第29話 自分の筆跡
記録室を出る前に、エリアスはもう一度、机の上に広げた報告書を見渡した。
勇者の功績を中心に整理すること。各担当の働きは、戦果の集計時に個別評価すること。二つの指示は、同じ戦いを記録しながら、異なる方向を向いていた。
誰が何を成し遂げたのかを残すための記録と、誰の功績として歴史を語るのかを決める記録。その間には、見過ごせない隔たりがある。
アルトは報告書を一枚ずつ重ね、元の順番に戻していた。彼の手つきは慎重だった。紙の端をそろえ、破れた部分を無理に伸ばさず、記録に記された番号を確認してから次の一枚に移る。かつては自分の功績を記したものだと疑わなかった書類を、今は自分の知らない誰かの働きを探すために扱っている。
「これで全部か」
アルトが尋ねた。
「少なくとも、この棚にあったものは」
エリアスは、調査した範囲を手帳に記した。発見した資料の種類、記載された指示、地図との対応関係。そこまでは確認できた事実だった。
だが、誰が歴史の整理を決めたのか。なぜ六人の働きを記録した資料が残されながら、後世に伝わった物語では勇者一人の功績が前面に出ているのか。それらについては、まだ推測の域を出ない。
記録が不完全であることと、誰かが意図して記録を改変したことは同じではない。エリアスは何度もその区別を自分に言い聞かせてきた。確かめられないことを事実として書けば、彼が追い求めている真実そのものが、別の不確かな物語に変わってしまう。
それでも、胸の奥に沈んだ違和感は消えなかった。
ここに残された記録は、単に失われた仲間の存在を示しているだけではない。六人で戦ったという事実と、現在の歴史に語られている戦いの姿が、どこかで食い違っている。その食い違いを知っていた者がいた。少なくとも、食い違いを整理しようとした者はいた。
そして、その者たちは、現在の歴史に合わせる方針を記録に残していた。
「もう少し調べよう」
エリアスは、部屋の奥に目を向けた。
壁際には、先ほどまで調べていた棚とは別に、背の低い収納箱がいくつか並んでいた。ほとんどの箱には番号が振られていたが、一番下の箱だけは蓋の表面が削れ、記号の一部しか残っていない。
「まだあるのか」
「あるかもしれない。ここまでの記録は、決定された方針や処理の結果が中心だった。実際に誰が何をしたのか、それを示すものが見つかっていない」
「つまり、決定した人間の名前が必要だと」
「名前だけじゃない。決定に関わったことが分かる記録だ」
エリアスは箱の前に膝をついた。
蓋は固く、端の金具には錆が浮いていた。力任せに開ければ、木材ごと崩れてしまいそうだった。彼は金具の状態を確かめ、壊れかけた留め具をゆっくりと外した。蓋がわずかに持ち上がり、乾いた埃の匂いが漂った。
中には、薄い紙束が収められていた。
正式な報告書ではないらしい。用紙の大きさもそろっておらず、端を切りそろえた跡もない。何かを決定する前に作られた草稿や、記録に添えるための覚え書きが混じっているようだった。
エリアスは一枚目を取り出した。
そこには、封印の維持に関する短い記述があった。二枚目には、記録の不一致についての協議内容が箇条書きでまとめられている。三枚目は半分ほど失われており、残った部分からは文章の全体を読み取れなかった。
どれも、すでに見つけた資料の内容を補うものだった。
エリアスは紙束を分け、内容ごとに並べ直した。アルトも隣に座り、文字の読める箇所を拾っていった。二人の間では、しばらく紙をめくる音だけが続いた。
やがて、エリアスの手が止まった。
最後の方に挟まっていたのは、ほかの紙よりも少し厚い用紙だった。表面には何度も折りたたまれた跡があり、中央に深い折り目が走っている。端の一部は変色していたが、文字はほぼ残っていた。
そこには、短い文章と、末尾に記された署名があった。
エリアスは、まず文章を読んだ。
記録の不一致を解消するため、現行記録との照合を実施すること。旧記録にのみ存在する記述については、物証と照合したうえで、現行記録に反するものを整理対象とすること。
そこまでは、これまでに見つけた文書と大きく変わらなかった。
その下に、別の筆跡で書き足された一文があった。
斥候に関する記載は、現行記録から除外する方針に同意する。
そして、その末尾に。
エリアス。
彼は文字を見つめたまま、動かなかった。
アルトが隣から覗き込んだ。
「どうした」
返事はなかった。
エリアスは紙を持つ指に力が入っていることに気づき、慌てて緩めた。古い用紙は薄く、強く握れば簡単に破れてしまう。彼はそれを机の上に置き、署名の周囲を改めて確認した。
名前だけなら、同じ名を持つ別人の可能性もある。
そう考えたのは、記録を扱う人間として当然だった。名前は証拠の一つにはなるが、それだけで書き手を確定することはできない。まして、これほど古い文書である。誰かが別人の名前を書き写した可能性も、完全には否定できない。
だが、署名の文字は、彼がよく知っている形をしていた。
エリアスは自分の手帳を開いた。
今までの調査記録が、日付ごとに書き込まれている。文字の大きさは一定ではない。急いで書いた箇所では線が乱れ、考えながら記した箇所では文字の間隔が広くなっている。それでも、繰り返し使う文字には、本人にしか分からないような癖があった。
彼は手帳の中から、名前を書いたページを探した。
何度も記してきた自分の署名。その最後の文字は、終わりの線がわずかに内側へ巻き込む。最初の文字には、書き始めに小さな引っかかりが生じる。筆圧のかかり方も、長い間書き続けてきた本人には見慣れたものだった。
古い紙に残る署名にも、同じ癖があった。
偶然と片づけるには、似すぎている。
「……俺の字だ」
声に出した途端、その言葉が部屋の中でひどく不自然に響いた。
アルトは古い紙と手帳を見比べた。
「間違いないのか」
「筆跡だけで断定はできない。ただ、署名の形だけじゃない。文字の崩し方も、線のつなぎ方も似ている。少なくとも、俺の筆跡である可能性は高い」
エリアスはそこで言葉を切った。
正確に答えるなら、そう言うしかなかった。
けれど、彼の目は署名から離れなかった。
斥候に関する記載を除外する方針に同意する。
斥候。
その言葉が誰を指しているのか、彼には分かっていた。リゼット以外に、六人の旅の中で斥候の役割を担っていた者はいない。ここまでの記録にも、彼女の働きと一致する役割が残されていた。
ただし、紙に彼女の名前はなかった。
名前を記さず、役割だけを記録から外す。そうすれば、後に残る資料から彼女の存在をたどることは難しくなる。だが、この一枚だけでは、彼女を消すためにどのような処理が行われたのかまでは分からない。
分かるのは、エリアスという名前の署名が、斥候に関する記載を除外する方針への同意とともに残されていることだった。
「お前が、同意したのか」
アルトの声は低かった。
責めるような響きではなかった。少なくとも、エリアスにはそう聞こえた。
だからこそ、答えに困った。
「この紙が俺のものなら、そういうことになる」
「自分が書いた記憶はないのか」
「ない」
即答だった。
エリアスは目を閉じ、記憶を探った。
魔王城の中で過ごした時間。戦いの後に交わした会話。封印について知ったときのこと。リゼットの名前を記録に残そうとしたこと。何一つ、確かな場面として浮かんでこなかった。
代わりに、断片的な感覚だけがあった。
机の上に置かれた紙。指先に伝わる筆記具の感触。誰かの声。自分の前に並んだ、複数の書類。
それらは、思い出と呼ぶにはあまりにも曖昧だった。目を凝らすほど、何かを見ようとするほど、輪郭が崩れていく。
やがて残ったのは、何かを決めなければならなかったという感覚だけだった。
誰が何を提案したのか。どんな言葉が交わされたのか。自分が何に賛成し、何に反対したのか。何ひとつ確かめられない。
エリアスは目を開いた。
記憶がないことは、書かれていることが嘘だという証拠にはならない。
彼自身が、何度もそう書いてきた。
リゼットの記録がないからといって、彼女がいなかったことにはならない。ガレクを覚えていない者が増えたからといって、ガレクが存在しなかったことにはならない。自分が書いた記憶がないからといって、この署名が自分のものでないと決めることもできない。
今まで他人の記憶に対して用いてきた基準が、初めて自分自身に向けられていた。
「お前が書いたとしても、何があったのかまでは分からない」
アルトが言った。
「そうだな」
「同意するまでに、何を話したのかも分からない。何を守ろうとしていたのかも」
「それでも、同意したという記録は残っている」
エリアスは紙の端を見つめた。
「俺は、記録を探していた。誰かが仲間を消したのだと考えて、その痕跡を追ってきた。けれど、もしこれが俺の筆跡なら……俺も、その決定に関わっていたことになる」
口にしてみると、思っていた以上に重い言葉だった。
これまで、エリアスは白紙現象によって記憶や記録を奪われた側に立っていた。自分だけが仲間を覚えていることに苦しみ、消えた者たちの痕跡を探し、誰が何をしたのかを明らかにしようとしてきた。
その立場が、根元から揺らいでいた。
彼は被害を受けていたのかもしれない。記憶を失い、過去の一部を奪われたことまで、自分の責任だと決まったわけではない。
だが、過去に自分が何かを選び、その結果として今の歴史が作られたのだとすれば、話は違ってくる。
知らなかったからといって、関わっていなかったことにはならない。
「……俺は、リゼットを忘れないために記録を残してきた」
エリアスは手帳に目を落とした。
何度も読み返した、自分の文字が並んでいる。
リゼットを忘れてはならない。たとえ、俺以外の全員が忘れても。
あの一文を書いた記憶もなかった。それでも、彼はその言葉を自分のものとして受け止めてきた。忘れたくないという願いが、確かにそこに残っていたからだ。
しかし、今、目の前にある文書もまた、自分の筆跡である可能性が高い。
忘れないために残した言葉と、忘れられるように記録から外すことに同意した言葉。同じ人間が書いたのだとすれば、その間には何があったのだろう。
リゼットを守ろうとしたのか。
彼女の選択を尊重しようとしたのか。
彼女の犠牲を隠すことが、世界を守るために必要だと考えたのか。
それとも、ほかの理由があったのか。
どれも、今の彼には答えられなかった。
彼女が自ら封印の核となることを選んだとしても、それだけで周囲の人間が彼女の存在を歴史から除外してよいことにはならない。彼女が何を望み、何を望まなかったのか。その意思を知ることと、彼女の存在を消すことに同意することは、別の問題だ。
そして、その区別を過去の自分が理解していたのかどうかさえ、分からなかった。
「この紙を、どうする」
アルトが尋ねた。
「持ち帰る。ほかの記録と照合する」
エリアスは慎重に紙を挟み、折り目に逆らわないように閉じた。
「俺の筆跡だというだけで、すべてを決めるつもりはない。ほかの資料と照合して、書かれた時期や文書の位置づけも確かめる必要がある。首都にある公式記録にも、同じ方針が残っているかもしれない」
「もし、同じものが見つかったら」
「そのときは、もっと否定しにくくなる」
エリアスは顔を上げた。
「それでも、何を考えていたのかまでは分からない。そこは別に調べる必要がある」
アルトはしばらく黙っていた。
彼もまた、自分の記憶の中に空白を抱えている。リゼットが封印の核となったことを知っていた。だが、そのことをいつ、どこで、誰から聞いたのか。彼女の選択を聞いたとき、自分が何を言ったのか。思い出せないままだった。
彼はエリアスの手元にある紙を見つめていた。
「俺も、何かを決めたのかもしれない」
「その可能性はある」
「自分が何をしたのか分からないまま、今まで勇者として語られてきた」
アルトは、乾いた笑いを漏らしかけて、やめた。
「魔王を倒した。それは事実だ。けれど、その後に何をしたのか分からないなら、俺が正しいことをしたと胸を張ることもできない」
「今は、正しかったかどうかを決める段階じゃない」
エリアスはそう答えた。
「何があったのかを確かめる。俺たちが何を知っていて、何を選んだのか。まずはそこからだ」
それは、これまで何度も口にしてきた言葉だった。
だが、今までとは違う重みがあった。
真実を明らかにするという行為は、誰かの罪を暴くことだけを意味しない。調べた結果、自分が望んでいなかった事実に行き着くこともある。自分が責任を問う側ではなく、問われる側にいたと分かることもある。
それでも、記録を残す者が、自分に都合の悪い事実だけを除外するわけにはいかなかった。
エリアスは手帳を開き、新しいページに日付と場所を書いた。
発見した文書の保管位置。文書に記された内容。署名の形状と、現在の筆跡との類似。文書が作成された正確な時期は不明であること。署名が本人のものだと断定するには、ほかの資料との照合が必要であること。
一つずつ、確認できた事実と未確定の事項を分けて記した。
最後に、ペンを止めた。
ここに何を書くべきか、すぐには決められなかった。
自分が歴史の改変に同意した可能性。
そう記せば、調査上の仮説としては正確だった。
だが、彼が恐れているのは、その一文が事実になることだけではない。もし本当に自分が同意していたのなら、彼はこれまで、知らないうちに自分自身の責任を避けるような形で調査を続けていたのではないか。
仲間を消した誰かを探すことで、自分が何をしたのかという問いから目をそらしていたのではないか。
その疑いを、今の段階で事実として記すことはできない。
しかし、疑いそのものをなかったことにもできなかった。
エリアスは、ページの下に短く書き加えた。
この記録が私の筆跡であるなら、私は歴史の改変に関与した可能性がある。記憶の欠落を理由に、関与を否定してはならない。
書き終えたあと、彼はその文章を読み返した。
筆跡は、いつもと変わらなかった。
自分の文字で、自分が知りたくなかった可能性を書き残している。その事実が、妙に現実的だった。
彼は手帳を閉じた。
記録室の奥には、まだ調べていない箱が残っていた。ここで見つかった一枚の紙だけで、過去のすべてが分かるわけではない。リゼットが何を望んだのか、アルトが何を知っていたのか、誰が歴史の整理を提案し、どのような理由でそれを実行したのか。答えの出ていない問いは多い。
それでも、調査の向かう先は変わり始めていた。
消えた仲間たちの痕跡を探すだけでは、足りない。
彼らの存在がなぜ歴史から失われたのかを明らかにするには、消した側に誰がいたのかを知らなければならない。そして、その中に自分が含まれている可能性からも、逃げることはできない。
「行こう」
エリアスは立ち上がった。
アルトも残りの資料を箱に戻し、蓋を閉じた。二人は記録室を出る前に、棚と机の位置を確かめ、調査した資料が元の場所から大きく動いていないことを確認した。
廊下に出ると、魔王城の奥から冷たい風が流れてきた。
かつて、この城で何が話し合われたのか。誰が何を選び、誰がそれを受け入れたのか。記録の中には、まだ言葉になっていない部分が多く残されている。
エリアスは、手帳を懐にしまった。
そこには、仲間を忘れないための言葉がある。
そして今、自分が仲間を忘れさせる決定に関わったかもしれないという記録も加わった。
どちらか一方だけを残すことは、もうできなかった。
真実を探すことは、自分を正しい側に置くための作業ではない。
そのことを、エリアスはようやく、自分自身の問題として考え始めていた。




