第42話 英雄の告白
王城の会議が終わってから、二日が過ぎた。
その間、エリアスとアルトは王都に留め置かれていた。記録院は提出された資料の照合を始め、教会は封印に関する記録の公開範囲について協議を求めた。王国の政務官たちは、発表によって生じる混乱を予測するための報告書を作成しているらしかった。
何もしていないわけではない。しかし、事態が切迫していることを考えれば、あまりにも遅い。
エリアスは記録院から届いた書状を読み返し、机の上に置いた。そこには、提出資料の一部について追加の検証が必要であること、関係各所との調整が続いていること、正式な公表時期については現段階で明言できないことが記されていた。
丁寧な言葉が並んでいた。どの一文にも間違いはない。だが、その文章を何度読み直したところで、消えた仲間たちが帰ってくるわけではなかった。
窓の外では、朝の市場が開き始めていた。荷車が石畳を軋ませ、店先では焼きたてのパンが籠に並べられている。通りを歩く人々は、いつもどおりの一日を始めようとしていた。
彼らにとって、魔王討伐はすでに終わった出来事だった。
勇者アルトが魔王を倒し、世界に平和を取り戻した。それが王国の歴史であり、教会の説教であり、子供たちが学校で学ぶ物語だった。
その物語に欠けているものがあると、誰が想像するだろう。
エリアスは窓から目を離し、机の隅に置いた手帳へ視線を落とした。革表紙には旅の間についた傷がいくつも残っている。何度も開かれ、何度も書き足された記録。その中には、公式の歴史から消された五人の仲間の足跡が残されていた。
そして、記録を残す立場にありながら、彼自身もまた、その歴史改変に加担したという事実が記されている。
「今日、話すのか」
向かいの椅子に座っていたアルトが尋ねた。
エリアスは書状を畳んだ。
「記録院の正式な発表を待っていたら、いつになるか分からない。昨日、広場の掲示板に出した告知も、今朝には剥がされていた」
「王国が剥がしたのか?」
「誰が指示したのかは分からない。ただ、告知を出した事実まで消すことはできない」
告知には、魔王討伐の歴史に関する重大な訂正を行うため、勇者アルト本人が市民の前で説明する、と記してあった。
王城での会議を経て、アルトは公の場で発言することを決めた。記録院の正式な承認は得られていない。教会の一部からは、未検証の情報を広めるべきではないという警告も届いていた。
それでも、二人は発表を取りやめなかった。
「昨日までは、俺が話せば済むと思っていた」
アルトは窓の外へ目を向けた。
「だが、実際に話すとなると、何を言えばいいのか分からなくなるな」
「事実を話せばいい」
「事実を並べるだけなら、お前の仕事だ」
「そうだな」
エリアスは否定しなかった。
「だが、何をしたのかを話すのは、お前の仕事だ。俺が記録に書くことはできても、お前が過去に何を承認したのかまでは、俺の言葉で代わりに説明できない」
アルトはしばらく黙っていた。
魔王討伐の旅の中で、彼は何度も決断を下してきた。仲間を先に進ませるために危険な道を選び、傷ついた者を置き去りにしないために予定を変え、勝利の可能性が低い戦いにも挑んだ。
その決断のすべてが正しかったわけではない。それでも、アルトは自分で選んだことから逃げなかった。
ただ一つ、魔王を倒した後の決断だけは違った。
リゼットが旧封印の核となることを選んだとき、アルトは彼女の意思を尊重した。だが、彼女が犠牲になった事実を歴史から隠すことにも同意した。世界の安定を守るためだと考えたからだった。
その結果、リゼットだけでなく、ほかの仲間たちの存在までもが歴史から失われていった。
「リゼットは、俺たちが帰ることを望んでいた」
アルトは低い声で言った。
「それを知っていたのに、俺は彼女を封印の中に残したまま、世界に平和が戻ったと告げた」
エリアスは何も言わなかった。
慰める言葉を探すことはできた。しかし、ここで必要なのは慰めではない。アルト自身が、ようやく口にしようとしている事実だった。
「今日の話で、リゼットが帰ってくるわけじゃない」
「そうだな」
「俺が謝ったところで、彼女が過ごした時間は戻らない。ガレクも、セレナも、ノエルも、失ったものを取り戻せるとは限らない」
「それも事実だ」
「それでも、話す必要がある」
アルトは椅子から立ち上がった。
「俺が黙っていれば、あの歴史は正しいままだ。俺はもう、それを正しいことにしておきたくない」
エリアスは手帳を外套の内側へしまった。
「なら、行こう」
*
王都の中央広場には、昼前から人が集まり始めていた。
告知を見て足を運んだ者だけではない。勇者アルトが自ら姿を見せると聞きつけ、商店の仕事を中断してやって来た者もいれば、教会の使いが何を話すのか確かめに来た者もいた。
広場の中央には、祭礼の際に使われる石造りの壇がある。魔王討伐からの帰還を祝った式典でも、アルトはこの壇に立った。あのときは王族や貴族が壇の周囲を囲み、広場を埋めた人々は勇者の名を繰り返し叫んだ。
今日は様子が違っていた。
王族の姿はない。壇の脇に立つ記録院の職員たちも、公式の発表者としてではなく、事実関係を確認する立会人として来ているにすぎなかった。教会からも数名の聖職者が出席していたが、その表情は硬い。
壇の前に集まった人々の間には、期待と不安が入り混じっていた。
「魔王討伐の話を訂正するって、本当なのか?」
「勇者様が自分で話すそうだ」
「今までの記録が間違っていたということか?」
「そんな話、聞いたこともない」
囁き声は、風に吹かれる草のように広場のあちこちで揺れていた。
アルトは壇の下で立ち止まり、人々を見渡した。
彼がこの場所に立つことは、何度も想像していた。だが、想像の中で聞こえていたのは、非難の声でも疑念でもなかった。自分が真実を語れば、少なくとも何人かは理解してくれる。そう考えていた部分が、どこかにあった。
実際に目の前にいる人々は、彼を英雄として知っていた。
その英雄が、自分たちの知っている歴史は間違っていると言おうとしている。
彼らにとっても、簡単に受け入れられる話ではないだろう。
「アルト」
隣に立つエリアスが、小さく呼んだ。
「俺はここにいる」
それだけだった。
アルトは一度頷き、壇へ上がった。
広場のざわめきが、少しずつ小さくなっていった。
壇上から見渡す王都は、平和そのものだった。遠くに見える王城の塔には旗が掲げられ、通りには荷車が行き交っている。広場の端では、母親に手を引かれた幼い子供が、壇上のアルトを見上げていた。
この平和を守るために、彼らは戦った。
それは嘘ではない。
だが、平和が続いていることと、平和を手に入れるまでの歴史が正しく伝えられていることは、別の問題だった。
「集まってくれたことに感謝する」
アルトの声が広場に響いた。
「今日は、魔王討伐について、これまで公にされてきた歴史を訂正するために来た」
人々の間にざわめきが戻った。
アルトは言葉を切らずに続けた。
「先に伝えておく。魔王は実在した。魔王が人々の暮らしを脅かし、多くの命を奪ったことも事実だ。魔王を倒すための戦いは必要だった。俺たちが魔王を討伐したことも、間違いではない」
彼は一人一人の顔を確かめるように、広場を見渡した。
「だが、その戦いを俺一人の功績として伝えてきた歴史は、正しくない」
静寂が落ちた。
「魔王を倒したのは、俺一人ではない。俺とともに旅をした仲間がいた。盾を掲げて前線を支えたガレク。傷ついた者を癒やし、何度も俺たちを死の淵から引き戻したセレナ。魔王の力と封印の構造を調べ、俺たちに戦う方法を示したノエル。そして、道を探し、敵の動きを読み、何度も俺たちの命を救ったリゼットだ」
名前が一つ挙がるたび、広場の人々は互いの顔を見合わせた。
ガレク、セレナ、ノエル。その名を聞いても、すぐには思い当たらない者が大半だった。魔王討伐に関する絵本や記念碑に、彼らの名はほとんど残されていない。
リゼットに至っては、名前そのものを初めて聞く者も多かった。
「そして、俺たちの旅を記録していたエリアスがいた。彼もまた、仲間の一人だった」
壇の下に立つエリアスへ、いくつもの視線が向けられた。
彼は何も語らず、ただ壇上のアルトを見つめていた。今日ここで語られるのは、アルト自身の言葉でなければならない。エリアスが代わりに説明してしまえば、またしても誰かの責任を、記録という形に押し込めることになる。
「俺は、あの旅が終わった後、歴史を改変することを承認した」
アルトの声は、先ほどよりも低くなった。
「仲間たちの功績を正しく伝えないことを認めた。リゼットが旧封印の核となり、世界を守るために自らを犠牲にしたことを、歴史から隠すことにも同意した」
広場のどこかで、息を呑む音がした。
聖職者の一人が、壇の脇から前へ出ようとした。隣にいた記録院の職員が、その動きを制する。アルトは二人の様子を見たが、話を止めなかった。
「当時の俺は、それが世界を守るために必要なことだと考えた。真実を公にすれば、封印への不安が広がり、社会が混乱する。リゼットが犠牲になった事実を知られれば、彼女を救おうとする者が現れ、封印が危険にさらされるかもしれない。俺は、そうした危険を避けるために歴史を隠すことを選んだ」
彼は一度、言葉を止めた。
自分が選んだ理由を説明することはできる。だが、理由を説明することと、その選択が正しかったと証明することは違う。
「その判断が、すべて間違っていたと、今ここで簡単に言い切るつもりはない。あのときの俺たちは、世界を守る方法を探していた。リゼット自身も、自分の意思で封印の核になることを選んだ。俺は、彼女の意思を尊重したかった」
アルトは壇の縁を握った。
「だが、彼女の意思を尊重することと、彼女が存在した事実まで消していいことは同じではなかった」
広場は静まり返っていた。
「彼女は世界を守るために犠牲になった。それだけではない。彼女は俺たちの仲間だった。旅の途中で笑い、怒り、失敗し、誰よりも先に危険を見つけることがあった。俺たちと一緒に帰ることを望んでいた。彼女は封印のために生まれた道具ではない。一人の人間だった」
その言葉を口にした瞬間、アルトの胸に、忘れられない光景が浮かんだ。
旅の途中、野営地の火のそばで、リゼットが地図を広げていた。彼女は翌日の道筋について説明しながら、アルトが地図を逆さまに持っていることを指摘した。ガレクが笑い、セレナが呆れた顔をし、ノエルは地図の端に小さな訂正を書き加えた。
あの夜、彼らは明日のことを話していた。
魔王を倒した後、どこへ行くか。誰が何を食べたいか。王都へ戻ったら何をするか。
リゼットは、帰ったらしばらく何もせずに眠りたいと言った。
それは、どこにでもある旅の仲間たちの会話だった。
だからこそ、失ってはならないものだった。
「俺は、リゼットを犠牲にした事実を隠した。そして、その隠蔽によって得られた英雄としての評価を訂正しなかった」
アルトは、広場に集まった人々から目を逸らさなかった。
「俺は、歴史を改変することを承認した当事者だ。自分が何を選んだのかを知っていた。それでも黙っていた。だから、この告白を、誰かに責任を押しつけるためにしているのではない。俺自身の責任として、ここで話している」
誰も声を上げなかった。
人々は、英雄の告白を聞いていた。
それは、彼らが知っている物語の終わりを否定するものではなかった。魔王が倒された事実も、世界に平和が戻った事実も変わらない。
変わるのは、その平和がどのような犠牲の上に成り立っていたのか、そして、その犠牲を誰がどのように扱ってきたのかという歴史だった。
「俺は、今すぐすべてを信じてくれとは言わない。証拠を確かめてほしい。記録を調べてほしい。俺の言葉だけでなく、これまで残されてきた痕跡と照らし合わせてほしい」
アルトは壇の下に目を向けた。
「そのための資料は、記録院に提出してある。俺の証言だけでなく、旅の記録、物資の消費量、地図、魔王城から持ち帰った資料、封印に関する研究記録も含まれている。俺の言葉を疑うのなら、資料を確かめてくれればいい」
それから、彼は再び広場を見渡した。
「ただ、一つだけ頼みたいことがある」
人々の視線が集まった。
「まだ確かめられていないからといって、存在した人間を、最初からいなかったことにしないでほしい。俺たちが何をしたのか、どんな判断をしたのか。そのすべてを、これから調べてほしい。俺は、自分の判断が正しかったと主張するために、ここに立っているのではない。俺が何をしたのかを、隠さずに伝えるために立っている」
アルトは深く頭を下げた。
拍手は起こらなかった。
誰かが彼を称賛することも、壇の上へ花を投げることもなかった。広場には、長い沈黙だけが残った。
それでよかったのだと、アルトは思った。
ここで拍手を求めるつもりはなかった。真実を話したことを、新しい功績として認めてもらいたいわけでもない。
自分の過ちを告白したからといって、過ちを犯す前の自分に戻れるわけではないのだから。
*
最初に声を上げたのは、広場の中央にいた年配の男だった。
「勇者様」
男は人々の間を抜け、壇の前へ進み出た。身なりは質素で、長年使い込まれた外套の裾には、細かな修繕の跡があった。
「そのリゼットという人は、本当に生きているのですか」
アルトは男を見下ろした。
「俺たちは、彼女が封印の内部にいる可能性が高いと考えている。だが、確かなことをすべて把握しているわけではない」
「では、今も苦しんでいるかもしれないということですか」
「その可能性はある」
男は唇を結んだ。
「なぜ、今まで話さなかったのです」
責める声だった。
アルトは、すぐには答えられなかった。
世界を守るためだった。封印を維持するためだった。社会の混乱を避けるためだった。
理由はいくつもある。だが、どの理由も、目の前の男が求めている答えにはならない。
「俺たちが、真実を隠すことを選んだからです」
アルトはそう答えた。
「その判断をしたのは、俺たちです。あなたに責任を負わせるつもりはありません」
男はしばらくアルトを見つめていたが、やがて視線を落とした。
「私は、魔王討伐の記念碑に花を供えたことがあります。勇者様が世界を救ってくれたことに感謝していました」
「その気持ちを否定するつもりはありません」
「では、私は、何を信じればいいのでしょう」
アルトは答えを急がなかった。
信じるべきものを、彼が決めることはできない。これまで信じてきた歴史をすべて捨てろと言うことも、新しい歴史を無条件に受け入れろと言うこともできなかった。
「確かめてください」
アルトは言った。
「俺の言葉も、記録も、これから明らかになる事実も。俺が勇者だからという理由で、信じる必要はありません」
男は何も答えず、ゆっくりと人々の中へ戻っていった。
それをきっかけに、広場のあちこちから声が上がった。
「証拠は本当にあるのか」
「封印の核というのは、どういう意味だ」
「教会はこの話を認めているのか」
「今までの歴史書はどうなる」
質問は次々に飛んできた。
記録院の職員が、提出資料の閲覧について説明を始めた。教会の聖職者は、封印に関する情報の公開は慎重に進める必要があると主張した。広場の端では、アルトの話を嘘だと決めつける者もいれば、仲間たちの名前を聞き、記念碑に刻まれていない人物がいたことに驚いている者もいた。
反応は一つではなかった。
エリアスは、その様子を見ながら手帳を取り出した。
彼は、人々の言葉を記録し始めた。疑問も、怒りも、反論も、理解できないという戸惑いも、すべて書き留めた。
歴史を訂正するということは、正しい文章を一つ書いて終わることではない。これまでの歴史を信じて生きてきた人々が、その歴史とどう向き合うのかという問題でもある。
真実を公表すれば、誰もがすぐに受け入れると思っていたわけではない。それでも、記録が正しければ、いつか理解されると考えていた部分はあった。
今、目の前で起きていることは、その考えの不十分さを突きつけていた。
記録を残すことと、記録が人々に受け入れられることは違う。
人々が信じてきた物語を訂正するなら、なぜ訂正が必要なのか、その物語によって何が隠されていたのか、誰がその隠蔽に関わったのかまで、明らかにしなければならない。
エリアスは、手帳の頁に新たな一文を書き加えた。
真実を公表することは、責任を終わらせることではない。
その責任を、これから引き受け続けるための始まりだった。
*
人々が少しずつ広場を離れ始めた頃、壇の脇で待っていた記録院長官がアルトとエリアスに近づいてきた。
長官は、集まった人々の様子を見渡してから、静かな声で言った。
「これほど大勢の前で、ここまで踏み込んだ告白をするとは思いませんでした」
「話すと決めていましたから」
アルトは答えた。
「王国としては、正式な検証が終わるまでは、今日の発言を事実として認定することはできません」
「構いません。検証してください」
「ただし、今日の発言はすでに多くの人の耳に届いています。記録院が何もしなければ、今度は我々が事実を隠していると疑われるでしょう」
長官は、壇の上に残された演説用の書面を見た。
「提出された資料の一部については、すでに裏付けが取れ始めています。公式記録と実際の物資消費量が一致しないこと、魔王城から持ち帰られた資料の一部が既存の歴史書に反映されていないこと。それから、封印に関する古い記録にも、説明のつかない欠落がある」
「それは、リゼットの存在を裏付けるものですか」
エリアスが尋ねた。
「それだけで彼女の存在を証明することはできません。しかし、少なくとも、現在の公式記録だけでは説明できない事実があることは確かです」
長官の表情は厳しかった。
「問題は、記録の訂正だけでは済まないことです。封印が今も機能しているのなら、その状態を確認する必要がある。あなた方が提出したノエル殿の研究資料には、封印の構造が限界に近づいている可能性が示されていましたね」
「はい」
エリアスは即答した。
「白紙現象は、今も進んでいます。俺たちが確認した記録の一部は、昨日まで読めたものが、今朝には白紙になっていました」
長官は眉を寄せた。
「その現象が、封印の不安定化と関係していると?」
「断定はできません。ただ、これまでに起きたことを考えれば、無関係だと決めつけることもできません」
長官はしばらく考え込んでいた。
王国が真実を公表するには、確認しなければならないことが多すぎる。だが、確認を終えるまで待っていれば、確認すべき記録そのものが失われるかもしれない。
その矛盾を、長官も理解し始めているようだった。
「記録院として、封印に関する資料の再調査を急がせます。教会にも協力を求めるつもりです。ただ、封印そのものに関わる判断は、我々だけでは下せません」
「それでも、調査を始めることはできます」
エリアスが言った。
「ええ。始めます」
長官は、今度はアルトへ向き直った。
「あなたの告白が、これからどのような結果を招くかは分かりません。あなたを英雄として敬ってきた人々の中には、裏切られたと感じる者もいるでしょう。逆に、これまで王国や教会が伝えてきた歴史を疑う者も出てくるはずです」
「分かっています」
「それでも、発言を撤回するつもりはありませんか」
アルトは迷わなかった。
「ありません」
長官は短く息を吐いた。
「では、我々も、今日の発言をなかったことにはしません」
その言葉は、全面的な支持でも、公式な承認でもなかった。
それでも、少なくとも今日の告白が、王国によってただちに封じられることはなさそうだった。
長官が去った後、エリアスは広場を見渡した。人々はまだあちこちに残り、互いに話し合っていた。壇の前では、若い記録院職員が、資料の閲覧を求める市民の名前を書き留めている。
すべてが一度に変わったわけではない。
歴史書はそのままだ。記念碑に刻まれた名前も、教会の説教も、長年にわたって語られてきた勇者の物語も、今日一日で消えることはない。
それでも、これまで誰も公に語らなかった事実が、初めて多くの人々の前に置かれた。
もう、誰も知らないことにはできない。
*
王城へ戻る道すがら、アルトはほとんど口を開かなかった。
広場での告白を終えたからといって、胸の重さが消えたわけではない。むしろ、自分が何をしてきたのかを言葉にしたことで、これまで曖昧にしていた責任が、以前よりもはっきりとした形を持ち始めていた。
エリアスもまた、歩きながら考えていた。
人々の反応を見て、彼は一つのことを理解した。真実を公表することは、隠されていた名前を歴史書に書き戻すだけでは終わらない。真実を知った人々が、それぞれの立場で何を選ぶのか。その選択まで、自分たちが支配することはできない。
だが、彼らが選ぶためには、事実が残されていなければならなかった。
王城の門が見えてきたとき、エリアスは外套の内側に手を入れた。手帳は確かにそこにあった。革表紙の傷も、頁の端に残った汚れも、昨日と変わらない。
彼は立ち止まり、手帳を取り出した。
「どうした」
アルトが振り返った。
「確認したいことがある」
エリアスは手帳を開き、今日の発言について書き留めた頁を探した。壇上でアルトが語った内容、人々から出た質問、記録院長官の約束。それらは、すべて書き残されていた。
だが、頁の下部に挟んであった紙片を見た瞬間、エリアスの指が止まった。
ノエルの研究資料から写し取った記述だった。
昨日、白紙になっていることを確認した紙片とは別のものだ。封印内部の空白領域について、ノエルが残した考察の一部を、エリアスが手帳に挟んでいた。
その紙片の中央に、薄い文字が残っていた。
彼は目を凝らした。
最初に読めたのは、数文字だけだった。続いて、文字の輪郭がぼやけていく。紙の表面が破れたわけでも、インクが水に溶けたわけでもない。そこに書かれていた言葉そのものが、紙の上から失われていった。
エリアスは紙片を握りしめた。
やがて、文字は一つも残らなくなった。
紙片は白紙になっていた。
「またか」
アルトが隣から覗き込んだ。
「昨日のものと同じだ」
エリアスは、白くなった紙片を見つめた。
今日、彼らは多くの人々の前で真実を語った。アルトは自分の責任を認め、リゼットの名前を公にした。記録院も調査を約束した。少なくとも、歴史を隠し続けるための沈黙は破られたはずだった。
それでも、白紙現象は止まらない。
真実を話すことと、現象を止めることは、別の問題なのだ。
「公表は必要だった」
アルトが言った。
「だが、それだけでは足りない」
「そうだな」
エリアスは紙片を手帳に挟み直した。
「記録を正すだけでは、封印は直らない。ノエルの研究が正しいなら、俺たちは封印そのものを変えなければならない」
「王国の調査を待つ時間はないかもしれない」
「その可能性がある」
二人は再び歩き始めた。
王城の門をくぐる直前、アルトが足を止めた。
「エリアス」
「何だ」
「今日、俺はリゼットの名前を口にした。あの場所で、彼女が存在したことを隠さなかった」
「聞いていた」
「それでも、彼女はまだ戻ってこない」
アルトは門の向こうに広がる石畳を見つめた。
「俺は、彼女を救うために何をすればいいのか、まだ分かっていない」
エリアスは、すぐには答えなかった。
自分にも分からないことは多い。白紙現象がどこまで進むのか、旧封印がどれほど持ちこたえられるのか、空白領域にいる仲間たちをどうすれば救い出せるのか。確かな答えは、まだ手にしていない。
だが、一つだけ分かっていることがあった。
「分からないから、調べるんだ」
エリアスは言った。
「分からないまま、諦めるわけにはいかない」
アルトは彼を見た。
やがて、小さく頷いた。
広場で語られた真実は、世界を救う答えではなかった。それは、隠されていた事実を、もう一度歴史の中へ戻すための第一歩にすぎない。
記録を正すだけでは、失われた人々は戻らない。
だからこそ、次に進まなければならなかった。
エリアスは手帳を外套の内側へしまい、王城の奥へと歩き出した。そこには、ノエルが残した研究資料と、まだ解き明かされていない封印の構造が待っている。
そして、その向こうには、今も空白の中に取り残されている仲間たちがいる。
彼らの名前を歴史に戻すだけで終わるつもりはなかった。
今度こそ、六人で帰るために。




