第41話 帰還
王都の鐘が、夕刻を告げていた。
エリアスは、城門をくぐったところで足を止めた。
見慣れた街だった。石畳の道も、商店の軒先に吊るされた色鮮やかな布も、中央広場にそびえる歴代の王の像も、魔王討伐へ出発する前と何ひとつ変わっていない。通りには買い物帰りの人々が行き交い、露店からは焼きたてのパンの匂いが漂っていた。子供たちが噴水の周囲を走り回り、荷車を引く馬が不機嫌そうに鼻を鳴らしている。
平和な光景だった。
魔王は倒された。魔物の脅威は去り、人々は明日の暮らしを心配しながらも、明日が来ることを疑ってはいない。
その平和を守るために、彼らは何をしたのか。
エリアスは、外套の内側に手を入れた。そこには、何度も開いては閉じた手帳がある。紙の端は擦り切れ、革の表紙には細かな傷が増えていた。魔王討伐の旅から持ち帰ったものの中で、今も彼の記憶と結びついている数少ない品だった。
その手帳には、六人の旅が記されている。
公式の歴史には存在しない斥候の名も、記録から消えた仲間たちの働きも、そして、彼自身が過去に何を選んだのかも。
記録は残っている。だが、記録が残っていることと、それが真実として受け入れられることは同じではなかった。
「立ち止まっていると、また余計なことを考え始めるぞ」
隣から声がした。
アルトだった。
彼もまた、城門の向こうに広がる街を見ていた。かつて、この街に戻ったとき、人々は彼を英雄と呼んだ。祝宴が開かれ、勲章が贈られ、吟遊詩人たちは彼の剣が魔王を貫いた瞬間を歌にした。
その歌に、仲間たちの名はなかった。
アルトは、そのことを知っていた。知りながら、訂正しなかった。
「考えなければならないことが多いんだ」
「分かっている。だから、今は歩け」
アルトは先に進んだ。
エリアスも歩き出した。
二人が向かうのは王城だった。魔王討伐の報告を行い、王国の関係者に白紙現象の真相を伝える。ノエルの研究資料を提示し、歴史改変に関する証拠を公表するための手続きを求める。
それが、彼らの決めた最初の行動だった。
真実を公表したところで、消えた仲間たちが戻ってくるわけではない。白紙現象も止まらない。ノエルの研究によれば、旧封印はすでに限界へ近づいており、封印そのものを新しい構造へ移行させなければならなかった。
それでも、公表は必要だった。
過去を隠したまま、新しい封印だけを作ることはできない。自分たちが何をしたのかを明らかにしないまま、同じ過ちを繰り返さないと誓うこともできない。
王城へ続く大通りの先には、白い石壁が夕日を受けて輝いていた。
その壁の向こうに、彼らの過去を知る者たちがいる。
そして、その過去を知らないままでいたい者たちもいるはずだった。
*
王城の謁見棟は、魔王討伐の祝宴が行われたときと同じ静けさに包まれていた。
磨き上げられた床には高窓から差し込む光が伸び、壁には歴代の王と英雄たちの肖像画が並んでいる。アルトの肖像も、すでに一枚加えられていた。魔王を討ち、王国に平和をもたらした勇者。その称号にふさわしい姿として、画家は彼を堂々と描いていた。
エリアスは、その絵を見なかった。
案内された会議室には、王国の記録院を預かる官吏、教会の高位聖職者、封印に関する古文書を管理する学者、そして王宮の政務官が集まっていた。
彼らの前には、すでに二脚の椅子が用意されている。
エリアスとアルトが入室すると、何人かが立ち上がった。アルトに向けて敬意を示す者もいれば、エリアスに対して露骨な警戒を向ける者もいた。
机の中央には、封印された書類の束が置かれていた。会議の議題が何であるか、彼らも承知しているのだろう。
「勇者殿。ご帰還を歓迎いたします」
記録院の長官が口を開いた。
白髪の男だった。年齢の割に背筋はまっすぐで、机上の書類は寸分の乱れもなく整えられている。彼はアルトに一礼したあと、エリアスへ視線を移した。
「そして、エリアス殿。お二人から重大な報告があるとうかがっています」
「重大という言葉では足りないかもしれません」
エリアスは答えた。
「我々が公表してきた魔王討伐の歴史には、重大な欠落があります。その欠落は、単に記録の誤りではありません。実際に起きた出来事を隠すため、意図的に歴史が改変された結果です」
室内の空気が変わった。
政務官の一人が眉をひそめ、教会の聖職者は隣の者と目を交わした。古文書を管理する学者だけは、驚きよりも先に、話の続きを求めるような目を向けていた。
長官はすぐには答えなかった。
「歴史の改変、とおっしゃいましたか」
「はい」
「そのような主張をなさる以上、相応の証拠が必要になります。記録の不一致や、記憶の曖昧さだけでは、歴史そのものが改変されたとは認められません」
「承知しています。証拠を持参しました」
エリアスは手帳を取り出した。
続いて、魔王城から持ち帰った記録の写し、ノエルが残した研究資料、改変前の歴史を示す複数の物証についてまとめた書類を机上に置いた。
紙が触れ合う乾いた音が、静かな室内に響いた。
「魔王討伐の旅は、公式記録に記された人数では成立しません。物資の消費量、道の発見に関する記述、戦闘で生じた装備の損傷。それらを照合すれば、記録から除外された仲間がいたことが分かります」
「仲間、ですか」
政務官が聞き返した。
「誰のことを指しているのでしょう」
「リゼットです。斥候として我々と旅をし、魔王城への道を発見した人物です」
その名を口にした瞬間、エリアスは自分の中で何かが静かに沈むのを感じた。
以前なら、相手の反応を確かめることさえ恐れていた。名を告げても誰も思い出さない。記録を示しても、それが何を意味するのか理解されない。自分の記憶だけが取り残されていく。
だが、今は違った。
彼は、相手が信じるかどうかを理由に名前を引っ込めるつもりはなかった。
「リゼットは、魔王討伐後に旧封印の核となりました。そして、その事実を隠すために歴史が改変されました。仲間たちの功績も、その改変に伴って記録から失われていったのです」
「お待ちください」
教会の聖職者が、低い声で遮った。
年配の男で、胸元には教会の高位聖職者であることを示す銀の徽章があった。
「旧封印の核という言葉を、軽々しく使うべきではありません。封印に関する記録には、一般に公開されていない情報も含まれます。仮にあなた方の主張が事実であったとしても、それを公にすることが正しいとは限らない」
「公にしなければ、同じことが繰り返されます」
アルトが言った。
聖職者の視線が、彼へ移る。
「勇者殿も、同じお考えなのですか」
「同じどころか、私は当事者です」
アルトは椅子に座ったまま、まっすぐに相手を見返した。
「歴史改変を承認したのは私です。リゼットが封印の核になったことを知りながら、その事実を隠す選択をしました」
誰かが息をのんだ。
アルトは続けた。
「魔王討伐の記録が、私一人の功績を中心にまとめられていることも知っていました。訂正できる機会はあった。それでも私は、訂正しなかった」
「しかし、勇者殿。それは当時の事情を踏まえて判断されるべきことです。あなた方が何を守ろうとしたのか、我々はまだ聞いていません」
「事情があったことは否定しません」
アルトは答えた。
「だが、事情があれば何を隠してもいいわけではない。私たちは世界を守ろうとしました。そのために必要だと考え、歴史を改変した。だが、その結果、実際に起きたことと、世界が正しいと信じている歴史との間に矛盾が生じた。その矛盾が白紙現象を引き起こし、仲間たちの存在を消している」
彼は机上の資料へ目を落とした。
「私は、これ以上、同じことを繰り返したくない」
エリアスは隣に座るアルトを見た。
その横顔には、かつて祝勝会で見た英雄の面影が残っていた。だが、あのときのアルトは、自分の名が称えられるたびに、何かを言いかけては口を閉じていた。
今は、言葉を飲み込んでいない。
その変化が、すぐに何かを解決するわけではなかった。むしろ、彼が認めたことで、事態の重大さはいっそう明らかになっていた。
「では、勇者殿はご自身の功績が虚偽であったとおっしゃるのですか」
別の政務官が口を挟んだ。
「魔王を討伐したことは事実です」
アルトは即座に答えた。
「だが、私一人で成し遂げたわけではない。リゼットが道を見つけ、ガレクが前線を守り、セレナが負傷者を救い、ノエルが魔法を研究し、エリアスが記録を残した。私が剣を振るえたのは、仲間たちがいたからだ」
「しかし、現在の歴史では、そのような人物は……」
「存在しないことになっているのでしょう」
アルトは、相手の言葉を引き取った。
「それが、私たちのしたことです」
会議室に沈黙が落ちた。
長官は、机上の資料を一つずつ手に取った。物資の記録に目を通し、地図の写しを確認し、魔王城の記録を読む。その表情は、読み進めるほどに険しくなっていった。
やがて彼は、ノエルの研究資料を開いた。
そこには、白紙現象の進行についての観察記録と、旧封印の構造に関する考察が記されていた。研究は完成された論文というより、長い時間をかけて積み上げられた検証の記録だった。複数の仮説が並び、その一つひとつに実験結果や反証が添えられている。
長官は、しばらくその資料から目を離さなかった。
「この研究者は、現在どちらに?」
エリアスは答えるまでに、わずかな時間を要した。
「ノエルも、白紙現象によって消えました」
「消えた、とは」
「人々の記憶からも、記録からも失われています。しかし、死亡したわけではありません。研究資料から判断する限り、彼らは封印内部の空白領域に存在している可能性が高い」
「可能性、ですか」
「はい。まだ直接確認できてはいません。ただし、ノエルの研究は、そこへ到達する方法と、新しい封印を成立させるための構造を示しています」
エリアスは、資料の該当箇所を開いた。
「だからこそ、時間がありません。旧封印は限界に近づいています。歴史の真実を公表することは必要ですが、それだけでは白紙現象は止まりません。封印を新しい構造へ移行させる必要があります」
「そのために、我々の協力が必要だと?」
「そうです。研究資料の検証、封印に関する記録の閲覧、そして真実の公表を進めるための正式な手続きが必要です」
長官は資料を閉じた。
彼はすぐに同意しなかった。疑いを捨てたわけでもないだろう。エリアスの言葉が正しいと認めれば、王国が長年公表してきた歴史は根底から揺らぐ。英雄譚の修正だけでは済まない。教会が管理する封印の記録にも、王国が下した過去の判断にも、説明が求められることになる。
だが、彼は資料を押し戻しもしなかった。
「ここにある証拠を、記録院で検証させてください。教会の封印管理部門にも、研究資料の確認を求めます。ただし、検証には時間がかかります」
「どれくらいですか」
アルトが尋ねた。
「数日で結論を出せる問題ではありません。場合によっては、数週間、あるいはそれ以上かかるでしょう」
「数週間も待てません」
アルトの声に、初めて強い苛立ちが混じった。
「封印は限界に近づいている。白紙現象は今も進行しているんです」
「その危険性を、我々がまだ確認できていないのです」
長官は静かに返した。
「勇者殿のお話が事実であるなら、なおさら慎重な対応が必要です。公表によって社会が混乱すれば、封印に関わる施設や資料の管理にも支障が出る。人々が恐慌を起こし、各地で暴動が起きれば、別の犠牲が生まれるかもしれません」
「では、真実を隠したままにするのですか」
エリアスが尋ねた。
「隠すとは申し上げていません。検証する、と申し上げているのです」
「検証が終わるまで、誰も真実を知らないままでいろと?」
「公表の方法と時期は、慎重に判断すべきです」
その言葉に、エリアスは自分の中に湧き上がった反論を押しとどめた。
長官の懸念は理解できた。彼は単に自分の地位を守ろうとしているわけではない。何千人、何万人という人々の生活を預かる立場なら、社会の混乱を恐れるのは当然だった。世界を守るという目的を掲げながら、目の前の人々を危険にさらすわけにはいかない。
だが、過去の自分たちも、同じ理屈を使ったのではなかったか。
世界の安定を守るため。人々の生活を脅かさないため。犠牲を知れば混乱が起きるから。
その結果、何が起きたのか。
リゼットの存在が隠され、仲間たちの功績が消され、世界は自分たちが隠した事実との矛盾を抱えることになった。
エリアスは、机の上の手帳に目を落とした。
慎重であることと、先延ばしにすることは違う。
「検証は必要です。資料の確認にも協力します」
彼は言った。
「ですが、公表を無期限に先延ばしにすることには同意できません。私たちは、何が起きたのかを知っています。そして、知っていながら隠した側の人間です。今度は、その事実から目をそらすわけにはいきません」
長官は、エリアスを見つめた。
「あなたも、歴史改変に加担したと?」
「はい」
「それを公の場で認めるおつもりですか」
「そのつもりです」
エリアスは、迷わず答えた。
長官の表情が、わずかに変わった。
彼はエリアスの手帳を見た。そこに何が書かれているのか、どれほどの事実が記されているのかは分からない。それでも、目の前の男が自分に不利な証拠を自ら差し出していることは理解できたはずだった。
「……分かりました。公表に向けた協議の場を設けます。ただし、王国としての正式な承認は、検証結果を踏まえて判断することになります」
「承知しました」
エリアスは答えた。
完全な同意ではない。求めていた約束のすべてが得られたわけでもなかった。
それでも、資料は受け取られた。検証を行うという約束も得られた。
最初の扉は、閉ざされたままではなかった。
*
会議が終わると、二人は謁見棟を出た。
廊下には、夕暮れの光が斜めに差し込んでいた。壁に掛けられた肖像画の顔が、昼間とは違う陰影を帯びている。遠くから、事務官たちの話し声や書類を運ぶ足音が聞こえてきた。
エリアスは、深く息を吐いた。
「思ったよりは話を聞いてくれたな」
アルトが言った。
「そうだな。ただ、すぐに公表できるわけではない」
「それでも、前には進んだ」
アルトは歩きながら、窓の外を見た。
「長官の言い分も分かる。あの人たちは、世界の安定を守るために仕事をしている。突然、歴史が間違っていたと告げられても、すぐには受け入れられないだろう」
「僕たちも、同じだった」
エリアスの言葉に、アルトは足を止めた。
しばらく、二人は何も言わなかった。
自分たちが歴史改変を決めたとき、どのような気持ちだったのか。何を恐れ、何を守ろうとし、どのような言葉で自分たちの選択を正当化したのか。
そのすべてが、まだ完全に言葉になっているわけではない。
だが、過去に同じ理屈を使ったという事実は、今の彼らにとって無視できないものだった。
「だからこそ、今回は違う選択をしなければならない」
アルトは言った。
「真実を知った人間が何をするかは、こちらでは決められない。怒る者もいるだろうし、私たちを許さない者もいる。勇者と呼ばれなくなるかもしれない」
「それでも、公表するんだな」
「そうしなければ、リゼットたちを救うために何をしているのか、自分でも分からなくなる」
アルトは、今度こそエリアスの目を見た。
「私たちが守りたいのは、勇者という名前じゃない。あいつらが生きて帰れる世界だ」
エリアスは、手帳に触れた。
かつて、彼は記録を残せば、忘れられた人間を守れると考えていた。名前を書き、出来事を記し、証拠を集めれば、真実は失われないはずだった。
しかし、記録だけでは足りなかった。
真実を残すには、それを公にする必要がある。そして、自分に不都合な事実であっても、隠さずに伝えなければならない。
記録者は、過去を眺めるだけの人間ではいられないのだ。
「明日、教会へ行こう」
エリアスは言った。
「封印に関する資料を確認する。ノエルの研究を検証してもらう必要もある。公表の準備も進めよう」
「ああ」
アルトはうなずいた。
「今度は、何も隠さずに進める」
二人は、廊下の先へ歩き出した。
そのときだった。
エリアスの外套の内側で、かすかな音がした。
紙が擦れるような、乾いた音だった。
彼は立ち止まり、手帳を取り出した。
表紙には、見慣れた傷がある。何度も開いたために緩んだ綴じ糸も、角の擦り切れも、変わっていない。
だが、最後のページに挟んでいた薄い紙片が、白くなっていた。
エリアスは眉を寄せた。
それは、ノエルの研究資料から書き写した短い記述だった。封印内部の空白領域について、彼が忘れないようにと手帳へ移したものだ。確かに文字があった。書いたときの筆圧まで覚えている。
今、その紙片には何も残っていなかった。
「どうした?」
アルトが近づいてきた。
エリアスは紙片を差し出した。
「さっきまで、ここに文字があった」
アルトは紙片を受け取り、光にかざした。裏返し、指先で表面を確かめる。紙が破れたわけでも、インクが擦れたわけでもなかった。
文字そのものが、初めから存在しなかったかのように消えている。
「白紙現象か」
「たぶん。記録への影響が、まだ続いている」
エリアスは、紙片を手帳に戻した。
王都へ戻れば、状況は好転すると思っていたわけではない。それでも、真実を公表する準備を進めている間くらいは、わずかな猶予があると考えていた。
その考えは、甘かったのかもしれない。
白紙現象は、彼らの都合など考慮しない。
人々が真実を受け入れるまで待ってくれることも、王国と教会の手続きが終わるまで進行を止めてくれることもない。
「急がなければならないな」
アルトが言った。
「ああ」
エリアスは手帳を閉じた。
廊下の窓から見える王都は、夕闇に沈み始めていた。家々には灯りがともり、人々はそれぞれの帰る場所へ向かっている。彼らの多くは、世界に何が起きているのか知らない。自分たちがどのような歴史の上に暮らしているのかも、その歴史が今、静かに失われつつあることも。
だからこそ、伝えなければならない。
誰かが知っているだけでは足りない。誰かが覚えているだけでも足りない。真実を明らかにし、その責任を引き受け、世界を支える仕組みそのものを変えなければならない。
エリアスは、再び歩き始めた。
公表を阻む者たちはいる。
だが、阻む理由があることと、阻むことが正しいことは同じではない。
彼らはもう、真実を隠す側には戻らなかった。




