明しても、相手が信じるとは限らない。エリアス自身も、まだ現象の全体像を把握していなかった。
「分かりました。まずは、許可された資料から確認します」
聖職者はうなずき、記録庫の入口へ戻っていった。
エリアスは最初の書物を開いた。
そこには、王国が成立する以前に起きた大規模な災害について記されていた。土地の一部が荒廃し、多くの村が失われたという。被害の規模や復興の経過は詳しく残されていたが、原因については記述が曖昧だった。自然災害とも、魔術による事故とも読める表現が使われている。
別の書物には、土地や人々に影響を及ぼす異常現象についての記録があった。
記憶が一致しない。複数の証言を照合しても、同じ出来事を語っているとは思えないほど内容が異なる。ある村では、住民たちが同じ家族の存在を覚えていながら、その家族が住んでいた家だけを知らなかったという。
エリアスは、その箇所を読み返した。
記述の年代は古く、現象の詳細も分からない。単なる伝聞が混ざっている可能性もある。記録者自身が誤解していたのかもしれない。
それでも、彼はその一文を手帳に写した。
人々の記憶と、目に見えるものが一致しない。
リゼットのことを考えずにはいられなかった。
次の資料には、封印に関する記述があった。封印とは、危険な存在や現象を閉じ込めるためだけのものではなく、一定の状態を保つために設けられる場合もあるという。封じる対象や仕組みによって、必要な条件は異なる。長期間にわたって維持される封印には、定期的な確認や、状態を支える仕組みが欠かせないとされていた。
エリアスは文章を追いながら、何度か頁を戻った。
白紙現象と封印が関係しているという証拠は、まだない。少なくとも、手元の資料にその名称は見当たらなかった。
しかし、古い記録には、異常現象が発生した後に封印が設けられた事例がいくつか記されていた。封印が成立した後、異常が収まったとする記録もある。一方で、封印の状態が悪化した際に、再び異常が現れたという記述も残されていた。
それらの事例が、いま起きていることと同じなのかは分からない。
エリアスは、手帳に書いた推測を二重線で囲み、その横に「未確認」と記した。
記録の一致しない箇所を見つけるたび、彼は一つの説明へ飛びつきたくなった。だが、説明を急げば、都合のよい情報だけを拾い集めることになる。そうなれば、自分の記憶を正しいと証明するために、記録を利用することになってしまう。
彼が求めているのは、ガレクがいたと認めさせるための材料だけではなかった。何が起きているのかを、正しく理解するための手掛かりだった。
しばらくして、エリアスは最初に与えられた資料をすべて読み終えた。
手帳には、いくつかの記述が写されていた。記憶と証言の不一致。異常現象の発生。封印による状態の維持。いずれも単独では、現在の問題を説明するものではない。
それでも、王立記録院の資料にはなかった視点が得られた。歴史の記録に矛盾が生じることや、人々の記憶と目の前の事実が食い違うことは、少なくとも古い文書の中で、完全に未知の事柄として扱われてはいなかった。
エリアスは、もう少し詳しい資料を閲覧できないかと考え、案内役の聖職者を呼んだ。
「封印に関する、さらに古い記録を見せていただけませんか。異常現象が発生した際の証言や、その後の変化が記されたものがあれば」
聖職者は、エリアスが書き留めた頁に目を落とした。
「どの記録をお探しなのか、具体的に分かりますか」
「まだ分かりません。ですが、記憶と記録が一致しなくなる現象について、古い事例が残っていないか確認したいのです」
「その種の記録には、閲覧制限がございます」
「なぜですか」
「記述の中には、事実関係を確認できないものや、現在の教義と照らし合わせて慎重に扱う必要があるものが含まれているためです。すべてを公開すれば、誤解を招く恐れもあります」
エリアスは相手の顔を見た。
「記録の内容を、教会が誤りだと判断しているのですか。それとも、正しいかどうか分からないために公開していないのですか」
聖職者はすぐには答えなかった。
「記録によって事情は異なります。すべてを同じ理由で扱っているわけではありません」
その答えは、拒絶であると同時に、全面的な拒絶ではなかった。
教会は何かを隠しているのかもしれない。あるいは、過去の記録が引き起こす混乱を避けようとしているだけなのかもしれない。どちらにしても、いまのエリアスには判断できなかった。
「閲覧申請を出すことはできますか」
「申請は可能です。ただし、許可されるとは限りません」
「それでも構いません」
聖職者は、申請書を用意するためにいったん席を外した。
エリアスは机の上の書物を閉じ、手帳を開いた。頁には、調べた資料の題名と、そこから得られた情報が並んでいる。彼はそれらを見直し、最後に短くまとめた。
古い記録にも、記憶と記録が一致しない事例がある。封印は異常な状態を維持、あるいは抑制するために使われる場合がある。ただし、現在の現象との関係は未確認。
書き終えてから、彼はペンを止めた。
記録を調べるほど、分からないことが増えていく。
王国の記録はガレクを知らず、現場の証言は彼の働きを示唆しながら名前を残していない。教会の記録には、記憶と事実が食い違う古い事例があるが、それが今の現象と同じものなのかは分からない。
手掛かりは増えている。
しかし、それらをつなぐ説明は、まだ見つかっていなかった。
やがて聖職者が戻り、申請書を机に置いた。エリアスは必要事項を記入し、閲覧を希望する資料の種類を具体的に書いた。記録の題名が分からないため、記憶や歴史の不一致に関する古い証言、封印の状態変化に関する文書、といった内容になった。
聖職者は書類を受け取り、確認してから言った。
「返答まで時間がかかる場合があります。許可されない資料もあるでしょう」
「承知しています」
「それから、調査の目的については、今後も確認させていただくことになると思います」
エリアスはうなずいた。
教会が協力的でないことを責めるつもりはなかった。記録を保管する組織には、資料を守る責任がある。公開によって何が起こるのか分からない以上、慎重になる理由も理解できる。
ただ、その慎重さが、事実を確かめるための道を閉ざすことになれば話は別だった。
エリアスは閲覧を終え、地下の記録庫を後にした。
階段を上がると、夕方の光が聖堂の床に差し込んでいた。朝には明るく見えた色ガラスも、日が傾いたことで深い色に変わっている。外では人々が帰路につき、通りを行き交う荷車の音が遠くから聞こえていた。
彼は聖堂の扉を出る前に、もう一度手帳を開いた。
記録の中には、かつて異常現象を経験した人々の証言が残されていた。記憶と現実の不一致。封印によって異常が収まった事例。そして、公開を制限されている、さらに古い文書の存在。
どれも答えではない。
けれど、王国の記録だけを調べていても得られなかった情報だった。
エリアスは手帳を閉じ、外へ出た。
ガレクがいたことを証明するためには、ガレクの名前が記された記録だけを探していても足りないのかもしれない。記録から名前が消えるのなら、名前以外のものを調べる必要がある。彼が何をしたのか、どのような状況で働いたのか。その結果として、何が残っているのか。
それらを照合することが、いまの彼にできる唯一の方法だった。
教会の記録は、白紙現象の正体を明らかにはしてくれなかった。
しかし、記憶と歴史の不一致が、過去にも記録されていたという事実は残った。
エリアスはその一歩を、確かな手掛かりとして手帳に記した。




