第33話 空白領域
王立魔術院でノエルの足取りを追い始めてから、二日が過ぎた。
エリアスは朝から研究区画を回り、ノエルと面識のある研究者を訪ねていた。彼女が以前に共同研究をしていた相手、資料の貸し出しを受けた相手、古い術式について意見を求めた相手。手帳に名前を書き出し、ひとりずつ話を聞いていったが、得られた情報は断片的だった。
ノエルは以前から古い魔術の記録に関心を持っていた。研究の話になると細かな点まで確認する一方、自分が何を調べているのかについては、必要以上に語らないことがあったらしい。特別に秘密主義だったという証言はなかったが、彼女が自分の研究を誰にでも説明する性格ではなかったことは、複数の研究者が口をそろえていた。
それでも、最近の彼女を見たという人間は見つからなかった。
研究区画の利用記録が途絶えた時期と、彼女が最後に目撃された時期が一致しているのかどうかも分からない。記録に名前がないことは、そこに来なかった証拠にはならない。まして、白紙現象が記録そのものに影響している可能性を考えれば、記録の欠落だけで彼女の行動を判断することはできなかった。
昼過ぎ、エリアスは研究区画の入口でアルトと合流した。
「何か分かったか」
「ノエルが最近、古い封印術について何人かに尋ねていたらしい。だが、具体的な研究内容は誰も知らなかった。そちらは?」
「似たようなものだ。以前の共同研究者に聞いたが、最近は会っていないと言われた」
アルトは疲れたように首を回した。
「魔術院にいないなら、どこにいるんだろうな」
「まだ分からない。王都の外に出た可能性もあるし、魔術院以外の場所で研究を続けている可能性もある」
「手掛かりが少なすぎる」
「だから、少ない手掛かりを勝手に答えに変えるわけにはいかない」
エリアスはそう答えながら、手帳を閉じた。
彼自身、焦りを感じていた。ノエルが何かを知っているのなら、彼女の言葉が必要だった。白紙現象について、封印について、そして消えていった仲間たちについて。これまでに見つかった痕跡は、どれも答えの輪郭をかすかに示すだけで、中心には届いていない。
しかし、焦って結論を出せば、間違った方向へ進むことになる。
エリアスはそれを、記録を扱う人間として知っていた。
その日の午後、二人は王立魔術院の資料管理室を訪ねた。前日に確認した閲覧記録をもとに、ノエルが申請した資料の貸し出し先と、関連する研究記録の所在を調べるためだった。
管理室の担当者は、古い台帳を何冊か机に並べた。ノエルの名前が記された箇所は確かに存在したが、記録されているのは資料の名称と閲覧手続きが中心で、研究の成果や結論については触れられていなかった。
「この資料を借りた後、研究報告書を提出していませんか」
エリアスが尋ねると、担当者は台帳をめくる手を止めた。
「通常の研究課題なら、報告書が提出されることもあります。ただし、すべての閲覧が研究課題に結びついているわけではありません。個人で調査していたのであれば、報告書がないこと自体は不自然ではありません」
「では、ノエルが何を調べていたのかは、ここからは分からない?」
「ええ。少なくとも、この台帳からは」
担当者の答えは明確だった。
エリアスは礼を述べ、台帳の記録を手帳に写した。資料を借りた事実は残っている。しかし、その資料を読んで何を考えたのかは残っていない。記録というものは、最初からすべてを保存するようにはできていなかった。
それでも、彼は台帳を閉じる前に、ひとつの記載に目を留めた。
ノエルが申請した資料の中には、封印術の歴史をまとめたものだけでなく、過去に実施された封印の維持記録も含まれていた。術式の理論を調べるだけなら必要のない資料ではない。だが、実際に運用された封印について調べていたのなら、彼女は理論だけではなく、その結果や問題点まで確認しようとしていた可能性があった。
エリアスはその記載に印をつけた。
確かなことではない。けれど、今までの情報をつなぐうえで、見落とすべきではない点だった。
「封印の維持記録か」
隣から台帳をのぞき込んだアルトが呟いた。
「ノエルは封印術そのものだけじゃなく、実際に使われた封印も調べていたらしい」
「魔王城の封印に関係があるのか?」
「それはまだ分からない。だが、可能性はある」
「なら、調べる価値はあるな」
エリアスは頷いた。
二人は担当者に許可を求め、該当する維持記録の閲覧を申請した。しかし、古い記録の一部は別の保管区画へ移されており、すぐには取り出せないという。閲覧には追加の手続きが必要で、準備にも時間がかかるらしかった。
結局、その日はそれ以上の調査を進められなかった。
魔術院を出た頃には、王都の通りに夕方の影が伸びていた。店先では夕食の準備が始まり、荷車が石畳をゆっくりと進んでいる。広場では子どもたちが走り回り、兵士たちが交代のために詰所へ戻っていった。
魔王が倒されてから、世界は平和を取り戻した。
人々はその事実を疑っていない。魔王城で何が起きたのか、誰がどのように戦ったのか。彼らが知っているのは、勇者アルトが魔王を倒し、長い戦いに終止符を打ったという歴史だった。
その歴史に、説明できない空白があることを知る者は少ない。
エリアスは通りの向こうに見える石碑を思い出した。そこに刻まれていたのは、勇者アルトの名と功績だけだった。仲間たちの存在を示すものはなく、彼らが何をしたのかを伝える記録も見当たらなかった。
そして、今も誰かが消えようとしている。
「エリアス」
アルトの声に、彼は考えを中断した。
「今日はもう休もう。明日になれば、維持記録の閲覧について返事が来るはずだ」
「そうだな」
「お前、さっきからずっと考え込んでいる」
「考えることが多いだけだ」
「考えて答えが出るなら、俺も止めない」
アルトはそう言って、通りの先へ歩き始めた。
エリアスはその背中を追った。
アルトもまた、失われた仲間たちについて考えているはずだった。盾に残った傷が何を意味するのか。思い出せない誰かを守ったのか。セレナの声が曖昧になっているという事実は、何を示しているのか。
それでもアルトは、歩みを止めなかった。
エリアスも同じだった。分からないことが多いからこそ、確かめられることをひとつずつ調べるしかない。
翌朝、二人は再び魔術院を訪れた。
閲覧申請していた維持記録の一部が用意されていたため、エリアスはアルトとともに資料室へ向かった。昨日の台帳に記されていた資料は、長い年月をかけて何度も補修されたものだった。紙の色は黄ばんでいたが、文字は比較的はっきりと残っている。
最初の記録には、封印の設置場所と術式の構成、維持に必要な魔力の量が記されていた。次の記録には、封印の状態を定期的に確認するための手順がまとめられていた。さらに後の記録になると、維持者の体調や魔力の変化についても記述されるようになっていた。
エリアスは一冊ずつ確認していった。
記録の中には、封印が不安定になった事例もあった。維持者が衰弱したことで術式の出力が低下したもの。周辺の魔力の流れが変化し、封印の一部に負荷が集中したもの。いずれも原因は異なっていたが、共通していたのは、封印を維持する仕組みのどこかに問題が起きると、その影響が術式全体へ広がる場合があるということだった。
「やはり、維持する者の状態が関係しているんだな」
アルトが記録をのぞき込みながら言った。
「少なくとも、ここに記録されている封印ではな。だが、これだけでは白紙現象との関係は分からない」
エリアスは慎重に答えた。
彼らが見つけたのは、封印が維持者や周辺環境の変化に影響されるという一般的な事実だった。そこから、記憶や記録が消えていく現象の原因まで説明できるわけではない。
それでも、資料の中には気になる記述があった。
ある封印では、維持者に異常が起きた後、術式の一部が本来の状態からずれ始めたと記録されていた。最初は小さな変化だったが、時間が経つにつれて複数の箇所に影響が広がり、最後には封印全体の構造を見直す必要が生じたという。
エリアスは該当箇所を読み返した。
術式の一部に生じた異常が、ほかの部分へ広がっていく。
それは、今の状況を考えるうえで無視できない記述だった。仲間たちの存在がひとりずつ失われていく現象と、何らかの共通点があるのかもしれない。
しかし、記録には人間の存在や歴史が消えることについては何も書かれていなかった。あくまで封印術の異常についての報告であり、白紙現象を説明するものではない。
エリアスは、資料の内容をそのまま手帳に写した。
「ノエルは、この記録を読んだんだろうか」
アルトが尋ねた。
「閲覧記録には、関連する資料を申請した形跡がある。だが、これを実際に読んだかどうかまでは分からない」
「彼女なら、何か気づいていたかもしれない」
「そうだといいがな」
エリアスは記録を閉じた。
もしノエルがこれらの資料を調べていたのなら、封印の維持に問題が生じる可能性について考えていたのかもしれない。だが、彼女が何を知っていたのかを確かめないまま、その考えを事実として扱うわけにはいかなかった。
彼は管理人に、ノエルが閲覧した資料の範囲をもう一度確認した。管理人は記録を調べたものの、過去の閲覧手続きには詳細なページ番号までは残されていないと答えた。どの資料をどこまで読んだのか、どこに注目したのか。それを示す記録は見つからなかった。
エリアスは礼を述べ、資料を返却した。
ここでも、記録は手掛かりを与えるだけだった。
午後になっても、ノエルの所在について新しい情報は得られなかった。研究区画の担当者からは、彼女の私的な連絡先については本人の許可なく教えられないと言われた。共同研究者のひとりは、以前にノエルから古い封印術について質問されたことを思い出したが、それ以上のことは知らなかった。
調査は少しずつ進んでいるようで、肝心なところには届いていなかった。
夕方、エリアスは魔術院の中庭にある石造りのベンチに腰を下ろした。手帳には新たな記録が増えていた。古い封印の維持方法。維持者の状態と術式の関係。異常が広がった事例。ノエルが閲覧を申請した資料の種類。
どれも無意味ではない。だが、彼が本当に知りたいことには答えていなかった。
消えた仲間たちは、どこへ行ったのか。
なぜ、彼らの存在を示す記録まで失われていくのか。
そして、どうすれば取り戻せるのか。
エリアスは目を閉じ、これまでに起きたことを順番に思い返した。祝勝会で感じた違和感。記録の中から失われていた名前。魔王城で見つかった文書。自分の筆跡によく似た署名。アルトの盾に残った傷。セレナについて曖昧になり始めた記憶。
ひとつひとつの事実を並べても、まだ全体像は見えなかった。
けれど、何も起きていないわけではない。
白紙現象は、彼らが調査を始める前から進行していた可能性がある。少なくとも、今までに見つかった痕跡だけでは、エリアスの調査が現象を引き起こしたと判断する根拠はなかった。
そのことだけは、はっきりさせておく必要があった。
もし彼らが調査をやめれば現象が止まるのだとしたら、仲間たちを取り戻すために何もしないという選択もあり得る。だが、原因が分からないまま調査をやめても、失われたものが戻る保証はない。
それどころか、何も知らないまま手をこまねいている間に、さらに誰かが消えてしまうかもしれなかった。
「まだ終わっていない」
エリアスは小さく呟いた。
隣に立ったアルトが、彼の手帳へ目を落とした。
「何がだ?」
「調査だ。分かったことは少ないが、調べるべきことは残っている」
「ノエルを見つけることもか」
「それが先だ。資料だけでは、彼女が何を知っているのか分からない」
アルトはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「明日も探そう。研究区画だけじゃなく、王都の外にいる可能性も考えてな」
「ああ」
エリアスは手帳を閉じた。
ノエルが古い封印術を調べていたことは分かった。封印の維持者に異常が起きれば、術式全体に影響が広がる場合があることも分かった。
だが、それだけだった。
白紙現象が封印と関係しているのか。消えた仲間たちがどこにいるのか。現象を止める方法があるのか。いずれも、まだ答えは出ていない。
彼らは資料を調べ、記録を照合し、分かることを少しずつ積み重ねてきた。それでも、今の段階では推測を事実に変えることはできなかった。
エリアスは立ち上がり、夕暮れに染まる中庭を後にした。
ノエルが何かを知っているのなら、本人の言葉を聞かなければならない。
そして、彼女が何も知らなかったとしても、調査を続ける理由は失われない。
消えていった仲間たちの痕跡は、今も完全には失われていない。手帳に残る記録も、盾に刻まれた傷も、古い資料に記された封印の構造も、まだそこにある。
それらが何を意味するのかを明らかにするまでは、答えを出すことはできなかった。




