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第32話 調査が原因ではない

 王立魔術院の地下書庫は、地上の研究区画とは別の時間が流れているようだった。


 窓のない通路には魔法灯が等間隔に並び、石壁に埋め込まれた古い保管庫を照らしていた。空気には乾いた紙と埃、それに長い年月をかけて染みついた魔力の匂いが混じっている。書庫の奥からは、ときおり分厚い本を運ぶ音や、金属製の梯子が床を滑る音が聞こえた。


 エリアスは閲覧許可の下りた資料を待ちながら、受付で得た情報を手帳に整理していた。


 ノエルは古い封印術に関する資料を閲覧していた。さらに関連する資料を申請していた形跡がある。しかし、閲覧した時期は分かっても、何を調べていたのかまでは分からない。研究の目的も、白紙現象との関係も、現時点では推測の域を出なかった。


 そもそも、ノエル本人にまだ会えていない。


 王都に戻れば、彼女の居場所が分かると思っていた。魔術院に籍を置く研究者なら、少なくとも現在の所属や研究区画の利用状況くらいは確認できるはずだった。ところが、受付の記録は彼女が以前ここを利用していたことを示すだけで、最近の動向については何も教えてくれなかった。


 エリアスは手帳の端を指で押さえた。


 記録が残っていることと、その人物の現在が分かることは別だった。記録を追えば真実に近づける。そう信じてきた彼にとって、それは当たり前のことのはずだった。それでも今は、残された記録が正しいという前提そのものを疑わなければならない。


「まだ時間がかかるのか」


 隣に立つアルトが、書庫の奥へ目を向けた。


「申請した資料が複数あるからな。古い封印術の記録は、閲覧できる人間も限られているらしい」


「ノエルは閲覧できたんだろう?」


「以前はな。彼女がどんな資格で閲覧したのかまでは、まだ確認できていない」


「本人に聞けば早い」


「その本人が見つからないんだ」


 アルトは反論せず、腕を組んだ。


 エリアスは言い方が少しきつくなったことに気づいたが、謝らなかった。アルトの言うことは正しい。本人に聞けば、記録の解釈に費やす時間は減るだろう。だからこそ、彼はノエルの所在を探している。資料を調べること自体が目的ではない。


 やがて、書庫の管理人が革表紙の束を抱えて戻ってきた。


「申請されたもののうち、こちらは閲覧可能です。ただし、封印術の原本は持ち出し禁止です。記述を書き写す場合も、指定された範囲に限ります」


「分かりました」


 エリアスは資料を受け取り、用意された机へ運んだ。


 最初の冊子は、古い封印術の分類をまとめた研究記録だった。術式の構造や魔力の流れ、封印対象の規模に応じた維持方法が、細かな図とともに記されている。数十年前のものらしく、途中から別の研究者による補足が加えられていた。


 次の資料には、封印の維持に必要な条件が列挙されていた。術式を成立させるための場所、魔力の供給源、維持に関わる者の役割。いずれも専門的な記述で、魔術に詳しくない人間が読めば、重要な部分を見落としてしまうだろう。


 アルトは最初の数ページを眺めたものの、すぐに顔を上げた。


「これが、ノエルの調べていたものか?」


「まだ分からない。閲覧記録にある資料と同じ分類のものではあるが、彼女がどこまで読んだかも、何を重要だと考えたかも不明だ」


「封印術を調べていたのは確かなんだろう」


「それはな。だが、封印術を調べる理由はいくらでもある。白紙現象と関係があると決めつければ、関係のない記述まで都合よく結びつけてしまう」


 エリアスはページをめくった。


 彼は記録を読むことに慣れていた。報告書の書式が違っていても、記述の癖や数字の並びから、書き手が何を重視していたのかを推測できることがある。曖昧な証言を照合し、食い違いを整理し、ひとつずつ確かな事実を残していく。それが彼の仕事だった。


 しかし、今ここにある資料は、何年も前の研究者が残したものだ。そこに書かれた理論が正しくても、現在起きている現象に当てはまるとは限らない。


 まして、ノエルが何を知っているかは、まだ分からない。


 彼女が研究していたという事実だけで、彼女が白紙現象の正体を知っていると考えるのは早計だった。逆に、記録にそれらしい記述がないからといって、彼女が何も知らないとも言えない。


 エリアスは資料の余白に短い印をつけ、該当するページを手帳に控えた。


 しばらくして、アルトが一冊の冊子を机の中央へ寄せた。


「これは、封印を維持する者について書かれている」


 エリアスは手を止めた。


 その冊子には、封印を成立させるために必要な術者と、封印を長期にわたって維持するための条件が記されていた。複数の術者が関わる形式もあれば、ひとりの術者に大部分の負担を集中させる形式もある。どちらが優れているかは、封印の目的や対象によって異なるらしい。


「ひとりに負担を集中させる方法があるんだな」


「古い術式では珍しくないらしい。構造を単純にできる代わりに、維持する者への負担が大きくなる。術者が耐えられなくなれば、封印そのものが不安定になる可能性もある」


 アルトは文字を追いながら言った。


「魔王を封じるための術式にも、こういうものが使われていたのか?」


「分からない。これだけでは、魔王城の封印と同じ構造だとは言えない」


 答えながら、エリアスは冊子の記述を手帳へ写した。


 ひとりに負担を集中させる封印。


 その言葉は、彼の中に引っかかった。


 魔王城で見つけた記録には、現在の歴史から除外された斥候の存在を示す痕跡があった。自分の筆跡によく似た署名まで残っていたが、そこに同意した記憶はない。アルトの盾には、公式記録では説明できない傷があった。セレナについても、彼女の顔は思い出せても、声や会話の細部が曖昧になっているという。


 それらの事実を並べても、まだ一本の線にはならない。


 封印術の資料を読んでいるからといって、すべてが封印に結びつくわけではない。そう自分に言い聞かせながらも、エリアスは次のページへ視線を落とした。


 そこには、封印の維持者に異常が起きた際、術式の一部が不安定になる可能性について書かれていた。記憶や意識に直接影響する術式の記述ではなかったが、維持者の状態が封印全体に影響するという考え方は読み取れた。


「アルト。もし封印を維持している者に異常が起きたら、周囲にも影響が出ることはあると思うか?」


「この資料に書かれている範囲なら、あり得るんだろう。ただ、それが人間の記憶や記録を消すことにつながるかは別の話だ」


「そうだな」


 エリアスは頷いた。


 彼らが探しているのは、似ている言葉ではない。白紙現象がどのような仕組みで起き、何を条件に進行しているのか、その具体的な根拠だった。


 そのためには、ノエル本人の話が必要だった。


 彼女は古い封印術の資料を調べていた。そこまでは記録で確認できた。だが、彼女が何を見つけたのか、どこまで研究を進めたのか、なぜ最近の利用記録が途絶えているのかは分からない。資料を読み続けても、その空白を埋めることはできなかった。


 エリアスは手帳を閉じた。


「いったん、ここまでにしよう」


「もういいのか?」


「資料の分類と、封印の維持に関する基本的な構造は分かった。これ以上読んでも、ノエルの研究内容を推測する材料が増えるだけだ」


「それで、次は?」


「所在を調べる。魔術院の記録だけで足りないなら、彼女が普段出入りしていた場所を当たる。研究者なら、共同研究者や資料の貸し出し先があるかもしれない」


 アルトは椅子から立ち上がった。


「最初からそうすればよかったんじゃないか」


「最初からそうするつもりだった。記録を確認したのは、彼女がここで何を調べていたのか、手掛かりがあるか確かめるためだ」


「その結果、封印術を調べていたことは分かった」


「それだけだ」


 エリアスは資料を管理人へ返却する準備を始めた。


 彼は、記録が役に立たないと思っているわけではない。むしろ、今ほど記録の必要性を感じている時期はなかった。だからこそ、記録が示す事実と、そこから自分が導き出した推測を混同してはならなかった。


 自分の筆跡によく似た署名が残っている。仲間の存在を示す痕跡が、公式の記録から失われている。白紙現象は、今も何かを消し続けている。


 それらは確かに起きていることだ。


 しかし、その原因が何なのか、どこまで過去の歴史改変と関係しているのか、まだ答えは出ていない。


 書庫を出る前に、エリアスは管理人へノエルの所在についてもう一度尋ねた。管理人は首を横に振り、研究者個人の行動については把握していないと答えた。ただ、ノエルが閲覧した資料の一部は、通常の研究課題に必要な範囲を超えていたように見えたという。


「どういう意味ですか」


「私は研究内容を判断できる立場ではありません。ただ、彼女が申請した資料には、現在の魔術院で一般的に扱われている封印術とは異なる系統のものが含まれていました。古い術式を調べる理由は人それぞれです。何か特別な目的があったのかもしれませんが、それは本人に聞くべきでしょう」


「分かりました。ありがとうございます」


 エリアスは礼を述べ、アルトとともに書庫を出た。


 地上へ続く階段を上がると、魔術院の廊下には朝よりも人が増えていた。研究者たちが書類を抱えて行き交い、遠くの実験室からは魔法が作動する低い音が響いている。王都は平穏だった。少なくとも、ここにいる人々の多くは、世界のどこかで自分たちの記憶や記録が失われつつあるなどとは考えていないだろう。


 エリアスは廊下の窓から、中庭を見下ろした。


 ノエルはこの場所にいた。少なくとも、記録が残っている時期には。彼女が何を調べ、何に気づいたのか。それを知るためには、彼女自身を見つけなければならない。


「まずは、彼女と一緒に研究していた人間を探そう」


 エリアスは言った。


「魔術院の中にいるとは限らない。共同研究者がいるなら、そちらから所在を追える可能性もある」


「分かった。俺は研究区画で、ノエルと親しかった人間を探してみる」


「頼む。俺は閲覧記録に残っていた資料の申請先を確認する。ノエルがどこから資料を取り寄せていたのか分かれば、手掛かりになるかもしれない」


 二人は廊下の分岐点で別れた。


 エリアスは再び手帳を開き、今日確認できた事実を書き足した。ノエルは古い封印術に関する資料を閲覧し、通常の研究課題とは異なる系統の資料も申請していた。だが、白紙現象との関係は確認できていない。本人の所在も不明。


 そこまで書いたところで、彼はペンを止めた。


 ノエルが何かを知っている可能性はある。しかし、それはまだ可能性にすぎない。


 彼女の研究が白紙現象に関係しているのか。封印術の資料を調べていた理由は何か。彼女自身は、今起きている現象をどこまで把握しているのか。


 答えを得るには、本人に会う必要がある。


 エリアスはそのことを手帳の最後に記し、今度こそペンを置いた。


 資料から分かったのは、ノエルが古い封印術を調べていたという事実だけだった。


 白紙現象の原因は、まだ分からない。


 そして、原因が何であれ、エリアスたちが調査を続けている間にも、失われたものが戻ってくる気配はなかった。

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