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第22話 魔王の罪

 階段は、城の内側へ向かって緩やかに下っていた。


 壁に設けられた燭台はすべて空で、火を灯した形跡もない。かつては明かりを保つ魔術が施されていたのか、石の表面には細い溝が規則正しく刻まれていた。しかし、その溝を流れていたはずの魔力は失われ、ところどころに黒ずんだ跡だけが残っている。


 エリアスは片手を壁に添え、足元を確かめながら進んだ。崩れた石段が続く場所では、先にアルトが通り、安全を確かめてから彼を呼んだ。二人とも、余計な会話をしなかった。


 先ほど見つけた記録は、彼らが知っていた歴史に別の輪郭を与えた。


 魔王は白紙現象を知っていた。人々の記憶や記録が失われる異常を、少なくとも魔王城では認識していた。そして、それを抑えるために人間を犠牲にしていた可能性が高い。


 だが、その方法は現象を完全には終わらせていなかった。


 エリアスの頭の中では、いくつもの疑問が形を変えながら浮かんでいた。魔王はいつから現象を知っていたのか。人を犠牲にする以外の方法はなかったのか。記録にある封印は、具体的に何を抑えていたのか。そして、なぜ魔王が倒されたあとも、同じような異常が続いているのか。


 どれも重要な問いだったが、今の時点では答えを導く材料が足りなかった。


 階段を下りきると、広い通路に出た。


 正面には、両開きの扉があった。片側は蝶番から外れ、床に倒れている。もう片側は歪んだまま枠に残り、表面には何かが激しくぶつかったような傷が刻まれていた。


 扉の向こうには、天井の高い部屋が広がっていた。


 壁際には倒れた書棚が並び、床には破れた紙や砕けた木片が散乱している。部屋の奥には大きな机があり、その上には金属製の器具や、黒く変色した瓶が置かれていた。棚の一部は焼け焦げ、壁には亀裂が走っている。


 何かが起きた場所だった。


 ただし、それが戦闘によるものなのか、事故によるものなのか、あるいは長い年月の劣化によるものなのかは、見ただけでは分からなかった。


「ここも調べるか」


 アルトが言った。


「記録を保管していた部屋かもしれない。さっきの箱に入っていたものと関係がある可能性もある」


 エリアスは散乱した紙を踏まないよう、壁際から調べ始めた。


 書棚に残された冊子の多くは、表紙が失われていた。背表紙に番号だけが残っているものもある。引き出しの中には空の容器や折れた筆記具が詰め込まれ、別の引き出しには金属製の札が束になっていた。


 札には番号が刻まれていた。


 エリアスは一枚を取り上げ、表裏を確かめた。名前はない。番号の下に小さな記号が刻まれているが、その意味は分からなかった。


 彼は札を元の場所に戻し、手帳に特徴を書き留めた。


 部屋の奥へ進むと、机の上に一冊の冊子が残されているのを見つけた。表紙は失われていたが、紙は比較的よい状態を保っていた。最初の数頁には、魔力の流れを示すと思われる図が描かれている。複数の線が円形の図形に集まり、そこから別の方向へ伸びていた。


 エリアスは図を眺めた。


 魔術の知識はあったが、これは一般的な術式とは異なっていた。魔力を集めて放出するだけではなく、複数の地点を結び、何らかの状態を維持するための構造に見える。


 しかし、図の一部は破れており、説明文も欠落していた。これだけでは、何のために作られたものなのか判断できない。


 数頁めくると、文章が現れた。


 そこには、封印の維持に関する記述が残されていた。


 エリアスは先ほどの記録帳を取り出し、該当する箇所と照合した。用語が一致している。さらに、図の端に記された番号も、先ほど見つけた管理記録の番号と共通していた。


 別々の場所で見つかった資料が、同じ仕組みに関係している可能性が高まった。


 彼は、冊子を読み進めた。


 記述の多くは専門的な用語で書かれていたが、何度も登場する単語と、前後の文章から、おおよその意味を推測できる箇所があった。


 封印は、白紙現象の進行を抑えるために設けられていた。


 現象が強まるにつれて封印の維持が難しくなり、従来の方法では安定した状態を保てなくなった。そのため、維持に必要な負担を補う手段として、人間を用いる方式が採用されたらしい。


 エリアスは何度も同じ箇所を読み返した。


 人間を用いる。


 記述は淡々としていたが、先ほどの管理記録と合わせれば、その意味は軽くなかった。


「何が書いてある」


 アルトが尋ねた。


「ここにある術式は、白紙現象を抑えるための封印に関係しているらしい。現象が強まるにつれて封印の維持が難しくなり、人間を使って補う方法が採られたようだ」


「やはり、人を犠牲にしていたんだな」


「そう考えるのが自然だ。ただ、どのような手順で、何が起きていたのかまでは分からない」


 エリアスは冊子を机に置いた。


「それに、この資料には、ほかの方法を検討した形跡もある」


 彼は数頁戻り、文章の一部を指で示した。


 そこには、維持方式の変更について検討した記述があった。複数の案が列挙され、そのいくつかには失敗を示す印がつけられている。別の案には、必要な条件を満たせないという短い注記があった。


 しかし、どの案が実際に試されたのか、なぜ採用されなかったのかまでは分からない。


「ほかの方法がなかったのかもしれない」


 アルトが言った。


「そうかもしれない。だが、試した形跡があることと、本当にほかの方法がなかったことは違う」


 エリアスは冊子を閉じた。


「ここに残っているのは、魔王城の側が記録した内容だけだ。失敗した方法の詳細も、犠牲になった人たちの証言も、ほとんど残っていない。魔王がどんな判断をしたのかを、これだけで理解したつもりになるわけにはいかない」


 アルトは何も言わなかった。


 エリアス自身、魔王の判断を知りたいと思っていた。なぜ人間を犠牲にする方法を選んだのか。何を恐れ、何を守ろうとしていたのか。そうした事情を理解できれば、現在の現象を解き明かす手掛かりになるかもしれない。


 だが、理由を知ることと、罪を軽くすることは別だった。


 犠牲になった人々は、封印を維持するための数字ではない。名前を失った札でも、帳簿の中の項目でもない。彼らが自ら望んだのか、拒むことができたのか、そもそも何を知らされていたのか。記録が沈黙している以上、都合のよい答えを与えることはできなかった。


 エリアスは別の冊子を開いた。


 こちらは、封印の維持に関わった人員の報告書らしかった。冒頭には複数の名前が並んでいるが、後半になるにつれて番号に置き換わり、最後には名前も番号もない短い記述だけになっていた。


 途中の頁には、維持手順を変更した後の報告が残されていた。


 負担の集中を確認。


 対象者の状態を監視。


 封印の安定を優先。


 その三つの記述は、何度も繰り返されていた。


 エリアスは手帳に写しながら、文章の間に残された空白を見た。記録の形式が変わった時期と、名前が消えた時期は、ほぼ重なっているようだった。


 しかし、それが何を意味するのかはまだ分からない。


 人員を番号で管理するようになっただけなのか。記録の対象そのものが変わったのか。それとも、名前を残すことに何らかの問題が生じたのか。


 どれも推測にすぎなかった。


 アルトが、焼け焦げた書棚の下から一枚の板を引き出した。板の表面には、紙を貼り付けていた跡がある。端には金具が残り、何かの一覧表を掲示していたように見えた。


「これも関係あるか」


 エリアスは板を受け取り、表面を調べた。


「分からない。ここにあったものなら、関係していた可能性はある」


「この部屋には、ずいぶん多くのものが残っているな」


「それだけ重要な場所だったんだろう。あるいは、ここから動かす余裕がなかったのかもしれない」


 エリアスは板を元の場所に置いた。


 部屋の中をさらに調べても、魔王が何を考えていたのかを直接示す文章は見つからなかった。個人的な日記も、命令書の原本も、誰かの手紙もない。残されているのは、封印の状態、必要な人員、維持のための手順といった、事務的な記録ばかりだった。


 そこから分かるのは、魔王が白紙現象を認識し、何らかの方法で抑えようとしていたこと。そして、その方法が人間を犠牲にするものだったらしいということだった。


 魔王の胸中までは、記録から読み取れない。


 エリアスは冊子を布で包み、先ほどの記録帳と一緒にまとめた。


「ここで分かったことは、あとで整理する。資料の年代や番号を照合すれば、もう少し詳しいことが分かるかもしれない」


「だが、何を考えていたとしても、やったことが消えるわけじゃない」


 アルトが言った。


「そうだ」


 エリアスは顔を上げた。


「魔王が白紙現象を抑えようとしていたことは、これまで知らなかった事実だ。だが、人を犠牲にしたことまで正当化する理由にはならない」


 アルトは頷いた。


「俺たちは、魔王を倒した。あれは必要なことだった。あいつが人を犠牲にする仕組みを続けていたのなら、止めなければならなかった」


 言葉に迷いはなかった。


 それでも、アルトの表情には晴れやかさがなかった。勝利を疑っているのではない。魔王を倒したことが間違いだったと考えているのでもない。


 彼が見つめているのは、戦いのあとに残されたものだった。


 魔王の死によって、人を犠牲にする仕組みは止まったのかもしれない。だが、その仕組みが抑えていたものまで消えたとは限らなかった。


「魔王を倒したから、もう何も起きない。俺たちは、そう考えていたんだろうな」


 アルトは言った。


「少なくとも、俺はそう思っていた」


 エリアスは返事をしなかった。


 彼もまた、魔王を倒すことが旅の終わりだと思っていた。王国に戻り、戦いの記録を整理し、失われたものを記録に残す。そうすれば、あとは平和な時代が続くはずだった。


 だが、祝勝会でリゼットの名前が失われていたことに気づいてから、彼らの旅は終わっていなかったのだと知った。


 ガレクの存在が人々の記憶から消えた。セレナの声を思い出せなくなり始めた。記録から名前が抜け落ち、かつて誰かがそこにいたという事実さえ、周囲から失われていく。


 魔王城で見つけた記録は、それらの異常が過去にも存在した可能性を示していた。


 そして、魔王はその現象を完全には終わらせられなかった。


 ならば、彼らが倒したものは何だったのか。


 いや、何を倒したのかという問いは、今さら意味を持たない。魔王が行っていたことを止める必要はあった。その判断は変わらない。


 問題は、そのあとだった。


 魔王の死によって人間を犠牲にする仕組みが失われたのなら、白紙現象に対して何が行われたのか。誰かが別の方法を用意したのか。それとも、問題を抑え込むものが失われたまま、誰も気づかずにいたのか。


 エリアスは、その疑問を手帳に記した。


 答えはまだない。


 だが、答えがないことを理由に、問題そのものを見なかったことにはできなかった。


 二人は部屋を出て、通路の先へ進んだ。


 その先には、さらに大きな扉があった。扉の表面には、魔王城の紋章が刻まれている。周囲の壁には細い亀裂が走っていたが、扉そのものは崩れずに残っていた。


 アルトが取っ手に手をかけた。


 重い音を立てて扉が開き、その向こうに広い空間が現れた。


 かつて会議や儀式に使われたと思われる部屋だった。中央には長い卓が置かれ、その周囲には倒れた椅子が散らばっている。壁際には大きな石板が立ち、表面には複雑な図形が刻まれていた。


 エリアスは入り口で立ち止まった。


 石板の図形は、先ほど見つけた冊子に描かれていたものと似ていた。


 ただし、こちらの図形には複数の線が集まる中心部分があり、その周囲には、いくつもの小さな刻印が並んでいた。刻印の一部は削れていたが、まだ読み取れるものもある。


 エリアスは石板へ近づき、目を凝らした。


 そこに刻まれた文字の中に、先ほどと同じ言葉があった。


 白紙現象。


 その下には、別の言葉が続いていた。


 封印維持。


 さらに、その横には、記録帳にもあった番号が刻まれていた。


 この部屋が、封印に関する何らかの重要な場所だったことは間違いなさそうだった。


 エリアスは石板の文字を手帳に写し始めた。


 魔王が何を恐れていたのか。その答えは、まだ分からない。


 だが、魔王城の記録は、白紙現象が単なる記憶の異常ではなく、封印によって抑えようとされていた問題だったことを示していた。


 そして、そのために人間が犠牲にされていた。


 アルトは石板を見つめながら、静かに言った。


「俺たちは、魔王を倒すことで終わらせたつもりだった」


 エリアスは筆を止めた。


「だが、終わっていなかった」


「ああ」


 アルトは石板から目を離さなかった。


「魔王が何を考えていたのかは、まだ分からない。けど、あいつがやっていたことを止める必要はあった。それと、あいつが抑えていた問題を放っておいていいかどうかは、別の話だ」


 エリアスはゆっくりと頷いた。


 魔王の罪を知ることは、魔王を許すことではない。


 魔王を倒した判断を守ることは、その後に残された問題を無視することでもない。


 二つの事実は、同時に成り立つ。


 その当たり前のことを、彼らは今になって理解し始めていた。


 エリアスは石板の記録を最後まで写し終え、手帳を閉じた。


 魔王城には、まだ調べるべき場所が残っている。白紙現象を抑えていた封印の仕組みも、その後に何が起きたのかも、明らかにはなっていない。


 彼らが知るべきことは、魔王の罪だけではなかった。


 その罪が終わったあと、何が残されたのか。


 そして、その残されたものに、今度は誰が向き合わなければならないのか。


 答えを探すために、二人は石板の前を離れなかった。


 魔王城の奥には、まだ沈黙した記録が眠っていた。

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