第36話 残された二人
翌朝、エリアスは宿の食堂で手帳を開いていた。
窓の外では、王都の通りを人々が行き交っている。荷車の車輪が石畳を鳴らし、パン屋の前には焼きたてのパンを買い求める客が並んでいた。魔王が倒されてから、世界は平穏を取り戻したことになっている。少なくとも、街を歩く人々の顔に、今すぐ何かが失われることを恐れる様子はなかった。
エリアスは、昨日までに集めた情報を読み返した。
ノエルは古い封印術を調べていた。封印の維持者に負担が集中する構造と、その負担を分散させる理論について、複数の資料を参照していたらしい。だが、研究の目的も結論も分からない。彼女が今どこにいるのかさえ、まだ確かめられていなかった。
昨日、最後に聞き込みをした若い研究者の名前には、二重線が引かれている。ノエルについての証言を得た人物だ。今日、彼に会えば、彼女が資料を申請した時期と、研究区画を利用しなくなった時期について、もう少し詳しい話が聞けるはずだった。
エリアスは手帳を閉じた。
「今日は、まず昨日の研究者に会う。そこからノエルの足取りを追う」
向かいに座るアルトが頷いた。
「それで見つかるといいが」
「見つける。資料をいくら読んでも、本人の考えまでは分からない」
口にしてから、エリアスはその言葉が自分自身への戒めでもあることに気づいた。
記録を集めることには慣れている。証言を整理し、食い違いを見つけ、矛盾の原因を探る。そうした作業なら、いくらでも続けられる。
けれど、記録の向こう側にいた人間が何を考えていたのか。それを確かめるには、記録を読むだけでは足りない。
ノエルは何を恐れ、何を知ろうとしていたのか。彼女が一人で古い封印を調べていたのは、単なる研究上の興味だったのか。それとも、すでに何か異変に気づいていたのか。
その答えは、まだ本人の中にしかない。
二人は宿を出た。
王立魔術院へ向かう道すがら、アルトはいつもより口数が少なかった。エリアスは何度か横顔を見たが、何を考えているのかまでは分からない。
彼の盾には、今も説明のつかない傷が残っている。
誰を守ったのか。
その問いに対する答えも、まだ見つかっていなかった。
魔術院に着くと、二人は昨日の研究者を訪ねた。だが、研究区画の受付で返ってきたのは、予想していなかった返事だった。
「本日は出勤しておりません。昨日から体調を崩していると聞いています」
「昨日、ノエルについて話を聞いた者だ。急ぎ確認したいことがある」
エリアスが事情を説明すると、受付の職員は少し困った顔をした。
「ご自宅の場所なら、本人の許可なくお教えするわけにはいきません。ただ、緊急の用件であれば、こちらから連絡を取ることはできます」
「お願いします。伝言には、ノエルの所在について確認したいことがある、と書いてください」
職員が奥へ引っ込むのを見送ってから、アルトが低い声で言った。
「偶然だと思うか」
「体調を崩しただけなら、偶然だ」
エリアスは即座に答えたものの、その言葉に自分で納得しているわけではなかった。
ここ数日、彼らが仲間の痕跡を追うたびに、何かが少しずつ失われてきた。名前が記録から消え、証言が曖昧になり、残されていたはずのものが見つからなくなる。
それでも、何かが起きるたびに白紙現象のせいだと決めつければ、調査そのものが成り立たなくなる。
エリアスは、確認できたことと、まだ推測にすぎないことを分けて考えようとした。
しばらくして職員が戻ってきた。
「連絡がつきませんでした。ご自宅にもいらっしゃらないようです」
「いつからですか」
「昨夜、帰宅した後のことは分からないそうです。近所の方が今朝、姿を見ていないと」
エリアスは職員の顔を見つめた。
「その話は、誰から?」
「ご家族からです。今朝、本人が出勤していないので、同僚が連絡を取ったところ……」
職員はそこで言葉を切った。説明しながら、自分でも話のつながりに違和感を覚えたらしい。
「失礼しました。ご家族から連絡があったのか、同僚が確認したのか、記録を見直さないと正確には分かりません」
その声が、少し遠くなったように聞こえた。
エリアスは手帳を取り出した。
「その研究者の名前を、もう一度教えてください」
職員は答えようとした。
だが、口を開いたまま、しばらく黙り込んだ。
「……名前が、出てきません」
エリアスの指が止まった。
職員は机の上の書類をめくり、勤務表を確認した。昨日まではそこにあったはずの名前を探すように、何度も同じ欄を目で追っている。
「おかしいですね。確かに、昨日まで一緒に仕事をしていたはずなんですが」
アルトが一歩前に出た。
「その人の机はどこにある?」
「研究区画の奥です。ご案内します」
職員はそう答えたが、案内の途中で足を止めた。
研究区画の廊下は、朝の光に照らされて明るかった。壁には研究成果の報告書が並び、扉の向こうからは魔術具の動作音が聞こえる。何も変わっていないように見えた。
職員は、廊下の一角を見つめていた。
「……この辺りだったと思うのですが」
そこには、同じ形の扉がいくつも並んでいた。職員は一つずつ確かめたが、どの扉にも見覚えがないというように首を傾げる。
エリアスは廊下の壁に手を触れた。
ここに何かがあったのかもしれない。
だが、何があったのかを示す痕跡は見つからなかった。
「もう結構です」
エリアスは職員に礼を言い、アルトとともにその場を離れた。
廊下を歩きながら、彼は手帳を開いた。
昨日、ノエルについて証言した研究者の名前を書いたページを探す。
名前は、そこにあった。
ただし、文字の一部が薄くなっていた。インクが滲んだのではない。紙の繊維ごと、何かに削り取られたように見えた。
エリアスは手帳を閉じた。
「昨日、話を聞いたときには、確かに名前があった」
「俺も聞いた。ノエルが何を調べていたか、あの研究者が話してくれた」
「それなのに、今は名前を思い出せない。職員も、あの人がどこで働いていたのか分からなくなっている」
アルトは廊下の奥を振り返った。
「俺たちが追っているものに、近づいたからか」
「まだ分からない」
エリアスはそう答えた。
ただ、今度は先ほどのように、偶然だと片づけることもできなかった。
名前が消える前に、記録を残さなければならない。そう考えて手帳を開いたのに、その記録さえ変わり始めている。
白紙現象は、彼らが何かを調べたことへの罰なのか。それとも、調べることとは関係なく、何か別の理由で進んでいるのか。
答えはまだ出ない。
それでも、目の前で起きたことを記録しないわけにはいかなかった。
エリアスは、名前が失われかけているページの余白に、昨日聞いた証言の内容を書き直した。研究者の名前は、思い出せる限りの文字を記した。名前を完全に復元できなくても、その人物が確かに存在し、ノエルについて話したことまで消してはならないと思った。
書き終えると、彼は手帳を閉じた。
「ノエルを探そう」
アルトは頷いた。
二人は魔術院を出て、ノエルが以前利用していた研究施設へ向かった。
彼女が普段どこで暮らし、誰と会い、どの道を通って研究区画へ来ていたのか。そうした日常の足取りを辿れば、まだ本人に行き着く可能性がある。
けれど、研究施設の管理人は、ノエルの姿を見ていないと答えた。
彼女の部屋を訪ねても、返事はなかった。
扉を開けてもらうと、室内には整理された書類と、使いかけの筆記具が残されていた。机の上には古い封印術についての本が積まれている。最後に誰かが使ったときのまま、そこだけ時間が止まっているようだった。
エリアスは部屋の中を見回した。
「ここで研究をしていたのか」
「少なくとも、資料を持ち込んでいたのは確かだろう」
アルトが机の上の本に目を向けた。
エリアスは本を手に取り、ページをめくった。余白にはノエルのものと思われる書き込みがあった。封印の維持者にかかる負担、術式の安定性、維持者に異常が起きた場合の影響。これまでに調べた資料と、同じ主題が繰り返し現れている。
しかし、最後のページには、短い文章が書かれていた。
――一人を戻すだけでは、封印は保たない。
エリアスはその一文を何度も読み返した。
「一人を戻す……?」
アルトが隣から覗き込む。
「消えた仲間のことか」
「そうかもしれない。だが、これだけでは断定できない」
それでも、これまでの資料とは違う言葉だった。
ノエルは単に古い封印の仕組みを調べていたのではない。何かを戻すことを考えていた。そして、一人だけを戻しても解決しないと結論づけていたように読める。
エリアスは、そのページを慎重に写し取った。
ほかにも手掛かりがあるかもしれない。机の引き出しを調べると、何枚かの紙が束ねられていた。術式の図らしきものもあったが、途中で線が途切れ、完成していない。
紙の端には、細い文字でこう記されていた。
――六人分の接続が必要。
エリアスの手が止まった。
六人。
勇者アルト、記録係エリアス、そしてリゼット、ガレク、セレナ、ノエル。
彼らが旅をした六人だった。
「アルト、これを見てくれ」
アルトは紙を受け取り、図を見つめた。そこには六つの点が描かれ、それぞれが中央の円につながっていた。円の内側には、古い封印術で使われる記号が並んでいる。
「この図が何を意味するのかは、まだ分からないな」
「だが、六人分の接続と書いてある。ノエルは俺たちのことを調べていた可能性がある」
エリアスは、紙を折らずに手帳の間へ挟んだ。
これまでの調査で見つかった記録は、どれも古い封印術の一般的な仕組みを示すものだった。今回の紙は違う。ノエル自身が、何かを実現するために書いた可能性がある。
それが何なのかを確かめるには、やはり本人に会わなければならない。
そのとき、廊下の向こうで物音がした。
二人が振り返ると、管理人が扉の前に立っていた。彼は不安そうに室内を見回し、二人に尋ねた。
「失礼ですが、こちらはどなたのお部屋でしたか」
エリアスは息を呑んだ。
「ノエルです。王立魔術院の研究者です」
「ノエル……?」
管理人は困ったように眉を寄せた。
「そのような方が、ここを使っていたのでしょうか。記録を確認します」
彼は手元の帳簿を開いた。
ページをめくる音が、静かな廊下に響いた。
やがて管理人は、帳簿を閉じた。
「記録がありません」
「昨日までは、あったはずです」
エリアスは声を抑えた。
「この部屋には本が残っています。彼女が使っていたことは、ここにあるものが証明しています」
「しかし、契約者の名前がないのです。私には、どなたが使っていたのか分かりません」
管理人は嘘をついているようには見えなかった。
彼は本当に分からないのだ。
ノエルの部屋は存在している。彼女の本も、書き込みも、未完成の図も残っている。それなのに、彼女がそこにいたという事実だけが、周囲の人間から失われ始めていた。
エリアスは机の上に手を置いた。
ノエルは、まだどこかにいるのだろうか。
それとも、もう彼女自身の姿さえ、この世界から失われてしまったのだろうか。
答えを探すように、彼は部屋の隅々まで目を走らせた。
机の下に、小さな封筒が落ちていた。
拾い上げると、表にはエリアスの名前が記されていた。
見覚えのない筆跡ではなかった。
ノエルの字だ。
エリアスは封筒を開いた。中には一枚の紙が入っていた。
そこには、短い文章が記されていた。
――これを読んでいるなら、私はもう直接説明できない場所にいるのかもしれない。
エリアスは、続きを読んだ。
――古い封印は、一人の維持者に負担を集中させている。その人を取り戻すだけでは、封印全体が崩れる可能性がある。だから、六人全員が必要になる。私はその方法を探していた。
――まだ完成していない。私の研究だけで実現できるかどうかも分からない。それでも、誰か一人を犠牲にする以外の方法があるのなら、確かめなければならない。
最後の行には、こう書かれていた。
――エリアス。記録に残っていることだけを、真実だと思わないで。
紙を持つ指に、力がこもった。
ノエルは、エリアスが何をしてきたのか知っていたのだろうか。彼が残してきた記録の矛盾に気づいていたのだろうか。それとも、彼の性格を知ったうえで、ただ忠告を残したのだろうか。
そこまでは分からない。
だが、彼女が古い封印術を調べていた理由の一端は、ようやく見えた。
ノエルは、消えた仲間を取り戻す方法を探していた。
そして、六人全員が必要だと考えていた。
エリアスは、手紙を丁寧に折り、手帳に挟んだ。
「彼女は、何かを知っていたんだ」
アルトは黙って頷いた。
「それなら、まだ終わっていない」
エリアスは顔を上げた。
「この図と手紙を持ち帰ろう。ノエルの研究を完成させるためにも、何が分かっていて、何が分かっていないのか整理する必要がある」
言葉にしてみると、それはひどく事務的な決意に聞こえた。
だが、今の彼にできることは限られていた。ノエルがどこにいるのか分からない以上、彼女の残したものを守るしかない。
二人は、部屋に残されていた資料を慎重にまとめた。
その間にも、廊下を通りかかった職員が、扉の前で足を止めることがあった。彼らは室内を見て、不思議そうに首を傾げてから立ち去っていく。誰も、ここにノエルという研究者がいたことを思い出せないようだった。
エリアスは最後にもう一度、部屋を振り返った。
机も、椅子も、本も、そこにある。
それなのに、彼女だけがいない。
その光景は、かつてガレクの痕跡を追ったときとよく似ていた。残されたものがあるからこそ、失われた存在が際立って見える。
彼らが部屋を出ると、管理人は扉を閉めた。
「この部屋は、空室として扱えばよろしいでしょうか」
エリアスは、すぐには答えられなかった。
「……いえ。まだ、空室ではありません」
管理人は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
二人は魔術院を後にした。
夕方が近づき、街の影は長く伸びていた。人々は仕事を終え、家路を急いでいる。通りには夕食の支度をする匂いが漂い、商店の主人が店先の商品を片づけていた。
世界は変わらず動いている。
そのことが、かえって恐ろしかった。
誰かが消えても、街は止まらない。誰かがいたという記録が消えても、明日の仕事は始まる。残された者がその不在を訴えなければ、世界は何事もなかったかのように続いていく。
宿へ戻る途中、エリアスは手帳を開き、ノエルの手紙の内容を記録した。
彼女が残した資料は、まだ不完全だ。封印の仕組みも、六人分の接続が具体的に何を意味するのかも分からない。だが、これまでの調査で初めて、解決へ向かうための手掛かりが見つかった。
彼は最後に、ノエルの名前を書いた。
その文字が消えていないことを、何度も確かめた。
宿に着くと、エリアスはセレナについても確認しようと考えた。
彼女は、まだ消えていないのだろうか。
以前、アルトはセレナの顔を思い出せると言った。けれど、声や会話の細部は曖昧になっている。本人に会えれば、何か分かるかもしれない。そう考えて、エリアスはセレナが最後に滞在していた治療院へ連絡を取った。
返ってきた答えは、短かった。
セレナという治療師は、登録されていない。
エリアスは、もう一度名前を伝えた。特徴も、彼女が使っていた治療術も、覚えている限りのことを説明した。
相手は丁寧に聞いてくれたが、最後まで答えは変わらなかった。
「申し訳ありませんが、そのような方の記録はありません」
通信が切れた後、エリアスはしばらく動かなかった。
セレナは、治療院にいないだけなのかもしれない。別の場所へ移った可能性もある。記録がないからといって、消失したと断定することはできない。
そう考えようとした。
だが、彼の手帳には、以前セレナが行った治療の記録が残っている。彼女がいなければ説明できない傷の処置も、仲間たちが旅を続けられた理由も、そこに記されていた。
エリアスは、治療院の記録を調べるために書き留めたメモを見た。
そこにあったはずの治療師の名前が、薄くなっていた。
セレナの名前だけではない。彼女が担当した患者の記録からも、治療の担当者を示す欄が少しずつ空白になっている。
エリアスは、メモを握りしめた。
セレナも、消えたのだ。
それが確かなことだと、彼には分かった。
アルトは窓辺に立ち、夕暮れの街を見ていた。
「これで、俺たちだけか」
エリアスは答えられなかった。
リゼットは、記録にも記憶にも残らないほど遠くへ消えた。ガレクの痕跡も失われた。セレナは治療院の記録から消え、ノエルもまた、残された資料だけを置いて姿を消した。
四人がいない。
旅を始めたとき、六人で囲んだ焚き火の明かりを、エリアスは覚えている。誰かが食事を焦がし、誰かが笑い、誰かが次の町までの道を地図に書き込んでいた。そうした何気ない時間は、英雄の記録には残らない。
けれど、確かにあった。
エリアスは手帳を開いた。
そこには、六人の名前が並んでいた。
アルト。エリアス。リゼット。ガレク。セレナ。ノエル。
消えた四人の名前は、今も彼の手帳に残っている。
だが、それだけでは足りない。
名前を記録することと、その人が確かに生きていたと証明することは、同じではない。ノエルの手紙は、その違いを彼に突きつけていた。
記録に残っていることだけを、真実だと思わないで。
エリアスは、その一文を心の中で繰り返した。
自分は今まで、記録があれば事実を守れると考えていた。けれど、記録そのものが書き換えられ、周囲の人間の記憶まで失われていくのなら、手帳を持っているだけでは何も解決しない。
なぜ六人が必要なのか。
消えた仲間たちは、どこへ行ったのか。
そして、彼らを取り戻すために、何をしなければならないのか。
ノエルの残した資料には、まだ答えが足りなかった。
エリアスは机に向かい、手帳の新しいページを開いた。六人の名前を書き、その下に、今日分かったことを一つずつ記していく。
古い封印は、一人の維持者に負担を集中させている。
一人を戻すだけでは、封印は保たない可能性がある。
六人分の接続が必要。
どれも、まだ完全には証明されていない。だが、今までよりも確かな方向が見え始めていた。
最後に、エリアスは自分とアルトの名前を見つめた。
残された二人で、何ができるのか。
それを考えることから、もう逃げるわけにはいかなかった。
窓の外では、夜の帳が静かに降りていた。
王都の灯りは一つずつ増えていく。誰も、四人の仲間が消えたことを知らない。誰も、彼らが世界を救うために何をしたのかを覚えていない。
それでも、エリアスは手帳を閉じなかった。
記録を残すだけでは足りないのなら、記録の向こうにある真実を探さなければならない。
そして、その真実が自分自身の過去にまで及ぶのだとしても。
彼は、六人の名前をもう一度確かめた。
今度こそ、誰一人として、最初からいなかったことにはさせない。




