第26話 リゼットが選んだもの
魔王城の奥へ進む通路は、外から差し込む光が届かなくなるにつれて、少しずつ狭くなっていた。
壁の石材には長い年月を経たひびが走り、床には崩れた天井の破片が積もっている。かつては兵士が行き交っていたのか、一定の間隔で壁に金具が取り付けられていたが、その多くは錆びつき、用途を知る手がかりも残っていなかった。
エリアスは足元を確かめながら進んだ。左手には灯りを掲げ、右手には日記を持っている。何かを見つけるたびに記録できるようにしていたが、ここまで来てから、ほとんど文字を書けていなかった。
頭の中に、アルトの言葉が残っていた。
リゼットが核になったことを、俺は知っていた。
それは、これまでの調査で得たどの記録よりも重い証言だった。書物に残された記述なら、書いた者の誤認や意図的な改変を疑うこともできる。しかし、アルト自身が何かを知っていたと認めた以上、調査の対象は過去の記録だけでは済まなくなった。
彼らは、リゼットが消えたことに気づかなかっただけなのか。
それとも、彼女が消える前に、何かを知っていたのか。
その違いは大きかった。
「この先に、部屋がある」
先を歩いていたアルトが立ち止まった。
通路の右側に、石の扉が埋め込まれていた。扉そのものは半ば崩れ、片側が床に倒れている。開口部の上には、文字の刻まれた金属板が残っていた。
エリアスは灯りを近づけた。
文字の大半は錆と汚れに覆われていたが、いくつかの単語は読み取れた。
封印維持。
記録保管。
その下には、細い線で区切られた欄があり、何かの番号が並んでいた。名前らしきものは見当たらない。
「また記録室か」
アルトが言った。
「同じ場所でも、扱っている記録が違うかもしれない。封印の構造を記した部屋と、維持に関わった人間の記録を保管する部屋は、分けられていた可能性がある」
「人間、か」
アルトの視線が金属板から離れた。
エリアスはそれ以上言わず、扉の残骸をまたいだ。
部屋の中には、壁に沿って低い棚が並んでいた。棚の一部は崩れていたが、奥の壁際には、金属製の保管箱が三つ残っている。床には破れた紙が散らばり、湿気で貼りついたものもあった。
前の記録室と比べると、ここは不自然なほど整然としていた。
少なくとも、最後に使われたときには、ここに保管された資料が重要なものとして扱われていたのだろう。箱には封印用の金具がつき、棚の前には内容を示す札が残っていた。
エリアスは手前の箱を調べた。
留め具は錆びついていたものの、壊れてはいない。力をかけると、乾いた音を立てて外れた。
中には、薄い金属板と、何枚かの記録紙が収められていた。
金属板には、封印の維持に関する作業項目が列挙されていた。負担の確認、各部の調整、核の状態の観察。ほかにも細かな項目が並んでいたが、記録の一部は失われていた。
その下に、一枚だけ、ほかとは異なる紙があった。
紙の端は焼け焦げ、中央には短い文章が残っている。
エリアスは、破れないよう慎重に広げた。
そこには、封印の核となる人物についての注意書きが記されていた。
核となる対象の意思を確認すること。
維持のための役割と、対象本人の希望を混同してはならない。
対象が負担を引き受ける場合、その意思を尊重すること。ただし、意思の確認のみをもって、負担の妥当性が保証されるものではない。
エリアスは、最後の一文を何度も読み返した。
誰かが、核となる人物の意思について記録を残していた。
しかも、ただ従わせればいいという考え方ではなかった。対象本人が望んでいるかどうかを確認し、それでも、その意思があるというだけで仕組みそのものを正当化してはならないと警告している。
この注意書きがいつ書かれたものなのかは分からない。旧封印の設計段階なのか、運用が始まってからなのか。それさえ、紙面には記されていなかった。
「アルト、これを見てくれ」
アルトは近づいてきた。
彼は紙に目を落とし、最初の一文を読んだところで動きを止めた。
「意思を確認する……」
その声には、先ほどまでとは異なる響きがあった。
「何か思い出したのか?」
「いや」
アルトは首を横に振った。
「ただ、リゼットなら……」
そこまで言って、彼は口を閉じた。
エリアスは続きを待った。
「リゼットなら、自分で決めたと言ったんじゃないかと思ったんだ」
「自分で、核になることを?」
「分からない。そう思っただけだ」
アルトは紙から目を離した。記憶を取り戻したわけではないらしい。今の言葉も、確かな証言ではなく、彼がリゼットという人物を思い浮かべたときに生じた推測だった。
それでも、エリアスはその言葉を軽く扱えなかった。
リゼットは斥候だった。危険な場所を調べ、仲間が通れる道を探し、必要ならば先行して敵の動きを確かめる役割を担っていた。エリアスが知っているのは、断片的な記録や、旅の痕跡から推測できる働きだけだ。
だが、もし彼女が仲間を守るために自分から危険へ向かうことを選ぶ人物だったとしても、それだけで封印の核になることまで望んだとは言えない。
誰かを守りたいという気持ちと、自分の命を差し出すことを受け入れる気持ちは、同じではなかった。
「この記録は、意思を確認する必要があったことを示している」
エリアスは言った。
「でも、リゼットが実際に意思を確認されたのか、何を答えたのかは分からない。彼女が自分で選んだという証拠にはならない」
「ああ」
「お前が今思い出したことも、事実と推測を分けておこう」
アルトは不満を示さなかった。
「そうしてくれ。俺自身、何を思い出しているのか分からないんだ」
エリアスはうなずき、日記を開いた。見つけた注意書きの内容と、アルトが口にした言葉を書き留める。確定した事実と、そこから生じた推測を別々の段落に分けた。
記録を書き終えたとき、アルトが奥の棚を指さした。
「あれも見てくれ」
棚の下段に、細長い箱が横向きに押し込まれていた。ほかの保管箱とは違い、封印用の金具はついていない。箱の表面には、手書きの文字が残っていた。
核となる対象に関する記録。
その文字を見た瞬間、エリアスは日記を閉じた。
二人で箱を引き出し、机の上に置いた。木材は乾燥して脆くなっていたが、蓋はまだ形を保っている。
中には、数枚の記録紙が入っていた。
最初の紙には、核となる対象の状態を観察するための項目が並んでいた。意識の有無、意思疎通の可否、封印の安定性、負担の変化。いくつかの欄には記号が記されているが、数字の意味は分からなかった。
次の紙には、定期的な確認の記録が残っていた。
記載は簡潔だった。
対象の意識は保たれている。
意思疎通に問題なし。
封印の維持状態は安定。
その後も似た記述が続いていた。
エリアスは一枚ずつ確認していった。日付はところどころ失われていたが、記録は一定の間隔で繰り返されていたようだった。
対象の意識は保たれている。
その一文が、何度も現れる。
エリアスは、そこに違和感を覚えた。
封印の核に据えられた人物が、単に命を犠牲にするだけの存在だったのなら、意識の有無を定期的に確認する必要はあったのだろうか。もちろん、封印の仕組みに必要な観察だった可能性はある。記録だけから、対象がどのような状態に置かれていたのかを決めることはできない。
しかし、少なくとも、記録を残した者たちは、その人物の意識が保たれているかどうかを重要な事項として扱っていた。
エリアスは次の紙を手に取った。
そこには、短い記述があった。
対象より、維持期間終了後の帰還について質問あり。
回答保留。
エリアスの指が止まった。
もう一度、文字を読んだ。
帰還。
たった二文字が、紙面のほかの記述から浮かび上がって見えた。
「アルト」
彼は紙を差し出した。
アルトは受け取らず、エリアスの手元を覗き込んだ。文章を読み終えると、顔から表情が消えた。
「帰還後のことを、聞いていたのか」
「そう読める」
「維持期間が終わったら、帰れると思っていたのか……」
アルトの声は、次第に小さくなった。
エリアスは答えなかった。
記録にあるのは、対象が帰還について質問したという事実だけだった。どこへ帰ろうとしていたのか。維持期間終了後に帰還が可能だったのか。そもそも、封印の核が一定期間で役目を終える仕組みだったのか。
何も分からない。
それでも、この記述は、核となる人物が単なる装置の一部として扱われていたわけではないことを示唆していた。
少なくとも、その人物は、自分がそこを離れたあとのことを考えていた。
封印の維持が終われば、どこかへ帰るつもりだったのかもしれない。
誰かに会うために。
あるいは、再び自分の生活へ戻るために。
エリアスは、リゼットが帰還について尋ねたのだと断定することはできなかった。記録には名前がなく、対象を特定できる情報もなかった。
だが、もしこの記録がリゼットに関するものなら。
彼女は、ただ世界を救うために自分の命を差し出したかったわけではなかったのかもしれない。
彼女も、帰るつもりだった。
仲間たちとともに旅を終え、故郷へ戻り、魔王を倒したあとの世界で生きていく。そんな未来を望んでいたとしても、不思議ではない。
エリアスは、その想像を急いで日記に書こうとはしなかった。
記録が支えるのは、対象が帰還について質問したという事実までだ。その人物がリゼットだったという証拠はないし、質問の意味も分からない。
だが、今までの資料にはなかった視点が、そこにはあった。
核となった人物は、封印を維持するための役割だけを持っていたのではない。
その人には、封印の外で続くはずだった時間があった。
「リゼットは、帰りたかったんじゃないか」
アルトが言った。
エリアスは彼を見た。
「何か思い出したのか?」
「違う。記憶じゃない」
アルトは首を振った。
「でも、あいつが自分から核になることを選んだとしても、それで帰りたくなかったことにはならないだろう」
その言葉は、静かだった。
「俺たちと一緒に帰りたいと思っていたとしても、おかしくない」
エリアスは、すぐには返事をしなかった。
アルトの言葉は、記録から直接導かれる結論ではなかった。それでも、彼女の意思を考えるうえで、忘れてはならないことだった。
何かを選んだからといって、それ以外の望みをすべて捨てたとは限らない。
誰かを守ろうとしたからといって、自分が守られることを望まなかったとは限らない。
そして、自分の役割を受け入れたことと、その役割によって失うものを何も惜しまなかったことも、同じではない。
「俺たちは、彼女が何を選んだのかだけじゃなく、何を望んでいたのかも調べる必要があるな」
エリアスが言うと、アルトはうなずいた。
「そうだな」
アルトは再び記録に目を落とした。
「俺は、リゼットが核になったことを知っていた。それなのに、彼女が帰りたがっていたかどうかさえ、思い出せない」
その声には、先ほどまでとは違う重さがあった。
自分が何を知っていたのかという疑問から、自分が何を見落としていたのかという疑問へ。
記憶の空白は、ただ情報が失われたことだけを意味しているのではなかった。かつて確かに存在したはずの会話や判断が失われたことで、彼らが仲間をどう扱ったのかさえ、分からなくなっている。
アルトは記録紙を机に戻した。
「俺たちは、彼女を守ろうとしていたんだろうか」
エリアスは、しばらく考えた。
「それは、まだ分からない」
「彼女が自分で選んだのなら、俺たちは何もしなくてよかったのか?」
「それも違うと思う」
エリアスは、紙面に残された文字を見つめた。
「本人が望んだことでも、その選択しかできない状況だったのなら、本当に自由な選択だったのかは分からない。逆に、俺たちが彼女を止めようとしたとしても、彼女の意思を無視していいことにはならない」
自分の言葉が、簡単な答えになっていないことは分かっていた。
だが、簡単に答えを出すべき問題ではなかった。
リゼットが自ら核になることを選んだのだとしても、それで仲間たちの責任が消えるわけではない。彼女が望んだことを尊重するのと、彼女が失うものを見ないふりをするのは違う。
そして、彼女が何を望んでいたのかを知らないまま、彼女の選択を美しい犠牲として語ることも、同じように危うかった。
エリアスは日記を開き、見つけた記録の要点を書き留めた。
核となる対象について、意識と意思疎通の状態を定期的に確認した記録がある。また、対象が維持期間終了後の帰還について質問した記述が残されている。ただし、対象の名前は不明であり、リゼット本人に関する記録かどうかは確認できない。
書き終えてから、エリアスはもう一度、記録紙を確認した。
文字は古び、ところどころ薄れていた。それでも、帰還という言葉は読み取れた。
彼はその一文を、リゼットのものだと決めつけることはできなかった。
しかし、もし彼女が核だったのなら、彼女にも帰りたい場所があったのではないか。
仲間たちと過ごした時間があり、旅の終わりに見たかった景色があり、魔王を倒したあとに生きる未来があったのではないか。
その可能性を、彼はもう無視できなかった。
アルトは窓のない部屋の奥を見ていた。
「俺は、あいつが自分で決めたことなら、受け入れたんだろうか」
エリアスは、すぐに答えなかった。
アルトがリゼットの意思を尊重したのか。それとも、彼女の選択を受け入れることで、ほかの道を探すことをやめたのか。
今の彼には、その違いを確かめる記憶がない。
「それを確かめるためにも、記録が必要だ」
エリアスは言った。
「彼女が何を選んだのか。そのとき、俺たちが何を知っていたのか。そして、彼女が何を望んでいたのか」
「記録に残っていればいいがな」
「残っていなくても、探すしかない」
エリアスは記録紙を箱に戻した。破損を防ぐため、順番を変えないように並べ直し、蓋を閉じる。
箱の中にあった記録は、リゼットの意思を証明するものではなかった。
けれど、封印の核となった人物が、役割を果たすだけの存在ではなかったことを示す手がかりにはなった。
その人物は意識を保ち、意思疎通を行い、帰還について質問していた。
封印の外にある時間を、考えていたのだ。
エリアスは、箱の表面に書かれた文字をもう一度見た。
核となる対象に関する記録。
名前はない。
名前がないからといって、その人物に名前がなかったわけではない。誰かに呼ばれ、誰かと話し、何かを望んでいたはずだった。
その当たり前のことが、今の彼らには、記録を探さなければ確かめられない事実になっている。
二人は記録室を出た。
通路の向こうから、薄い光が差し込んでいた。魔王城の外へ続く道だったが、エリアスはそちらへ向かわず、奥に残された扉へ目を向けた。
リゼットが何を選んだのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
ただ一つ、エリアスは確かめておきたいことがあった。
彼女が世界を守ることを選んだのだとしても、世界の外にある自分の未来まで、捨てるつもりだったとは限らない。
リゼットは、ただ消えるために生きていたわけではない。
そのことだけは、記録の欠落に埋もれさせてはならないと思った。




