↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/51

第14話 手帳の欠落

 王立記録院を出るころには、日が傾き始めていた。


 通りには、仕事を終えた職人や買い物帰りの人々が行き交っていた。広場では子供たちが走り回り、露店の主人が売れ残った果物を籠にまとめている。魔王が倒され、世界に平和が戻った。その言葉にふさわしい、穏やかな夕暮れだった。


 エリアスは人波を避けながら歩いていたが、頭の中では、先ほどまで読んでいた治療記録のことを考え続けていた。


 治療を受けた兵士の名前は残っている。負傷の程度も、処置の内容も、使われた薬草の種類も記録されている。薬草庫の出納記録にも、治療に使われたと考えられる数量の減少があった。


 それなのに、治療を行った者の名前だけが欠けていた。


 セレナが行った仕事だと考えれば、多くのことに説明がつく。しかし、それはまだ推測にすぎない。記録の空白が彼女の存在の消失を示しているのか、それとも別の事情によるものなのか、確かめる手段は見つかっていなかった。


 エリアスは、無意識に外套の内側へ手をやった。


 そこには、いつも携帯している手帳があった。


 リゼットのことを調べ始めたときから、彼は何度もこの手帳を頼りにしてきた。自分の記憶を確かめ、記録に残された事実を書き留め、調査の過程で生まれた推測を整理する。王立記録院の公文書が彼の記憶を裏切っても、手帳だけは過去の出来事をつなぎ止めてくれると考えていた。


 実際、手帳には重要な手掛かりが残っていた。


 リゼットを忘れてはならないという、自分自身が書いたらしい一文。書いた記憶さえないその言葉は、彼が彼女の存在を覚えている理由を考えるうえで、無視できないものだった。


 だが、手帳に頼るたび、エリアスはひとつのことを考えないようにしていた。


 もし、この手帳にも欠落があったとしたら。


 彼は足を止め、外套から手帳を取り出した。


 表紙には細かな傷がつき、背の革は何度も開閉したせいで柔らかくなっている。討伐の旅に出ていたころから使い続けてきたものだ。雨に濡れたことも、野営地の焚き火のそばで夜通し記録を書いたこともあった。紙の端には泥や煤の跡が残り、何枚かは角が擦り切れている。


 少なくとも、これは実際に旅をした人間が持ち帰った手帳だった。


 エリアスは近くの石段に腰を下ろし、最初のページからめくり始めた。


 魔王討伐に出発する前の準備。王都を発った日付。最初に立ち寄った村の名前。宿泊した場所と、そこで購入した食料の数量。道中で遭遇した魔物の特徴。戦闘の記録。仲間たちの負傷と回復。


 見慣れた筆跡が続いていた。


 文章は簡潔で、必要な情報だけを残すように書かれている。戦闘の記録では、敵の数や地形、負傷者の状態を優先し、感情や感想はほとんど記されていなかった。


 記録係としては、悪くない仕事だったと思う。


 エリアスはそう考えかけて、ページをめくる手を止めた。


 ある日の記録に、不自然な空白があった。


 数行分の文章が書かれていてもおかしくない場所が、まるごと空いている。上下の文章は途切れておらず、書き損じを塗りつぶした跡もない。単に書くのをやめたというより、最初から何も書かれていなかったように見えた。


 しかし、その日の記録は途中から始まり、次の行ではすでに話題が変わっている。


 エリアスは眉を寄せた。


 記録を取る時間がなかったのなら、後から追記すればいい。彼は旅の途中でも、戦闘の直後に走り書きした内容を、夜になってから整理することがあった。必要なら余白に書き足し、別の日の記録に補足をつけることも珍しくない。


 だが、この空白には追記も補足もなかった。


 彼は前後のページを確認した。日付に矛盾はない。紙が破られた形跡もなく、綴じ糸も正常だった。インクが水で流れたような跡も見当たらない。


 何も書かれていない。


 それだけのことだった。


 エリアスは手帳を閉じかけ、ふと思い直して再び開いた。


 同じような空白が、ほかにもあるのではないか。


 今度は、旅の記録だけを注意深く追っていった。


 すると、いくつかの箇所で同じような欠落が見つかった。


 ある日は、野営地の設営について書いたあと、翌朝の出発時刻へと記録が飛んでいた。別の日には、魔物との戦闘を終えたことが記されているのに、負傷者の確認や装備の修繕についての記録が抜けていた。さらに別のページでは、食料の購入量が記されているものの、その数量を必要とした人数についての記述がなかった。


 ひとつひとつなら、説明はできる。


 疲れていたのかもしれない。急いでいたのかもしれない。重要ではないと判断して、記録を省いたのかもしれない。


 エリアス自身、すべての出来事を漏れなく記録していたわけではない。記録とは、起きたことをそのまま写し取る作業ではなかった。何を残すべきか判断し、限られた時間の中で、必要だと思った情報を選ぶ仕事だった。


 だからこそ、彼は自分の手帳を信用していた。


 書かれていないことがあるとしても、それは自分が記録しなかっただけだ。手帳に残された内容は、少なくとも自分が目にし、耳にし、記録する価値があると判断した事実だった。


 だが、いま見つけた空白は、本当に自分が書かなかったものなのだろうか。


 エリアスは一度、手帳を膝の上に置いた。


 夕日が建物の屋根に沈みかけ、石段の影が長く伸びていた。通りを歩く人々の声が遠くに聞こえる。


 彼は、手帳に残されたリゼットについての一文を思い出した。


 あの言葉は、自分の筆跡だった。文字の形も、筆圧の癖も、ほかの記録と一致していた。それでも、書いた記憶はない。


 もし、手帳の内容が何らかの影響を受けているのなら、あの一文だけが特別に残されたと考える理由もないはずだった。


 記録の一部が消え、別の一部が残る。


 そのようなことが起きているのだとしたら、彼が覚えている過去と手帳に記された過去が一致している保証はなかった。


 エリアスは、ページを斜めに傾けて光にかざした。


 紙の表面には、何かを削り取った跡はない。刃物で薄く削ったのなら、繊維の乱れが残るはずだった。消し薬を使ったのなら、紙の色や表面に変化が出ることもある。


 しかし、空白の部分は周囲とほとんど変わらなかった。


 彼は指先で紙をなぞった。凹凸はわずかにあるが、それが何かを書いた跡なのか、紙そのものの癖なのかは判別できない。


 空白があることは確かだった。


 そこに、かつて何が書かれていたのかは分からなかった。


 エリアスは、別のページを開いた。


 魔王城へ向かう直前の日付が記された箇所だった。彼はこの日の記録を、何度も読み返していた。リゼットを忘れてはならないという一文が書かれていたのも、この時期だったからだ。


 文章の前後には、出発の準備や物資の確認について記されている。だが、その途中に、やはり不自然な空白があった。


 エリアスは息を止めるようにして、その箇所を見つめた。


 リゼットについての一文が残っている。その近くに、説明のつかない空白がある。


 ただし、空白が彼女に関する記録だったという証拠はない。たまたま同じページにあるだけかもしれなかった。


 彼は、推測を事実として扱わないようにしてきた。


 リゼットが実在したことを証明したいからといって、都合のよい空白をすべて彼女の痕跡に結びつけてしまえば、調査は意味を失う。自分の記憶を守るために、証拠の意味を勝手に決めてしまうことになる。


 それは、記録係として最も避けなければならないことだった。


 エリアスは手帳を閉じた。


 自分の記憶を疑うことには、抵抗があった。


 彼はリゼットを覚えている。彼女の声も、歩き方も、仲間たちと交わしていた会話も覚えていた。彼女が先行して道を調べ、戻ってきてから地図に印をつけていたことも覚えている。


 それらがすべて間違いだとは思えなかった。


 しかし、記憶が正しいことと、その記憶を裏づける記録が完全であることは、別の問題だった。


 彼は自分の手帳を、真実を保存するためのものだと考えていた。公文書が書き換えられても、人々が忘れてしまっても、手帳に記された事実をたどれば、過去を復元できるはずだった。


 だが、その手帳自体に欠落がある。


 これでは、手帳を公文書に代わる唯一の証拠として扱うことはできない。


 エリアスは、手帳を再び開き、余白に日付を書き込んだ。


 その下に、短く記した。


 ――手帳にも記録の欠落がある。


 続けて、いくつかの箇所の日付とページ番号を書き留めた。空白の場所を確認できるようにするためだった。何が失われたのかは分からない。書き忘れなのか、別の理由があるのかも分からない。現時点では、そこまでしか言えなかった。


 彼は筆を止め、書いた文章を読み返した。


 その一文の横に、さらに書き加えた。


 ――欠落の原因は不明。改変との関係も未確認。


 記録に不確かなことを書くときは、その不確かさも残す。


 それは、これまで彼が守ってきた原則だった。


 だが、今までは、その原則を手帳そのものにまで適用する必要があるとは考えていなかった。


 エリアスは手帳を閉じ、革の表紙を指で押さえた。


 これからは、手帳に書かれていることを読むだけでは足りない。公文書と照らし合わせ、物資の数量を調べ、武具に残された傷を確かめ、実際の地形や人々の証言とも比較しなければならない。


 ひとつの記録が正しいかどうかを、同じ記録の中だけで判断することはできないのだ。


 ガレクの盾に残った傷は、公式の記録から彼の名前が消えても、すぐには消えなかった。治療記録には、治療した者の名前がないまま、兵士たちが受けた処置の内容が残っていた。


 手帳の空白もまた、何かが欠けているという事実だけを示していた。


 それ以上のことを知るには、別の手掛かりが必要だった。


 エリアスは立ち上がり、手帳を外套の内側へ戻した。


 これまで彼は、記録を集めれば、いつか失われた過去を正確に取り戻せると考えていた。記録係として、それは当然の信念だった。出来事を記し、残し、後から確かめられるようにする。それが自分の役割だと思っていた。


 しかし、残すべき事実そのものが欠けているのなら、記録するだけでは足りない。


 何が記され、何が記されていないのか。どこに矛盾があり、どの部分が自分の推測にすぎないのか。それらを区別しながら、異なる手掛かりを照らし合わせる必要がある。


 真実は、一冊の手帳の中に収まっているわけではなかった。


 エリアスは歩き始めた。


 次に調べるべきものは、まだいくつもある。兵士たちの治療記録と薬草の出納帳。アルトの盾に残った傷。旅の途中で使われた物資の数量。そして、誰も覚えていないはずの仲間たちが残した、目に見える痕跡。


 手帳はこれからも使う。


 だが、そこに書かれているという理由だけで、何かを疑いなく信じることはしない。


 その決意は、彼が記録係として積み上げてきた仕事を否定するものではなかった。むしろ、記録を残すという行為の意味を、初めて正面から考え直すことだった。


 彼の手帳には、まだ多くの文章が残っている。


 そして、その間には、説明できない空白があった。


 エリアスは、その空白を埋めるために想像を働かせるのではなく、空白があるという事実から調査を始めることにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。