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第21話 魔王城の記録

 魔王城の裏手にある石造りの広場は、朝の光を受けても、長い年月のあいだ夜を抱え込んでいたかのように薄暗かった。


 山肌に沿って伸びる道を戻れば、麓へ下りることができる。正面の城門へ向かう道も、崩れた石橋の向こうに残っている。しかし、エリアスとアルトが立っている広場からは、そのどちらも見えなかった。岩壁と崩れた建物に囲まれたこの場所は、城の外側にありながら、外界から切り離された小さな空間のようだった。


 エリアスは、昨日描いた略図を取り出した。


 山道の分岐、岩の狭間、石造りの広場、そして廃墟の位置。地形の関係は少しずつ明らかになっていたが、ここをかつて誰が通ったのか、何のために使っていたのかは、依然として分からない。魔王城に至る別の道が存在したことは確かでも、それが勇者一行の足跡だと断定できる証拠はなかった。


 それでも、正面から城門へ向かう以外に道があったという事実は、公式記録に記された旅路を疑う理由になった。


「城の中を調べるしかないな」


 アルトが言った。


 エリアスは略図を畳み、懐にしまった。


「そうだな。ここに残っているものだけでは、誰が何をしたのかまでは分からない」


「中なら、何か残っていると思うか」


「残っている可能性はある。だが、期待と証拠は分けて考える」


 アルトは短く息を吐いた。


「お前らしい答えだ」


 その言葉に、エリアスは返事をしなかった。


 以前なら、そう言われることに何の疑問も抱かなかっただろう。記録を集め、異なる証言を照合し、矛盾を見つける。確かめられないことを確かめられないままにしておく。それが彼の仕事であり、自分の役割だと思っていた。


 だが、手帳に残された自分の筆跡は、そんな彼の自信を少しずつ崩していた。


 リゼットを忘れてはならない。


 そう書いたのは、間違いなく彼自身だった。


 それなのに、なぜ忘れてはならないのか。何を忘れようとしていたのか。書いたときの彼が知っていたはずのことを、今の彼は思い出せない。


 記録を残すことと、記録したものの意味を理解することは、同じではなかった。


 エリアスはその事実を胸の奥にしまい、アルトとともに廃墟の奥へ向かった。


 城の外壁には、かつて扉があったと思われる場所が残っていた。扉そのものは失われ、片側の蝶番だけが石に埋まっている。周囲には崩れた石材が積もり、床には砂と枯れた植物が広がっていた。


 アルトが先に進み、足元を確かめながら壁際を調べる。エリアスはその後ろで、石壁の継ぎ目や床の傷を観察した。


 城の外側に近い場所には、物資を運び込むための通路があったのかもしれない。だが、長い年月の風化は、使われていた道具や運搬の痕跡をほとんど消し去っていた。


 しばらく進むと、壁の一部に不自然な窪みがあるのが見つかった。


「ここだ」


 アルトが足を止めた。


 壁の下部に、石材を取り外したような四角い空間があった。内部には木片が炭化したような黒い残骸があり、その奥に錆びた金具が埋まっている。


 エリアスは膝をつき、残骸に触れないよう注意しながら覗き込んだ。


「扉か、棚か。何かを隠すための場所だった可能性もある」


「隠す?」


「ここが単なる物置なら、わざわざ壁の中に収める必要はない。もちろん、そういう構造だっただけかもしれないが」


 彼は手帳に位置と寸法を書き留めた。


 アルトが周囲の石材を押してみると、壁の一角がわずかに動いた。二人で慎重に崩れた石を取り除くと、奥から小さな空間が現れた。


 そこには、朽ちた木箱がひとつ置かれていた。


 箱の蓋は半ば腐り、金属の留め具も赤錆に覆われていた。エリアスが布を敷いて蓋を持ち上げると、乾いた木片が崩れ落ち、その下から何冊かの薄い冊子と、革で綴じられた一冊の記録帳が現れた。


 記録帳の表紙には、文字が刻まれていた。


 魔王城管理記録。


 エリアスは、しばらくその文字を見つめた。


「管理記録か」


 アルトが背後から覗き込んだ。


「戦いの記録とは違うのか」


「分からない。城の運営に関するものかもしれないし、物資や人員の記録かもしれない」


 エリアスは記録帳を持ち上げた。革は硬くなり、端が欠けていたが、綴じ目はまだ保たれている。乱暴に開けば、紙そのものが崩れてしまいそうだった。


 彼は表紙を布で軽く拭き、最初の頁をゆっくりと開いた。


 そこには、日付と短い項目が並んでいた。


 食料の搬入量。兵士の配置。城壁の修繕。魔力炉の稼働状況。


 特別なものは見当たらない。魔王城もまた、そこに暮らす者たちが食べ、働き、眠るための場所だったのだろう。少なくとも、記録の上ではそう見えた。


 エリアスは数頁をめくった。


 途中から、記述の形式が変わっていた。


 物資の数量が減り、人員の名前が省略され、代わりに見慣れない項目が増えている。日付の間隔も不規則になっていた。何日も記録が空いたかと思えば、一日のうちに複数の記述が残されている。


 そのうちの一頁に、エリアスの指が止まった。


 そこには、他の記録とは異なる筆跡で、短い文章が記されていた。


 白紙現象、再発。


 エリアスはその一文を読み返した。


「白紙現象……」


 声に出すと、言葉が石造りの部屋に落ち、静かに響いた。


 アルトが顔を上げた。


「何だ、それは」


「分からない。少なくとも、俺は知らない言葉だ」


 エリアスは前後の記述を確認した。


 白紙現象の再発を確認。記録の欠落が拡大。対象者の認識に不一致あり。封鎖区域を拡張する。


 その下には、別の日付で追記があった。


 記録と証言の不一致、継続。欠落部分の復元を試みるも、再び白紙化。原因の特定には至らず。


 さらに数頁先には、短い報告が残されていた。


 対象者の名を複数の記録から照合。照合結果は一致せず。本人への聞き取りを実施するも、当該人物に関する認識を得られなかった。


 エリアスは、記録帳を持つ手に力が入るのを感じた。


 名前が消える。


 記録が食い違う。


 人々が、そこにいたはずの誰かを認識できなくなる。


 彼がこれまで遭遇してきた現象と、あまりにもよく似ていた。


 だが、似ているというだけで、同じものだと決めつけることはできない。古い記録に書かれた言葉が、今起きていることと同じ意味を持つ保証はなかった。


「読めるのか」


 アルトの問いに、エリアスは頷いた。


「断片的にな。ここには、記録や記憶に食い違いが生じる現象について書かれている」


「俺たちが経験していることと同じか」


「その可能性はある。だが、まだ断定はできない」


 エリアスは記録帳を閉じず、次の頁をめくった。


 記述はさらに乱れていた。紙の一部は水に濡れたように波打ち、何行かは刃物で削り取られたように失われている。別の頁には、文字を書き直した跡が何重にも残っていた。


 それでも、繰り返し現れる言葉があった。


 封印。


 維持。


 代替。


 そして、人員の移送を示すと思われる記録。


 エリアスは冊子を一冊ずつ開き、記録帳の記述と照らし合わせた。年代は完全には一致しないが、複数の資料に同じ用語が登場している。単独の記述だけなら、書き手の誤記や特殊な言い回しとも考えられた。しかし、異なる帳簿に同じ言葉が残されているなら、少なくとも当時の城では、共通の意味を持つ用語として使われていた可能性が高い。


 彼は紙片を並べ直し、関連する箇所に印をつけた。


「この封印は、何かを抑えるためのものだったようだ」


「白紙現象をか?」


「そう考えられる記述はある。だが、封印の対象が明記されている箇所は少ない。もう少し調べる必要がある」


 アルトは黙って、彼の手元を見ていた。


 やがて、エリアスは別の冊子の末尾に、ほかとは異なる形式で記された表を見つけた。


 表には日付と番号が並び、その横に短い記述が添えられていた。人員の移送先を記したものらしい。いくつかの欄には名前があるが、ほかの欄は番号だけで処理されている。


 表の最後には、手書きの注記があった。


 現行方式による維持には、継続的な供給が必要。代替対象の確保が困難な場合、封印の安定性は保証されない。


 その下には、さらに小さな文字が続いていた。


 対象者の状態を問わず、所定の手順を優先すること。


 エリアスは、そこで手を止めた。


 何を供給するのか。誰を対象とするのか。所定の手順とは何を指すのか。文章だけでは分からないことが多すぎた。


 ただ、周囲に残された記録には、移送された人員の数と、その後の処遇を示すらしい記号が記されていた。ある時期を境に、移送の記録は増え、同じ頃から白紙現象に関する報告は減少している。


 偶然の一致という可能性は残る。


 それでも、二つの記録の変化が同じ時期に起きていることを、無視することはできなかった。


「人を使っていたのか」


 アルトの声は低かった。


 エリアスは、すぐには答えなかった。


 記録に書かれた言葉は、あまりに事務的だった。供給。対象。維持。確保。


 そこには、人間が何を感じ、何を失ったのかを示す言葉がほとんどない。名前を記した欄さえ、途中から番号に置き換えられている。


「その可能性が高い」


 エリアスは慎重に答えた。


「この記録だけでは、何が行われていたのかを完全には復元できない。だが、白紙現象が発生していた時期に、人員を移送し、封印の維持に関係する何らかの処置を行っていた。そう読むのが自然だ」


「人を犠牲にして、現象を抑えていたということか」


「おそらくは」


 アルトは、しばらく何も言わなかった。


 魔王が人を犠牲にしたという話は、二人にとって新しいものではない。王国の記録にも、魔王軍が村を襲い、人々を連れ去ったという報告が残されていた。戦争中に見た光景も、聞かされた証言も、その残虐さを疑う余地のないものだった。


 だが、目の前の記録は、別の意味で彼らを圧迫していた。


 魔王は、ただ人を殺していたのではないのかもしれない。


 何かを抑え込むために、人間を犠牲にしていた。


 それが事実だったとしても、犠牲にされた人々の苦しみが軽くなるわけではない。必要だったという言葉で、行為そのものが正当化されるわけでもない。


 アルトは壁に手をつき、顔を伏せた。


「だからといって、許せるわけじゃない」


「そうだな」


「何かを抑えるためだったとしても、選ばれた人間が何を思ったのか、記録にはほとんど残っていない。本人が望んだのかどうかさえ分からない」


 アルトは記録帳に視線を戻した。


「人を番号で扱って、必要だからと犠牲にする。それを続けていたのなら、魔王を倒したことは間違いじゃない」


 その言葉には、迷いがなかった。


 エリアスも同意した。目の前の記録が何を示していようと、魔王が行ったことの責任が消えるわけではない。犠牲を前提にした仕組みを維持し続けることが、ほかに道がなかったという理由だけで許されるはずもなかった。


 だが、同時に、彼らが見落としていた問いが浮かび上がっていた。


 魔王が何かを抑えていたのなら、魔王を倒したあと、それはどうなったのか。


 エリアスは記録帳の後半を調べ始めた。


 白紙現象に関する報告は、ある時期から急激に減っていた。人員の移送記録も同じ頃に少なくなり、代わりに封印の維持状況を記した短い報告が増えている。


 その後、記述はほとんど途絶えていた。


 最後の数頁には、文字のかすれた記録が残っていた。


 維持手順の変更を検討。従来方式の継続は困難。代替手段の確立まで、現行の封印を維持する。


 次の頁には、別の筆跡でこう書かれていた。


 封印の安定性、低下傾向。白紙化の兆候を確認。記録の保全を優先すること。


 その先は、紙が大きく破れていた。


 エリアスは破損した部分を慎重に広げた。残された文字を一つずつ追い、読める部分だけを手帳に写していく。


 最後に読めた一文は、短かった。


 現象は終息していない。


 エリアスは息を止めた。


 その記述の下には、日付があった。魔王城の管理記録に残された、最後の報告の日付だった。


 彼は記録帳の冒頭に戻り、年代を確かめた。記録の欠落は多かったが、日付の並びから、おおよその時期を推定することはできる。


 最後の報告は、魔王が討たれたとされる時期よりも前のものだった。


 つまり、この一文だけでは、魔王の死後に何が起きたのかは分からない。


 それでも、魔王が生きていた最後の時期にさえ、白紙現象は終わっていなかった。


「どうした」


 アルトが近づいてきた。


 エリアスは、最後の頁を指で示した。


「ここには、現象が終わっていないと書かれている」


 アルトは文字を追った。


「魔王が生きていた頃の記録か」


「そうだ。魔王が現象を抑えるために人を犠牲にしていた可能性は高い。だが、それでも完全には止められていなかったらしい」


「なら、魔王を倒したあとも……」


「続いていた可能性がある」


 エリアスは言葉を区切った。


 可能性がある。


 まだ、そこまでしか言えなかった。魔王城の記録は古く、欠落も多い。現在の現象と同じものだと確定するには、別の証拠が必要だった。


 しかし、少なくとも一つ、明らかになったことがある。


 彼らが遭遇している異常は、魔王の死によって初めて生まれたものではない。


 魔王が生きていた頃から、記録や認識を脅かす現象は存在していた。そして、魔王は人を犠牲にする方法で、それを抑えようとしていた。


 では、その仕組みが失われたあと、何が起きたのか。


 誰が何を引き継いだのか。


 あるいは、誰も引き継がなかったのか。


 エリアスは手帳に、見つかった記述を整理して書き留めた。確認できた事実と、そこから導かれる推測を分け、根拠となる頁も記録する。今はまだ、結論を急ぐべきではなかった。


 書き終えたところで、彼はふと、手帳の余白に目を留めた。


 そこには、以前から残されている空白があった。


 ページの途中で文章が途切れ、その先だけが不自然に空いている。何かを書き加えるつもりだったのか、最初から何も書かれていなかったのか、今となっては分からない。


 エリアスは、その空白をしばらく見つめた。


 魔王城の記録にも、欠けた部分があった。何かを記していたはずの頁が失われ、残された文章だけでは、すべての事情を知ることができない。


 それでも、欠けていること自体が手掛かりになる場合はある。


 何が書かれていたのか分からなくても、いつ、どのような記述が途絶えたのかを調べることはできる。記録がないことを、出来事がなかった証拠にしてはならない。


 エリアスは手帳を閉じた。


「ここで分かったのは、現象の存在と、魔王がそれを抑えようとしていたらしいことだ」


「それから、人を犠牲にしていたこともな」


「ああ。そこは曖昧にするべきじゃない」


 アルトは頷いた。


「だが、肝心なことは分かっていない。魔王を倒したあと、何が起きたのか。今の現象が、当時のものとどうつながっているのか」


「その通りだ」


 エリアスは記録帳を元の布で包み、木箱の中にあった冊子と分けて保管した。持ち帰ることができるなら、後で王国の記録と照合できる。城内には、まだ別の記録が残されているかもしれない。


 二人は部屋を出た。


 外へ続く通路には、風が吹き込んでいた。崩れた壁の向こうから、魔王城の内側へ続く階段が見える。石段は暗く、奥には光が届いていない。


 アルトはその階段を見つめていた。


「俺たちは、魔王を倒せば終わると思っていた」


 彼の声は、通路の奥へ静かに消えた。


「実際、魔王は倒した。戦争も終わった。なのに、今になって仲間が消えていく。記録まで消えて、誰も覚えていない」


 アルトは拳を握った。


「何かを見落としたんだろうな」


 エリアスはすぐには答えなかった。


 見落としたのか。知っていたのに忘れたのか。それとも、知っていたことそのものが、どこかで失われたのか。


 今の彼には、まだ区別できなかった。


「調べよう」


 やがて、エリアスは言った。


「この記録だけでは足りない。城の中にほかの資料が残っているなら、それも確かめる。魔王が何をしていたのかだけじゃない。その後に何が起きたのかを知る必要がある」


 アルトは階段へ向き直った。


「行こう」


 二人は暗い通路へ足を踏み入れた。


 背後では、木箱の中に残された古い記録が、何百年もの沈黙を破って再び開かれていた。


 そこに記された言葉は、彼らが知っていた歴史とは異なる一面を示していた。魔王は、ただ世界を脅かしていたのではない。世界を脅かす何かを抑えようとしていた。しかし、そのために選んだ方法は、人間を犠牲にするものだった。


 そして、その現象は、終わっていなかった。


 魔王を倒したことは、必要な決断だった。


 だが、それだけで世界が抱えていた問題まで消えたとは限らない。


 その事実が、二人の前に新たな問いとして立ち塞がっていた。

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