第40話 真実を公表する決意
朝の光が窓から差し込んでも、エリアスはしばらく机を離れなかった。
ノートには、昨夜書き残した問いがある。
自分は、何を知ったうえで、何を選んだのか。
その下には、まだ何も書かれていない。答えを探すために記憶をたどっても、戻ってくるのは断片ばかりだった。リゼットが生きて帰りたいと願っていたこと。ノエルが封印の仕組みを調べていたこと。六人でなければ成し遂げられなかった旅が、今では勇者アルトひとりの功績として記録されていること。
それらは、別々の謎ではない。
エリアスは、ようやくそのことを認め始めていた。
リゼットが封印の維持者になったことと、仲間たちが消えたこと。自分だけが過去の記憶を手放さずにいること。ノエルが最後まで、六人のつながりにこだわっていたこと。
すべてが同じ出来事の異なる側面なのだとすれば、必要なのは、ひとつずつ消えた仲間の痕跡を探すことだけではない。何が起きたのかを明らかにし、その出来事をなかったことにしている現在そのものに、向き合う必要がある。
エリアスはノートを閉じた。
廊下から足音が近づいてきた。扉が二度叩かれ、返事をする前にアルトが顔をのぞかせた。
「起きていたのか」
「ずっと起きていた」
「眠ったほうがいい。顔色が悪いぞ」
「君に言われるとは思わなかった」
「俺は少なくとも、朝から紙とにらめっこはしていない」
アルトは部屋に入ると、机の上に積まれた資料を見た。ノエルの研究ノート、古い封印の写し、魔王城で記録した傷跡の位置、そしてエリアス自身の記録。どれも、すぐに答えを与えてくれるものではなかった。
「何かわかったのか?」
「ひとつだけ」
エリアスは答えた。
「今まで、記録を集めれば真実にたどり着けると思っていた。でも、記録が消されているのなら、残っているものだけを調べても足りない」
「ノエルも、そんなことを書いていたな」
「彼女は、記録にあることだけが真実だと思うな、と言っていた」
エリアスはノートを開き、最後に書いた問いを見せた。
「リゼットが何を選んだのか。それだけじゃない。僕が何をしたのかを思い出さなければならない」
アルトは文字を読み、黙っていた。
しばらくして、彼は椅子を引いて座った。
「俺も、思い出さなければならないことがある」
その声には、いつもの落ち着きとは違う重さがあった。
「魔王城で何があったのか。俺は魔王を倒した。そこだけは覚えている。でも、どうやってあそこまでたどり着いたのか、誰が何をしていたのか、ほとんど思い出せない」
「君の盾には、いくつもの傷が残っている」
「ああ。城で見つけた傷跡と一致するものもあった。俺は何かを防いだんだろう。でも、誰を守ったのかはわからない」
アルトは、自分の手を見つめた。
「記録に書かれていることだけなら、俺はひとりで魔王を倒したことになる。でも、そんなはずがない。俺はひとりで旅をしていたわけじゃないんだ」
「わかっている」
「本当にか?」
エリアスは顔を上げた。
アルトは責めるような口調ではなかった。ただ、確かめるようにこちらを見ていた。
「君は記録を残してきた。俺たちが何をしたのか、何を見つけたのか、何を話したのか。ずっと書き留めていた。それなのに、今はその記録さえ消えかけている」
「だからこそ、残さなければならない」
「残すだけでいいのか?」
その問いに、エリアスはすぐには答えられなかった。
アルトは続けた。
「俺たちが何をしたのかを、正しく記録する。それは必要だと思う。でも、それだけで消えた仲間が戻ってくるのか?」
「……わからない」
「俺もわからない。ただ、ノエルの資料には、封印を組み替える可能性が書かれていたんだろう」
「理論上の可能性だ。実際に成功した記録はない。今の封印を壊さずに新しい構造へ移行できるのかも、必要な条件も、まだわかっていない」
「それでも、何もしないわけにはいかない」
アルトは机の上の資料を見た。
「記録を正しくすることと、封印を直すこと。その両方が必要なのかもしれないな」
エリアスは、彼の言葉を頭の中で繰り返した。
記録を正しくする。封印を直す。
これまで彼は、白紙現象を止めるために、消えた仲間の痕跡を集めていた。名前を記し、残された品を調べ、証言を探した。だが、記録が消えるたびに、彼の手元に残るものも減っていった。
もし、白紙現象が歴史の矛盾を解消するために起きているのなら、消えたものを記録に戻すだけでは足りないのだろう。
矛盾そのものを生み出した出来事に向き合わなければならない。
そして、もし封印がその出来事に関係しているのなら、封印の構造を変える必要がある。
「ノエルは、何かを残しているはずだ」
エリアスは言った。
「研究ノートに書き切れなかったことがある。彼女が何を見つけて、どこまで考えていたのか。それを確かめたい」
「王立魔術学院へ戻るのか?」
「いや。もう一度、資料を探すだけでは同じところを回ることになる」
エリアスはノエルのノートを手に取った。
「彼女が残した記述を、最初から読み直す。封印についてわかっていることと、わかっていないことを分ける。そのうえで、何が必要なのかを整理する」
「その間に、記録が消えるかもしれない」
「わかっている」
エリアスは、ノートを抱えた。
「だから、今度は記録を残すことだけを目的にしない。僕たちが何をしたのかを明らかにして、その結果に責任を持つ」
アルトは、しばらく彼を見ていた。
「君がそう言うなら、俺も付き合う」
エリアスはうなずいた。
その言葉を聞いても、胸の中に安心が生まれたわけではなかった。これから何をするべきなのか、まだ確かな道筋は見えていない。四人がどこにいるのかも、今の封印がどのような状態にあるのかも、わからないままだ。
それでも、立ち止まっている時間はなかった。
*
エリアスは、机の上の資料を一枚ずつ並べ直した。
最初に、ノエルの研究ノートを開く。彼女が調べた古い封印の構造。維持者に負担が集中する仕組み。維持者の状態が変化すれば、術式全体が不安定になる可能性。負担を分散させる構造についての仮説。
次に、リゼットの地図を広げた。
そこには、旅の経路と、いくつかの地点が記されている。書き込みの中に、彼女の筆跡で短い言葉が残されていた。
帰り道を残すこと。
エリアスは、その言葉を見つめた。
彼女は、帰ることを諦めていたのではない。世界を守るために自分が何かを引き受けるとしても、帰る道を残そうとしていた。
それは、彼女が最後まで手放さなかった願いだったのかもしれない。
彼は地図を丁寧に畳み、ノートの横へ置いた。
続いて、魔王城で記録した傷跡の写しを確認する。門に残された複数の衝撃。広間の壁に残る防御の痕跡。通路に刻まれた術式。アルトの盾についた傷と一致した、壁の弧状の跡。
公式記録には、アルトが魔王を倒したとだけ書かれている。
その記述自体が誤りというわけではない。最後に魔王を倒したのは、確かにアルトだった。しかし、そこに至るまでの戦いは、彼ひとりのものではなかった。
ガレクが道を切り開き、セレナが仲間を支え、ノエルが術式を調べ、リゼットが進むべき道を見極めた。エリアス自身も、彼らとともに旅をしていた。
その事実を欠いた記録は、勝利の一部だけを残し、そこへ至る過程を失っている。
エリアスは、新しい紙に書き始めた。
魔王討伐は、アルトひとりの力によって成し遂げられたものではない。六人がそれぞれの役割を果たし、互いに補い合った結果である。
彼はそこで手を止めた。
これは、魔王討伐の記録を正すための一文だった。
だが、今の問題はそれだけではない。
六人の旅を正しく記録したところで、封印の維持者に負担が集中する構造が変わるわけではない。歴史の矛盾を解消するために白紙現象が続いているのなら、過去に起きたことを記録に戻すだけでは、現象そのものを止められないかもしれない。
必要なのは、歴史の改変を認めること。そして、改変された歴史を維持している封印の仕組みを変えること。
その二つを、別々に進めることはできない。
エリアスは、ノエルの研究ノートをもう一度開いた。
彼女の文字は、最後まで慎重だった。可能性と確定した事実を混同せず、わからないことにはわからないと記している。負担を分散する構造についても、成功するとは書いていない。
それでも、彼女は調べ続けていた。
なぜなら、ひとりに負担を集中させる方法しかないと決まったわけではなかったからだ。
エリアスは、ノートの余白に目を向けた。
六つのつながりが必要。
その一文は、彼女が残した資料の中でも、特に強く印象に残っていた。
なぜ六人なのか。六人が何をする必要があるのか。単に人数が必要という意味なのか、それとも、それぞれが異なる役割を持つ必要があるのか。
今の段階では、どれも断定できない。
だが、六人で旅をしたという事実と、封印の維持者をひとりに限定しないという考えは、無関係ではないように思えた。
「ノエルは、六人で封印を支える方法を考えていたのかもしれない」
エリアスが言うと、アルトは資料をのぞき込んだ。
「それができれば、リゼットひとりに負担が集中することもなくなる?」
「可能性はある。でも、彼女がどんな状態にあるのかも、今の封印がどうなっているのかもわからない。新しい構造を作る条件も不明だ」
「それでも、彼女を取り戻すためには、その方法を調べる必要があるんだな」
「そうだと思う」
エリアスは答えた。
「ただし、リゼットを取り戻すことだけを考えて、封印を壊すわけにはいかない。封印が何を防いでいるのか、まだ完全にはわかっていないんだ。無理に手を加えれば、何が起きるかわからない」
「なら、何を先にする?」
エリアスは、ノートと地図と、魔王城の記録を見比べた。
「まず、僕たちが過去に何をしたのかを明らかにする。リゼットが維持者になった経緯も、僕がそれを受け入れた理由も、まだ思い出せていない。そこを確かめなければ、封印に何をすべきかも判断できない」
「それから?」
「ノエルの研究をもとに、封印を組み替えるための条件を調べる。成功する保証はないけれど、今のままでは何も変えられない」
アルトはゆっくりとうなずいた。
「そして、歴史を正す」
「そうだ。六人で旅をしたことを、六人で魔王を倒したことを、なかったことにはさせない」
言葉にした瞬間、エリアスは、その一文が自分自身にも向けられていることに気づいた。
なかったことにはさせない。
それは、記録から消えた仲間たちだけの話ではない。自分が関わった出来事も、選んだことも、そこから生じた結果も、都合の悪いものとして切り離してはいけないのだ。
もし自分が歴史の改変に関わっていたのなら、その責任を認めなければならない。
自分だけが記憶を保っていることを、特別な役目として扱うだけでは足りない。自分が何をしたのかを明らかにし、その事実を他の人々にも伝えなければならない。
エリアスは、新しい紙を取り出した。
そこに、これから必要なことを書き記した。
過去の歴史を明らかにする。
六人の旅を正しく記録する。
封印の構造を調べ、負担を分散する方法を探す。
そして、歴史の改変に関わった責任から逃げない。
最後の一文を書き終えたとき、彼はペンを置いた。
これで問題が解決したわけではない。四人の仲間は戻っていない。白紙現象も止まっていない。封印を組み替える方法は、まだ仮説の域を出ていない。
しかし、何を目指すべきかは、少しずつ明確になってきた。
*
王立魔術学院へ向かう道は、朝よりも人通りが増えていた。
エリアスとアルトは、必要な資料だけを持って部屋を出た。すべてを持ち歩くには量が多すぎる。ノエルの研究ノートと、リゼットの地図、それから魔王城の記録の写し。今、手元にあるものの中で、彼らが過去と向き合うために必要なものだった。
学院の門をくぐると、学生たちが行き交っていた。誰もがそれぞれの用事を抱え、目の前の生活を送っている。ここでノエルが資料を探し、研究者たちに質問をしていたことを、今も覚えている者はいるのだろうか。
エリアスは、すれ違う人々の顔を見た。
彼らの中に、ノエルを覚えている者がいるかもしれない。彼女と話したことがある者も、同じ資料を調べた者もいるはずだ。
だが、彼女の名前を尋ねれば、また記憶が薄れていくのかもしれない。
エリアスは足を止めなかった。
今度は、ただ証言を集めるために来たのではない。ノエルの研究を受け継ぎ、彼女が見つけようとしていた方法を探すために来たのだ。
記録が残っていないからといって、彼女が研究していなかったことにはならない。
名前が消えたからといって、彼女が存在しなかったことにはならない。
エリアスは、手にしたノートを強く握りしめた。
学院の奥へ進むと、古い資料を保管している区画が見えてきた。これまで何度も訪れた場所だった。ノエルの足取りを追うために、古い封印の記録を探し、研究者の証言を集めた場所。
しかし、今度は探すものが違う。
ノエルがどこへ行ったのかではなく、彼女が何を明らかにしようとしていたのか。
エリアスは扉の前で立ち止まり、アルトを振り返った。
「ここから先は、簡単には進めないと思う」
「今までも簡単じゃなかった」
「そうだな」
エリアスは短く答えた。
「でも、今度は見つけた記録を並べて終わりにはしない。何が事実で、何が推測なのかを区別する。そのうえで、僕たちが責任を持って決める」
「俺も、そのつもりだ」
アルトはうなずいた。
二人は扉を開けた。
古い紙の匂いが、静かな室内から流れてきた。書棚には、長い年月をかけて集められた資料が並んでいる。過去の記録を保存するための場所でありながら、そこにある記録のすべてが、真実を残しているとは限らない。
エリアスは、そのことを以前よりもはっきりと理解していた。
記録は、過去に起きたことを伝えるためにある。
だが、記録を正しくするためには、何が記され、何が記されなかったのかを知る必要がある。そして、何が失われたのかを知るだけではなく、失われる原因を取り除かなければならない。
彼は机に資料を置いた。
まずは、ノエルの研究の続きを探す。
それから、自分の記憶の続きを取り戻す。
六人で旅をした事実を、六人で守ろうとした世界を、もう一度つなぎ直すために。
エリアスはノートを開いた。
その最初のページに、彼は新しい見出しを書いた。
六人の旅の真実。
今度は、その言葉を記録するだけでは終わらせない。
記録に残された真実を守るために、自分が何をしたのか。その結果、何を失ったのか。そして、失ったものを取り戻すために、何をしなければならないのか。
すべてを明らかにすることが、ここから始まるのだった。




