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第25話 封印の核

 石板の前から離れたあとも、エリアスの頭には、古い記録に残された一文が引っかかっていた。


 核となる対象は、封印の維持に必要な負担を引き受ける。


 記録の文面は簡潔だった。対象が何者なのか、どのような方法で負担を引き受けるのか、そしてその負担が具体的に何を意味するのか。肝心な部分は、どこにも書かれていない。


 それでも、これまで見つけた資料を重ねれば、ひとつの可能性が浮かび上がる。


 魔王は、白紙現象を抑えるために人間を犠牲にしていた。旧封印は、その負担を一つの対象に集中させる仕組みだった。そして、魔王が倒されたあとも、白紙現象は終息していなかった。


 ならば、魔王の死後に封印を維持するため、誰かが同じ役割を引き受けたのではないか。


 エリアスはその考えを日記に書き留めていた。だが、そこから先は推測だった。旧封印の核が人間だったという確証さえ、まだ得られていない。


 まして、その人物が誰だったのかなど、見当もつかなかった。


「もう一度、図面を確認しよう」


 エリアスが言うと、アルトは短くうなずいた。


 二人は記録室に戻った。崩れた壁の向こうに隠されていたこの部屋には、封印に関する資料がほかにも残されていた。棚の大半は空になっていたが、床には破れた紙片が散らばり、壁際の収納箱には古い金属板が積まれている。


 エリアスは、先ほど見つけた図面を机に広げた。


 中央に大きな円が描かれ、その周囲に複数の円が配置されている。中心には「核」、周囲にはそれぞれ異なる記号が記されていた。線は中心と周囲を結び、いくつかの箇所には修正の跡が残っている。


 周囲から負担を集め、中心に集約する。


 図面から読み取れる構造は、記録に書かれていた説明と一致していた。


「この中心にいた人間が、魔王の使っていた犠牲者と同じ立場だったとしたら……」


 エリアスは言いかけて、口を閉じた。


 魔王の時代に使われた方法と、魔王の死後に用いられた封印が同じものだとは限らない。人間を核にするという点が共通していても、目的や仕組みには違いがあったかもしれない。


 何より、誰かが自らその役割を引き受けた可能性もある。


 犠牲にされた者と、何かを守るために選んだ者。その二つを同じ言葉で片づけてしまえば、当人の意思まで見失うことになる。


「この図面だけでは、何も決められないな」


 アルトは答えなかった。


 彼は図面を見つめていた。中央の円ではなく、その周囲に伸びる線を追っている。指先が、紙の端に触れたまま動かなくなっていた。


「アルト?」


 呼びかけると、アルトはゆっくりと顔を上げた。


「……この図を、俺は見たことがある」


 エリアスは手を止めた。


「魔王城に来たときにか?」


「いや。もっと前だ」


 アルトは再び図面に目を落とした。眉間に深いしわが寄っている。記憶を探ろうとしているのだろう。だが、彼の表情には、何かを思い出そうとする苦しさだけではないものがあった。


 知っているはずのことを、今まで知らないふりをしていた人間の顔に似ていた。


「中央に誰かがいた。周りには、俺たちがいた」


「俺たち?」


「……そうだと思う」


 アルトは自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと続けた。


「はっきりとは思い出せない。誰が何を言ったのかも、どこで話したのかも分からない。ただ、この形を見ていると、あのときのことが……」


 彼はそこで言葉を切った。


 エリアスは急かさなかった。


 断片的な記憶を無理に一つの物語へまとめれば、記憶にない部分まで想像で埋めてしまう。今までの調査で、何度もその危うさを思い知らされてきた。


「中央にいたのは、誰だ?」


 アルトの喉が動いた。


 答えを探すように目を閉じ、しばらくしてから、彼は小さく息を吐いた。


「リゼットだ」


 その名前が、静かな記録室に落ちた。


 エリアスは、すぐには返事ができなかった。


 忘れられた斥候。旅の記録から消え、仲間たちの記憶からも失われていった少女。彼女が確かに存在したことを示す痕跡を、エリアスは一つずつ探してきた。


 しかし、彼女が封印の核になったという証拠は、まだどこにもなかった。


「リゼットが、封印の核だったのか」


 アルトは目を開けた。


「……俺は、それを知っていた」


 エリアスの胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。


 アルトは、リゼットの存在を思い出せないと言っていた。彼女の声を忘れかけていることも、旅の記憶に不自然な空白があることも、二人で確かめてきた。


 それなのに、今、彼は知っていたと言った。


「いつからだ?」


「分からない」


「魔王を倒す前か。それとも、倒したあとか」


「分からない」


「リゼットが核になったところを見たのか?」


「分からないんだ」


 アルトの声が強くなった。怒りを向けられたわけではないと分かっていても、エリアスは口を閉じた。


 アルトは図面から目を離さなかった。


「知っていた。それだけは分かる。リゼットが核になったことを、俺は知っていた。彼女がそこにいることも、何のためにそこにいるのかも……知っていたはずなんだ」


 最後の言葉は、ほとんど独り言だった。


「でも、どうしてそうなったのかは思い出せない。誰が提案したのか、彼女が何と言ったのか、俺が何を答えたのか。何一つ、はっきりしない」


 アルトは片手で額を押さえた。


「俺は、彼女を助けようとしたんだろうか。それとも……」


 言葉が途切れる。


 その先を、彼自身も口にできないようだった。


 エリアスは、机の端に置いていた日記を引き寄せた。新しいページを開き、アルトの言葉を書き留める。


 アルトはリゼットが封印の核になったことを知っていたと証言した。だが、いつ、どこで、どのように知ったのかは不明。本人の記憶には欠落があり、当時の会話や判断の経緯は確認できない。


 そこまで書いて、エリアスはペンを止めた。


 彼は、さらに一文を書き加えようとした。


 アルトは記憶を失った被害者である。


 だが、ペン先は紙に触れなかった。


 今の証言は、その一文を簡単には書かせてくれなかった。


「アルト」


「何だ」


「お前は、リゼットが核になったことを知っていた。それは今、確かにそう言ったな」


「ああ」


「なら、俺たちが何かを決めた可能性もある」


 アルトは顔を上げた。


「俺たちが?」


「お前は、彼女が核になったことを知っていたと言った。誰かに知らされただけなのか、自分で決めたことなのかは、まだ分からない。だが、少なくとも、お前はその事実を知らないまま旅を終えたわけではなかった」


 アルトは何も答えなかった。


 否定したいのか、認めたくないのか。あるいは、否定するための記憶さえ残っていないのか。


 そのどれなのか、エリアスには判断できなかった。


「俺は……彼女を置いて帰ったのか」


 アルトの問いは、誰に向けられたものでもなかった。


 エリアスは、答えを持っていなかった。


 図面の中央に描かれた円が、二人の間に横たわっていた。そこには名前も、顔も、意思も記されていない。ただ「核」という二文字だけが、役割を示すように書かれている。


 その円の中にリゼットがいたのだとすれば、彼女は何を考えていたのだろう。


 自分から望んだのか。ほかに方法がなかったのか。仲間たちは彼女を救おうとしたのか、それとも世界を救うために彼女を残すことを選んだのか。


 記録は何も答えなかった。


「まだ決まったわけじゃない」


 エリアスは言った。


「お前が知っていたことと、俺たちが何をしたのかは別の問題だ。今は、分かっていることを分けて考えるしかない」


「分かっていることか」


 アルトは乾いた声で繰り返した。


「俺が知っていた。それだけだ」


「そうだ。だから、そこから先を調べる」


 エリアスは日記に視線を落とした。


 彼はこれまで、消えた仲間たちの存在を証明するために記録を集めてきた。記録が消され、記憶が失われても、物証を積み重ねれば真実に近づけると考えていた。


 だが、今、目の前にあるのは、単に誰かの存在を証明するための手がかりではなかった。


 アルトが知っていたという事実は、彼ら自身の過去にも疑いを向けるものだった。


 リゼットが封印の核になったのなら、なぜ彼女は記録から消えたのか。なぜアルトは知っていたことを思い出せないのか。そして、彼女が核になったあと、仲間たちは何をしたのか。


 白紙現象が彼女を消したのか。


 それとも、彼女を消す何かを、彼ら自身が選んだのか。


 エリアスは、まだどちらの可能性も否定できなかった。


 彼は日記の新しいページに、最後の一文を書いた。


 リゼットが封印の核だった可能性が高まった。アルトはその事実を知っていたと証言した。ただし、当時の経緯と自分たちの関与については、いまだ不明である。


 書き終えたあと、エリアスはしばらくその文字を見つめていた。


 いつものように、事実と推測を分けて記録した。それでも、文字にすることで何かが解決するわけではなかった。


 アルトはまだ図面の前に立っていた。


「俺は、彼女のことを忘れたかったんだろうか」


 その声に、エリアスは顔を上げた。


「分からない」


「そうだな」


 アルトはうつむいた。


「分からないことばかりだ」


 記録室の外から、風が吹き込んできた。崩れた窓の隙間を通り抜け、机の上の紙片をわずかに揺らす。


 エリアスは図面を丸めず、慎重に折りたたんだ。これ以上傷めないように布で包み、日記と一緒に鞄へしまう。


 彼らは、リゼットが封印の核になった可能性をつかんだ。


 そして同時に、仲間たちの記憶が失われたという事実だけでは説明できない疑問に直面した。


 アルトは、かつて知っていた。


 ならば、彼は何を知り、何を選び、何を忘れてしまったのか。


 その答えは、魔王城に残された記録の中にも、今のところ見つかっていなかった。


 エリアスは鞄の口を閉じた。


 次に探すべきものは、封印の仕組みだけではない。


 リゼットが核になるまでに、何があったのか。


 そして、彼らがその事実を知ったあと、何をしたのか。


 その二つを明らかにしなければ、仲間たちが消えていく理由にはたどり着けない。


 エリアスはアルトとともに記録室を出た。


 魔王城の奥には、まだ調べていない部屋が残っていた。

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