第8話 消えた戦士
ガレクの部屋は、王城の東棟にあった。
勇者一行に与えられた部屋は、それぞれの役割や希望を考慮して配置されていた。アルトは謁見の間に近い西棟、セレナとノエルは医務室や研究室へ出入りしやすい中央棟、ガレクは武具庫に近い東棟。エリアスの部屋も記録室の近くにある。長い旅を終えて戻ってきたばかりの彼らには、まだ落ち着いて暮らせる場所が必要だった。
もっとも、ガレクに限っていえば、部屋で静かに過ごしている姿を見かけることは少なかった。
彼は戦士として、いつも身体を動かしていた。朝には訓練場へ出向き、昼には武具の手入れをし、夕方には兵士たちの訓練に付き合う。魔王を倒したからといって、剣を振るう必要がなくなるわけではない。身体が鈍れば、いざというときに仲間を守れなくなる。それがガレクの考えだった。
エリアスは、彼のそうした性格をよく知っているつもりだった。
旅の途中、ガレクは何度も仲間たちの前に立った。魔物の群れに襲われたときも、崩れかけた橋を渡るときも、彼は危険な場所を引き受けた。重い鎧を着たまま、疲れを表に出さずに歩き続ける。口数は多くなかったが、必要なときには必ず動く男だった。
だからこそ、エリアスは彼に話を聞く必要があると考えていた。
アルトが何かを失ったように感じているのなら、ガレクも同じような感覚を覚えているかもしれない。彼は旅のなかで周囲をよく観察していた。仲間の様子や戦闘の変化に気づくことも多く、エリアスが記録を取る余裕のない場面では、あとから状況を説明してくれることもあった。
リゼットについても、何かを覚えている可能性がある。
エリアスは、廊下の途中で手帳を取り出した。そこには、ガレクについての記録がいくつも残されている。戦闘で負った傷、鎧の破損、装備の交換。旅の後半には、ガレクが盾を使って仲間を守った場面についても記述があった。
その記録を読めば、ガレクが実在したことは疑いようがない。
少なくとも、昨日までは。
エリアスは手帳を閉じ、東棟の廊下を進んだ。
ガレクの部屋の前には、武具の修理を担当する職人が置いたらしい木箱があった。蓋の上には、金属の留め具や革紐がまとめてある。扉の横には、使い込まれた訓練用の剣が立てかけられていた。
見慣れた光景だった。
エリアスは扉を叩いた。
「ガレク。僕だ。エリアスだ」
返事はなかった。
もう一度叩くと、室内から物音が聞こえた。足音が近づき、扉が開く。
現れたのは、記憶にあるとおりの男だった。
肩幅の広い身体に、鍛えられた腕。短く整えられた髪と、長い旅を経ても変わらない鋭い目つき。普段着に着替えているが、立ち姿には戦士らしい隙のなさがあった。
ただし、その顔には、エリアスが予想していなかった表情が浮かんでいた。
警戒。
ガレクは、見知らぬ人間が突然訪ねてきたときのように、エリアスを見ていた。
「何の用だ」
エリアスは一瞬、言葉を失った。
声はガレクのものだった。顔も、背格好も、間違いない。だが、彼の目には、エリアスに対する親しみがまったくなかった。
「……話をしたいんだ」
「誰だ、お前は」
その問いに、エリアスの頭のなかが静かになった。
聞き間違いかと思った。
「エリアスだ。エリアス・ヴェルン。勇者一行の記録係をしていた」
名前を聞いても、ガレクの表情は変わらなかった。
「勇者一行?」
「アルト、セレナ、ノエル、それから君と僕。魔王討伐に向かった仲間だ」
ガレクは、エリアスの顔をじっと見つめた。
疑っているというより、話の内容を理解しようとしているようだった。相手が何かの冗談を言っているのか、あるいは人違いをしているのか。その判断を慎重に進めているように見えた。
「アルトたちのことは知っている」
やがて、ガレクは言った。
「だが、お前のことは知らん」
エリアスは、手帳を取り出した。
「これを見てくれ」
「何だ」
「旅の記録だ。君の名前も、行動も、装備のことも書いてある」
ガレクは手帳を受け取らなかった。
「俺の名前を知っているからといって、俺と知り合いだとは限らんだろう」
もっともな指摘だった。
エリアスは、手帳を持つ手に力が入るのを感じた。相手の言葉は、理屈としては間違っていない。名前や過去の出来事を知っているだけなら、誰かが情報を集めた可能性もある。だが、ガレクがエリアスを知らないという事実は、彼の記憶とあまりにも大きく食い違っていた。
「僕たちは一緒に旅をした。君は何度も僕を助けてくれた」
「そう言われてもな」
「魔王城へ向かう途中、山道で崩落に巻き込まれたことがあった。僕が足を滑らせたとき、君が腕をつかんで引き上げた。覚えていないか」
「知らん」
ガレクは即答した。
「そもそも、俺はお前を助けた覚えがない」
エリアスは、返す言葉を探した。
あのときのことは、よく覚えている。足元の石が崩れ、身体が傾いた瞬間、視界が一気に斜めになった。次の瞬間には、ガレクの手が腕をつかんでいた。彼は重い鎧を着ていたにもかかわらず、エリアスを引き戻すと、何事もなかったかのように先へ進んだ。
そのあとで礼を言ったとき、ガレクは「記録係が落ちたら、帰ってから報告書を書く奴がいなくなる」と言って笑った。
あの言葉を、エリアスは覚えている。
だが、目の前のガレクには、その出来事を思い出す様子がなかった。
「……リゼットという名前に、心当たりはあるか」
エリアスは、最後の望みをかけるように尋ねた。
ガレクは眉をひそめた。
「誰だ、それは」
「僕たちの仲間だ。斥候を担当していた。君も一緒に旅をした」
「知らん」
「森のなかで先行して道を調べたり、敵の位置を知らせたりしていた。魔王城へ向かう道も、彼女が見つけたものがあった」
「だから、誰なんだ」
ガレクの声に苛立ちが混じった。
「さっきから、知らん人間の名前ばかり出してくる。俺を誰かと間違えているんじゃないのか」
エリアスは、手帳を見下ろした。
リゼットの名前は、手帳に残されている。記憶のなかにもある。地図には先行者の痕跡があり、物資の帳簿には五人では説明できない数量が記録されていた。
そして今、ガレクは、その名前を知らないと言った。
それだけではなかった。
彼はエリアスのことも知らなかった。
「ガレク。君は本当に、僕を知らないのか」
「何度も言わせるな」
ガレクは扉の枠に片手を置いた。
「俺は魔王討伐から戻ったばかりだ。疲れている。何か話があるなら、アルトを通してくれ」
その言葉を聞いて、エリアスの胸に冷たいものが広がった。
ガレクは、自分が勇者一行の一員だったことを否定していない。アルトたちの名前も知っている。魔王討伐から帰還したという事実も認識している。
ただ、そのなかにエリアスがいない。
リゼットもいない。
まるで、彼らと旅をした記憶だけが、最初から存在しなかったかのようだった。
「わかった。今日は帰る」
エリアスは、できるだけ平静な声で言った。
「時間を取らせて悪かった」
ガレクは答えなかった。エリアスが廊下へ下がるのを確認すると、扉を閉めた。
木の扉が閉じる音は、いつもと変わらなかった。
それなのに、エリアスには、何かが取り返しのつかないところまで進んでしまったように感じられた。
彼はしばらく、その場を動けなかった。
扉の向こうにガレクがいる。昨日までなら、何の疑いもなくそう考えられた。彼の部屋を訪ねれば、多少ぶっきらぼうな態度で迎えられ、用件を話せば、必要なことだけを答えてくれる。そういう関係だった。
だが、今は違う。
ガレクは、エリアスを知らない。
リゼットも知らない。
エリアスは、手帳を開いた。指先がわずかに震えていた。記録を取るときに手が震えることなど、これまでほとんどなかった。どれほど危険な場所でも、確認すべきことがあれば書き残してきた。
しかし、何を記せばよいのかわからなかった。
ガレクが自分を知らない。
その事実を、どう書けばいいのだろう。
記憶違い。人違い。何らかの理由による混乱。
どの言葉も、目の前で起きたことを正確に表しているとは思えなかった。
エリアスは、結局、短い文章だけを残した。
ガレクは、エリアスおよびリゼットについての記憶がないと述べた。
彼は自分の判断を疑い、ガレクが何かを隠している可能性も考えた。だが、あの反応は演技には見えなかった。ガレクは本当に困惑していた。知らない相手から、身に覚えのない出来事を次々と告げられた人間の反応だった。
ならば、なぜそんなことが起きているのか。
エリアスは廊下を歩きながら考え続けた。
アルトもまた、リゼットの名前に何かを感じていた。彼は、何かを失ったような感覚があると認めた。ガレクは、そうした感覚すら示さなかった。エリアスを知らず、リゼットも知らない。ただ、知らない名前を聞かされているだけだった。
同じ現象が、全員に同じ形で起きているわけではないのかもしれない。
あるいは、ガレクは、すでに何かを忘れてしまったあとだったのか。
エリアスは足を止めた。
その考えが浮かんだ瞬間、彼は自分の手帳を見た。
たとえ、俺以外の全員が忘れても。
あの一文は、まさに今の状況を指しているように思えた。
だが、過去の自分が何を知っていたのかはわからない。現在の状況を予測していたのか、それとも、すでに同じことが起きたあとで書いたのか。どちらも可能性として残っていた。
エリアスは、アルトのもとへ戻ることを考えた。
だが、すぐに思い直した。
今は、ガレクの証言だけで結論を出すべきではない。彼の記憶に異常があるのなら、それを確認できる別の手掛かりが必要だった。部屋に残された装備や記録、王城の名簿。本人以外のものに、何かが残っているかもしれない。
彼は、まず武具庫へ向かうことにした。
ガレクの装備は、旅から戻ったあと、王城の武具庫に保管されているはずだった。彼は重い鎧を使っていたため、帰還後に整備を受ける必要があった。盾には何度も修理が施されており、鎧の内側には、戦闘で受けた衝撃を和らげるための補強が入っていた。
それらは、ガレクが実際に戦ってきた証拠だった。
武具庫に着くと、管理を担当する兵士が帳簿を確認していた。エリアスがガレクの装備について尋ねると、兵士は不思議そうな顔をした。
「ガレク殿の装備、ですか」
「そうです。魔王討伐から戻ったときに預けたはずです」
「少々お待ちください」
兵士は帳簿を開き、指で行をたどった。装備の預かり記録は、武具の種類ごとに整理されている。剣、槍、盾、鎧。修理が必要なものには印がつけられ、返却されたものには日付が記されていた。
兵士はしばらくページをめくっていたが、やがて首を傾げた。
「ガレク殿の装備というのは、どのようなものですか」
「重い鎧と大盾です。剣も使っていました」
「そのような装備を使う戦士は、ほかにもおりますが……」
「ガレクです。魔王討伐に参加した戦士の」
兵士は顔を上げた。
「勇者様の一行に、戦士はおられたでしょうか」
エリアスは、息を止めた。
「います。ガレクです」
「勇者様の一行は、五名だったと記憶していますが」
兵士は、困惑したように言った。
「勇者アルト殿、記録係のエリアス殿、治癒師のセレナ殿、魔術師のノエル殿。それから、もう一名……」
兵士は帳簿に目を落とした。
「申し訳ありません。少々、確認します」
彼はページを戻し、別の帳簿を取り出した。装備の預かり記録ではなく、帰還時の荷物の確認に使われたものらしい。そこには、魔王討伐から戻った一行の荷物が、種類ごとに記されていた。
エリアスは、兵士の手元を見つめた。
彼は、ガレクの名前が書かれていることを期待していた。
名前があれば、少なくとも記録は残っている。ガレク自身が何を覚えていなくても、彼が戦ってきたという事実まで消えたわけではないと確認できる。
だが、兵士は何度も帳簿を見比べたあと、困ったように眉を寄せた。
「……おかしいですね」
「何がですか」
「装備の数が合いません」
兵士は、別の帳簿を開いた。
「帰還時に預かった武具の一覧には、大盾が一面、余分に記録されています。鎧の部品も、数が合わないものがあります。ですが、所有者の名前がありません」
エリアスは、帳簿を見せてもらった。
そこには、確かに大盾の記録があった。縁の一部が破損しており、表面には複数の傷がある。修理が必要な状態だったため、預かり品として登録されている。
だが、所有者の欄は空白だった。
鎧の部品についても同じだった。胸当ての留め具、肩の補強板、革製の固定具。どれも使用された形跡があり、修理の記録まで残されている。それなのに、誰の装備だったのかが記されていない。
エリアスは、兵士に尋ねた。
「この大盾は、今もここにありますか」
「はい。修理が終わっていないので、保管棚にあるはずです」
「見せてください」
兵士は少し迷ったあと、保管棚の鍵を取り出した。
奥の棚には、修理待ちの武具が並んでいた。剣や槍、盾、破損した鎧の部品。それらのなかから、兵士は該当する大盾を探し出した。
エリアスは、盾を見た瞬間に、それがガレクのものだとわかった。
縁には、見覚えのある傷があった。表面には、魔物の爪で抉られた跡が残っている。中央付近には、強い衝撃を受けて金属が歪んだ部分もあった。旅のあいだ、ガレクが何度も使っていた盾に違いなかった。
その裏側には、持ち手の近くに小さな刻印があった。
ガレクが自分の装備につけていた印だ。エリアスは、その刻印を何度も見たことがある。修理の際に取り外した部品にも、同じ印が刻まれていた。
彼は盾の縁を指でなぞった。
装備は残っている。
ガレクが使っていたという痕跡も残っている。
それなのに、帳簿には名前がない。
「この盾を、誰が預けたか覚えていますか」
エリアスは兵士に尋ねた。
「申し訳ありません。記録には残っていません」
「預かったときの担当者は?」
「その日の勤務記録を調べれば、わかるかもしれません。ただ、武具を運び込んだ者の名前までは……」
兵士は、そこで言葉を切った。
「どうかしましたか」
「いえ。ただ、変ですね」
彼は盾を見つめた。
「これだけ使い込まれた装備なら、持ち主がわからないということは、普通ありません。修理を依頼した者がいるはずですし、返却先も必要です。所有者の名前がないのに、預かり記録だけが残っているなんて」
エリアスは、返事をしなかった。
ガレクは、エリアスを知らないと言った。
武具庫の帳簿には、ガレクの名前がない。
それでも、彼の装備は残っている。
エリアスは、盾を棚へ戻す前に、もう一度刻印を確かめた。見間違いではない。何度確認しても、そこにはガレクの印があった。
「この装備は、しばらく預かっておいてください」
「それは構いませんが、所有者がわからないままでは、保管の扱いが難しくなります」
「僕が責任を持ちます」
兵士は、エリアスの顔を見た。
「エリアス殿が、ですか」
「はい」
その返事をしたとき、エリアスは自分が何を引き受けたのか、まだ正確には理解していなかった。
ただ、これ以上、ガレクの痕跡を失いたくなかった。
武具庫を出ると、日が傾き始めていた。城内では、夕方の勤務交代が進んでいる。兵士たちが廊下を歩き、使用人たちが食堂へ向かう準備をしていた。いつもと変わらない光景だった。
エリアスは、自分の部屋へ戻った。
扉を開け、机の上に手帳を置く。調査記録を広げ、今日確認したことを整理した。ガレクは自分を知らないと言った。リゼットについても知らないと答えた。武具庫にはガレクの装備が残されていたが、所有者の名前が記録されていなかった。
その三つを書き終えたところで、エリアスは手を止めた。
窓の外は、すでに薄暗くなっていた。
今日の調査を、これ以上続けるべきかどうか。
彼は迷った。
アルトの言葉が頭に残っていた。何かを知ろうとすることが、必ずしも何かを救うとは限らない。調べた結果、元に戻せないことが起きたらどうする。
エリアスは、その言葉を思い出すたびに、アルトが何を恐れているのかを考えた。
ガレクの記憶に異常があるのは、確かだった。少なくとも、本人はそうした様子を見せていた。だが、それだけではない。武具庫の記録にも、何かがおかしいところがある。単なる記入漏れでは説明しきれないほど、装備の持ち主に関する情報が欠けていた。
もし、ガレクの存在そのものが、何らかの理由で記録から失われつつあるのだとしたら。
そんな考えが浮かんだ瞬間、エリアスは手帳を閉じた。
まだ、何も断定できない。
記録の不備は、記録の不備として扱うべきだ。記憶の欠落は、記憶の欠落として調べるべきだ。それらをひとつの原因に結びつけるには、証拠が足りない。
エリアスは、机の上の灯りを消した。
その夜、彼は何度も目を覚ました。
夢を見たような気がしたが、内容は思い出せなかった。眠りが浅く、部屋の外を通る足音がするたびに意識が戻る。窓の外で風が吹き、木の枝が壁を叩く音がした。
そのたびに、彼はガレクのことを考えた。
明日、もう一度話をするべきだろうか。アルトに相談するべきだろうか。それとも、武具庫の記録をさらに詳しく調べるべきだろうか。
答えは出なかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
ガレクは、昨日までそこにいた。
そして今日、エリアスのことを知らなかった。
それ以上のことは、何もわからない。
夜が明けるころ、エリアスはようやく眠りに落ちた。
目を覚ましたとき、窓から差し込む光はすでに明るくなっていた。彼は寝台から起き上がり、顔を洗い、身支度を整えた。いつもどおりの朝だった。廊下からは人々の話し声が聞こえ、遠くでは食器の触れ合う音がしていた。
エリアスは、昨日の記録を確かめるために手帳を開いた。
ガレクの名前が書かれている。
それを確認して、彼は少しだけ安堵した。
少なくとも、自分の手帳には残っている。
彼は手帳を鞄にしまい、部屋を出た。最初に向かったのは、東棟だった。ガレクの部屋を訪ね、昨日の話の続きをするつもりだった。あのときは突然の訪問だったから、相手も警戒していたのかもしれない。落ち着いて話せば、何か思い出す可能性もある。
廊下を進むうちに、エリアスは違和感を覚えた。
東棟の廊下に、見慣れない空間があった。
昨日、ガレクの部屋の前に置かれていた木箱がない。扉の横に立てかけられていた訓練用の剣も見当たらなかった。扉そのものは残っているが、周囲には人が使っている気配がなかった。
エリアスは足を止めた。
扉の横にある部屋番号を確かめる。
間違いない。昨日訪れた場所だった。
彼は扉を叩いた。
「ガレク。僕だ。エリアスだ」
返事はなかった。
昨日と同じように、もう一度叩いた。
やはり、何も聞こえなかった。
エリアスは扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。ゆっくりと開くと、室内には朝の光が差し込んでいた。
部屋は、空だった。
寝台がある。机がある。椅子も、衣装箱も、壁際の棚も残されている。だが、どれも使われている様子がなかった。机の上には何も置かれておらず、寝台の布はきれいに整えられている。床には埃が薄く積もり、窓辺には誰かが長いあいだ触れていないような静けさがあった。
まるで、最初から誰も住んでいなかった部屋のようだった。
エリアスは、室内へ足を踏み入れた。
昨日、ガレクはここにいた。
扉を開け、エリアスを見て、誰だと尋ねた。知らないと言った。リゼットという名前にも心当たりがないと答えた。
その記憶は、確かに残っている。
だが、部屋には何もなかった。
エリアスは、机の引き出しを開けた。中は空だった。衣装箱の蓋を開けても、布一枚残っていない。寝台の下も、棚の奥も調べたが、ガレクが使っていたと思えるものは見つからなかった。
彼は部屋を出て、廊下を通りかかった使用人に声をかけた。
「すみません。ここに住んでいた戦士のことを知りませんか」
「戦士、ですか?」
「ガレクです。勇者一行のひとりで、この部屋を使っていたはずです」
使用人は、困ったように首を傾げた。
「勇者様の一行でしたら、五名ではありませんでしたか」
エリアスは、言葉を失った。
「昨日まで、ここに人が住んでいたんです。大きな身体をした戦士で、重い鎧と盾を使っていました」
「申し訳ありません。そのような方が住んでいたという話は、聞いたことがありません」
「この部屋を使っていたんですよ」
使用人は、扉を見た。
「この部屋は、しばらく空き部屋だったと記憶しています。勇者様の一行が戻られてから、部屋割りを変更したという話もありませんでした」
エリアスは、相手の顔を見つめた。
嘘をついているようには見えなかった。
使用人は本当に知らないのだ。
「……わかりました。ありがとうございます」
エリアスは、使用人を見送ったあと、部屋へ戻った。
昨日、武具庫で見つけた大盾のことを思い出した。あの盾には、ガレクの刻印があった。彼が使っていた装備は、確かに残っている。ならば、まだ証拠はある。すべてが消えたわけではない。
エリアスは、武具庫へ向かおうとした。
その途中で、別の兵士に呼び止められた。
「エリアス殿。何かお探しですか」
「武具庫へ行くところです」
「武具庫でしたら、昨日もいらしていましたね」
兵士は、何気なく言った。
「何か問題でもありましたか」
エリアスは、その言葉にすがるように尋ねた。
「昨日、預かり品の記録を確認したでしょう。大盾と鎧の部品が、所有者不明のまま保管されていると」
「……そのような記録がありましたか」
兵士は、不思議そうに眉を寄せた。
「ありました。あなたも見たはずです」
「申し訳ありません。私は、昨日は武具庫の担当ではありませんでしたので」
「では、担当者を呼んでください」
「承知しました」
兵士は、その場を離れた。
エリアスは、廊下の壁に手をついた。
昨日、確かに見た。
大盾の刻印も、鎧の部品も、帳簿の空白も。
それらは、彼の記憶に残っている。
だが、昨日の記録を知っているはずの兵士は、それを覚えていなかった。
エリアスは、自分の手帳を開いた。
そこには、昨日の調査内容が書かれている。ガレクの装備が残されていること。所有者の名前がないこと。武具庫の担当者に保管を頼んだこと。
文字は、いつもどおりだった。
彼は、そのページを何度も読み返した。
書き間違いではない。
記憶違いでもない。
自分は、昨日、確かにガレクの装備を見た。
それなのに、周囲の人間は、そのことを知らない。
エリアスは、武具庫へ急いだ。
担当者が現れるのを待つ時間さえ惜しかった。彼は保管棚の場所を覚えていた。昨日、兵士と一緒に歩いた通路も、盾を見つけた棚も、すべて記憶に残っている。
武具庫に着くと、担当者が入口に立っていた。
「エリアス殿、何かご用ですか」
「昨日、預けられていた大盾を見せてください」
「大盾、ですか」
「所有者不明のものです。修理待ちの棚にあったはずです」
担当者は、しばらく考えたあと、首を傾げた。
「修理待ちの大盾なら、何点かありますが……所有者不明のものは、記録にありません」
「昨日、ここで確認しました」
「昨日、ですか」
担当者は帳簿を開いた。
「昨日の預かり品は、すべて記録されています。大盾についても、持ち主の名前がないものはありません」
「そんなはずはありません」
エリアスは、帳簿を見せてもらった。
そこには、盾の預かり記録が並んでいた。だが、昨日見たはずの大盾は、どこにもなかった。鎧の部品も、修理記録も、見当たらない。
彼は担当者に、刻印のことを説明した。
盾の裏側に、小さな印があったこと。縁に特徴的な傷があったこと。表面には、魔物の爪で抉られた跡があったこと。
担当者は、最後まで話を聞いたあと、申し訳なさそうに言った。
「そのような装備は、見たことがありません」
エリアスは、返事をしなかった。
彼は、武具庫を出た。
廊下を歩きながら、頭のなかで何度も同じ問いを繰り返した。
ガレクは、どこへ行ったのか。
彼の部屋には何も残っていなかった。使用人は、彼が住んでいたことを知らない。武具庫の帳簿からは、装備の記録が消えていた。担当者も、盾を見たことがないと言った。
それだけではない。
周囲の人間は、ガレクという名前そのものを知らないようだった。
エリアスは、急いで記録室へ戻った。
帰還報告書を取り出し、仲間の名前を確認する。アルト、エリアス、セレナ、ノエル。五人分とされていた記録から、ガレクの名前がなくなったことに変わりはない。
だが、彼は別の資料を開いた。
旅の途中で作成した戦闘記録。魔物の群れと遭遇した場所。負傷者の治療記録。鎧の修理に関する覚え書き。彼の手帳には、ガレクの行動がいくつも記されていた。
エリアスは、ひとつずつ確認した。
戦闘の記録には、盾を構えた者の名前がない。
負傷者の記録には、誰が前線で敵を受け止めたのかが書かれていない。
鎧の修理に関する覚え書きには、所有者の名前がない。
文章は残っている。出来事の痕跡も残っている。だが、それらを誰かひとりの存在につなげる情報が、少しずつ欠けていた。
エリアスは、息を呑んだ。
それは、リゼットのときと似ていた。
彼女の名前は記録にない。だが、六人分の物資や、公式の行程とは異なる道の痕跡が残っていた。誰かが先行して調べたという記録もあった。直接の証拠はないものの、五人という記録だけでは説明できないものが、確かに存在していた。
今度は、ガレクだった。
ガレクがいたという記憶は、エリアスのなかに残っている。彼が使っていた装備も、昨日までは実際に存在していた。だが、その痕跡は、周囲の記憶や記録から失われつつある。
エリアスは、手帳を開いた。
ガレクの名前がある。
彼の行動がある。
戦闘の記録がある。
それだけが、今も残っていた。
彼は、震える手で新しいページを開いた。
そして、最初にこう書いた。
ガレクは、昨日まで存在していた。
書き終えたあと、エリアスはその文章を見つめた。
自分が何を書いているのか、わかっていた。
これは、調査の記録ではない。
誰も覚えていない人間が、確かに存在していたという事実を、自分自身に向けて残すための文章だった。
エリアスは、手帳を閉じた。
リゼットだけではなかった。
仲間そのものが、世界から順番に消されている。
その事実を前にして、彼の目的は変わった。
リゼットがいたことを証明する。それだけでは足りない。ガレクがなぜ消えたのかを調べなければならない。そして、次に誰が消えるのかを突き止めなければならない。
アルトは、調査をやめろと言った。
だが、もう、やめるという選択肢はなかった。
エリアスは手帳を鞄にしまい、部屋を出た。
彼の記憶には、まだ仲間たちの姿が残っていた。
だが、それがいつまで残るのかは、誰にもわからなかった。




