第13話 治療記録の空白
王立記録院の戦後資料室には、魔王討伐から帰還した兵士たちの治療記録が保管されていた。
負傷者の氏名、所属部隊、傷の程度、使用した薬剤、治療に要した日数。記録の形式は統一されており、必要な情報を探すのは難しくない。戦争が終わって間もない時期の資料には、血の染みや泥の跡が残ったものもあったが、記録院の職員たちはそれらを丁寧に整理し、後世のために保存していた。
エリアスは長机の一角を借り、戦後の治療記録を年代順に並べていた。
ガレクの存在を調べるために始めた調査は、少しずつ範囲を広げている。王国の公式記録だけでなく、現場の証言、物資の記録、教会に残る古い文書。異なる種類の資料を照らし合わせることで、ひとつの記録だけでは見えなかった矛盾が浮かび上がってきた。
今回調べようとしているのは、魔王討伐後に治療を受けた兵士たちの記録だった。
戦闘で負傷した者は少なくない。王都へ帰還した兵士の中には、長期間の治療を必要とする者もいた。誰がどのような治療を行ったのかが記録されていれば、戦後の一行が何をしていたのかを知る手掛かりになるかもしれない。
そして、治療を担当した者の名前が残っていないのなら、その欠落にも意味がある可能性があった。
エリアスは最初の束を開いた。
兵士の一人は、右腕に深い裂傷を負っていた。別の兵士は、崩落した石材に脚を挟まれ、骨折していた。さらに別の記録には、戦闘後に高熱を出した兵士が、数日のうちに回復したと記されている。
どの記録にも、治療を受けた事実は明確に残っていた。
傷の処置が行われ、薬が使われ、回復の経過が記録されている。担当した医療施設や、治療を補助した兵士の名前まで書かれているものもあった。
ところが、一部の記録には不自然な空白があった。
治療の経過は詳しい。傷口を洗浄したこと、出血を止めたこと、薬草を用いた処置を行ったこと。その後、熱が下がり、患者が歩けるまでに回復したことも記されている。
それなのに、治療を行った人物の欄だけが空いていた。
エリアスは、最初は単純な記入漏れだと考えた。
戦争中の記録は、常に十分な人手と時間を確保できるわけではない。負傷者が次々と運び込まれれば、治療を優先し、書類の整理は後回しになる。担当者の名前が記されていないからといって、それだけで異常だとは言えなかった。
彼は空欄のある記録を脇へ分け、ほかの資料を読み進めた。
やがて、同じような空白がいくつも見つかった。
治療を受けた日時は記録されている。傷の状態も、使用された薬草も、回復までの日数も分かる。だが、治療を担当した人物の名前だけがない。
しかも、それらは同じ時期に集中していた。
エリアスは資料を机の上に広げ、日付を比較した。魔王討伐後、帰還した兵士たちの治療が行われていた数日間。記録の形式が異なる施設でも、似た空白が繰り返されている。
単なる記入漏れなら、別の項目にも不備があってよさそうだった。しかし、欠けている箇所は奇妙なほど限定されていた。
治療の事実は残っている。
治療を受けた人間も、その後に回復した経過も残っている。
それなのに、誰が治療したのかだけが分からない。
エリアスは椅子から身を乗り出し、薬草の使用記録を引き寄せた。
治療記録には、傷の処置に使われた薬草の種類と数量が記されている。薬草の在庫管理簿は別の部署が扱っていたため、治療記録とは独立した資料だった。彼は以前、遠征中の物資の数量が記憶と一致しないことを調べた際、記録同士の照合が重要だと気づいていた。
今回も、ひとつの記録だけで判断するつもりはなかった。
薬草の使用量を記録した帳簿には、治療記録と対応する日付があった。止血や傷口の洗浄に使う薬草が大量に消費され、鎮痛や熱を下げるための薬草も、通常より多く使われていた。
消費量そのものは、不自然ではない。魔王討伐後に負傷者が多く運び込まれたのなら、薬草の使用量が増えるのは当然だった。
エリアスは、治療記録の空白がある日付と、薬草の消費量が増えた日付を照らし合わせた。
いくつかは一致した。
さらに、治療を受けた兵士の証言記録を探した。帰還後に行われた聞き取りの中には、治療を担当した者の姿や、治療中のやり取りを記憶している兵士もいる。
ある兵士は、治療の際に白い布で傷口を覆われたと証言していた。別の兵士は、薬草を煎じた苦い飲み物を飲まされ、夜のうちに熱が下がったと述べている。さらに別の者は、治療を受けている間、そばにいた人物が何度も自分の名前を呼び、意識を失わないように声をかけ続けてくれたと話していた。
だが、どの証言にも治療者の名前は記されていなかった。
エリアスは証言を一つずつ読み直した。
傷を洗い、薬草を用いて処置する。出血を止め、熱を下げる。意識を保たせ、回復するまで患者の様子を見続ける。
その仕事ぶりには、覚えがあった。
セレナは、治癒師として一行の負傷を引き受けていた。戦闘が終わると、誰よりも早く負傷者のもとへ向かい、傷の程度を確かめ、治療の優先順位を決めた。魔法で治せる傷ばかりではない。薬草を使い、傷口を洗い、包帯を巻き、熱が下がるまで患者の様子を見守ることも多かった。
彼女は、治療を終えたからといって、すぐに次の仕事へ移る人間ではなかった。患者が自力で水を飲めるようになるまで、あるいは眠りにつくまで、そばに残ることもあった。
証言に書かれた治療の様子は、セレナがしていたこととよく似ていた。
エリアスは手帳を開いた。
セレナが行った治療と一致する可能性がある。治療者の氏名が記録から欠落しているが、本人を特定する証拠はない。
そう書きかけて、彼はペンを止めた。
自分は、何を根拠にセレナだと考えているのだろう。
治療の内容が似ていること。薬草の使い方が、彼女の普段の仕事と一致していること。そして、彼女が魔王討伐後に負傷者の治療を行っていたという記憶。
しかし、その記憶を裏付ける記録には、彼女の名前がない。
エリアスは、いったん書きかけの文章を消し、改めて記した。
治療記録に、担当者の名前が欠けている事例が複数存在する。処置の内容と薬草の使用量は記録されている。治療者がセレナである可能性はあるが、現時点では確定できない。
書き終えた彼は、手帳を閉じなかった。
ガレクのときと同じだった。
ガレクがいたことを直接示す記録は見つからない。それでも、戦闘の記録と現場の証言には、彼がいなければ説明しにくい部分が残っていた。
そして今度は、セレナが行った仕事とよく似た治療の記録がありながら、治療者の名前が欠けている。
偶然だと片づけることはできる。記入漏れが重なっただけかもしれない。戦後の混乱によって、記録の一部が失われた可能性もある。
だが、ガレクの消失を経験した後では、その説明だけで納得することはできなかった。
エリアスは、もう一度治療記録を見直した。
負傷した兵士の名前は残っている。傷の状態も、治療に使った薬草も、回復までの経過も残っている。治療を受けたという事実は、何重にも記録されている。
その一方で、治療を行った人間の名前だけが失われていた。
記録は、出来事のすべてを一様に失っているわけではない。
何かが欠けているとしても、その周囲にある情報まで、同時に消えるとは限らないのだ。
エリアスは資料を日付順に並べ直し、空白のある記録に印をつけた。治療を受けた兵士の証言、薬草の消費量、傷の処置に関する記述。それぞれを別の束に分け、あとから照合できるように整理した。
その作業を続けるうちに、彼は別のことにも気づいた。
治療者の名前がない記録は、必ずしも一人の治療者によるものとは限らなかった。負傷者の中には、セレナが治療した可能性がある者もいれば、別の治療師が担当したと考えられる者もいる。すべてをセレナの働きだと決めつければ、ガレクの存在を証明しようとして、また別の誤りを作ることになる。
記録の空白は、都合よく一人の人物に結びつく答えではなかった。
むしろ、空白そのものを調べる必要があった。
誰が治療したのか。
なぜ、その名前だけが残っていないのか。
そして、治療の事実がこれほど詳しく残っているのに、担当者の記録だけが欠けているのはなぜなのか。
エリアスは机の端に、調査すべき項目を書き出した。
治療記録と薬草の消費量の照合。証言に残る治療の特徴。ほかの資料における担当者名の有無。
そこまで書いたところで、彼は手を止めた。
セレナの名前が消えているのだとすれば、彼女が存在したことを示す記録も、やがて失われるのかもしれない。
その考えは、ガレクの消失を見た彼にとって、決して大げさな想像ではなかった。
ガレクは、ある朝、世界から消えた。
人々は彼を知らず、公式記録にも名前がない。彼が使っていた装備も、かつてそこにあったという痕跡さえ、次第に見つからなくなっていた。
セレナにも同じことが起きるのだろうか。
エリアスは、資料の束に視線を落とした。
彼女は今も王都にいる。少なくとも、彼の記憶の中では、何も変わらずに存在している。普段どおりに負傷者を気遣い、必要な薬草を確かめ、誰かが無理をすれば厳しい言葉で休むように告げる。そうした彼女の姿を、エリアスは覚えていた。
だが、ガレクも消える前までは、確かにそこにいた。
記憶に残っているというだけでは、何も保証されない。
エリアスは、手帳の新しい頁を開いた。
ガレクの項目の下に、セレナの名前を書き加えることはしなかった。まだ、彼女が消え始めていると断定できる段階ではない。治療記録の空白だけで、同じ現象が起きていると結論づけるのは早すぎた。
代わりに、彼は確認できた事実を記した。
戦後の治療記録には、処置の内容が詳しく残されているにもかかわらず、担当者の名前が欠けたものが複数ある。薬草の消費量と負傷者の証言は、その治療が実際に行われたことを裏付けている。治療の内容はセレナの働きと一致する部分があるが、本人が担当したと断定することはできない。
それから、最後に一文を加えた。
人の存在が消えた後も、その人が行った仕事の結果は残ることがある。
書き終えたエリアスは、しばらくその一文を見つめていた。
記録に残るのは、名前だけではない。傷が治ったこと、薬草が使われたこと、兵士が再び歩けるようになったこと。それらは、誰かが確かに働いた結果だった。
名前が失われても、結果まで最初から存在しなかったことにはならない。
ただし、その結果だけを見て、誰が働いたのかを正確に言い当てられるわけでもない。
だから、照合しなければならない。
エリアスは治療記録を丁寧に束ね、元の保管場所へ戻す準備をした。今日の調査で、セレナに何が起きているのかは分からなかった。それでも、記録の空白は、ガレクのときと同じように、見過ごすことのできないものになっていた。
彼は資料室を出る前に、もう一度、手帳を確かめた。
記録は不完全だ。
記憶も不完全だ。
それでも、複数の痕跡が同じ方向を指しているのなら、そこから分かることはある。
エリアスは手帳を閉じ、胸元にしまった。
ガレクの存在を証明するために始めた調査は、いつの間にか、別の問いを抱えていた。
次に消えるのは誰なのか。
そして、その人が消えた後、どれほどの痕跡が残されるのか。
答えはまだなかった。
ただ、治療を受けた兵士たちの記録には、確かに誰かの働きが残っていた。その名前だけが、空白になっていた。




