第23話 終わっていなかった戦い
石板の前を離れたあとも、エリアスは見つけた記録のことを考え続けていた。
魔王城の内部には、まだ調べていない部屋がいくつもあった。廊下の先には崩れた階段があり、壁の一部は大きく崩落している。かつて城の中枢へ続いていたと思われる通路も、瓦礫に塞がれていた。すべてを調べるには時間がかかるだろう。
それでも、先ほどまでとは状況が違っていた。
彼らは、ただ消えた仲間たちの足跡を探していたわけではない。魔王城で見つかった記録は、今起きている異常が、過去にも存在していた可能性を示していた。
白紙現象。
記録や認識の不一致。人の存在が認識されなくなる異常。そして、それを抑えるために設けられた封印。
それらが、今の出来事とつながっているのだとすれば、仲間たちが消えていく現象は、魔王を倒したあとに突然生じたものではない。以前から存在していた問題が、何らかの理由で再び表面化した可能性がある。
エリアスは歩きながら、手帳に記した言葉を頭の中で並べ直した。
魔王が人間を犠牲にしていたこと。封印の維持が難しくなっていたこと。最後の記録に、現象は終息していないと書かれていたこと。
この三つは、今のところ資料によって裏づけられている。
しかし、魔王が倒されたあとに何が起きたのかは分からない。封印が失われたのか、別の方法に置き換えられたのか。それとも、封印そのものは残っているのに、別の原因で現象が再発したのか。
いずれも、まだ仮説の段階だった。
廊下の突き当たりには、小さな部屋があった。
扉は失われ、内部には長い机と、壁に固定された棚が残っていた。床に散らばった紙の大半は風化していたが、棚の上段には金属製の箱が置かれている。箱の蓋には封印らしい刻印があったものの、魔力は感じられなかった。
アルトが箱を机に下ろし、蓋を開けた。
中には、薄い金属板が何枚も収められていた。それぞれに文字や図形が刻まれている。紙の記録とは違い、表面の文字はほとんど損なわれていなかった。
「これは使えそうだな」
アルトが一枚を持ち上げた。
エリアスはそれを受け取り、表面を確かめた。
金属板には、封印の維持に関する短い記述が刻まれていた。これまでに見つけた資料と共通する用語があり、図形も石板に刻まれたものと似ている。
ただし、詳しい説明はなかった。何かの記録を簡潔にまとめたものなのか、別の場所にある装置の補助資料なのかも分からない。
エリアスは金属板を一枚ずつ並べ、刻まれた番号を記録した。
その中に、ほかとは異なるものがあった。
表面には複雑な図形が刻まれ、中央に二つの円が描かれている。一方の円から伸びた線は、複数の小さな刻印を経由して、もう一方の円へとつながっていた。
その下には、短い文章があった。
旧式封印の停止後、維持状態を再確認すること。
エリアスは、すぐに手帳を開いた。
「アルト、これを見てくれ」
アルトは隣に立ち、金属板の文字を読んだ。
「旧式封印の停止?」
「そう書いてある。だが、停止が何を意味するのかは分からない。封印そのものを解除したのか、維持する仕組みだけを止めたのか。あるいは、新しい方式に切り替えたのかもしれない」
「魔王を倒したときに、何かが変わったのか」
「その可能性はある。ただし、この板に記された日付が分からない。魔王が倒される前の記録かもしれないし、もっと古いものかもしれない」
エリアスは金属板の端を調べた。そこには、数字のような刻印が残っていたが、一部が削れていて年代を特定できなかった。
手掛かりにはなる。
しかし、それだけで魔王の死と封印の停止を結びつけることはできない。
彼はそのことを手帳に明記した。
調査を続けるうち、二人は城の内側へ向かう別の通路を見つけた。通路の壁には、何かを運び出したような擦り傷が残っている。床の一部には金属製の溝が埋め込まれ、奥の部屋へ向かって伸びていた。
その先には、扉のない広間があった。
壁際には大きな円形の台座が設けられている。台座の周囲には複数の窪みがあり、中央には柱のような構造物が立っていた。柱の表面には、細かな線が網目状に刻まれている。
装置だったのかもしれない。
しかし、今は何も動いていなかった。柱の一部は折れ、台座には亀裂が走っている。周囲の床には石片が散らばり、壁に埋め込まれた金属部品もいくつか失われていた。
エリアスは台座の周囲を歩き、窪みの配置を手帳に写した。
「さっきの図と似ている」
アルトが言った。
「そうだな。あの図形が、この装置の構造を示していた可能性はある」
「これが封印だったのか?」
「まだ分からない。封印を維持するための装置かもしれないし、別の用途があったのかもしれない」
エリアスは中央の柱に近づいた。
表面の刻印は、石板に描かれていたものと共通していた。いくつかの刻印は損傷していたが、残された部分から、同じ構造を持つことが確認できる。
彼は柱の根元に目を向けた。
そこには、床の溝が集まっていた。複数の溝が台座の外側へ伸び、その先は壁の内部に消えている。魔力の流れを伝えるための構造だった可能性があるが、今はその働きを確かめる方法がなかった。
エリアスは装置全体を見渡した。
この城では、白紙現象を抑えるために何らかの仕組みが使われていた。そして、その仕組みには人間を犠牲にする方式が関係していたらしい。
だが、ここにある装置が、その仕組みのすべてだったとは限らない。
魔王城の外で見つけた道も、今調べている広間も、旅の途中に彼らが使った場所なのかどうかは分からない。魔王が倒される前から存在していた設備であっても、勇者一行がそれを知っていたとは限らなかった。
エリアスは、自分の推測が事実を追い越さないように気をつけながら、目の前の構造を記録した。
そのとき、アルトが広間の反対側で足を止めた。
「こっちにも何かある」
壁際に、石の蓋があった。
蓋は半分ほど床に埋まり、表面には細い亀裂が走っている。アルトが力を込めて持ち上げると、下から小さな収納空間が現れた。
中には、金属の筒が一本だけ残されていた。
筒の両端は封じられていたが、蓋はすでに緩んでいた。エリアスは慎重に開け、中から巻かれた紙を取り出した。
紙は古く、端が崩れかけていた。それでも、内側に巻かれていた部分には、比較的鮮明な文字が残っていた。
それは、封印の状態を確認した際の報告書らしかった。
エリアスは日付を確かめ、文章を追った。
旧式封印の維持に異常を確認。負担の偏りが拡大している。現行方式による継続は困難。代替手段の検討を急ぐこと。
その下には、別の筆跡で追記があった。
白紙化の兆候が再び確認された。記録の欠落と認識の不一致が同時に発生。原因の特定には至らず。
エリアスは、報告書を両手で持ったまま動かなかった。
これまで見つけた記録と、内容が一致していた。
封印の維持が難しくなっていること。白紙現象が続いていること。そして、その原因が特定できていないこと。
だが、報告書には、これまでの資料にはなかった一文が残されていた。
旧式封印の停止後、現象の再発を確認した場合、速やかに維持状態を調査すること。
エリアスは、その一文を何度も読み返した。
「停止後……」
アルトが隣から覗き込んだ。
「さっきの金属板と同じだな」
「ああ。旧式封印を停止したあと、現象が再発する可能性が想定されていたらしい」
「なら、魔王が倒されたあとに封印が止まったのか?」
「それは、まだ分からない」
エリアスは報告書の端を確かめた。
日付は一部が欠けていた。残された数字だけでは、魔王が倒された時期と比べることができない。文中にある「停止後」という言葉も、魔王の死を意味するとは限らなかった。
それでも、ここまでの記録をつなぎ合わせると、一つの可能性が浮かび上がる。
白紙現象を抑えていた封印は、何らかの理由で維持が困難になっていた。旧式の仕組みを停止したあと、現象が再び発生することも想定されていた。そして、実際に再発したという報告が残されている。
もし、魔王が倒されたことで封印の維持方式が失われたのなら。
もし、その後に代わりとなる仕組みが十分に用意されていなかったのなら。
今、彼らの仲間を襲っている異常は、その結果なのかもしれなかった。
しかし、どちらも仮説にすぎない。
エリアスは報告書を丁寧に巻き直し、金属の筒へ戻した。
「これまでの記録から考えられるのは、白紙現象が過去にも起きていたことと、それを抑えるための封印が存在したことだ。封印の維持には問題があり、旧式の仕組みを停止したあとに、現象が再発する可能性も記録されている」
「つまり、今の現象とつながっているかもしれない」
「そうだ。ただし、まだ何も確定していない。封印がいつ停止したのかも、その後に何が行われたのかも分からない」
アルトは広間の中央を見た。
「それでも、何も関係がないと考えるよりは筋が通る」
「俺もそう思う」
エリアスは手帳を開き、ここまでの発見を整理した。
魔王城の記録には、白紙現象の存在が記されていた。封印は、その現象を抑えるためのものだったらしい。封印の維持には人間を犠牲にする方式が用いられていた。そして、その仕組みは安定しておらず、旧式封印の停止後に現象が再発することも想定されていた。
それらは、複数の資料から確認できたことだった。
一方、魔王の死が封印の停止を引き起こしたのか。今の白紙現象が当時のものと同じなのか。誰かが新しい封印を用意したのか。
その三つについては、まだ答えがなかった。
エリアスは、確認できた事実と推測を別々の欄に記した。
記録を閉じると、広間の静けさが戻ってきた。
アルトは、柱の表面に刻まれた線を見つめていた。
「魔王を倒したあと、俺たちは何をしたんだろうな」
その言葉に、エリアスは顔を上げた。
「どういう意味だ」
「魔王を倒せば終わると思っていた。だが、あいつが抑えていたものがあったのなら、倒したあとに何かしなければならなかったはずだ」
アルトは、ゆっくりと手を握った。
「俺たちは、そこまで考えていたのか。それとも、考えずに帰ったのか」
エリアスは答えられなかった。
魔王城で見つかった記録は、彼らが知らなかった問題の存在を示していた。だが、それだけでは、勇者一行が何を知っていたのかまでは分からない。
アルトが忘れているだけなのかもしれない。
エリアス自身が、何かを忘れているのかもしれない。
あるいは、記録から失われた何かが、彼らの過去に関係しているのかもしれなかった。
どれも、今は確かめようがない。
「帰還したあとの記録も調べる必要があるな」
エリアスは言った。
「王都に残っている記録か」
「それもある。だが、まずはこの城に残っている資料をできる限り調べたい。封印がどうなったのか、その後に何が行われたのか。今のところ、答えにつながりそうな記録はここにしかない」
アルトは頷いた。
二人は広間の隅に残された棚を調べ、使えそうな資料をまとめた。すべてを持ち出すことはできないため、必要な部分を手帳に写し、記録の番号と保管場所を残す。傷んだ紙は無理に広げず、読める範囲だけを確認した。
作業を続けるうち、外から差し込む光が傾き始めた。
城内の時間は分かりにくかったが、窓のない通路にも、遠くから届く光の色が変わったことは感じられた。二人は調査を中断し、見つけた資料をまとめてから、広間を離れた。
階段を上りながら、エリアスは手帳の重みを確かめた。
そこには、魔王城で得られた情報が少しずつ積み重なっていた。白紙現象は、彼らが経験するよりも前から存在していた可能性が高い。魔王はそれを抑えようとしていたが、その方法は人間を犠牲にするものだった。そして、封印の維持には限界があり、現象の再発が記録されていた。
魔王を倒したことは、間違いではない。
だが、魔王を倒すことと、白紙現象を終わらせることは、同じではなかった。
彼らは魔王を倒し、戦争を終わらせた。
それで世界を救ったのだと、誰もが考えていた。
しかし、世界に残された問題は、勝利の報告とともに消えてくれるわけではない。人々が知らなくても、記録に残らなくても、問題そのものがなくなるとは限らない。
そして今、その問題は彼らの目の前で、仲間たちの存在を奪っていた。
エリアスは階段の途中で足を止めた。
アルトが振り返る。
「どうした」
「いや。少し考えていた」
エリアスは手帳を開き、最後に一行を書き加えた。
魔王の討伐は、白紙現象の終息を意味しなかった。
書き終えた文字を、彼はしばらく見つめた。
それはまだ、彼らが知り得た事実の範囲を超えない言葉だった。現象の原因も、封印の停止時期も、仲間たちが消えていく理由も分からない。
それでも、次に何を調べるべきかは、少しずつ明らかになっていた。
彼らの戦いは、魔王を倒したところで終わっていなかった。
その先に何が残されていたのかを知らなければ、本当の意味で、何も終わらせることはできない。




