第39話 証人になった理由
エリアスは、ノエルの残した研究資料を机に広げたまま、しばらく動かなかった。
窓の外では、王都の朝が始まっていた。通りを行き交う人々の声が聞こえ、荷車の車輪が石畳を軋ませる。魔王が倒されてから、世界は平和を取り戻したことになっている。少なくとも、公式の記録にはそう書かれていた。
しかし、エリアスの机の上に並ぶ記録は、その平和の足元に何が埋まっているのかを問い続けていた。
リゼットの手書きの地図には、帰り道を残すこと、と記されていた。ノエルの研究ノートには、六つのつながりが必要だとあった。魔王城に残された傷跡は、勇者アルトひとりの力では、あの戦いを終わらせられなかったことを示していた。
そして、四人の仲間は消えた。
リゼットも、ガレクも、セレナも、ノエルも。彼らが生きていたことを覚えている者は、少しずつ減っている。記録から名前が抜け落ち、かつて彼らが使った場所が空白になり、関係のあった人々の記憶からも、その輪郭が失われていく。
エリアスは、ノートの最後に書いた一文を見つめた。
リゼットは、世界を守りたかった。同時に、生きて帰りたかった。
それは、彼女が自分の望みを口にした、確かな記憶だった。
だが、その先がない。
山中の古い封印遺跡で、彼らは何を話し、何を決めたのか。リゼットはどのように封印の維持者になったのか。そして、エリアス自身は、なぜ彼女を止めきれなかったのか。
記録をいくら読み返しても、答えは出なかった。
彼はノエルの研究ノートを閉じた。紙の端は何度もめくられたせいで柔らかくなり、余白には細かな書き込みが重なっている。彼女は、わからないことをわからないままにしておくのが嫌いだった。確かめられないことには印をつけ、仮説と事実を区別し、結論を急がなかった。
そのノエルが、最後のページに答えを残していない。
残せなかったのか。それとも、残すことができなかったのか。
エリアスは目を閉じた。
忘れたくないと強く願うほど、記憶は遠ざかっていく。無理に思い出そうとすればするほど、指の間から砂がこぼれるように、肝心な部分だけが逃げていく。
それでも、今朝は違った。
古い遺跡の石壁。冷たい風。床に刻まれた複雑な術式。ノエルが指でなぞった古代文字。リゼットの横顔。
そこまでは、確かに思い出せる。
エリアスは椅子の背に体を預け、記憶の続きを探した。
*
山中の遺跡に着いたのは、魔王を倒してから数日後のことだった。
戦いは終わっていた。魔王城から持ち帰った傷は癒え始め、長い旅の疲れも、ようやく身体の奥から抜けつつあった。王都へ戻れば祝勝の式典が待っている。人々は勇者の帰還を祝い、魔王を倒した六人の旅を語るだろう。
少なくとも、そのときのエリアスはそう考えていた。
山道を進むあいだ、ガレクは何度も足場の悪さに文句を言った。大きな荷物を背負い、岩を越え、枝を払いながら歩くのは、彼にとっても楽な仕事ではなかった。
「魔王を倒した直後に、今度は山登りか。王都で椅子に座って飯を食うだけじゃ駄目なのか」
「その椅子に座っているあいだに、封印が壊れたらどうするのよ」
セレナが答えた。
「壊れるかもしれない、だろ。壊れると決まったわけじゃない」
「だから、確かめに来たんでしょう」
「それはわかってる」
ガレクは不満そうに鼻を鳴らしたが、歩みを止めることはなかった。
アルトは先頭を進み、時折、後ろを振り返って全員の位置を確かめていた。魔王を倒した英雄として、すでに何度も人々に囲まれていたはずなのに、その表情には浮ついたところがなかった。
リゼットは、少し離れたところを歩いていた。
彼女は道中、ほとんど口を開かなかった。疲れているのだろうとエリアスは考えた。長い旅のあいだ、彼女が仲間の体調を気にかけることは何度もあったが、自分自身の疲れを口にすることは少なかった。
ノエルは、手にした古い写しを見ながら歩いていた。遺跡について記された断片的な記録で、すでに何度も読み返したはずなのに、彼女は道が変わるたびに紙を広げていた。
「この先です。記録では、入口は岩壁の裏にあるはず」
ノエルが立ち止まり、斜面の先を指した。
そこには、崩れた石柱が半ば土に埋もれていた。周囲の岩肌と同じ色をした石壁には、苔が厚く生えている。注意して見なければ、人工物だとは気づかない。
ガレクが石柱に手をかけ、力を込めた。土が崩れ、石の一部が動く。アルトも加わり、二人で瓦礫をどかすと、岩壁の奥に暗い入口が現れた。
風が吹き抜けた。
山の冷気とは違う、長いあいだ閉ざされていた場所に溜まった、乾いた冷たさだった。
「ここに、あの封印があるのか」
アルトが入口を見つめた。
「正確には、封印そのものというより、その構造を調べられる場所です。ここで何がわかるかは、入ってみないと」
ノエルはそう答え、灯りの魔法を浮かべた。
彼女の光に導かれ、一行は遺跡の中へ入った。
内部は、予想以上に広かった。通路の壁には古い文字が刻まれ、床には複雑な線が何重にも走っている。崩れた天井から落ちた石が散らばっていたが、奥へ進むにつれて、遺跡の構造は奇妙なほど保たれていた。
ノエルは歩きながら、壁の文字をひとつずつ確認していた。ときどき立ち止まり、写しに印をつける。彼女の表情からは、いつもの研究に没頭しているときの集中が見て取れた。
やがて、一行は円形の広間にたどり着いた。
広間の中央には、床と一体化した大きな術式があった。円を幾重にも重ねたような図形の内側に、細い線が複雑に交差している。壁にも同じ紋様が刻まれ、天井へ向かって伸びていた。
エリアスには、それが何を意味するのか、ほとんどわからなかった。
ただ、術式の中心に立つと、空気がわずかに重くなるような感覚があった。魔力が流れているのだろうか。目に見えない何かが、広間全体を満たしているように思えた。
ノエルは床に膝をつき、術式の線を調べ始めた。
「やはり、古い封印の形式です。今の魔法体系とはかなり違いますが、基本となる構造は似ています」
「魔王を封じていたものか?」
アルトが尋ねた。
「それは違うと思います。魔王の城で見た術式とは、構造が別です。もっと古いものですし、目的も同じではありません」
「では、何を封じている?」
「それがわかれば苦労しません」
ノエルは顔を上げずに答えた。
「少なくとも、単純に何かを閉じ込めているだけではなさそうです。外側からの力を遮断する構造と、内側の状態を保つ構造が組み合わさっています。しかも、術式全体を維持するための仕組みがある」
彼女は床の中央を指した。
「ここが重要です。術式は、それ自体の魔力だけで動いているわけではありません。何らかの形で、維持するための力を供給し続けている」
「魔力を注ぎ続ける人間がいる、ということか」
エリアスが尋ねると、ノエルは少し考えた。
「人間かどうかは、まだわかりません。ただ、維持するための仕組みが別に存在する可能性は高いです」
セレナが広間の壁に近づいた。彼女は刻まれた文字に手をかざし、目を閉じた。
「ここに、何かが残っている気がする」
「何か、というのは?」
「うまく説明できない。傷のようなものかしら。長いあいだ、無理をしながら保たれてきたような……」
セレナは言葉を探すように黙った。
「でも、私が普段治療している人の疲れとは違う。もっと大きくて、もっと古いもの」
ノエルはその言葉を聞き、すぐに記録を取り始めた。
「維持機構の状態と、負担の蓄積が関係しているのかもしれません。もし、ひとつの存在が継続して負担を引き受けているなら、その存在が限界に達する前に、封印そのものが不安定になる可能性があります」
「封印が壊れるのか?」
ガレクが尋ねた。
「必ずそうなるとは限りません。でも、維持するための力が途切れれば、少なくとも術式の一部は機能しなくなるはずです」
ノエルは広間を見回した。
「この封印が、どれくらいの時間をかけて作られたのかはわかりません。何を防いでいるのかも、まだ断定できない。ただ、長いあいだ維持されていること自体が、すでに不自然なんです」
エリアスはノートを開き、彼女の説明を書き留めた。
古い封印。維持機構。負担の蓄積。維持者が限界に達する可能性。
文字にすれば、情報は整理された。だが、整理された情報の先に何があるのかは、まだ見えなかった。
そのとき、リゼットが口を開いた。
「もし、維持する人が限界に近づいているとしたら?」
ノエルは彼女を見た。
「その人を助ける方法を探す必要があります」
「その人を、別の人に替えることはできる?」
広間の空気が静まった。
ノエルはすぐには答えなかった。床の術式に視線を戻し、いくつかの線を確かめてから、ゆっくりと口を開いた。
「理論上は、維持者を交代させる仕組みが存在する可能性はあります。ただし、それが安全にできるかどうかは別です。そもそも、今の維持者がどのような状態にあるのか、私たちにはわかりません」
「では、交代させずに負担を減らすことは?」
「それも考えられます。術式の構造を変えられるなら、負担を分散する方法があるかもしれない。でも、現状では情報が足りません。無理に手を加えれば、封印全体を壊してしまう危険があります」
ノエルの声には、慎重さがあった。
できるかもしれないという可能性と、実際にできるという確信のあいだには、まだ大きな隔たりがあった。
リゼットは床の術式を見つめていた。
「それなら、私が維持者になることはできる?」
誰も、すぐには答えなかった。
エリアスは、彼女の言葉を理解するまでに数秒かかった。
「リゼット。何を言っているんだ」
「今の維持者が限界に近づいているのなら、次の人が必要になるかもしれない。だったら、私が」
「待ってください」
ノエルが立ち上がった。
「その話は、まだ検討する段階にもありません。維持者がどのように選ばれるのかも、交代できるのかもわかっていないんです。仮に可能だったとしても、負担がどれほどのものになるかは不明です」
「命に関わるかもしれない、ということね」
セレナが静かに言った。
「はい。維持者が受ける負担が、身体や意識にどう影響するのかもわかりません。途中でやめられる保証もありません」
「そんなものを、簡単に引き受けるべきじゃない」
ガレクの声が低くなった。
「魔王を倒したからって、今度は別の誰かが命を懸けなきゃならないなんて話、納得できるかよ」
アルトも、リゼットから目を離さなかった。
「ほかの方法を探そう。維持者を替えることだけが方法とは限らない。ノエルが言ったように、術式を変えることだってできるかもしれない」
「ええ。調べる必要があります」
ノエルは強くうなずいた。
「今すぐ結論を出すべきではありません。資料を集めて、構造を理解して、危険を確かめる。それからです」
リゼットは、仲間たちの顔を順番に見た。
その表情には、頑なな決意だけがあったわけではない。迷いも、恐れも、まだそこに残っていた。彼女は自分の命を軽く考えているわけではなかった。ただ、目の前にある危険を、見なかったことにはできなかったのだ。
「何もしないまま、今の維持者が限界を迎えたら?」
彼女は尋ねた。
「そのとき、私たちは何ができるの?」
「だから、方法を探すんだ」
エリアスは答えた。
思っていたよりも、声が強くなった。
「君が維持者になる必要はない。ほかの方法があるかもしれないんだ。まだ何もわかっていないのに、どうして自分が引き受けることを先に考える?」
「先に考えているわけじゃないわ」
「だったら、そんなことを言うな」
「エリアス」
リゼットの声は静かだった。
「あなたは、私が何も考えずに言っていると思うの?」
エリアスは言葉に詰まった。
彼女は視線をそらさなかった。
「私だって怖いわ。何が起きるかわからないもの。生きて帰れなくなるかもしれない。もう、みんなと旅をすることもできなくなるかもしれない。そんなこと、望んでいない」
彼女の指先が、外套の裾を握った。
「私は、世界を守りたい。でも、それだけじゃないの。生きて帰りたい。みんなと一緒に王都へ戻って、これからのことを話したい。旅が終わったら、もう危険な場所へ行かなくてもいい生活をしてみたい。そういうことだって、望んでいる」
リゼットは小さく息を吸った。
「世界を守ることと、生きて帰ることを、最初から別々のものにしないでほしいの」
その言葉を、エリアスは覚えていた。
あのときの彼は、彼女を危険から遠ざけることが正しいと考えていた。リゼットが自分の身を差し出そうとするなら、それを止めるのが仲間の役目だと信じていた。
だが、彼女は自分の命を差し出すと決めたわけではなかった。
生きて帰る道を諦めたわけでもなかった。
彼女はただ、守ることと生きることの両方を望んでいた。
その両方を実現する方法を探そうとしていたのだ。
エリアスは、あのときの自分が何を答えたのか、思い出せなかった。
記憶はそこで途切れ、別の場面が浮かんだ。
遺跡の広間から少し離れた通路。床に広げられた資料。灯りの魔法が揺れる中、ノエルが何枚もの写しを並べていた。
その場面では、彼らはすでに何度か遺跡を訪れていたようだった。
ノエルは、古い封印の構造を調べ続けていた。壁の刻印と床の術式を照合し、現存する文献の断片を突き合わせ、維持機構について仮説を組み立てていた。
エリアスも資料の整理を手伝っていた。どの記述が実際に確認されたもので、どれがノエルの推測なのか。異なる資料が同じものを指しているのか。年代の食い違いは何を意味するのか。
その作業は、彼にとって馴染みのあるものだった。
記録を集め、整理し、矛盾を見つける。ひとつずつ確認していけば、正しい答えに近づける。そう信じていた。
しかし、集めた資料は、彼らが望むほどの答えを与えてはくれなかった。
封印の維持者に負担が集中すること。維持者の状態が術式全体に影響すること。維持機構の一部を組み替えられる可能性があること。
そこまでは、少しずつ見えてきた。
だが、負担を分散する仕組みを実際に成立させた記録は見つからなかった。維持者を交代させた事例も、安全に負担を減らした事例も、確認できなかった。
できるかもしれないという考えだけが、資料の隙間に残っていた。
「これ以上、調査を続けても、すぐには答えは出ないでしょう」
ノエルが言った。
疲れがにじんだ声だった。彼女の前には、何日もかけて調べた資料が積み上がっていた。文字の解読が進んだ箇所もあれば、最初の推測が間違っていたとわかった箇所もある。
「封印を作り直すことは、理論上は可能かもしれません。でも、何を変えればいいのか、そのために何が必要なのか、まだわからないことが多すぎます」
「では、リゼットが維持者になる方法も、確実ではないんだな」
アルトが確認した。
「はい。可能かどうかすら、断言できません。できたとしても、何が起きるかはわからない」
「なら、やるべきじゃない」
ガレクが即座に言った。
「俺たちが知らないことだらけなんだ。そんな状態で誰かを維持者にするなんて、まともな判断じゃないだろ」
「私も、そう思います」
セレナは資料を見下ろしていた。
「今の維持者を救うことが目的なのに、別の人が同じように苦しむだけなら、何の解決にもならないわ」
「では、何もしないのですか」
リゼットの問いに、セレナは顔を上げた。
「そうは言っていないわ。ただ、あなたひとりが引き受けることを前提にするのは違うと思う」
「私も、そう考えています」
ノエルは資料の一枚を持ち上げた。
「この構造を変える方法があるなら、維持者ひとりに負担を集中させずに済む可能性があります。ただし、今の段階では仮説です。必要な条件も、実現できるかどうかも、確かめられていません」
「六人で分けることはできないのか?」
アルトが尋ねた。
ノエルは資料に目を落とした。
「六人で、という形に限定できる根拠はありません。でも、負担を複数に分散する仕組みそのものは、構造上、考えられます。問題は、どうやって分散させるかです。それに、術式を組み替えるなら、今の封印を維持したまま作業できるのかもわからない」
彼女は一度、言葉を切った。
「今の封印を壊してから作り直すことになるなら、失敗したときの危険は大きい。逆に、封印を維持したまま新しい構造へ移行できるなら、可能性はあります。でも、どちらも、まだ具体的な手順を示せる段階ではありません」
エリアスは記録用の紙を見つめた。
選択肢は増えているようで、どれも確かな道にはなっていなかった。リゼットが維持者になる方法も、封印の構造を変える方法も、危険を伴い、必要な情報が足りていない。
何かを決めるには、早すぎた。
しかし、決めるのを先延ばしにすれば、何も起こらないという保証もなかった。
エリアスは、その矛盾をどう記録すればいいのかわからなかった。
やがて、ノエルが資料を片づけ始めた。
「今日は、ここまでにしましょう。これ以上は、同じ記述を繰り返し読むことになります。明日、別の資料を当たります。王都の文書庫に、封印の維持に関する記録が残っているかもしれません」
「私も行くわ」
リゼットが言った。
「あなたは休んでください」
「ノエル、私は調査から外れるつもりはないわ」
「外れてほしいと言っているのではありません。ただ、今日のうちに結論を出す必要はないということです」
「わかっているわ」
リゼットはうなずいた。
「だから、明日も一緒に調べるの」
その声には、強引さよりも、譲れない意志があった。
エリアスは、彼女を見ていた。
止めるべきだと思った。危険があるなら、遠ざけるべきだと思った。それが仲間を守ることだと考えていた。
だが、リゼットは危険を知らないわけではなかった。恐れていないわけでもなかった。
彼女は、自分が何を望んでいるのかを理解したうえで、そこから目をそらさないと決めていた。
それを、エリアスは認めたくなかったのかもしれない。
彼女の決意を認めてしまえば、彼女を止めるだけでは解決しないと認めることになる。彼女が望む未来を守るためには、彼女の意思を無視することもできない。
それでも、エリアスは、その場では何も言えなかった。
*
記憶は、さらに先へ進んだ。
今度は遺跡ではなかった。
山を下りた先にある、小さな宿の一室だった。窓の外は暗く、机の上には封印に関する資料が広げられている。アルトは椅子に腰かけ、腕を組んでいた。ガレクは壁際で武具の手入れをしている。セレナは窓辺に立ち、ノエルは机の上の記録を読み返していた。
リゼットは、エリアスの向かいに座っていた。
彼女の前には、一枚の紙が置かれていた。
「私は、維持者になる方法を調べたい」
リゼットは言った。
エリアスは、すぐに答えなかった。
「まだ、できると決まったわけじゃない」
「ええ」
「危険もわかっていない。どれだけの負担を受けるのかも、途中でやめられるのかもわからない」
「ええ。わかっているわ」
「だったら、どうして」
エリアスは言葉を止めた。
リゼットは、彼が続きを言うのを待っていた。
彼女を説得する言葉なら、いくらでも思いついた。危険だから。情報が足りないから。ほかの方法を探すべきだから。仲間の命をそんなふうに扱うべきではないから。
そのどれもが間違っているわけではなかった。
しかし、彼女もまた、同じことを理解していた。
「今の維持者が限界を迎える前に、何かできるなら、私はその方法を探したい」
リゼットは言った。
「私が維持者になると、今ここで決めたわけではないわ。ノエルの調査を手伝って、できることと、できないことを確かめたいの」
「調査を進めれば、引き返せなくなるかもしれない」
「そうね」
「君は、自分で思っているよりも、ずっと危険な場所へ進もうとしている」
「それでも、何も知らないまま、今の維持者が限界を迎えるのを待つことはできない」
リゼットは机の上の紙に目を落とした。
「私は、生きて帰りたいの。あなたたちと一緒に、王都へ戻りたい。その気持ちは、今も変わっていない」
彼女は顔を上げた。
「だから、私が維持者になると決める前に、ほかの方法を探してほしい。もし、ほかの方法があるなら、そちらを選びたい。私だって、危険を引き受けることが目的ではないもの」
エリアスは、彼女の言葉を聞いていた。
「でも、もし最後まで調べても、ほかの方法が見つからなかったら?」
彼は尋ねた。
リゼットは、すぐには答えなかった。
窓の外で、風が木々を揺らしていた。部屋の中には、紙をめくる音も、武具を手入れする音もなかった。
「そのときは、みんなで考えたい」
彼女は答えた。
「私ひとりで決めることではないと思うから。ノエルの知識も、セレナの意見も、ガレクやアルトの考えも聞きたい。あなたの意見も」
エリアスは視線を落とした。
「私は、君にそんな役目を引き受けてほしくない」
「それは、あなたの本心?」
リゼットが尋ねた。
エリアスは顔を上げた。
「どういう意味だ」
「あなたは、私が危険な目に遭うのが嫌なのよね。それはわかる。でも、私が何を望んでいるのかを聞かずに、危険だから駄目だと言うのは、私を守っていることになるの?」
エリアスは答えられなかった。
彼女は責めているのではなかった。ただ、彼が避けてきた問いを、目の前に置いていた。
守ることと、決めることは同じではない。
彼女の代わりに危険を判断し、彼女の代わりに選択を終わらせれば、彼女を危険から遠ざけることはできるかもしれない。
だが、それは彼女の望む未来を守ることとは違う。
「私は、あなたに私の決断を認めてほしいと言っているわけじゃない」
リゼットは続けた。
「ただ、私が何を考えているのかを、最初からなかったことにしないでほしいの」
その言葉を聞いたとき、エリアスは何かを答えたはずだった。
だが、記憶のその部分は、まだ戻らなかった。
彼の中に残っていたのは、リゼットの表情と、机の上に置かれた紙の白さだけだった。
*
エリアスは目を開けた。
窓の外では、朝の光が少しずつ強くなっていた。机の上には、ノエルの研究資料と、彼自身のノートが残っている。
彼はしばらく、自分の手を見つめていた。
記憶は戻り始めている。しかし、重要な部分ほど、まだ曖昧だった。
リゼットが最終的に何を選んだのか。仲間たちは何を話し合ったのか。そして、エリアス自身が、どこで彼女の選択を受け入れたのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
ただ、ひとつだけ、以前とは違うことがあった。
彼はもう、リゼットが自分を犠牲にすることだけを望んでいたのではないと知っている。彼女は生きて帰りたかった。仲間たちと旅を終え、その先の時間を生きたかった。
それでも彼女は、世界を守るために何ができるのかを考え続けた。
エリアスは、ノートを開いた。
前のページには、リゼットの言葉が記されている。
世界を守りたい。同時に、生きて帰りたい。
彼はその下に、新しい一文を書き加えた。
彼女は、自分の命を諦めたのではない。生きて帰る可能性を残したまま、世界を守る方法を探そうとしていた。
書き終えたエリアスは、ペンを置いた。
記録することは、できる。
だが、記録しただけでは、彼女が何を選び、何を失い、何を望んでいたのかを、本当に理解したことにはならない。
ノエルの手紙には、記録にあることだけが真実だと思わないで、と書かれていた。
その意味を、エリアスはまだ完全には理解できていなかった。
しかし、少なくとも、記録に残っていないことを、存在しなかったことにしてはいけないのだと感じ始めていた。
彼はノートの別のページを開いた。
そこには、以前から気になっていた一文がある。
自分の筆跡に似ているが、書いたときの記憶がない。何度読み返しても、その言葉を書き残した理由を思い出せなかった。
エリアスは、その一文を見つめた。
まだ、思い出せない。
だが、そこに書かれていることが、リゼットの選択と無関係だとは思えなかった。
彼はノートを閉じず、机の上に置いた。
記憶を取り戻すことが目的なのではない。
何が起きたのかを知り、その結果に自分がどう関わったのかを確かめなければならない。
たとえ、そこに自分の望まない事実があったとしても。
エリアスは窓の外へ目を向けた。
王都では、人々が今日も日常を送っている。彼らが信じている歴史は、魔王を倒した勇者の物語だ。そこには、アルトの名があり、勝利があり、平和がある。
しかし、その物語から消えた四人がいた。
そして、その空白を生み出した出来事に、自分も関わっているのかもしれない。
エリアスは、その可能性から目をそらさなかった。
次に思い出すべきことは、リゼットが何を選んだのかだけではない。
彼女が選んだとき、自分は何をしたのか。
彼女の願いを知りながら、なぜ今の歴史を受け入れたのか。
そして、なぜ自分だけが、その前の歴史を覚えているのか。
その答えを見つけなければ、四人を取り戻す道も、白紙現象を止める方法も、見つけられない。
エリアスはノートを手に取り、最後のページに新たな問いを書き残した。
自分は、何を知ったうえで、何を選んだのか。
その問いに答えられるまで、もう記録の外へ逃げることはできなかった。




