第5話 勇者の盾の傷
地図庫を出たエリアスは、王城の中庭を抜け、勇者アルトにあてがわれた滞在棟へ向かった。
魔王討伐を終えた一行には、それぞれ休息のための部屋が用意されていた。遠征の報告や祝勝会への出席が続いているとはいえ、戦いが終わった今、彼らは以前のように行動を共にする必要はない。アルトは王族や高官との面会に追われ、セレナは教会からの訪問を受け、ノエルは魔術師団に呼び出されている。仲間たちが同じ場所に集まる機会は、思いのほか少なくなっていた。
エリアスは、アルトが戻っていることを願った。
地図の次に確かめるべきものは、彼の盾だった。
公式の戦闘記録には、魔王城での最後の戦いについて、アルトが正面から魔王の攻撃を受け止め、仲間たちを率いて勝利したと記されている。勇者が先頭に立って戦ったことに疑いはない。だが、エリアスの記憶にある戦いは、それほど単純なものではなかった。
何度も隊列が崩れた。誰かが前に出て、誰かが後ろへ下がった。魔王の攻撃を受け止めた者もいれば、その隙に仲間を立て直した者もいた。アルト一人の剣だけで、あの戦いが成立したわけではない。
そのことを、エリアスは覚えているはずだった。
しかし、誰がどの瞬間に何をしたのかを、今の彼は正確に説明できなかった。
滞在棟の入口には、王城の警備兵が立っていた。エリアスが用件を告げると、兵士は彼を見知っていたらしく、すぐに通してくれた。
アルトの部屋は二階の奥にあった。扉の前には面会者の名を記す板が掛けられていたが、そこにはまだ誰の名前もなかった。エリアスが扉を叩くと、少し間を置いて返事があった。
「入ってくれ」
部屋の中では、アルトが窓際の椅子に腰かけていた。外套を脱ぎ、簡素なシャツに着替えている。戦場で見せた張り詰めた様子は薄れ、疲労が顔に浮かんでいた。机には未開封の書簡が積まれ、床には旅装の一部がまとめて置かれている。
そして、壁際の台に盾が立てかけられていた。
エリアスは挨拶を済ませると、机の上に持ってきた手帳を置いた。
「少し確認したいことがある」
「また記録か」
アルトは苦笑した。以前なら、エリアスの几帳面さをからかうときの表情だった。今はそこに、わずかな警戒が混じっているように見えた。
「地図を調べていたんだ。遠征中に使った行程図に、公式の旅程にはない経路の跡が残っていた」
「地図にない道?」
「正確には、今の旅程図には記されていない道だ。現地測量図には、先行して通行を確認したという注記が残っていた。誰かが先に進んで、谷の安全を確かめたらしい」
アルトはすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向け、しばらく考えているようだった。エリアスは彼の反応を見ながら、余計な説明を付け加えずに待った。
「危険な場所では、先に調べる必要がある」
やがてアルトは言った。
「そうだな。だから、その道を調べた人物が誰なのか知りたいんだ」
「地図に名前は?」
「ない」
「なら、わからないだろう」
返答は簡潔だった。エリアスが予想していたものでもあった。
「そうかもしれない。ただ、旅の記録には不自然な点が多すぎる。物資の数量もそうだ。五人分の記録では説明しにくい数字が残っている。そこへ、公式の旅程にない経路まで見つかった」
アルトは椅子の背にもたれた。
「エリアス。お前は何を証明したい?」
「リゼットがいたことだ」
その名前を口にすると、部屋の空気がわずかに変わったように感じられた。
アルトの表情から、先ほどまでの苦笑が消えた。驚いたのか、怒ったのか、それとも別の感情なのか。エリアスには判断できなかった。ただ、アルトがすぐに言葉を返さなかったことだけは確かだった。
「……まだ、その話を続けるつもりなのか」
「記録が一致しないんだ。俺の記憶にはリゼットがいる。けれど、公式の名簿には名前がない。物資の数量にも、地図にも、説明のつかない痕跡が残っている」
「痕跡があることと、そこにリゼットがいたことは別だ」
「わかっている。だから調べている」
エリアスは声を荒らげなかった。アルトを責めるために来たのではない。彼自身、まだ何も確定できていない。わずかな証拠を集め、互いに照らし合わせ、説明できる範囲を少しずつ狭めていく。それが今できる唯一の方法だった。
アルトは机の書簡に目を落とした。
「魔王は倒れた。戦争は終わった。国はこれから、壊れた街や村を立て直さなければならない。戦いで家族を失った人もいる。帰る場所をなくした人もいる。今は、先へ進むために必要なことをする時期だ」
「そのことに異論はない」
「なら、過去を掘り返して何になる?」
「過去が正しく記録されていないなら、それを確かめる必要がある」
「正しい記録?」
アルトは、かすかに笑った。しかし、その笑みには少しも楽しさがなかった。
「お前は、記録に書かれていることが真実だと思っているのか」
問い返され、エリアスは一瞬だけ言葉に詰まった。
「記録が常に正しいとは思っていない。だから、複数の資料を照合している。地図だけでも、物資の記録だけでも、何があったかは断定できない」
「それでも、調べ続けるのか」
「そうだ」
アルトは黙った。
彼の視線は、エリアスの手帳を通り越し、部屋の壁際へ向かっていた。そこには旅装の一部とともに、盾が置かれている。縁に金属の補強が施された大きな盾だった。表面には幾つもの傷があり、中央の紋章は戦いの熱と衝撃によって一部が変色していた。
エリアスは、その盾に目を留めた。
「その盾を見せてもらってもいいか」
アルトはすぐに返事をしなかった。
「どうしてだ」
「魔王城での戦いを調べたい。地図の件とは別に、装備にも記録に残っていないことがあるかもしれない」
「装備まで調べるのか」
「必要なら」
アルトは息を吐き、立ち上がった。
「好きにしろ」
彼は盾を台から取り上げ、机の脇へ運んだ。重い金属が床に触れ、鈍い音がした。エリアスは手帳を閉じて椅子から立ち、盾の前に膝をついた。
近くで見ると、表面の傷は遠目に見た印象よりも深かった。剣で斬りつけたような細い傷、鋭い突起に引っかかれたような裂け目、縁の金属が内側へ押し込まれた箇所。いくつもの戦闘を経た武具であることは疑いようがない。
エリアスはまず、盾の表面を順に確認した。
中央付近には、魔王城で受けたと思われる大きな損傷があった。金属の表面が黒く焼け、紋章の一部が溶けかけている。魔王の力によるものだろう。盾の表側にこれほどの損傷が残るのは、強烈な攻撃を正面から受けたためだと考えられた。
だが、エリアスが気になったのは、その傷ではなかった。
盾の左側、縁に近い位置に、奇妙なへこみがあった。金属が外側から内側へ押し込まれ、そこを中心に細い亀裂が何本も伸びている。表面だけではない。縁の補強金具も歪んでいた。
エリアスは指先で傷の輪郭を確かめた。
「この傷は、いつついた?」
「覚えていない」
アルトの答えは早かった。
「魔王城での戦いか?」
「そうだろうな。あそこでは何度も攻撃を受けた。ひとつひとつを覚えているわけじゃない」
「この位置で攻撃を受けたなら、盾を構えて正面から受け止めたことになる。ただ、へこみ方が少し不自然だ」
「不自然?」
「衝撃が一方向から加わっただけではないように見える。縁の金具が内側へ曲がっているのに、表面の傷は横へ流れている。何かが盾にぶつかったあと、別の方向から力が加わったのかもしれない」
エリアスは断定を避け、傷の周囲をさらに調べた。金属の亀裂は、へこみの中心から放射状に広がっている。その一部は盾の縁に達し、補強金具を歪ませていた。盾そのものが何かを受け止めたのは確かだが、何を受けたのかはわからない。
アルトは腕を組み、黙って見ていた。
「戦闘中に誰かが盾へぶつかった可能性はあるか」
エリアスが尋ねると、アルトは眉を寄せた。
「戦場で人がぶつかることはある。敵の攻撃を避けるために味方が近づくこともある。だが、それだけでこんな傷がつくとは思えない」
「誰かをかばった可能性は?」
今度は、アルトの返事がなかった。
エリアスは顔を上げた。
「盾の表面には、正面から攻撃を受けた跡がある。けれど、このへこみは少し違う。盾を構えた者自身が攻撃を受けたというより、盾の側面に何かが強く押しつけられたようにも見える」
「それが誰かをかばった跡だと?」
「可能性のひとつだ。今のところ、それ以上のことは言えない」
アルトは盾を見下ろした。
その目に、エリアスは一瞬、見慣れないものを感じた。傷の位置を知っているようで、何があったかは思い出せない。そんな顔だった。だが、すぐにアルトは視線をそらし、いつもの落ち着いた表情に戻った。
「盾の傷から、誰がいたかまでわかるはずがない」
「その通りだ」
エリアスは否定しなかった。
「でも、記録には残っていない戦闘の痕跡がある。地図の件も同じだ。ひとつひとつでは決め手にならないが、複数の痕跡を合わせれば、今の記録とは違う旅があったことを示せるかもしれない」
「違う旅、か」
アルトは低く繰り返した。
その言葉を口にしたとき、彼の顔から疲労とは別の影が差したように見えた。エリアスは、それを見逃さなかった。
「アルト。お前は、俺の記憶が間違っていると思うか」
問いかけに、アルトはすぐには答えなかった。
窓の外では、風に揺れた木々がかすかな音を立てていた。遠くから兵士たちの声が聞こえ、廊下を誰かが通り過ぎていく。日常の音が続いているのに、部屋の中だけが切り離されたように静かだった。
「人間の記憶は曖昧だ」
アルトはようやく口を開いた。
「長い旅を終えたばかりだ。疲れているし、戦いの記憶も混ざっている。細かいことを間違えるのは珍しくない」
「俺もそう思う。だから、記憶だけを根拠にするつもりはない」
「なら、もういいだろう」
「よくない。リゼットの名前がない理由も、物資の数量も、地図の経路も、説明できていない」
アルトは唇を引き結んだ。
「エリアス。お前は、答えが見つかるまで調べ続けるつもりなんだな」
「そうだ」
「答えが見つかったとして、それが誰かを救うとは限らない」
その言葉には、先ほどまでとは違う重みがあった。
エリアスはアルトを見た。勇者は、盾の縁に置いた手を握りしめていた。強く握っているわけではない。それでも、指先に力が入っているのがわかった。
「何を恐れているんだ」
エリアスが尋ねると、アルトは目を伏せた。
「恐れている?」
「調査を続けることが、何かを壊すように聞こえる」
「お前には関係のないことだ」
アルトの声は静かだった。怒鳴られたわけではない。だが、その一言で、これ以上踏み込むなという意思は十分に伝わった。
エリアスはそれ以上追及しなかった。
今ここで問い詰めても、アルトが話すとは思えなかった。それに、彼自身もまだ何を尋ねるべきなのか、整理できていなかった。盾の傷が示しているのは、誰かが攻撃を受け止めた可能性にすぎない。地図の経路も、誰が調べたかまではわからない。物資の数量も、六人で旅をしたと断定するには足りない。
だが、証拠は少しずつ重なり始めていた。
エリアスは盾の傷を手帳に描き写した。へこみの位置、亀裂の方向、縁の金具の歪み。観察できたことと、そこから考えられる可能性を分けて記録する。誰かがアルトを守ったのかもしれないという推測は、事実とは別の欄に記した。
書き終えたエリアスは、手帳を閉じた。
「時間を取らせて悪かった」
「気にするな」
アルトは盾を再び台へ戻した。
その動作は慎重だった。盾が台に触れたとき、彼は縁の傷をもう一度見た。ほんの一瞬のことだったが、エリアスには、アルトがその傷を初めて見た人間のようには思えなかった。
知っているのに、思い出せない。
そんな矛盾が、彼の表情に現れていた。
エリアスは部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。
「アルト。俺は、お前を疑っているわけじゃない」
「そうか」
「ただ、記録にないことがあったのなら、それをなかったことにはしたくない」
アルトは返事をしなかった。
エリアスは扉を閉め、廊下へ出た。
歩きながら、彼は手帳の内容を頭の中で整理した。六人分を思わせる物資の数量。公式旅程図にはない経路。先行して道を確かめた者の記録。そして、アルトの盾に残された、説明のつかない傷。
それらは、別々の場所に残された痕跡だった。物資の記録は旅の人数に関わり、地図は旅の経路を示し、盾の傷は戦闘の中で起きたことを物語っている。ひとつの証拠だけで結論を出すことはできない。それでも、三つの痕跡は、公式の記録だけでは説明しきれない旅があったことを示していた。
誰かが先行して危険を調べた。誰かが仲間を守るために攻撃を受け止めた。そして、その誰かたちの名前が、今の歴史から失われている。
エリアスは足を止め、窓の外を見た。
夕暮れの光が、王城の石壁を淡く染めていた。魔王討伐の英雄として称賛されるアルト。その功績に疑いはない。だが、あの戦いを成立させたのは、彼一人ではなかったはずだ。
盾の傷は、何も語らない。
それでも、傷が残っているという事実まで消すことはできない。
エリアスは手帳を懐にしまい、再び歩き出した。
彼の調査は、まだ始まったばかりだった。




