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第6話 手帳の一文

 エリアスは、王城の記録室に戻るまで、アルトの盾に残された傷のことを考えていた。


 傷は、ただの傷だった。少なくとも、目に見える範囲ではそうだった。長年使われた盾には無数の損傷があり、金属の表面には剣を受けた跡も、刃先が滑った跡も、魔物の爪で抉られた跡も残っていた。そのなかにひとつ、ほかとは異なるへこみがあったからといって、それだけで何かを証明できるわけではない。


 盾は言葉を話さない。傷の理由を説明することも、持ち主が何を守ろうとしたのかを語ることもない。


 それでも、エリアスはあの傷が気になっていた。


 アルトは、傷を見たときに一瞬だけ表情を変えた。本人にも理由がわからないような、曖昧な反応だった。思い出しかけて、思い出せなかった。そんな顔に見えた。


 だが、それもエリアスの解釈にすぎない。


 彼は城の廊下を歩きながら、頭のなかに浮かんだ考えをひとつずつ整理した。地図には、公式の行程から外れた道が残されていた。物資の帳簿には、五人分と考えるには不自然な数量が記録されていた。そして勇者の盾には、戦闘の記録だけでは説明しきれない傷があった。


 どれも決定的な証拠ではない。


 しかし、何もないところから生じた疑いでもなかった。


 記録室に着くと、エリアスは机の上に地図の写しと物資の帳簿を並べた。調査を始めてから書き加えた覚え書きも、その横に置く。紙の端には、確認できた事実と、まだ推測にとどまることが区別して記されていた。


 彼はその区別を大切にしていた。


 記録を扱う者にとって、事実と推測を混同することは、単なる不注意ではない。ひとたび推測が事実として書き残されれば、それを読んだ人間は疑うことなく受け入れるかもしれない。さらに別の記録に引用され、別の人間の証言に混ざり、やがて誰も出どころを確かめなくなる。そうして生まれた誤りは、最初の誤りよりも訂正しにくい。


 エリアスは、リゼットがいたと証明したいと思っていた。


 だからこそ、彼女がいたという結論に都合のよいものだけを拾い集めるわけにはいかなかった。自分の記憶を正しいと信じていることと、その記憶を証明できることは別だった。


 彼は帳簿の数字をもう一度確認し、地図に記された日付と照らし合わせた。計算に誤りはない。日付の読み違いもなさそうだった。だが、何度見直しても、五人という公式記録の外側に、説明のつかない余白が残るだけだった。


 しばらくして、エリアスは調査資料を脇へ寄せた。


 別のものを確かめる必要があった。


 自分の手帳である。


 冒険のあいだ、彼はほとんど毎日のように手帳を開いていた。天候、道程、野営地の位置、食料の残量、魔物の出現地点。仲間たちの負傷や、戦闘で確認された魔物の習性も記録した。後から読み返したときに、何が起きたのかをできるだけ正確に再現できるようにする。それがエリアスの習慣だった。


 もちろん、すべてを書き残せたわけではない。戦闘中に細かな記録を取る余裕はないし、疲労がひどい夜には、必要な数字だけを書いて眠ってしまうこともあった。それでも、重要な出来事については、翌朝に記憶を補い、日付と内容を整えていた。


 手帳は、彼にとって単なる備忘録ではなかった。


 自分が何を見て、何を聞き、何を考えたのかを確かめるためのものだった。記憶は時間とともに曖昧になる。だが、記録は残る。少なくとも、残るように努めてきた。


 エリアスは鞄から手帳を取り出し、最初のページから順番にめくった。


 紙は使い込まれて柔らかくなり、角は擦り切れていた。ところどころに雨染みがあり、綴じ目の近くには、野営の火に近づけすぎたのか、薄い焦げ跡もあった。見慣れた文字が、狭い行のなかに整然と並んでいる。


 彼は日付を追いながら、旅の記録を読み返した。


 出発した日の天候。最初の宿場町で購入した薬草の数。森の入口で見つけた魔物の足跡。峠を越えた夜に起きた小さな争い。どれも、記憶のなかにある旅と大きく食い違ってはいなかった。


 ただし、名前は少なかった。


 仲間の行動を記した箇所には、主語を省いた文章が多く見られた。誰かが見張りに立った。誰かが先行した。誰かが食料の残量を確認した。旅の最中には意味が通じていたため、わざわざ名前を書かなかったのだろう。エリアス自身、そのような書き方をすることは珍しくなかった。


 彼は何ページか戻り、先ほど地図で確認した山岳地帯の記録を探した。


 あった。


 その日の欄には、天候と進行距離、それから野営地の周辺で確認した地形が書かれていた。山道の状態は悪く、荷を持ったまま進むには時間がかかったらしい。文章の末尾には、短くこう記されていた。


 先行者の報告により、南側の谷を避ける。


 エリアスは、その一文をじっと見つめた。


 地図に残されていた、あの谷のことだろうか。


 もしそうなら、誰かが谷を調べ、その結果を一行に伝えたことになる。公式の行程では谷を通っていない。だが、別の道を調査した者がいたことは、手帳の記述とも一致していた。


 先行者。


 その言葉だけでは、誰のことなのかわからない。仲間のひとりが先に進んだのかもしれないし、道案内を雇っていた可能性もある。記録に名前がない以上、断定はできなかった。


 エリアスはそのページに印をつけ、次の記録へ進んだ。


 その先には、何もなかった。


 いや、正確には、何も書かれていない部分があった。


 数ページ先の日付を確認していたとき、彼は紙の中央に不自然な空白があることに気づいた。文章はページの上半分で途切れ、その下には数行分の余地が残されていた。次の日の記録は、いつもどおり別のページから始まっている。


 書き忘れただけかもしれない。


 エリアスはそう考え、ページを傾けた。紙の表面に、わずかな凹凸があった。光の当たり方を変えると、文字の跡のようなものが浮かび上がる。インクで書かれた文章ではない。何かを書いたあと、消したのだろうか。


 彼は指先で紙をなぞった。


 消し跡は薄く、ところどころ途切れていた。無理に読み取ろうとすれば、何の形にも見えてしまいそうだった。文字の痕跡だと断言することさえ難しい。


 それでも、気になった。


 手帳のほかのページも確認してみる。書き損じた箇所に線を引いて訂正した跡はあるが、ここまで広い範囲を消した形跡は見当たらなかった。紙を傷めないように慎重に消したのか、それとも別の理由で表面が擦れたのか。今の段階ではわからない。


 エリアスは、空白のページに日付を書き添えようとして、手を止めた。


 その瞬間、妙な感覚が胸の奥をかすめた。


 ここに、何かを書いた。


 そう思った。


 記憶が戻ったわけではない。具体的な文章が浮かんだわけでもない。ただ、この空白を見たことがあるような気がした。過去に一度、同じ場所を開き、そこに書かれた何かを確かめたことがある。そんな感覚だけが、根拠もなく残っていた。


 エリアスは目を閉じた。


 何かを思い出そうとすると、かえって記憶は遠ざかる。彼は何度もその経験をしていた。無理に探れば、実際にあった出来事と、後から頭のなかで組み立てた光景との境目が曖昧になる。だから、いったん手を止め、見えているものだけを確認することにした。


 紙には消し跡がある。


 その理由はわからない。


 自分が何かを書いたのかどうかも、確かではない。


 彼はその三つを手帳の余白に書き留めた。書き終えてから、しばらく文字を眺めた。普段なら、ここまでの確認で次に進んでいただろう。しかし、今回はそれだけでは済まなかった。


 空白のすぐ後ろに、別の記述があったからだ。


 日付は、魔王城へ向かう直前のものだった。


 そこには、いつものように天候と移動距離が記されていた。食料の残量、負傷者の状態、夜の見張りの順番。記述は簡潔で、必要な情報だけが並んでいる。ところが、そのページの一番下に、ほかの記録とは明らかに異なる一文が書かれていた。


 エリアスは、何気なくそこへ目を落とした。


 そして、次の瞬間、ページをめくる手を止めた。


 そこに書かれていたのは、旅の記録でも、地形の覚え書きでもなかった。


 短い文章だった。


 それだけに、読み間違える余地はなかった。


 リゼットを忘れてはならない。たとえ、俺以外の全員が忘れても。


 エリアスは、もう一度その文章を読んだ。


 リゼットを忘れてはならない。たとえ、俺以外の全員が忘れても。


 文字は、間違いなく自分の筆跡だった。癖のある「忘」の字も、最後の句点の打ち方も、普段の記録と変わらない。筆圧まで見慣れたものだった。誰かが彼の手帳に紛れ込ませた文章ではない。少なくとも、他人が書いたものだと疑う理由はなかった。


 だが、書いた記憶がなかった。


 エリアスは手帳を閉じ、しばらく机の上に置いた。何かを見落としているのではないかと思い、もう一度開く。日付を確認し、前後の記録を読み、文章が書かれた位置を確かめる。何度繰り返しても、結果は変わらなかった。


 自分が書いた。


 それなのに、書いた覚えがない。


 彼は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。記録を残す人間が、自分の記録を理解できない。冗談にするには、あまりにも質の悪い話だった。


 疲労が原因だろうか。


 旅の終盤、彼らは連日の戦闘で疲れ切っていた。眠る時間は短く、食事も満足に取れない日が続いていた。記憶が曖昧になったとしても、不思議ではない。夜中に何かを書き、そのことを翌朝には忘れてしまった可能性もある。


 だが、その説明には無理があった。


 文章は、単なる備忘録ではない。何かを自分に言い聞かせるような書き方だった。しかも、忘れることを前提にしている。


 たとえ、俺以外の全員が忘れても。


 なぜ、そんなことを書く必要があったのか。


 リゼットという名前を、なぜここに残したのか。


 エリアスは、手帳の隣に置いてあった公式の帰還報告書を引き寄せた。そこには、魔王を討伐した勇者一行の名前が五人分だけ記されている。アルト、エリアス、セレナ、ノエル、ガレク。王城の記録も、物資の帳簿も、彼がこれまで確認した資料はすべて同じだった。


 リゼットという名前は、どこにもなかった。


 それでも、彼の手帳には、その名を忘れるなと書かれている。


 しかも、ほかの全員が忘れても、と。


 エリアスは報告書を机に戻した。紙の端が、手帳の角に触れて小さな音を立てた。


 この一文は、リゼットが実在したことを示す証拠になるかもしれない。少なくとも、彼女の名前を自分が知っていたことは示している。彼女がいたと考える理由は、またひとつ増えた。


 しかし、これで疑問が解けたわけではなかった。


 手帳に書かれているからといって、内容が必ず正しいとは限らない。記録は、書いた人間の認識を反映する。エリアスが何かを誤解していたのなら、その誤解もまた記録に残る。書かれた事実と、記された文章が示す意味は、同じものではなかった。


 彼は、その一文を無条件に信じる気にはなれなかった。


 自分の筆跡であることは確かだ。だが、なぜ書いたのかを思い出せない以上、その文章がどんな状況で生まれたのかもわからない。何かを忘れないために書いたのか。誰かに忘れさせられることを恐れていたのか。それとも、すでに何かを忘れたあとで、残された記憶を頼りに書いたのか。


 どれも可能性にすぎなかった。


 エリアスは手帳を開き、文章の前後をもう一度確認した。ほかの記録とのつながりはない。文章の上にも下にも、説明らしいものは書かれていなかった。まるで、ほかの記録とは切り離された一文だけが、そこに取り残されているようだった。


 彼は新しい紙を取り出し、確認できたことを書き始めた。


 手帳に、リゼットの名を記した一文がある。


 筆跡は本人のものと一致する。


 本人には、記した記憶がない。


 エリアスはそこでペンを止めた。


 その先に何を書けばよいのか、わからなかった。忘却を予期していた、と書くことはできる。何らかの理由で記憶を失った、と推測することもできる。だが、それらはすべて、この一文をどう解釈するかによって変わってしまう。


 彼は最後に、短く書き添えた。


 現時点では、理由不明。


 書き終えると、エリアスは手帳を閉じた。いつもなら、記録を整理すれば気持ちも落ち着いた。わからないことがあっても、わからないと記しておけばよかった。未確認の事柄は未確認のまま残し、後から得られた情報と照合すればよい。それが、彼の仕事の進め方だった。


 だが、今回は違った。


 わからないのは、遠い場所で起きた出来事ではない。誰かの証言でも、古い文書の記述でもなかった。自分自身が何を考え、何を恐れ、何を忘れたのか。それがわからないのだ。


 エリアスは、自分の記憶を疑ったことがなかったわけではない。記憶違いを訂正したことも、記録と食い違う証言に出会ったこともある。だからこそ、記憶だけを根拠に何かを断定することには慎重だった。


 しかし、自分の記憶に欠落があるかもしれないと考えることと、その欠落を示す文章を自分の手で書いていたと知ることは、まったく別だった。


 彼は手帳をもう一度開き、あの一文を見た。


 忘れてはならない。


 それは命令だった。誰かに向けたものなのか、自分自身に向けたものなのかさえわからない。それでも、書いた人間が何かを強く恐れていたことだけは、文章から伝わってくるように思えた。


 エリアスは、リゼットの顔を思い浮かべようとした。


 記憶のなかには、彼女の姿がある。旅の途中で仲間たちと交わした会話も、道を先行して確認する姿も、断片的ながら思い出せる。彼女がいたという感覚は、今も消えていない。


 だが、その記憶を裏づけるものは、ひとつずつ見つけにくくなっていた。


 公式の名簿にはない。帰還報告書にもない。物資の数量は不自然だが、六人目がいたと断定するには足りない。地図には先行者の痕跡があるが、その人物がリゼットだったという証拠はない。勇者の盾に残された傷も、何を意味するのかはわからない。


 そして今、自分の手帳には、記憶のない一文が残されている。


 手掛かりが増えるたびに、謎が解けていくとは限らなかった。むしろ、調べるほどに、自分が何も知らないという事実が明らかになっていく。


 窓の外では、王城の庭を歩く人々の姿が見えた。兵士が交代し、使用人が荷物を運び、遠くの回廊から誰かの笑い声が聞こえる。魔王が倒され、世界は平和になった。人々はそれぞれの日常へ戻り、勇者一行の勝利は、やがて歴史の一頁として整理されていくのだろう。


 その歴史には、五人の名前が残る。


 エリアスは、手帳を閉じた。


 自分の記憶が正しいと証明したい。その思いは変わらなかった。だが、今はそれだけでは足りない。リゼットがいたことを証明するためには、彼女の存在を示す証拠を集めるだけでなく、なぜ自分が彼女を忘れないように書き残したのかも確かめなければならなかった。


 自分が忘れたことを、どうやって思い出せばいいのか。


 その答えは、手帳のなかにはなかった。


 エリアスは一文の写しを調査記録に挟み、手帳を鞄にしまった。明日からは、別の角度から調べる必要がある。地図や帳簿だけではなく、旅の途中で起きた出来事そのものを、もう一度たどらなければならない。


 彼は机の上に並べた資料を片づけた。紙を重ね、日付順にそろえ、紐でまとめる。いつもの手順を踏んでいるあいだだけは、考えが少しずつ整っていくように感じられた。


 最後に、彼は調査記録の表紙へ目を落とした。


 そこには、まだ何も書かれていない。


 エリアスはペンを取り、表紙の中央に、調査の対象となる名前を記した。


 リゼット。


 その文字を見つめていると、手帳に残された一文が、再び頭のなかに浮かんだ。


 たとえ、俺以外の全員が忘れても。


 誰も覚えていない人物を、自分だけが覚えている。


 そして、自分自身もまた、何かを忘れているのかもしれない。


 エリアスは、その二つの事実を切り離して考えることができなかった。

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