第34話 六人で作る封印
翌朝、エリアスは手帳に挟んでいた古い記録の写しを取り出し、宿の窓辺で読み直していた。
王立魔術院で調べた資料には、封印を維持する者に負担が集中する構造が記されていた。維持者の状態が変化すれば、封印そのものが不安定になる場合もある。そこまでは確認できた。しかし、白紙現象との関係は依然として分からない。資料に記された事例は、いずれも封印術の異常として扱われており、人間の記憶や記録、存在そのものが消える現象については触れられていなかった。
ノエルが何を考えていたのか。その答えを得るために、今日も彼女の所在を探すつもりだった。
ところが、宿を出る支度をしていたアルトが、机の上に広げられた写しを見て足を止めた。
「その資料、もう一度見せてくれ」
エリアスは顔を上げた。
「昨日も読んだだろう」
「読んだ。だが、気になるところがある」
アルトは椅子を引き寄せ、エリアスの向かいに座った。彼は魔術の専門家ではない。術式の細かな構造を理解することには長けていなかったが、戦場で危険を察知することには慣れていた。仲間の動きや敵の癖、ひとつの判断が全体に及ぼす影響。そうしたものを読み取る力は、研究者とは別の形で培われている。
彼は写しの一箇所を指で示した。
「ここだ。封印の維持者に異常が起きたとき、術式全体を見直す必要が生じたと書いてある」
「それは読んだ」
「この記録では、維持者の負担を減らすために、術式の一部を変更したんだな」
「そうだ。ただし、変更したのは負担の集中する箇所だ。封印の対象や目的まで変えたわけではない」
「なら、負担を分散させる方法もあるんじゃないか」
エリアスはすぐには答えなかった。
その可能性自体は、昨日の資料を読んだときにも考えていた。ひとりの維持者に負担が集中する構造があるのなら、その負担を複数の者に分ける構造も理論上は考えられる。だが、封印術は単純な荷物のように、人数を増やせば均等に分けられるものではない。術者同士の魔力の相性や、術式の構造、維持する対象の性質によって条件は変わるはずだった。
「可能性はある。だが、今の資料だけでは、実際に成立するかどうかは分からない」
「それを調べる必要がある」
「ノエルが同じことを考えていた可能性もあるな」
エリアスはそう言って、手帳を開いた。
これまで彼らが集めてきた記録は、白紙現象の原因を直接示してはいなかった。しかし、封印の維持者に異常が起きることと、封印全体が不安定になることには関係がある。もし現在の現象が何らかの封印と結びついているのなら、封印の構造を調べることは無意味ではない。
アルトは写しから目を離した。
「ノエルを見つけるのが先だな。彼女が何を調べていたのか分かれば、今の話も進められる」
「ああ。魔術院での聞き込みを続けよう。昨日、資料の申請先について調べたが、まだ確認できていない場所がある」
二人は朝食を済ませると、王立魔術院へ向かった。
昨日までと同じように、研究区画の廊下には人の行き来があった。魔法灯の調整をしている者、実験用の器具を運んでいる者、書類を抱えて早足で歩く者。誰もが自分の仕事に追われており、勇者アルトとその仲間が訪れたことを特別な出来事として扱う者は少なかった。
エリアスは受付でノエルの名前を告げ、彼女と連絡を取る方法がないか尋ねた。担当者は過去の利用記録を確認したが、昨日と同じ答えを繰り返すだけだった。最近の利用記録はなく、現在の所在も分からない。個人の連絡先については、本人の許可がなければ教えられないという。
次に二人が訪ねたのは、ノエルが以前に研究の相談をしていたという魔術師の部屋だった。
年配の魔術師は、二人の話を聞くと、しばらく考え込んだ。
「ノエル君か。最後に会ったのは、ずいぶん前になるな。古い封印術について質問されたのは覚えている。あの分野は記録が散逸しているから、調べるのも骨が折れる」
「彼女は、何を知りたがっていたんですか」
エリアスが尋ねた。
「古い封印の仕組みだ。特に、長期間維持されてきた術式について聞かれた。どういう条件で安定するのか、維持者に負担がかかった場合はどうなるのか。そういった話だったと思う」
「維持者に負担がかかった場合……」
エリアスは手帳を開き、聞き取った内容を書き留めた。
「そのとき、彼女は何か具体的な封印について話していませんでしたか。場所や対象、維持者の人数などです」
「いや。少なくとも、私に話した範囲ではな。こちらからも尋ねたが、まだ調べている途中だと言っていた。確かなことが分かるまでは、仮説を広めたくなかったのだろう」
アルトが一歩前に出た。
「その後、彼女が研究を続けているかどうかは分かりますか」
「分からない。研究区画に来なくなったのなら、別の場所で調べているのかもしれないが、私は知らないな」
魔術師は申し訳なさそうに首を振った。
二人は礼を述べて部屋を出た。
廊下を歩きながら、エリアスは聞き取った内容を整理していた。ノエルは古い封印の仕組みを調べていた。長期間維持される術式の安定性と、維持者にかかる負担。その二つに関心を持っていたらしい。
これまでの情報と矛盾はしない。むしろ、昨日確認した資料の内容とよく合っていた。
しかし、何を目的としていたのかは分からない。
過去の封印術を研究する理由は、いくつも考えられる。失われた技術を復元しようとしていたのかもしれないし、現在の封印術を改良するためだったのかもしれない。あるいは、特定の封印に問題が起きていることを知り、その原因を調べていた可能性もある。
どれも推測だった。
「負担を分散することについて、ノエルは何か言っていなかったのか」
アルトが尋ねた。
「その魔術師は、そこまでは話していないと言っていた。だが、維持者への負担を気にしていたのは確かだ」
「昨日の資料にあった話とつながるな」
「つながるようには見える。だが、同じ問題を調べていたからといって、同じ結論にたどり着いていたとは限らない」
「お前は慎重だな」
「慎重でなければ、記録を書く仕事は務まらない」
エリアスは答えた。
それは、かつてなら疑いなく口にできた言葉だった。記録を正確に残し、確認できた事実と推測を分ける。証言が食い違えば両方を記し、根拠のない断定を避ける。彼はその原則を守ってきた。
だが今は、記録そのものが失われることがある。
正しく書き残しても、後から消されるかもしれない。確かな証拠があっても、それを覚えている人間がいなくなるかもしれない。そうなったとき、記録の正確さだけで真実を守れるのだろうか。
エリアスは考えを振り払い、手帳を閉じた。
今はまだ、答えを出す段階ではない。
昼を過ぎた頃、二人は魔術院の古い記録を保管する別棟へ移動した。昨日申請した維持記録のうち、残りの資料が用意できたと連絡があったためだった。
案内された閲覧室は狭く、机が二つと書棚が並んでいるだけだった。窓は高い位置にあり、外の光が薄く差し込んでいた。管理人が持ってきたのは、古い封印の維持に関する複数の報告書だった。記録の一部には欠損があり、別の冊子には後世の研究者による注釈が加えられていた。
エリアスはまず、封印の構造を示した図面を確認した。
ひとりの術者を中心に構成された術式。周囲の魔力を集め、維持者の力を通じて封印を安定させる仕組み。図面には複数の補助術式が描かれていたが、最終的な維持の責任はひとりの術者に集中していた。
次の報告書には、その術者が長年にわたって負担を受け続けた結果、封印の維持が困難になった経緯が記されていた。術者が倒れた後、封印の一部が不安定になり、周囲の魔力に異常な変動が起きたという。
エリアスは、報告書の末尾に目を通した。
そこには、後任の研究者による短い所見が記されていた。
封印を長期にわたって維持するためには、維持者の負担を軽減する必要がある。ひとりの術者に依存する構造は、維持者の状態が変化した際に、封印全体を危険にさらす可能性がある。負担を分散する構造が成立すれば、維持者ひとりの異常が封印全体へ及ぼす影響を抑えられるかもしれない。
エリアスはその部分を読み返した。
「アルト、これを見てくれ」
アルトは隣から身を乗り出し、所見に目を落とした。
「負担を分散する構造……」
「理論としては、以前から考えられていたらしい。ただし、ここに書かれているのは可能性だ。実際に成立したという記録は見当たらない」
「それでも、試す価値はあるんじゃないか」
「その通りだ。もし、今の封印がひとりの維持者に依存しているのなら、負担を分散させる方法は解決につながるかもしれない」
言葉にした途端、エリアスは自分の考えが先へ進みすぎていることに気づいた。
今の封印がどのような構造なのか、まだ分かっていない。魔王城で見つかった記録にも、封印の全容を示す図面はなかった。古い封印術の資料が似た構造を扱っているからといって、それが現在の問題にそのまま適用できるとは限らない。
彼は手帳に「可能性」と書き添えた。
確定した事実と、解決の手掛かりになりそうな仮説。その区別を曖昧にしてはならない。
「この報告書を書いた研究者は、その後どうしたんだろうな」
アルトが言った。
「記録の続きを探す必要がある。実際に術式の改良を試みたのか、それとも理論の段階で終わったのか。そこが分かれば、何が可能で何が難しいのかも見えてくる」
「ノエルも、同じところにたどり着いていたかもしれない」
「可能性はある。彼女がこの報告書を読んでいたかどうかは、まだ分からないが」
エリアスは管理人に尋ね、関連する研究記録がほかにも残っていないか確認した。管理人は保管目録を調べたが、同じ封印についての記録は見つからなかった。後世の研究者による注釈がいくつか残されているだけで、実際に術式を改良したという報告は確認できなかった。
それでも、エリアスは資料を無意味だとは思わなかった。
封印の負担を分散するという考え方は、単なる思いつきではなかった。少なくとも過去の研究者が問題として認識し、理論上の解決策を検討していた。実現には至っていないようだが、試みる余地がないと結論づけられたわけでもない。
彼は報告書の内容を丁寧に写し、最後に自分の考えを短く記した。
封印の維持者に負担が集中している場合、負担を分散する構造が解決策となる可能性がある。ただし、現在の封印に適用できるかは未確認。
書き終えたところで、エリアスはペンを置いた。
窓から差し込む光は、いつの間にか傾いていた。書庫の中は静かで、遠くから聞こえる人の声もかすかだった。
アルトは椅子の背にもたれ、天井を見上げていた。
「もし、本当に負担を分散できるなら、消えた仲間たちを取り戻せるのか」
その問いに、エリアスはすぐには答えられなかった。
封印の負担を分散することと、消えた人間を取り戻すことは、同じではない。たとえ封印を安定させられたとしても、それだけで失われた記憶や記録が戻る保証はない。何より、彼らは消えた仲間たちがどこにいるのかさえ、まだ確かめられていなかった。
「分からない」
エリアスは正直に答えた。
「だが、封印の構造を変えることが必要になる可能性はある。そのためにも、ノエルが何を調べていたのか知りたい」
「彼女が見つけた答えが、俺たちの考えているものと同じならいいんだがな」
「同じかどうかも、まだ分からない」
アルトは苦笑した。
「お前と話していると、何も決まらない気がしてくる」
「決まっていないことを、決まったことにはできない」
「分かっている。だが、何かひとつくらい、確かな答えが欲しいんだ」
その言葉には、エリアスも返す言葉を見つけられなかった。
アルトは勇者として、魔王を倒すという目的を果たした。戦いの最中には、目の前の敵を倒し、仲間を守り、次の場所へ進むという明確な判断があった。しかし今は、戦うべき相手も、取り戻すべきものの所在も、はっきりしていない。
それでも、アルトが諦めていないことは分かった。
エリアス自身も同じだった。
資料を片づけ、管理人に礼を述べて閲覧室を出る頃には、外は夕暮れに包まれていた。魔術院の中庭には長い影が落ち、石畳の隙間を冷たい風が抜けていった。
エリアスは歩きながら、手帳の中身を頭の中で整理した。
ノエルは、古い封印術の仕組みを調べていた。特に、長期間維持される封印の安定性と、維持者にかかる負担に関心を持っていた。過去の研究記録には、ひとりの術者に負担が集中する構造と、それを分散する可能性についての考察が残されていた。
ここまでは、確認できた事実だった。
だが、ノエルがそれらの記録をどこまで読んだのか、何を発見したのか、現在の白紙現象とどのように結びつけていたのかは分からない。
彼女の所在も、依然として不明だった。
エリアスは中庭の出口で足を止め、王都の空を見上げた。
雲の切れ間から夕日が差し込み、遠くの建物の屋根を赤く染めていた。街にはいつも通りの生活があった。人々は明日の仕事を考え、夕食の支度をし、家族の待つ場所へ帰っていく。
その日常を守るために、彼らは魔王と戦った。
だが、その旅で何が起きたのか、誰がどんな役割を果たしたのか。今では、それを正確に語れる人間さえ少なくなりつつある。
エリアスは手帳を懐へしまった。
封印の負担を分散するという考え方は、解決への手掛かりになるかもしれない。しかし、それだけでは何も変えられない。必要なのは、現在の封印がどのような構造になっているのかを確かめ、その仕組みに何が起きているのかを知ることだった。
そして、そのためにはノエルの研究が必要だった。
彼女が見つけたものを知り、彼女が何を考えていたのかを確かめる。資料に残された文字だけでなく、研究した本人の言葉を聞く。
エリアスは、明日も彼女を探すつもりだった。
まだ答えは見つかっていない。
それでも、何も分からないまま立ち尽くしているわけではなかった。過去の記録の中に、封印の構造を変える可能性が残されていた。それが現実に使える方法なのかは、これから確かめなければならない。
彼は歩き出した。
失われたものを取り戻す方法があるのなら、見つけなければならない。
そして、その方法が存在するかどうかさえ分からない今だからこそ、確かなことと、まだ分からないことを、ひとつずつ記録していく必要があった。




