第15話 忘れている勇者
翌朝、エリアスは王城の北にある訓練場へ向かった。
王都の記録をいくら調べても、ガレクの名は見つからなかった。戦果の記録には説明のつかない働きが残り、装備の損傷には誰かを守った痕跡がある。治療記録にも、記した者の名だけが欠けたものがあった。そして、自分の手帳にさえ、理由の分からない空白が存在している。
どれも、単独では決定的な証拠にならなかった。
だからこそ、エリアスはアルトと話す必要があると考えていた。
勇者の盾に残った傷は、ガレクの存在を考えるうえで重要な手掛かりだった。アルト自身がその傷を説明できないことも分かっている。ならば、彼の記憶に何か変化が起きていないか、もう一度確かめるべきだった。
訓練場には、朝の冷気が残っていた。土を踏み固めた広場の端では、若い騎士たちが木剣を打ち合わせている。金属の触れ合う音と、指導役の叱声が響いていた。
その一角で、アルトが一人、盾を構えていた。
彼は木製の標的に向かって剣を振るい、返す動作に合わせて盾を前に出した。剣の軌道は無駄がなく、盾を構える位置も安定している。魔王を倒した勇者という称号は、決して飾りではなかった。鍛え抜かれた動きには、長い戦いを生き抜いてきた者の技術があった。
エリアスは少し離れた場所で、しばらくその様子を見ていた。
アルトは盾で標的の一撃を受け流し、半歩踏み込んで剣を突き出した。木製の標的が大きく揺れた。
「朝から精が出るな」
声をかけると、アルトは剣を下ろした。額には汗が浮かんでいたが、呼吸はほとんど乱れていない。
「眠れなかっただけだ」
「それで訓練場に来るのか」
「部屋で考え事をしているよりはましだ」
アルトは剣を脇の台に置いた。盾は腕から外さず、エリアスを見た。
「何を調べている?」
「昨日の続きだ。手帳を見直していた」
「何か分かったのか」
「分かったことと、分からないことが増えた」
アルトはわずかに眉を動かした。
エリアスは外套から手帳を取り出した。昨日、空白の位置を確かめ、日付とページ番号を書き留めたものだった。
「手帳にも欠落がある。記録したはずの内容が抜けているのか、最初から書かなかったのか、それは分からない。ただ、これを完全な証拠として扱うことはできなくなった」
「お前の手帳まで信用できないというのか」
「信用するかどうかの問題じゃない。何が書かれていて、何が書かれていないのかを確かめる必要があるということだ」
エリアスは手帳を閉じた。
「だから、ほかの証拠と照らし合わせたい。君の盾も、そのひとつだ」
アルトは盾に目を落とした。
左端に残る大きなへこみ。金属が内側へ押し込まれ、そこから放射状に細かな亀裂が走っている。裏側の補強材も歪んでいた。正面から一撃を受けただけでは説明しにくい損傷だった。
「まだ、その傷を調べるつもりか」
「君が誰かを守ったと考えれば、説明できる部分がある。だが、誰を守ったのかまでは分からない」
「ガレクを守ったというのか」
「その逆かもしれない。ガレクが君を守ったのかもしれない。あるいは、どちらでもない誰かだった可能性もある。今のところ、傷だけで相手を特定することはできない」
アルトは黙っていた。
訓練場の向こうで、若い騎士が木剣を取り落とした。指導役が何かを言い、騎士は慌てて拾い上げる。周囲から小さな笑い声が上がった。
普段なら、アルトもそちらへ目を向けたかもしれない。しかし、今は盾から視線を外さなかった。
「お前は、俺が忘れていると言いたいんだな」
「君だけじゃない。セレナもノエルも、ガレクのことを覚えていない。王立記録院の記録にも名前がない。俺以外の人間は、誰も彼がいたことを認めない」
「だが、お前は覚えている」
「ああ」
「それだけで、俺たちが間違っていると?」
問いには、責めるような響きがあった。
エリアスはすぐには答えなかった。
自分の記憶を信じることと、他人の記憶を間違いだと決めつけることは違う。彼はこれまで、ガレクが存在したという事実を証明するために調査を続けてきた。だが、アルトたちが覚えていないことを、単なる不注意や嘘として片づけたことはない。
「君たちが嘘をついているとは思っていない」
「なら、どう説明する」
「分からない。だから調べている」
アルトは口を閉ざした。
その答えに納得した様子はなかった。だが、少なくとも、エリアスが根拠のない断定を避けていることは伝わったらしい。
「ガレクという男が、本当にいたとして」
アルトは、慎重に言葉を選ぶように話し始めた。
「そいつは、どんな人間だった?」
エリアスは思わず彼を見た。
これまでアルトは、ガレクの存在を認めなかった。エリアスが話題にするたび、記憶にないと答え、調査を続けることに難色を示していた。
それが今、彼自身の口から、ガレクがどんな人間だったのかと尋ねてきた。
「大柄で、力が強かった。細かいことを気にする性格じゃなかったが、仲間が危険なときには、真っ先に前へ出る人間だった」
「戦士だったのか」
「そうだ。俺たちの前衛を担っていた」
「なら、戦果の記録にある大柄な戦士というのも、そいつなのか」
「可能性はある。ただし、記録に名前がない以上、断定はできない」
エリアスは一度言葉を切った。
「俺が覚えているガレクは、そういう男だった。だが、君に同じ記憶を持てと言うつもりはない」
アルトは盾を見つめたまま、何も言わなかった。
エリアスは彼の表情を観察した。困惑しているようにも、何かを思い出そうとしているようにも見えた。しかし、顔つきだけで心の内を判断することはできない。彼が何を考えているのか、エリアスには分からなかった。
しばらくして、アルトが盾を持ち上げた。
「この傷を負ったときのことは、覚えている」
エリアスは息を潜めた。
「本当か?」
「いや、正確には……戦闘の最中に盾が壊れかけたことは覚えている。だが、それがいつだったのか、相手が何だったのか、そこから先が曖昧なんだ」
アルトは左端のへこみに指を触れた。
「何度も戦った。盾が傷つくこと自体は珍しくない。だが、この傷ができたときのことは、どうしても思い出せない」
「誰かをかばった感覚は?」
「分からない」
アルトは少し強く、盾の縁を握った。
「守ったのかもしれない。何かを受け止める必要があったのかもしれない。だが、そんなものはいくらでも考えられる。思い出せないものを、思い出したことにはできない」
「そのとおりだ」
エリアスはうなずいた。
アルトが自分の記憶に欠落があると認めたことは、大きな変化だった。しかし、それによってガレクの存在が証明されたわけではない。盾の傷が誰を守ったものなのかも、依然として分からない。
それでも、調査の進め方は少し変わる。
これまでは、エリアスが覚えていることをアルトが否定し、エリアスがその否定を覆すために証拠を探していた。今は、アルト自身も自分の記憶を確かめる必要があると認め始めている。
「ひとつ、聞いてもいいか」
アルトが言った。
「何だ」
「お前は、俺に何を思い出してほしいんだ?」
エリアスはすぐに答えられなかった。
ガレクの存在を認めてほしい。リゼットがいたことを思い出してほしい。自分の記憶を信じてほしい。
そんな言葉なら、いくらでも浮かんだ。
だが、どれも本当に求めているものとは少し違っていた。
「思い出してほしいというより、分からないことを、分からないままにしてほしくないんだ」
エリアスは言った。
「君が覚えていないことを責めるつもりはない。俺だって、手帳に書かれていることを全部覚えているわけじゃない。だが、覚えていないから存在しなかったと決めてしまえば、残っている手掛かりまで見えなくなる」
「俺が覚えていないことと、存在しなかったことは違うというわけか」
「少なくとも、同じではない」
アルトは長く息を吐いた。
彼の目には、まだ疑いが残っていた。エリアスの話をすべて信じたわけではないのだろう。記憶のない仲間を、言葉だけで受け入れることはできない。それは当然のことだった。
だが、盾の傷は残っている。
記録に書かれた戦果も、治療の痕跡も、物資の数量も、すべてが一つの説明に結びつくわけではない。それでも、どれも無関係だと切り捨てるには、説明できない部分が多すぎた。
「次は何を調べる?」
アルトが尋ねた。
エリアスは、その言葉を聞いて少しだけ驚いた。
「王立記録院の記録は、ひととおり調べた。手帳にも欠落がある。だから、今度は魔王討伐の旅で実際に使われた物資や、戦闘の痕跡をもっと詳しく調べたい。記録に残っていないことでも、物の減り方や傷の形から分かることがあるかもしれない」
「俺にできることはあるか」
「君が覚えていることを話してくれれば助かる。ただし、無理に思い出そうとしなくていい。曖昧なことは曖昧なままでいいんだ」
アルトは短くうなずいた。
「分かった。俺も、盾の傷についてもう少し調べてみる。鍛冶師に見せれば、どういう力が加わったのか分かるかもしれない」
「それは助かる」
エリアスは手帳を取り出し、今の会話を記録しようとした。
書き始める前に、彼は一瞬だけ手を止めた。
この会話を記録しても、それが未来まで残る保証はない。手帳にさえ空白が生まれるのなら、記録を残すだけでは足りないのかもしれない。
それでも、書かなければ何も残らない。
エリアスは、アルトが盾の傷について覚えていることと、覚えていないことを分けて書き留めた。盾が壊れかけた戦闘の記憶はある。しかし、時期も相手も特定できない。誰かを守った可能性はあるが、確証はない。
最後に、彼は一文を加えた。
――アルト自身も、盾の損傷に関する記憶の欠落を認めた。
書き終えると、エリアスは手帳を閉じた。
記録は、過去のすべてを保存するものではない。だが、何が分かっていて、何が分からないのかを明確にすることはできる。
今の彼に必要なのは、失われた記憶を無理に埋めることではなかった。
残された事実を確かめ、互いに矛盾するものを照らし合わせ、確かなことだけを積み重ねていくことだった。
アルトは盾を腕から外し、傷のある部分をもう一度見た。
「この傷が、誰かを守った証拠なら」
彼は、ほとんど独り言のように言った。
「俺は、そいつのことを忘れているんだな」
エリアスは答えなかった。
それを証拠と呼ぶには、まだ足りない。傷が何を意味するのか、誰のために負ったものなのか、確かなことは何も分かっていない。
だが、アルトは初めて、自分の記憶にない誰かの存在を、ただ否定するのではなく考えようとしていた。
その変化だけは、確かだった。
訓練場の鐘が鳴り、若い騎士たちが休憩に入った。朝の冷気は薄れ、日差しが土の広場を照らしている。
エリアスは手帳を外套にしまった。
彼らの過去は、まだ断片のままだった。
しかし、ひとつの証拠にすがるのではなく、複数の痕跡を照合する。分からないことを無理に埋めず、分からないまま記録する。そして、他人の記憶を否定することも、自分の記憶を絶対視することもしない。
その方法でしか、失われた旅路を取り戻すことはできないのだろう。
アルトは盾を抱えたまま、しばらく傷を見つめていた。
彼の記憶には、まだガレクはいない。
それでも、その傷が何を意味するのかを確かめるために、彼は初めてエリアスと同じ方向を向こうとしていた。




