第2話 存在しない仲間
祝勝会の翌朝、王都には昨夜の喧騒が嘘のような静けさが戻っていた。
大通りにはまだ祝宴の飾りが残され、広場の中央には魔王討伐を祝う旗が掲げられていた。酒場の扉が開けば、夜通し語り明かした者たちの笑い声が漏れ、道を行く人々は勇者アルトの名を口にした。長く続いた戦争が終わったのだ。誰もがその事実を喜び、これから訪れる平和を疑っていなかった。
エリアスも、本来なら同じ気持ちで朝を迎えるはずだった。
魔王は倒れた。仲間たちは生きて帰った。旅の記録を整理し、王国に提出すれば、彼の仕事もひとまず終わる。そう考えていたはずなのに、昨夜から胸の奥に引っかかっているものが取れなかった。
リゼット。
その名を思い浮かべるたび、彼女の姿は確かなものとして心に浮かんだ。細身の体に軽い装備をまとい、仲間たちよりも先に危険を察知する斥候。道を探すときは誰よりも慎重で、危険な場所ほど妙に楽しそうな顔をする。エリアスが記録を取るのに手間取っていれば、彼女は少し離れたところで待ち、振り返っては「まだ?」と声をかけた。
その声まで、覚えている。
だが、昨夜の祝勝会で彼女の名を口にしたとき、アルトたちは揃って不思議そうな顔をした。冗談を言っているのかと疑う者もいれば、疲労で記憶が混乱しているのではないかと心配する者もいた。誰一人として、彼女の存在を思い出さなかった。
酒に酔っていたからではない。長旅の疲れのせいでもない。
エリアスはそう考え、夜のうちに何度も記憶をたどった。旅立ちの日から魔王城に至るまで、季節の移り変わりや宿場町の名前、戦った魔物の種類、野営した場所まで、一つずつ思い返した。細部が曖昧なところはあったが、リゼットがいたことだけは揺らがなかった。
それでも、他人の記憶は違っていた。
確かめる必要がある。
エリアスは身支度を整えると、宿を出た。
まず向かったのは、祝勝会に出席していた仲間たちの滞在先だった。王宮が用意した宿舎には、討伐隊の関係者や負傷した兵士たちも泊まっている。彼らにとっても、魔王討伐は人生を変えるほどの出来事だった。戦いの記憶が混乱しているなら、複数の人間に尋ねることで何か手掛かりが得られるかもしれない。
最初に訪ねたのはセレナだった。
彼女は部屋の窓を開け、庭に差し込む朝日を眺めていた。長い戦いの間、仲間たちの傷を癒やし続けてきた治癒師である。疲れが残っているのか、顔色はまだ本調子ではなかったが、エリアスを見ると穏やかに微笑んだ。
「おはよう。昨夜はあまり眠れなかったの?」
「少し確認したいことがあって」
「記録のこと?」
「それもある。セレナ、リゼットを覚えているか?」
彼女の表情から、微笑みがゆっくりと消えた。
「リゼット……?」
セレナはその名を口の中で繰り返した。知らない言葉を聞いたというより、どこかに置き忘れたものを探すような顔だった。しばらく考えた後、彼女は首を横に振った。
「ごめんなさい。聞き覚えがないわ」
「斥候だ。俺たちと一緒に旅をしていた。身軽で、弓を使っていた。危険な道を先に調べる役目だった」
「あなたの記憶では、そういう人がいたのね」
「俺の記憶だけの話じゃない。実際に一緒に旅をしたんだ」
言いながら、エリアスは自分の声に力が入りすぎていることに気づいた。セレナを責めたいわけではなかった。彼女が覚えていないことは、昨夜から何度も突きつけられている。それでも、目の前にいる仲間にまで、自分の知っている事実を否定されるのは苦しかった。
セレナは困惑したまま、彼の顔を見つめていた。
「あなたが嘘をついているとは思わない。でも、本当に思い出せないの。魔王城までの旅で、斥候を担当していた人がいたかどうかも……」
彼女はそこで言葉を切った。
「ごめんなさい。覚えていないことを、覚えているとは言えないわ」
その答えは誠実だった。だからこそ、エリアスにはどうしようもなかった。
「わかった。ありがとう」
彼はそれ以上問い詰めず、部屋を後にした。
次に訪ねたノエルも、同じ答えを返した。
魔術師であるノエルは、質問を受けるとすぐに否定せず、まずエリアスの話を最後まで聞いた。旅の中で斥候が必要だったこと自体は理解できる。魔王城までの道のりは険しく、未知の魔物や魔術的な罠も多かった。そうした場所を先行して調べる人間がいたとしても、不思議ではない。
だが、それがリゼットだったという記憶はなかった。
「君がそう記憶していることはわかった。ただ、僕にはその人物の顔も、声も浮かばない」
「魔王城へ向かう途中で、彼女が見つけた道を通ったことも?」
「覚えていない。そもそも、僕たちがどうやって魔王城にたどり着いたのか、昨夜アルトが尋ねていただろう。僕も、道筋を順序立てて説明しようとすると、妙に曖昧になるんだ」
ノエルは腕を組み、少し考え込んだ。
「長い旅だった。記憶が薄れることはある。けれど、君が言うほどはっきりとした仲間がいたなら、名前くらいは覚えていてもよさそうなものだ」
「そう思う」
「記録を調べたのかい?」
「これからだ」
「なら、まず記録を確認するといい。僕の記憶よりは、そちらのほうが確かだろう」
エリアスは返事をしなかった。
記録なら確かだ。その考えにすがりたい気持ちはあった。旅の間、彼は誰よりも細かく出来事を書き留めてきた。日付、移動距離、消費した物資、遭遇した魔物、戦闘の結果。記憶違いが起きても、記録を読み返せば正確な情報を取り戻せるようにするためだった。
彼の仕事は、まさにそのためにあった。
セレナとノエルの返答を手帳に記そうとして、エリアスは一度、ペンを止めた。
何を書けばいいのだろう。
リゼットを覚えていない。
そう記せばいいだけのことだ。だが、それでは何かが違うように思えた。二人が忘れているという事実と、リゼットが存在しなかったという結論は同じではない。まだ何もわかっていないのに、記録の上で彼女を存在しなかった人間として扱うことだけは避けたかった。
彼は手帳に短く書いた。
セレナ、ノエルともにリゼットの記憶なし。本人たちは記憶がないと回答。理由は不明。
書き終えた文字を見つめてから、エリアスは手帳を閉じた。
残るガレクは、まだ宿舎に戻っていなかった。彼なら、もっとはっきりした答えを返してくれるかもしれない。細かな記憶を整理するのは得意ではなかったが、仲間の顔や、誰がどこで戦っていたかといったことなら、案外よく覚えている男だった。
しかし、ガレクの居場所を尋ねても、近くにいた兵士たちは首を振るばかりだった。朝早くから鍛錬に出たのではないか、武具の手入れに行ったのではないか。いくつかの推測は出たものの、誰も確かなことは知らなかった。
エリアスは、ひとまず王宮の記録保管所へ向かうことにした。
魔王討伐に関する公式記録は、戦争の終結を受けて整理が進められていた。戦闘報告書、遠征隊の名簿、支給された物資の一覧、各地の関所で作成された通行記録。膨大な資料を一つずつ確認するには時間がかかるだろう。それでも、リゼットの名前がどこかに残っている可能性はあった。
記録保管所は王宮の東棟にあり、分厚い石壁と高い天井に囲まれていた。窓は小さく、室内には紙と革の匂いがこもっている。棚には年代ごとに整理された文書箱が並び、閲覧机では数人の書記官が黙々と作業を続けていた。
エリアスは受付で身分を示し、魔王討伐遠征隊の公式記録を閲覧したいと申し出た。
「遠征隊の名簿でしたら、こちらです」
担当の書記官は慣れた手つきで台帳を取り出した。魔王討伐に関する資料は、すでに王国の重要記録として分類されている。閲覧者の名や閲覧した文書も記録されるため、手続きには少し時間がかかった。
やがて、エリアスの前に一冊の台帳が置かれた。
表紙には、魔王討伐遠征隊と記されている。
彼は息を整え、最初のページを開いた。
遠征の目的。出発日。王国から支給された装備。同行する兵士たちの名簿。そして、魔王討伐を成し遂げた主要な一行の記録。
勇者アルト。
記録係エリアス。
治癒師セレナ。
魔術師ノエル。
戦士ガレク。
五人の名が、整った文字で並んでいた。
エリアスはページを戻し、もう一度、名前を上から読んだ。
アルト。エリアス。セレナ。ノエル。ガレク。
それだけだった。
見落としたのではないかと思い、次のページを開いた。そこには各人の役割と装備が記されていた。さらに先へ進んでも、遠征隊の構成を説明する文章にも、戦闘報告書の冒頭にも、リゼットの名はなかった。
彼は別の文書箱を請求した。
王都を出発した際の名簿。道中の関所で作成された通行記録。補給所に提出された遠征隊の申請書。魔王討伐後に王国へ提出された報告書。
資料が机に積み上がるにつれ、確認する文字の数も増えていった。エリアスは一つずつ頁をめくり、名前を追い、日付と内容を照合した。斥候という役職が書かれている箇所もあったが、そこに記された人物の名前は別の兵士だった。遠征隊に所属する斥候の一覧にも、リゼットはいなかった。
どこか一つの記録が欠けているだけなら、まだ説明の余地はある。書き写す際に名前が抜けたのかもしれない。報告書をまとめた人間が、主要な働きをした者だけを記載した可能性もある。
だが、別々の時期に、別々の場所で作成された記録が、ことごとく同じ五人を示している。
エリアスはペンを握り直した。
彼自身が記録係として作成した報告書も、そこに含まれていた。
見覚えのある筆跡ではない。提出用の文書は、彼の手帳から必要な情報を整理して清書したものだ。王国の書記官が保管用に書き写した記録もある。それでも、内容に大きな違いはなかった。
五人で魔王城へ向かい、五人で魔王を討伐した。
そう書かれている。
リゼットの名だけが抜けているのではない。最初から、彼女がいた場所そのものが存在しないかのようだった。
「何かお探しですか?」
声をかけられ、エリアスは顔を上げた。先ほどの書記官が、追加の文書を抱えて立っていた。
「この遠征隊の記録について確認したいことがあります」
「記載内容に誤りでも?」
「遠征隊には、もう一人仲間がいたはずなんです。リゼットという斥候です。ところが、どの記録にも名前がない」
書記官は台帳をのぞき込んだ。五人の名を順に読み、それからエリアスを見た。
「こちらの記録では、遠征隊の主要な一行は五名です」
「それはわかっています。でも、実際には六人でした」
「別働隊の人員でしょうか。遠征中に一時的に同行した兵士なら、別の記録に分類されている可能性があります」
「いえ、彼女は最初から最後まで一緒にいたんです」
エリアスはすぐに答えた。そう言い切れるだけの記憶があった。
書記官は困ったように眉を寄せた。
「でしたら、出発時の名簿に記載されているはずですが……」
「だから、調べているんです」
語気が強くなったことに気づき、エリアスは口を閉じた。書記官に非はない。彼は保管された記録を示しているだけだ。その記録に間違いがあると主張しているのはエリアスのほうだった。
「すみません。少し、混乱しているようです」
「いえ。長い戦いの後ですから、記憶の整理がつかないこともあるでしょう。必要でしたら、ほかの資料もお持ちします」
書記官は丁寧に応じた。そこには疑いも敵意もなかった。ただ、エリアスが記憶違いをしている可能性を考えているだけだった。
その態度が、かえって彼を追い詰めた。
もし誰かが嘘をついているのなら、問い詰めることもできる。記録が意図的に改竄されたのなら、その痕跡を探すこともできる。しかし、目の前の書記官は、彼と同じ記録を見て、何の疑問も抱いていなかった。
エリアスは資料を返却する手続きを済ませ、保管所を出た。
廊下の窓から、王都の広場が見えた。遠くでは人々が祝賀の旗を取り外している。戦争が終わり、日常が戻りつつある。昨日まで命を懸けて戦っていた者たちも、これからはそれぞれの生活に帰っていくのだろう。
その世界の中に、リゼットだけがいなかった。
彼女の名前を覚えているのは、エリアス一人だった。
彼は手帳を取り出した。昨夜、祝勝会の後に何度も開いたページを確かめる。旅の記録は、出発から魔王城まで続いている。文字の並びも、日付も、彼自身の筆跡も変わらない。
だが、そこにリゼットの名前がどれだけ書かれているのか、彼はすぐには探さなかった。
まずは自分の記憶を疑うべきなのだろうか。
それとも、公式記録のほうを疑うべきなのだろうか。
どちらか一方を選べるだけの根拠は、まだなかった。
エリアスは手帳を閉じ、胸元にしまった。
リゼットは確かにいた。
少なくとも、彼はそう覚えている。
そして、王国が保管するすべての記録は、彼女が存在しなかったと告げていた。




