第7話 勇者の忠告
翌朝、エリアスは手帳を鞄にしまう前に、もう一度あの一文を読み返した。
リゼットを忘れてはならない。たとえ、俺以外の全員が忘れても。
読み返したところで、書いたときの記憶が戻るわけではなかった。文字の形も、筆圧も、ほかの記録と変わらない。そこに残されているのは、過去の自分が書いたという事実だけだった。
エリアスは手帳を閉じた。
今日、確かめるべき相手は決まっていた。
アルトである。
前日に盾の傷を調べた際、勇者は明らかに何かを気にしていた。傷について説明できないのか、それとも説明したくないのか。あのときの反応だけでは判断できなかったが、少なくとも、エリアスの調査を快く思っていないことは伝わってきた。
記録の不一致を知っているのか。
リゼットという名前を聞いて、何を思い出すのか。
そして、なぜ調査を続けることに不安を覚えているのか。
エリアスは、手帳と調査記録を持って部屋を出た。
王城の朝は慌ただしかった。廊下では兵士たちが交代の準備を進め、使用人たちは朝食の膳を運んでいた。窓から差し込む光が石床の上に長い四角形を作り、その上を人々の影が忙しく横切っていく。
魔王討伐を終えた勇者一行は、いまや国中から祝福される存在だった。アルトのもとには、王族や貴族からの面会の申し込みが絶えない。彼がどこにいて、何を話し、どんな表情を見せたのかまで、人々は知りたがっていた。
そんな勇者に、何度も同じ質問をぶつける人間は少ないだろう。
だが、エリアスは記録係だった。旅の間に何が起きたのかを知る責任があり、記録と記憶が食い違うなら、その理由を確かめる必要がある。
相手が勇者であろうと、その点は変わらなかった。
アルトの部屋の前には、護衛の兵士が二人立っていた。エリアスが訪問の理由を伝えると、兵士のひとりは困ったように眉を寄せた。
「勇者様は、これから謁見の準備に入られます。長い時間は取れないと思いますが」
「構いません。確認したいことがあるだけです」
兵士は一度、扉の向こうをうかがった。それから短く断りを入れ、室内へ入っていった。
ほどなくして、入室を許可する声が聞こえた。
アルトは窓際の椅子に座っていた。机の上には、王城から渡されたらしい書類が積まれている。彼はその一枚に目を通していたが、エリアスが入ってくると、すぐに顔を上げた。
「また君か」
「昨日の話の続きをしたくて」
「盾のことなら、昨日話したはずだ」
「盾だけではありません」
アルトは書類を机に置いた。
その手つきに、わずかな苛立ちがあった。露骨に追い払おうとはしないものの、歓迎されていないことは明らかだった。
「座ってくれ。立ったまま話すと、君は必要以上に深刻な顔をする」
「座っても、話の内容は変わりません」
「そうだろうな」
アルトは小さく息を吐いた。
エリアスは向かいの椅子に腰を下ろし、持ってきた調査記録を机の上に置いた。すぐに開くつもりはなかった。まずは、相手の反応を確かめる必要がある。
「僕は、リゼットという仲間がいたと記憶しています」
アルトの表情は変わらなかった。
ただ、書類の端に置かれていた指が、ほんのわずかに動いた。
「その話か」
「はい。あなたは、彼女を覚えていますか」
「覚えていない」
返答は早かった。
エリアスは、アルトの目を見た。
「名前を聞いても、何も思い出せませんか」
「思い出せないものは、思い出せない」
「では、僕の記憶が間違っていると思いますか」
アルトはすぐには答えなかった。窓の外へ目を向け、城の庭を眺めるように黙り込んだ。
その沈黙は、エリアスにとって否定よりも気になった。
単純な記憶違いだと考えているなら、そう答えればよい。記録に存在しない人物を覚えていない。それだけの話であれば、これほど言葉を選ぶ必要はないはずだった。
やがて、アルトは口を開いた。
「君の記憶が間違っている可能性はある」
「もちろんです。だから、記録を調べています」
「記録だって間違う」
「わかっています」
「なら、なぜそんなに確信している?」
エリアスは答えに詰まった。
確信しているつもりはなかった。少なくとも、事実を確認する前に結論を決めているわけではない。だが、アルトの問いには、単なる記憶違いを指摘する以上の響きがあった。
「僕は、リゼットがいたと証明したいんです」
「なぜだ」
「彼女がいたからです」
「それは答えになっていない」
アルトの声が少しだけ強くなった。
「君が覚えていることはわかった。だが、覚えているというだけで、世界のほうを間違いだと決めつけるつもりなのか」
「世界の記録が正しいと、どうして言えるんですか」
今度は、エリアスが問い返した。
アルトは黙った。
机の上に置かれた書類の束。その一番上には、帰還報告書の写しが見えていた。五人の名前が記された、あの書類である。
「僕は、物資の帳簿を調べました。地図も確認しました。どちらにも、公式の記録だけでは説明できない部分があります」
「それが、リゼットの存在を証明するのか?」
「まだ、直接の証拠ではありません」
「なら、何もわかっていないのと同じだ」
「いいえ。少なくとも、調べる価値はあります」
アルトは椅子の背にもたれた。疲れているように見えた。朝から面会が続いていたせいかもしれない。だが、エリアスには、別の疲労がそこに混じっているように思えた。
何かを知っている人間が、知っていることを話せないときの疲れ。
そう見えたのは、エリアス自身がそう考えていたからかもしれない。
彼は、自分の推測を事実にしてはならないと、頭のなかで繰り返した。
「アルト。あなたは、僕に調査をやめてほしいんですか」
「そうだ」
今度は、はっきりとした返答だった。
エリアスは一瞬、言葉を失った。
「理由を聞いても?」
「君が調べているものが、何なのかわかっていないからだ」
「だからこそ、調べるんです」
「知らないほうがいいこともある」
「それは、真実を隠してもいいということですか」
「そういう話をしているんじゃない」
アルトは机に両手をついた。声を荒らげたわけではない。それでも、部屋の空気がわずかに張り詰めた。
「君は記録係だった。起きたことを書き残す。それが君の役割だった。だが、記録を調べることと、過去を掘り返すことは同じじゃない」
「違いがわかりません」
「わからないなら、なおさらだ」
エリアスは、アルトの言葉を考えた。
記録を調べることと、過去を掘り返すこと。その違いは何なのだろう。過去に何が起きたのかを確かめようとすれば、記録の不一致を追い、証言を集め、忘れられた出来事に近づいていくしかない。調査を続けることそのものが、過去を掘り返す行為になる。
それをやめろというのなら、記録係としての役割を放棄しろと言われているのと同じだった。
「何かを壊す、と言っていましたね」
エリアスは尋ねた。
「昨日、僕が調査を続ければ、何かを壊すことになるかもしれないと」
アルトの視線が、エリアスの顔に戻った。
「覚えていたのか」
「忘れるような話ではありません」
「そうか」
アルトは、机の上の書類に目を落とした。そこには何も書かれていないかのように、長いあいだ視線を向けていた。
「君は、何かを知ろうとすることが、必ずしも何かを救うとは限らないと考えたことがあるか」
「あります」
「それでも調べるのか」
「はい」
エリアスは、迷わず答えた。
「知らないままにしておくことで、救われるものがあるかもしれません。ですが、知らないままにしておくことで、失われるものもあります」
アルトは顔を上げた。
「何が失われる?」
「それがわからないから、調べています」
短い沈黙が落ちた。
エリアスは、自分の言葉がアルトを納得させるとは思っていなかった。相手は、過去を掘り返すことに危険を感じている。その理由が何であれ、簡単に考えを変えることはないだろう。
それでも、ここで引き下がるつもりはなかった。
「あなたは、リゼットを覚えていないと言いました」
「そうだ」
「でも、僕が彼女の名前を出したとき、何かを考えていたように見えました」
「人間は、知らない名前を聞いても考えるものだ」
「それはそうです」
エリアスは認めた。
「だから、あなたが彼女を覚えていると決めつけるつもりはありません。ただ、あなた自身が何かを思い出せないと感じているのなら、それも確認する必要があると思います」
「思い出せないと感じている?」
アルトは、その言葉を繰り返した。
彼はしばらくエリアスを見つめていた。何かを言おうとして、口を開きかける。だが、結局は何も言わなかった。
その沈黙のあいだ、アルトの顔からは、勇者として人々の前に立つときの表情が消えていた。
彼は疲れた男の顔をしていた。
世界を救った英雄でも、王国が称える勇者でもない。ただ、何かを失ったことだけはわかっているのに、それが何だったのかを思い出せない人間の顔だった。
「エリアス」
アルトは、低い声で言った。
「君は、何かを忘れたことがあるか」
「あります。人間ですから」
「そういうことじゃない」
アルトは首を振った。
「何かを失ったとわかっているのに、それが何だったのか、思い出せない。失ったことだけが残っていて、何を失ったのかはわからない。そんなことがあったかと聞いている」
エリアスは、すぐには答えられなかった。
その問いは、彼自身が抱えている疑問と重なっていた。
手帳に残された一文。リゼットを忘れてはならないという、過去の自分からの命令。なぜ、あの文章を書いたのか。何を恐れていたのか。彼は何も覚えていない。
「……あります」
やがて、エリアスは答えた。
「今、まさにそういう状態なのかもしれません」
アルトは目を伏せた。
その顔に、わずかな変化が現れた。安堵にも、悲しみにも見える表情だった。だが、それもすぐに消えた。
「なら、わかるはずだ」
「何がですか」
「思い出せないことには、理由があるのかもしれないということだ」
「理由があるなら、なおさら確かめる必要があります」
「確かめた結果、元に戻せないことが起きたらどうする」
「何が起きるのか、わからないんです」
「そうだ。わからない」
アルトは、強く言い切った。
「だから、やめておけと言っている」
エリアスは、相手の顔を見た。
アルトは嘘をついているのだろうか。
そう考えた瞬間、エリアスは自分の考えを疑った。アルトは何かを恐れている。それは確かに見える。だが、恐れていることと、真実を知っていることは同じではない。彼自身もまた、説明できない記憶の欠落を抱えているのかもしれなかった。
もしそうなら、アルトは単に秘密を隠そうとしているのではない。自分にもわからない何かが、再び起きることを恐れている可能性がある。
「あなたは、何が起きると思っているんですか」
エリアスは尋ねた。
「僕が調査を続けたら、何が壊れるんですか」
アルトは答えなかった。
窓の外から、鐘の音が聞こえた。謁見の開始を知らせる鐘だった。王城のどこかで、兵士たちが動き始める気配がした。
アルトは、その音に意識を向けるように顔を上げた。話を終わらせるための理由ができたことに、安堵したようにも見えた。
「もう行かなければならない」
「答えは、聞けないんですね」
「今はな」
その言葉に、エリアスは引っかかりを覚えた。
今は、ということは、いずれ答えられるときが来るのだろうか。それとも、ただ話を打ち切るための言葉にすぎないのか。
判断はできなかった。
アルトは椅子から立ち上がり、机の上の書類をまとめ始めた。エリアスも立ち上がったが、すぐには部屋を出なかった。
「最後に、ひとつだけ聞かせてください」
アルトは手を止めた。
「リゼットという名前を聞いて、何かを失ったように感じたことはありませんか」
その問いに、アルトはすぐには反応しなかった。
やがて、彼は自分の胸元に目を落とした。そこには何もない。武器も、装飾品も、特別なものは身につけていなかった。
「……ある」
小さな声だった。
エリアスは息を止めた。
「何を失ったのかは、わからない。誰を失ったのかも、わからない。ただ、君がその名前を口にすると、何かが足りないような気がする」
アルトは顔を上げた。
「それだけだ。それ以上のことは、何も言えない」
エリアスは、返す言葉を見つけられなかった。
初めて、アルトの口から、自分の記憶だけではない何かが語られた。彼はリゼットを覚えていない。だが、その名前に対して、何の感情も持っていないわけではなかった。
それが何を意味するのかはわからない。
しかし、エリアスの疑いは、少しだけ形を変えた。
アルトは、すべてを知りながら隠しているのではないのかもしれない。彼自身もまた、何かを失い、その理由を見つけられずにいる可能性がある。
「調査は続けます」
エリアスは言った。
「あなたの忠告を無視することになりますが」
「わかっている」
「それでも、確かめなければなりません」
アルトは、しばらく黙っていた。
「君は昔から、そうだったな」
その言葉に、エリアスは目を上げた。
「昔から?」
「記録にないことを、簡単には見過ごさなかった」
アルトは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「そのせいで助かったこともあった。だが、記録に残すべきことと、残してはいけないことがあるとしたら、君はどうする」
「残すべきかどうかを決める前に、何が起きたのかを確かめます」
「そう答えると思った」
アルトの表情から、笑みが消えた。
「だが、エリアス。もし君が調べた結果、何も取り戻せなかったとしても、誰かを責めるな」
「誰をですか」
「誰もだ」
アルトは扉のほうへ目を向けた。
「それだけは、覚えておいてくれ」
それ以上、彼は何も話さなかった。
エリアスは部屋を出た。扉が閉まると、廊下の空気がひどく冷たく感じられた。窓の外では、王城の庭を歩く人々が、いつもと変わらない一日を始めている。
彼は手帳を取り出しかけて、やめた。
今、アルトが語ったことを記録するべきかどうか、一瞬だけ迷ったからだ。
アルトは、リゼットの名前に喪失感を覚えると言った。だが、それが彼自身の記憶に由来するものなのか、それとも単にエリアスの話を聞いたことで生じた感情なのかはわからない。記録に残すなら、その違いを明確にする必要がある。
エリアスは廊下の端に立ち、窓から差し込む光を見た。
そして、手帳を開いた。
アルトは、リゼットを覚えていないと述べた。
ただし、その名前を聞くと、何かを失ったように感じると語った。
調査の継続に強い懸念を示している。理由は不明。
エリアスはそこまで書き、ペンを止めた。
理由は不明。
この言葉を、彼は何度書いただろう。
記録を調べても、地図を見ても、仲間に話を聞いても、最後には同じところへ戻ってくる。わからないことがある。説明できないことがある。何かが欠けているのに、その欠けた部分を正確に示せない。
それでも、調べることをやめるわけにはいかなかった。
エリアスは手帳を閉じた。
次に会うべき相手は、ガレクだった。
戦士である彼は、旅のあいだ常に前線に立ち、仲間たちの動きをよく見ていた。記憶の違いを確かめるなら、彼の証言も必要になる。アルトが何を恐れているのかはわからない。だが、ほかの仲間たちが何を覚えているのかを確認することはできる。
エリアスは歩き出した。
勇者の忠告は、彼の心に残っていた。
過去を掘り返せば、何かを壊すかもしれない。
その言葉は、単なる脅しには聞こえなかった。アルトは本当に恐れていた。自分が何を恐れているのかさえ、説明できないまま。
だからこそ、エリアスは確かめなければならなかった。
リゼットは、確かにいた。
少なくとも、彼の記憶のなかでは。
その記憶がなぜ自分だけに残されているのか。なぜ、手帳には忘れることを恐れるような一文が書かれているのか。なぜ、アルトは彼女の名前を聞いて喪失感を覚えるのか。
答えはまだ、どこにもなかった。
だが、エリアスはその日、ひとつだけ決めた。
記録が真実を示さないのなら、記録そのものがなぜ変わったのかを調べる。
誰かが隠したのか。
誰かが忘れたのか。
それとも、記録も記憶も、本人の意思とは関係なく変わってしまったのか。
その違いを確かめるまでは、調査を終えることはできなかった。




