第30話 忘れることを選んだ者
第30話 忘れることを選んだ者
魔王城を出るころには、空が薄い灰色に変わり始めていた。
夜明けにはまだ早い。東の山並みの向こうがわずかに明るくなっているだけで、城壁の崩れた石も、足元に散らばる瓦礫も、冷たい影の中に沈んでいた。
エリアスは、歩きながら懐に手を当てた。
手帳と、記録室で見つけた古い文書。どちらも、確かにそこにある。
紙は軽い。手帳も、いつものものと変わらない重さしかない。それなのに、今まで持ち歩いてきたどの記録よりも、重く感じられた。
自分の筆跡で残された同意の記録。
あの一枚を見つけるまでは、エリアスは自分を、消えた仲間たちの痕跡を追う者だと考えていた。失われた名前を取り戻し、記録の欠落を埋め、何が起きたのかを明らかにする。それが自分にできることであり、自分がすべきことだと思っていた。
けれど、過去の自分が歴史の改変に同意していたのなら、彼は単に何かを奪われた側ではない。
自分が関わった決定によって、今の世界が作られた可能性がある。
その決定がどのような経緯で行われたのか、まだ分からない。リゼットが何を望み、彼らが何を恐れ、どんな選択肢を前にしていたのか。肝心な部分は、記憶にも記録にも残されていなかった。
それでも、何も知らなかったと言い切ることはできなくなった。
「首都に戻るのか」
先を歩いていたアルトが尋ねた。
「戻ろう。魔王城の記録と、公式の戦史を照合したい。俺の署名が残っていた文書と同じ方針が、首都側の記録にもあるかもしれない」
「見つかったら、どうする」
エリアスはすぐには答えなかった。
以前なら、記録が見つかれば、それを手掛かりに次の調査へ進むと答えただろう。確かめるべきことが残っている限り、調査を続ける。それだけの話だった。
だが、今は違う。
「隠さない」
彼はそう言った。
「俺に都合が悪い記録でも、消えた仲間たちに都合が悪い記録でも、見つかったものは残す。内容を確かめて、何が事実で何が推測なのかを分ける。それから、公開できる形にまとめる」
「自分が何をしたのか、分からなくてもか」
「分からないことを、分かったふりはできない。けれど、分からないからといって、見つけたものまで隠す理由にはならない」
アルトは足を止め、城を振り返った。
魔王城は、山の斜面に黒い輪郭を刻んでいた。かつて魔王が支配し、勇者一行が命を懸けて戦った場所。彼らが世界を救った証として語られてきた場所でもある。
その城に残されていたのは、勝利の記録だけではなかった。
封印の維持に使われた人々の記録。名前を失い、番号で管理された対象。負担が一人に集中する危険性を示す文書。そして、歴史の不一致を整理し、現行の記録に合わせようとした者たちの覚え書き。
その中には、エリアス自身の筆跡と思われる署名があった。
「俺たちは、魔王を倒した」
アルトは静かに言った。
「それは変わらない。魔王が人を犠牲にして封印を維持していたことも、許されることじゃない。あいつを倒したことを、今さら間違いだったとは思わない」
「俺もそう思う」
「でも、その後に俺たちが何をしたのかは、別の話だ」
アルトはもう一度、城に目を向けた。
「魔王を倒せば、全部終わると思っていた。少なくとも、俺はそう思いたかったんだろう。世界が救われたと認められれば、俺たちがやってきたことにも意味があったと信じられる。だから、その後に何が起きたのかを、きちんと考えなかったのかもしれない」
その声には、勇者として称えられてきた男の誇りと、その誇りだけでは説明できないものが混じっていた。
アルトは、戦いの結果を否定しているのではない。魔王を倒したことと、その後に起きた問題への責任を、別々に考えようとしているのだ。
エリアスには、その区別が必要だった。
魔王が犯した罪を明らかにすることと、自分たちの過ちを認めること。どちらか一方を語ることで、もう一方を見えなくしてはならない。
「俺たちは、何かを守ろうとしたのかもしれない」
エリアスは言った。
「世界の安定だったのか、リゼットの意思だったのか、それとも、自分たちが耐えられない事実から目をそらすためだったのか。今は分からない。でも、どんな理由があったとしても、何をしたのかまで曖昧にしていいわけじゃない」
「リゼットは、自分で選んだんだろうか」
アルトの問いに、エリアスは足を止めた。
それは、二人が何度も考えてきた問いだった。
魔王城の記録には、封印の核となる対象の意思を確認するよう求める記述があった。対象本人の希望と、封印を維持するために必要な役割を混同してはならないとも書かれていた。
また、核となった人物が、維持期間の終了後に帰還できるのかを尋ねた記録もあった。
それらの記録がリゼットについて書かれたものだと、まだ確定したわけではない。だが、彼女が自ら封印の核になることを選んだのだとすれば、そこには生きて帰ることへの願いもあったのかもしれない。
誰かを守ることと、自分が生きることは、必ずしも相反するものではない。
彼女が仲間を守ろうとしたのなら、仲間と再び会いたいと願うことも、同時にできたはずだった。
「選んだのかもしれない」
エリアスは答えた。
「でも、選んだことと、犠牲になっても構わないと思っていたことは同じじゃない。彼女が何を望んでいたのか、俺たちが何を伝えたのか、それを確かめないまま、彼女の選択を理由にして全部を正当化することはできない」
「俺たちは、その選択を隠した」
「その可能性が高い」
エリアスは言葉を慎重に選んだ。
「俺の筆跡が残っていた。あの文書が示しているのは、少なくとも俺が歴史の整理に同意した可能性だ。アルトも、何かを知っていた。記憶は戻っていないけれど、知らなかったとは言い切れない。これまでに見つかった記録も、その可能性を示している」
彼は懐の手帳を押さえた。
「ただし、具体的に何を決めたのか、誰が提案したのか、どうしてその方法を選んだのか。そこはまだ分からない。分からない部分を勝手に埋めれば、今度は俺たち自身が、新しい歴史を作ることになる」
アルトは小さくうなずいた。
二人は再び歩き始めた。
山道を下るにつれ、魔王城は木々の向こうに隠れていった。石の道は途中で途切れ、草に覆われた斜面へと変わる。足元には、かつて人が通ったと思われる窪みが残っていたが、それが勇者一行の帰路だったのかどうかは分からない。
公式の旅程にはない道。
記録から外された斥候の働き。
仲間の存在が失われていく現象。
それらは、まだ一本の線で結ばれてはいなかった。
しかし、エリアスには、以前とは違う見方ができるようになっていた。
白紙現象が何かを奪っているのだとしても、現在の記録が過去と食い違っているのだとしても、その原因を外側にいる誰かだけに求めることはできない。
歴史の不一致を整理しようとした者がいた。
現行の歴史に合わせる方針を確認した者がいた。
そして、その方針に同意したと読める記録に、自分の名前があった。
もし彼らが、リゼットの犠牲を隠すことで世界を守ろうとしたのなら、その選択は善意から生まれたものだったのかもしれない。
だが、善意だったという説明だけで、結果まで正しいことにはならない。
歴史から誰かを除外すれば、その人が生きた証だけでなく、何を成し遂げ、何を望み、何を選んだのかも伝わらなくなる。残された者たちは、彼女の存在を知らないまま、彼女がいない歴史を正しいものとして受け入れていく。
やがて、存在を示す記録と、人々の認識との間に矛盾が生じる。
その矛盾が白紙現象とどう結びついているのか、まだ十分な証拠はなかった。それでも、歴史を整理した決定と、今起きている異変を無関係なものとして扱うことは、もうできなかった。
首都へ戻る道の途中、エリアスは立ち止まって手帳を取り出した。
風が紙をめくろうとする。彼は片手で押さえ、先ほどの記録の下に、もう一つの文章を書き加えた。
私は、消えた仲間たちの痕跡を探してきた。しかし、発見された記録が示すのは、私自身もまた、彼らの存在を歴史から除外する決定に関わった可能性があるということだ。
その先を書こうとして、彼はペンを止めた。
自分が何をしたのか、まだすべては分からない。
どんな理由で同意したのか。反対しなかったのか。何を守ろうとし、何を犠牲にしたのか。そこを明らかにしなければ、責任を認めたことにはならないのかもしれない。
それでも、最初の一文を書いたことで、彼は一つのことを決めた。
自分が関わった可能性のある記録を、調査の対象から外さない。
自分に不利な証拠を、曖昧さを理由に捨てない。
そして、真実が分かったときには、自分の名前も含めて残す。
エリアスはペンを動かし、最後の一文を書いた。
私自身の責任についても、例外を設けない。
書き終えると、彼はしばらくその文字を見つめた。
これまでの記録には、消えた仲間たちの名前を取り戻したいという願いが込められていた。今も、その願いは変わっていない。
ただ、彼が記録に残すべきものは、仲間たちの功績や存在だけではなくなった。
彼らを忘れることになった理由。彼らの存在を歴史から外そうとした決定。そして、その決定に関わったかもしれない自分自身の姿。
それらをすべて記録することが、これからの調査の意味になる。
真実を明らかにすれば、失われた記憶が戻るとは限らない。記録が公開されたからといって、消えた仲間たちがすぐに帰ってくるとも限らない。彼らが再び存在を取り戻せるのかどうかさえ、まだ分からなかった。
それでも、何も知らないまま、存在しなかったことにされていくのを見過ごすわけにはいかなかった。
「エリアス」
アルトが呼んだ。
彼は手帳を閉じ、顔を上げた。
「これから、俺たちのことも調べるんだな」
「そうだ」
「俺が何をしたのかも」
「そうだ」
アルトは、わずかに目を伏せた。
「分かった。俺も隠さない。思い出せないことは思い出せないと言う。見つかった記録が俺にとって不都合なものでも、否定するために理由を探したりはしない」
それは、過去の決定を認める言葉ではなかった。何をしたのか、まだ確定していないのだから当然だった。
だが、過去を調べることから逃げないという意思は、確かにそこにあった。
エリアスはうなずいた。
二人は、首都へ続く道を歩き出した。
かつて彼らは、魔王を倒すために旅をした。
その旅の終わりには、勝利があり、祝福があり、世界を救った英雄たちという物語が残された。
しかし、その物語には欠けているものがあった。
斥候が見つけた道も、前衛が引き受けた傷も、治癒師が救った命も、魔術師が切り開いた道も、記録を残した者が見届けた事実も。六人がそれぞれの役割を果たしたからこそ、勇者は魔王のもとへたどり着くことができた。
そして、その六人は、戦いが終わった後にも選択を迫られたのかもしれない。
世界を守るために、何を残すのか。
何を隠し、何を伝え、誰の意思を尊重するのか。
その選択の中で、彼らは何かを失った。
エリアスは、まだその全容を知らない。
けれど、少なくとも、失われたものを探すだけでは足りないことは分かっていた。自分たちが何をしたのかを知り、その結果に責任を持つこと。それもまた、消えた仲間たちの存在を取り戻すために必要なことだった。
彼は懐の手帳に、もう一度触れた。
そこには、仲間を忘れないための言葉が残されている。
そして、今度は自分が忘れたいと思うかもしれない事実も、そこに加わった。
忘れたくないものだけを残すのではない。
忘れたいものまで含めて、真実を記録する。
それが、彼自身の選んだ道だった。




