第35話 研究者の最後の記録
ノエルの行方を追い始めてから、四日目の朝を迎えていた。
王都には、彼女が以前に利用していた研究区画も、古い封印術について相談していた研究者もいた。閲覧記録には、彼女が何を調べていたのかを示す断片が残っている。長期間維持される封印の構造。維持者にかかる負担。ひとりの術者に集中した負担を分散する方法。
それらは、今の状況と無関係とは思えなかった。
だが、エリアスはまだノエル本人に会えていなかった。
資料を調べれば調べるほど、彼女が何かを見つけていた可能性は高まっているように思えた。しかし、可能性が高まることと、答えが見つかることは違う。彼女がどこまで研究を進めていたのか、白紙現象について何を知っていたのか。それを確かめられない限り、集めた情報は手掛かりのままだった。
エリアスは宿の机に広げていた手帳を閉じた。
「今日は、魔術院以外を当たろう」
向かいで革帯を締め直していたアルトが顔を上げた。
「研究者の知り合いか?」
「それもある。ノエルが資料を取り寄せていたのなら、魔術院の外にも連絡先があるかもしれない。古い封印術の研究を続けている人間や、資料を管理している施設を調べてみる」
「彼女がそこにいる可能性もあるな」
「そうだな。ただ、行き先を決めつけずに探そう」
アルトは頷き、腰の剣を確かめた。
宿を出ると、朝の王都はすでに動き始めていた。荷車が市場へ向かい、パン屋の前には焼きたてのパンを買う人々が並んでいる。通りの向こうでは、兵士たちが交代のために列を組んでいた。魔王が倒されてから続く平穏な日常だった。
エリアスは人々の姿を見ながら、ふと足を緩めた。
この街に暮らす人々は、魔王討伐の旅を終えた勇者一行を知っている。だが、その旅に誰がいたのか、何が起きたのかを、どこまで正確に知っているのだろう。
勇者アルトの名は石碑に刻まれ、討伐の功績は公式の記録に残されている。一方で、仲間たちの名前や働きについては、確認できないものが増えていた。
記録に残っていないから、存在しなかった。
そんな理屈が通るはずはない。
それでも、記録が失われ、覚えている人間までいなくなれば、後に残る者たちは何を根拠に真実を知ればいいのだろう。
エリアスは懐の手帳に触れた。
今は、記録を残すことしかできない。だが、記録を残すだけで十分なのかという疑問は、以前よりも強くなっていた。
最初に訪ねたのは、王都の北側にある古文書保管所だった。魔術院とは別に、古い術式や過去の研究報告を保管している施設である。建物は石造りで、入口の上には風化した文字で施設の名称が刻まれていた。利用者は少なく、受付には年配の女性がひとり座っていた。
エリアスはノエルの名前と、彼女が調べていた封印術の分野を説明した。
「その名前でしたら、以前に閲覧申請があったかもしれません」
女性は台帳を取り出し、何冊かの記録を確かめた。しばらくして、ひとつの記載を見つけたように指を止めた。
「ありました。古い封印の維持記録について、資料の所在を問い合わせています。ただ、実際に閲覧したかどうかまでは分かりませんね。問い合わせだけで終わる場合もありますから」
「いつ頃の記録ですか」
エリアスは日付を聞き、手帳に書き留めた。
魔術院で確認した時期と近かった。ノエルが同じ頃に複数の場所で資料を探していたのなら、研究を進めるために必要な情報を集めていた可能性がある。
「彼女が何を調べていたか、分かる記録はありませんか」
「資料の名称なら残っていますが、研究の目的までは記録していません。こちらは文書の保管所ですので、利用者が何を考えていたのかまでは把握できませんから」
「そうですか。ありがとうございます」
エリアスは礼を述べた。
またしても、分かったのは彼女が何を探していたかということだけだった。何を見つけ、何を考えたのかは分からない。
次に二人は、古い魔術研究を専門に扱う学者のもとを訪ねた。紹介された学者は、封印術の歴史については詳しかったが、ノエル本人とは面識がなかった。彼女が問い合わせた資料についても、古い封印の維持に関する記録だったという程度のことしか知らなかった。
昼を過ぎても、状況は大きく変わらなかった。
ノエルが封印術について調べていたことは、複数の記録から裏付けられつつあった。彼女が関心を持っていたのは、術式の理論だけではない。実際に長期間維持されてきた封印や、維持者に負担が集中する構造についても調べていたらしい。
それでも、白紙現象と結びつけるには情報が足りなかった。
エリアスは通り沿いの食堂で昼食を取りながら、手帳を開いていた。集めた情報を時系列に並べ、同じ資料を指していると思われる記録に印をつける。記述が食い違っている箇所はなく、今のところ大きな矛盾も見つかっていなかった。
だが、記録が一致していることは、そこに書かれていない部分まで正しいことを意味しない。
「何か見つかったか」
食事を終えたアルトが尋ねた。
「ノエルが調べていた資料の範囲は、少しずつ分かってきた。ただ、彼女の研究がどこまで進んでいたのかは分からない」
「本人を見つけるしかないか」
「ああ。ここまで調べたなら、なおさら本人に確認したい」
エリアスは手帳を閉じた。
ノエルが研究の答えを見つけていたとしても、それがすぐに白紙現象を解決する方法になるとは限らない。逆に、研究が途中だったとしても、彼女が何に気づいていたのかを知ることには意味がある。
今必要なのは、資料に書かれた断片から都合のいい結論を作ることではなかった。
彼女が何を知っているのかを確かめることだった。
午後、二人は魔術院に戻り、ノエルが以前に所属していた研究班の記録を調べた。彼女は特定の研究班に常時所属していたわけではなく、複数の研究者と必要に応じて共同研究を行っていたらしい。そのため、彼女の現在の居場所を知る人物を特定するのは難しかった。
それでも、記録を調べるうちに、ひとつ気になる点が見つかった。
ノエルが古い封印術の資料を申請した時期には、彼女が通常の研究課題に関する報告書を提出した記録がなかった。研究課題そのものがなかったのか、別の場所で研究を進めていたのか、それとも報告書が別の形で管理されていたのか。記録だけでは判断できなかった。
エリアスはその点を手帳に記した。
「報告書がないということは、研究をしていなかったということか?」
アルトが尋ねた。
「そうとは限らない。個人で調べていたのかもしれないし、正式な研究課題とは別に進めていた可能性もある。記録がない理由は、記録だけでは分からない」
「ノエルは、何かを隠していたのかもしれないな」
「その可能性もある。だが、隠していたと決めつけることもできない」
エリアスは台帳を返却した。
ノエルは何も知らなかったのかもしれない。あるいは、誰にも話せない何かを見つけていたのかもしれない。現時点では、どちらの可能性も否定できなかった。
夕方になり、二人は研究区画の出口へ向かった。
そのとき、廊下の向こうから、書類を抱えた若い研究者が歩いてきた。彼はアルトの姿に気づくと、一瞬驚いたように足を止めたが、すぐにエリアスの手帳へ目を移した。
「ノエルさんを探しているんですか」
その言葉に、エリアスは顔を上げた。
「彼女を知っているのか?」
「直接、一緒に研究したことはありません。ただ、少し前に彼女が古い封印術について調べているという話を聞きました。研究区画の資料だけでは足りないらしく、別の場所にも問い合わせている、と」
「誰から聞いた?」
「同じ区画の研究者です。詳しいことは知りません。ノエルさん本人と話したわけではないので」
エリアスは、すぐには質問を重ねなかった。
これまでに得られた情報と大きく違う話ではない。しかし、ノエルが魔術院の外にも資料を求めていたことは、別の形でも確認できた。彼女は少なくとも、研究区画の中にある資料だけでは足りないと考えていたらしい。
「その研究者の名前を教えてもらえるか」
若い研究者は名前を告げた。エリアスは手帳に書き留め、礼を述べた。
新しい手掛かりが見つかったことは確かだった。だが、それがノエルの所在につながるかどうかは分からない。明日、その研究者に話を聞く必要がある。
アルトは廊下を歩きながら、低い声で言った。
「少しずつ近づいている気はするな」
「情報は増えている。ただ、本人の居場所はまだ分からない」
「それでも、何も分からなかった頃よりはいい」
エリアスは返事をせず、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの光が研究区画の屋根を照らしていた。人々はいつも通りに働き、明日の研究の準備をしている。誰もが、自分たちの仕事が明日も続くことを疑っていないように見えた。
けれど、エリアスは知っていた。
記録に残っていた名前が消えることがある。人の記憶から、誰かの存在が薄れていくことがある。確かにそこにあったはずのものが、最初から存在しなかったかのように扱われることがある。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
だが、今までに起きたことを考えれば、ノエルについても、いつまでも同じ状態でいられるとは限らなかった。
その考えが浮かんだ瞬間、エリアスは歩みを速めた。
彼女が消えると決まったわけではない。何か異常が起きているという確かな証拠もない。それでも、所在が分からないまま時間を費やすことに、以前とは違う危機感を覚えていた。
資料を調べることは必要だった。しかし、資料の中に答えを探している間に、答えを知っているかもしれない人間を失うことがあってはならない。
「明日は、今聞いた研究者に会いに行こう」
エリアスは言った。
「それから、ノエルが最後に資料を申請した時期と、研究区画を利用しなくなった時期を照合する。彼女の行動を追う手掛かりがあるかもしれない」
「分かった」
二人は魔術院を後にした。
宿へ戻る道すがら、エリアスは手帳を取り出し、その日の調査結果を整理した。ノエルは古い封印の維持記録を探していた。複数の場所で資料を求めていた。研究の目的や結論を示す報告書は見つかっていない。彼女の所在も、依然として不明だった。
最後に、エリアスは一行を書き加えた。
資料から推測できることには限界がある。ノエル本人への接触を優先する。
書き終えると、彼は手帳を閉じた。
彼女が何を知っているのかは、まだ分からない。
しかし、彼女が残した記録を調べるだけでは、もう先へ進めないところまで来ていた。




