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第38話 リゼットの選択

 魔王城から戻った翌日、エリアスは夜明け前に目を覚ました。


 窓の外はまだ薄暗く、王都の街路には人影も少なかった。宿の部屋には、机の上に広げた手帳と、ノエルが残した研究資料が置かれている。魔王城で確認した傷の位置や、壁に刻まれていた古い記号も、忘れないうちに書き写してあった。


 どれも、六人が確かにあの場所で戦ったことを示していた。


 しかし、それらの痕跡をいくら集めても、最後に残る疑問には届かなかった。


 なぜ、魔王を倒したあとに、リゼットは封印の維持者になったのか。


 彼女が自ら選んだのか。それとも、ほかに方法がなかったのか。


 エリアスは、手帳の古いページをめくった。


 そこには、旅の途中で記録したリゼットの行動が残っている。道に迷ったとき、彼女が地形を見て進路を決めたこと。魔物の群れを避けるために、予定していた道を変えたこと。誰かが疲れているとき、何も言わずに休憩の時間を延ばしたこと。


 記録には、そうした細かな出来事がいくつも書かれていた。


 だが、彼女が何を考えていたのかは、ほとんど残っていなかった。


 エリアスは、記録をつけるとき、目に見える事実を優先していた。誰が何をしたのか、どこで何が起きたのか。後から読み返したとき、状況を再現できるようにすることが大切だと考えていたからだ。


 その方法は、間違っていなかったはずだ。


 けれど、リゼットが何を望み、何を恐れていたのかということについては、彼は驚くほど何も知らなかった。


 いや、知らなかったのではない。


 知ろうとしなかったのかもしれない。


 エリアスは、手帳を閉じた。


 魔王城で見つけた痕跡を調べることも、ノエルの研究を読み解くことも必要だろう。だが、リゼットが封印の維持者になるまでの経緯を理解しなければ、彼女を取り戻すために何をすべきなのかも分からない。


 そのためには、まず、自分が何を覚えているのかを確かめる必要があった。


 エリアスは机の引き出しを開けた。


 そこには、旅の途中で使っていた古い地図が何枚か残されていた。魔王城へ向かう前に作ったものだ。道筋や宿場の位置、魔物の出現地点などが細かく書き込まれている。


 そのうちの一枚に、彼は見覚えのない印を見つけた。


 地図の端に、小さな円が描かれていた。その横には、リゼットの筆跡で短い文字が記されている。


 ――戻る道を残すこと。


 エリアスは、しばらくその文字を見つめた。


 何のことを書いたのか、すぐには思い出せなかった。地形についての注意なのか、退路を確保するための指示なのか。それとも、旅の先にある何かについて、彼女が考えていたことなのか。


 ただ、その言葉を見ているうちに、ある場面が頭の中に浮かんできた。


 魔王を倒したあと、六人で城を出た日のことだった。


 ***


 魔王城を出たとき、空は曇っていた。


 長い戦いが終わったという実感は、誰にもなかった。城の外には、荒れた大地が広がっている。魔物の気配は薄れ、遠くの山々には朝の光が差し始めていたが、そこに平和が戻ったと確信できる者はいなかった。


 アルトは剣を鞘に収め、しばらく城を振り返っていた。


 ガレクは、傷ついた装備を肩に担いでいた。鎧の一部は割れ、武器の柄にはひびが入っている。セレナは疲れた顔で仲間たちの傷を確かめ、ノエルは魔王城の壁に刻まれた記号を手帳に写し取っていた。


 リゼットだけが、城の奥を見つめていた。


 エリアスは、その横顔を覚えていた。


「リゼット、どうした?」


 声をかけると、彼女はすぐには答えなかった。


 風が吹き、彼女の髪が頬にかかった。リゼットはそれを耳にかけ、ようやくエリアスを見た。


「このまま帰っても、終わりにはならないと思う」


「魔王は倒した。残っている魔物も、各地で討伐されるはずだ」


「魔物の話じゃないの」


 彼女の声は静かだった。


「魔王がいなくなれば、世界は元に戻る。みんな、そう思っているでしょう。でも、そう簡単にはいかない」


 エリアスは、彼女の言葉の意味を尋ねようとした。


 だが、そのとき、ノエルが呼んだ。


「リゼット、少し来てくれる? この壁の記号なんだけど、さっきから気になるところがあって」


 リゼットは一度だけエリアスを見てから、ノエルのもとへ歩いていった。


 彼は、その場に残った。


 そのときは、あとで話を聞けばいいと思っていた。


 旅の終わりには、いくらでも時間があるはずだった。


 けれど、そうはならなかった。


 ***


 エリアスは、机の上の地図を見つめた。


 記憶の断片が戻ってきたからといって、すべてが明らかになったわけではない。魔王城を出たあと、六人が何を話し合い、どのように封印の問題に向き合ったのか。彼の記憶には、まだ大きな空白がある。


 ただ、リゼットが魔王を倒した時点で、すでに何かを考えていた可能性はある。


 彼女は、世界が元に戻るとは限らないと知っていた。


 それなのに、エリアスは、その言葉を深く考えなかった。


 彼は立ち上がり、窓の外を見た。


 朝の光が、街の屋根を照らし始めていた。


 リゼットが残した言葉の意味を確かめるためには、彼女が封印の維持者になると決めたときのことを、もっと正確に思い出さなければならない。


 エリアスは、もう一度、目を閉じた。


 すると、別の場面が浮かんできた。


 ***


 その場所は、王都から離れた山間の古い遺跡だった。


 六人が魔王を倒してから、しばらく後のことだ。


 遺跡の地下には、古い封印のために設けられた広間があった。壁には複雑な術式が刻まれ、中央には大きな石の台座が置かれている。台座の周囲には、何重にも魔力の流れが巡っていた。


 エリアスは、広間の入口で足を止めた。


 空気が重かった。


 魔術に詳しくない者でも、ここに何か強大な力が集まっていることは分かった。壁の刻印は、長い年月を経てもなお淡く光り、床には幾筋もの亀裂が走っている。


 ノエルは、台座の周囲を歩きながら、刻印を調べていた。


「この封印は、かなり古いものね。今の術式とは構造が違う。維持するために、相当な魔力が必要になるはず」


「維持者がいるんだろう?」


 ガレクが尋ねた。


「いるはずよ。けれど、今は姿が見えない。封印の中にいるのか、別の場所にいるのか、それも分からない」


 ノエルは、壁の刻印に指を近づけた。


「ただ、ひとつ分かることがある。ここに集まっている力は、自然に生まれたものじゃない。誰かが長い時間をかけて、支え続けてきたものよ」


 セレナは、台座の近くに膝をついていた。


 彼女は床に手を置き、流れる魔力の揺らぎを確かめていた。やがて顔を上げ、リゼットを見た。


「このままでは、長くは保たないと思う。封印そのものが壊れるというより、支えている側が先に限界を迎える」


 広間に沈黙が落ちた。


 エリアスは、台座の周囲を見回した。


 封印を維持するために、誰かが負担を引き受けている。しかも、その負担は時間とともに大きくなっている。もし維持者が限界を迎えれば、封印全体が崩れるかもしれない。


「別の方法はないのか?」


 アルトが尋ねた。


「今のところ、確かな方法は見つかっていないわ」


 ノエルは、手元の資料を閉じた。


「術式を作り直すことは理論上できるかもしれない。でも、必要な魔力も、維持するための条件も分からない。実際に試せば、封印を不安定にする危険がある」


「つまり、今のままでは危険だが、変える方法も分からないということか」


 エリアスが言うと、ノエルは頷いた。


「そういうこと」


 リゼットは、台座を見つめていた。


 彼女は長い間、何も言わなかった。


 やがて、静かに口を開いた。


「私が、維持者になることはできる?」


 エリアスは、彼女を見た。


「リゼット?」


「私が封印を支える側に入れば、今の状態を保てる可能性があるんでしょう?」


 ノエルは、すぐには答えなかった。


「可能性はあるわ。でも、簡単なことではない。今の維持者がどんな状態なのかも分からないし、あなたがどれだけの負担を引き受けることになるのかも分からない」


「それでも、できるかもしれない」


「できるかもしれない、というだけよ。あなたの命に関わる可能性もある」


 セレナが立ち上がった。


「リゼット、今の段階で決めるべきではないわ。あなたが倒れたら、封印がどうなるかも分からない」


 ガレクも、低い声で言った。


「俺たちが来たのは、方法を探すためだ。誰か一人が全部引き受けるためじゃない」


 リゼットは、仲間たちの顔を順番に見た。


「分かってる。私だって、好きで危険なことをしたいわけじゃない」


 彼女は、台座のそばへ歩いていった。


「でも、何もしないまま、今の維持者が限界を迎えるのを待つわけにはいかないでしょう」


 エリアスは、彼女の背中を見つめた。


 リゼットは、いつもそうだった。


 危険があると分かっていても、そこから目を逸らさない。誰かが困っているとき、自分にできることがあるなら、まず手を伸ばそうとする。


 それが彼女の強さだった。


 だが、同時に、その強さが彼女自身を追い詰めることもある。


「待ってくれ」


 エリアスは、思わず声を上げた。


「まだ、ほかの方法があるかもしれない。ノエルが言ったように、術式を作り直すことだってできるかもしれない。今ここで、お前が決める必要はない」


 リゼットは振り返った。


「じゃあ、どれくらい待てばいいの?」


「それは……」


「一週間? 一か月? それとも、一年?」


 彼女の声に、初めて強い感情が混じった。


「その間に、今の維持者が限界を迎えたらどうするの。封印が壊れて、世界に何が起きるのか分からない。私たちは、それを止めるためにここまで来たんじゃないの?」


 エリアスは言葉を失った。


 彼女の言うことは正しかった。


 時間をかければ、別の方法が見つかるかもしれない。だが、見つからない可能性もある。何もしないまま時間を過ごすことにも、危険はあった。


 それでも、彼はリゼットに選ばせたくなかった。


 仲間を失いたくなかった。


 その気持ちは、今でも覚えている。


 だが、当時の彼は、その気持ちを正しい判断の理由にしようとしていたのかもしれない。


「お前が犠牲になる必要はない」


 エリアスは言った。


「犠牲になると決めたわけじゃないわ」


 リゼットは、はっきりと答えた。


「私は、できることをしたいの。世界を守りたい。それは本当。でも、私だって生きて帰りたいと思っている。あなたたちと一緒に、ここを出たいと思っている」


 彼女は、ほんの少しだけ笑った。


「その二つを、どちらか一つに決めなければいけないなんて、私は思っていない」


 エリアスは、彼女の言葉を聞いていた。


 世界を守りたい。


 生きて帰りたい。


 その二つは、彼の中では相反するもののように思えていた。封印の維持者になることは、危険な選択だ。だからこそ、彼女を止めなければならない。そう考えていた。


 けれど、リゼットは、自分の命を軽んじているわけではなかった。


 生きて帰りたいと願いながら、それでも自分にできることを選ぼうとしていた。


 彼女は、誰かに犠牲を強いられているのではない。


 自分の意思で、何を引き受けるのかを考えていた。


 そのことを、エリアスは理解し始めていた。


 ノエルが、台座の周囲をもう一度調べた。


「今すぐ、結論を出す必要はないわ。ただ、リゼットが維持者になる可能性を検討するなら、条件を確かめなければならない。どれだけの負担がかかるのか、途中でやめることはできるのか。何も分からないまま始めるわけにはいかない」


「それでいい」


 リゼットは頷いた。


「調べられることは、全部調べてほしい。私も協力する」


 エリアスは、まだ納得していなかった。


 彼女がどれだけ覚悟を決めていても、危険が消えるわけではない。何か別の方法が見つかるのなら、そちらを選ぶべきだと思っていた。


 その日、六人は遺跡を調べ、古い記録を集めた。


 封印の維持者に負担が集中していること。維持者に異常が起きれば、封印全体が不安定になる可能性があること。別の術式を組み立てるには、まだ情報が足りないこと。


 どれも、すぐに解決できる問題ではなかった。


 それでも、リゼットは調査を続けた。


 彼女は台座の周囲に刻まれた記号を写し取り、古い記録と照合し、ノエルの説明を聞いていた。セレナが魔力の流れを確かめる間、リゼットは必要な道具を運んだ。ガレクは崩れかけた通路を支え、アルトは危険な場所へ進むときに先頭に立った。


 エリアスも、記録を取った。


 誰が何を調べ、どのような結果が出たのか。何が分かり、何が分からなかったのか。後から判断を誤らないように、できる限り正確に書き残した。


 だが、リゼットの気持ちについては、ほとんど書かなかった。


 彼女が何を望み、何を恐れているのか。


 それは記録すべき事実というより、彼女自身の内面に属することだと考えていたからだ。


 今になって思えば、それは彼女の意思を尊重していたのではなく、彼女の選択から目を逸らしていたのかもしれない。


 ***


 記憶は、そこで途切れた。


 エリアスは、宿の部屋で目を開けた。


 窓から差し込む光は、すっかり明るくなっていた。机の上には、開いたままの地図がある。彼はその端に書かれたリゼットの文字を見つめた。


 戻る道を残すこと。


 あの遺跡での調査を続けていたとき、リゼットは何度も帰り道を確認していた。封印の維持者になる可能性を調べながらも、彼女は帰ることを諦めていなかったのだろう。


 世界を守りたいという願いと、生きて帰りたいという願い。


 その二つを、彼女は最後まで手放さなかった。


 エリアスは、その事実を思い出した。


 だが、まだ分からないことがあった。


 あの調査のあと、彼女はどのように決断したのか。


 六人は、どのような話し合いをしたのか。


 そして、エリアス自身は、なぜ最後に彼女の選択を受け入れたのか。


 その答えは、まだ記憶の奥に沈んでいた。


 彼は地図を丁寧に折り、手帳の横に置いた。


 今度は、記録に残っていないことも、最初から存在しなかったことにしない。


 リゼットが何を選んだのかを知るためには、彼女が残した言葉だけでなく、自分が何を考え、何を選んだのかも見つめ直さなければならない。


 エリアスは、手帳を開いた。


 そして、リゼットの名前の下に、短い一文を書き加えた。


 彼女は、世界を守ることだけを望んでいたのではない。


 生きて帰ることも、望んでいた。


 書き終えたあと、エリアスはしばらくその文字を見つめていた。


 彼女が何を望んでいたのか。


 それを、ようやく一つ思い出せた。


 しかし、彼女が何を選び、その選択を自分がどう受け止めたのか。その最も重要な部分は、まだ取り戻せていなかった。

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