第1話 祝勝会で生まれた疑問
王都の鐘が、夕暮れの空に六度響いた。
王城の大広間には、魔王討伐を祝うために集められた人々の声が満ちていた。高い天井から吊るされた燭台には無数の灯がともり、磨き上げられた床に金色の光を落としている。壁には王国の紋章を染め抜いた旗が並び、長い卓には肉料理や焼きたてのパン、色鮮やかな果実が所狭しと置かれていた。
魔王が倒れた。
その報せが王都に届いてから、まだそれほど日が経っていない。人々は何年も続いた戦いの終わりを喜び、兵士たちは互いの肩を叩き合い、貴族たちは新しい時代の到来を語っていた。吟遊詩人は勇者の武勲を歌い、広間のあちこちで杯が掲げられる。
長い戦いが終わったのだ。
その事実に疑いを抱く者は、ここには一人もいなかった。
広間の中央に設けられた特別席には、魔王を討ち果たした勇者アルトと、その仲間たちが招かれていた。
アルトは、祝宴の主役であることに慣れていない様子だった。次々と差し出される杯を受け取り、祝いの言葉に礼を返しながらも、時折、居心地が悪そうに首元を緩めている。戦場で身につけていた鎧は式典用の装いに替えられていたが、長い旅を経た者特有の疲れまでは隠しきれていなかった。
その隣では、治癒師のセレナが穏やかな笑みを浮かべていた。魔術師のノエルは、運ばれてきた料理を眺めながら、王宮の料理人がどのような魔術を使ったのかなどと、場違いなことを考えているらしい。戦士のガレクは、祝宴が始まってからすでに何度も料理を取りに立ち、皿の上に山を築いていた。
そして、彼らから少し離れた席に、エリアスが座っていた。
エリアスは記録係だった。
旅の途中で交わされた約束、立ち寄った町の名前、戦闘の経過、消費した物資。忘れてはならないと判断した事柄を手帳に書き留め、帰還後にはそれらを整理して報告書にまとめる。それが彼の役目だった。
剣を振るうことも、魔術を操ることも、傷ついた仲間を癒やすことも、彼にはできない。けれど、誰かが成し遂げたことを正しく残すのも、戦いを支える仕事の一つだと考えていた。
そのため、祝宴の最中であっても、彼の手元には小さな手帳が開かれていた。
王からの祝辞。アルトが受けた勲章の名称。各地から届けられた祝いの品。後日、公式記録にまとめるために必要な事項を、エリアスは時折周囲の会話を聞きながら書き留めていた。
もっとも、今夜くらいは仕事を忘れてもよいのではないかと、彼自身も思わないわけではなかった。
しかし、記録を取ることは習慣になっている。目の前で起きたことをそのままにしておくと、後になって細部が曖昧になる。それを何度も経験してきたエリアスにとって、手帳を開いていることは、息をするのと大差のない行為だった。
「なあ」
ふいに、アルトが声を上げた。
周囲の話し声に紛れそうな、ごく何気ない声だった。
「俺たちは、どうやって魔王城までたどり着いたんだ?」
エリアスのペン先が止まった。
アルトは手にしていた杯を卓に置き、仲間たちを見回していた。冗談を言っているようには見えない。むしろ、自分の中に生じた疑問を、確かめるように口にした様子だった。
「どうやってって、そりゃあ……」
ガレクが肉を切り分ける手を止めた。
「街道を進んで、山を越えて、それから……」
言葉が途切れた。
ガレクは眉間に皺を寄せ、しばらく考え込んだ。普段なら、細かな道順など気にせず、目の前にあるものを片っ端から片づけていく男だった。だが、今は何かを思い出そうとしているらしい。
「山を越えたのは覚えてる。いや、山だったか? 森を抜けたんだったか……」
「街道を通ったはずよ」
セレナが口を挟んだ。
「少なくとも、途中で何度か町に立ち寄ったでしょう? 怪我人を診たこともあったし」
「その町の名前は?」
アルトが尋ねた。
セレナはすぐには答えなかった。
目を伏せ、記憶をたどるように視線を動かす。やがて、困ったように笑った。
「……ごめんなさい。思い出せないわ」
「町の名前くらい、報告書に書いてあるんじゃないか?」
ノエルが言った。彼女は魔術師らしく、感情よりも資料を頼りにする傾向があった。
「帰還したときに提出した旅程表を確認すればいい。王都から魔王城までの道筋は、記録されているはずだ」
「それが、どうにも引っかかるんだ」
アルトは自分の指先を見つめていた。
「魔王城にたどり着いたことも、魔王と戦ったことも覚えている。あの場所で何が起きたのかもな。なのに、そこへ至るまでの道のりが、妙に曖昧なんだ」
彼の言葉を聞きながら、エリアスは手帳の上でペンを動かせずにいた。
アルトが何を疑問に思っているのか、彼には理解できた。
魔王城は、人里から遠く離れた場所にあった。山脈と荒れ地に囲まれ、まともな街道も途切れた先にそびえる城だ。そこへ至るには、いくつもの難所を越えなければならなかったはずである。
旅の記録をつけていたエリアスなら、その道筋を説明できる。
そう思った。
思ったはずだった。
エリアスは記憶を探った。
王都を出発した日のことは覚えている。旅の初めに、必要な物資を確認したことも。道中で天候が崩れ、荷物を濡らさないように苦労したことも、断片的には思い出せる。
だが、その先が続かなかった。
山を越えたのか。森を抜けたのか。どの町に立ち寄り、どの宿で休んだのか。
記憶の中に、確かに旅の時間は存在している。仲間たちと食事をし、野営の準備をし、夜明けとともに歩き出した日々があったはずだ。
それなのに、ひとつひとつの出来事をつなげようとすると、途中で糸が切れてしまう。
エリアスはペンを握り直した。
「……妙ですね」
「エリアス?」
セレナがこちらを向いた。
「君なら覚えているんじゃないか。いつも記録を取っていたんだろう?」
アルトの言葉に、エリアスは頷いた。
「そのはずです。旅程はもちろん、立ち寄った場所も記録していました。帰還後に報告書を作成する必要がありましたから」
「なら、記録を見れば分かる」
「ええ。そうでしょうね」
答えながら、エリアスは手帳を閉じた。
今、手元にあるのは祝宴の記録だけだ。旅の報告書は王城の記録保管所に提出している。明日にでも確認すれば、道筋についてはすぐに分かるだろう。
それだけの話だ。
記憶が曖昧になることなど、長い旅の後には珍しくない。何か月も続いた行軍や戦闘を、すべて正確に思い出せる人間のほうが少ないはずだった。まして、魔王討伐という大きな目的を果たしたばかりである。緊張が解け、細かなことが頭から抜け落ちていても不思議ではない。
そう考えれば、何も問題はなかった。
ただ、一つだけ。
エリアスには、どうしても腑に落ちないことがあった。
「皆さん」
彼は顔を上げた。
「魔王城へ向かう途中、斥候のリゼットが先行して道を確認していたことは覚えていますよね?」
問いかけた瞬間、卓を囲んでいた仲間たちの表情が変わった。
大きな変化ではなかった。誰かが驚いて立ち上がったわけでも、怒りをあらわにしたわけでもない。ただ、会話が途切れ、数人の視線が互いの顔を探るように動いた。
最初に口を開いたのは、ノエルだった。
「……リゼット?」
彼女は聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返した。
「誰のこと?」
エリアスは、一瞬、返事を忘れた。
「誰って……リゼットですよ。斥候の。旅の間、先行して周囲を調べてくれていたでしょう」
ガレクが首を傾げた。
「俺たちの一行に、そんな奴がいたか?」
「いたでしょう。あなたも一緒に旅をしたはずです」
「いや、悪いが覚えがないな」
ガレクは困惑した様子で頭をかいた。冗談を言っている顔ではなかった。
セレナも、申し訳なさそうにエリアスを見つめていた。
「ごめんなさい。私も、その名前には心当たりがないわ。旅の途中で出会った人かしら?」
「違います。仲間です」
思わず、声に力が入った。
エリアスは自分の言葉を繰り返すように続けた。
「王都を出たときから一緒でした。身軽で、遠くを見るのが得意で、危険な場所を見つけると、いつも先に調べに行ってくれた。彼女が見つけた道を通ったこともあったはずです」
口にすればするほど、記憶は鮮明になった。
リゼット。
旅の中で彼女が果たした役割を、エリアスは覚えている。斥候として先行し、仲間たちが進める道を探す。危険を見つければ知らせ、通れない場所があれば別の道を探す。彼女がいなければ、あの旅はもっと長く、もっと危険なものになっていたはずだ。
だが、仲間たちは彼の話を聞いても、何一つ思い出さなかった。
「エリアス」
アルトが静かに呼んだ。
「本当に、そいつは俺たちの仲間だったのか?」
その問いは、責めるような響きを持っていなかった。
だからこそ、エリアスは言葉に詰まった。
アルトは記憶を失ったことを隠そうとしているのではない。彼もまた、分からないことを分からないままにして、困惑しているようだった。
「間違いありません」
エリアスは答えた。
「私は、彼女と一緒に旅をしました」
「君の記憶違いという可能性は?」
「……ないと思います」
即答しようとして、最後の言葉だけがわずかに遅れた。
記憶違いではない。そう信じている。
けれど、目の前にいるのは、共に魔王城へ向かい、命を預け合った仲間たちだ。彼らが揃って一人の人物を覚えていないという事実は、エリアスの確信に小さな亀裂を入れていた。
祝宴の喧騒は、いつの間にか遠くなっていた。
広間では、今も人々が笑い、杯を掲げ、勇者の名を称えている。魔王が倒され、世界は救われた。王国は平和を取り戻し、勇者一行は英雄として迎えられた。
誰もが、そう信じている。
その華やかな祝宴のただ中で、エリアスだけが、自分たちの旅に何かが欠けていることを感じていた。
彼は卓の上に置いた手帳を見下ろした。
旅の記録は、すべて残してあるはずだった。
リゼットが仲間だったというのなら、彼女の名前も、行動も、何らかの形で記されているはずだ。公式の報告書にも、討伐の記録にも、彼女が果たした役割が残っているはずだった。
記録を確認すればいい。
そうすれば、何が正しいのか分かる。
エリアスは手帳を閉じ、胸元の内ポケットにしまった。
祝宴はまだ続いていた。誰もが笑顔で、誰もが勝利を喜んでいる。彼らの記憶に疑問を差し挟む者はなく、リゼットという名を口にする者も、もういなかった。
だが、エリアスは忘れていなかった。
斥候のリゼットは、確かに仲間だった。
そして、その事実を覚えているのが自分一人だけだということが、彼には何よりも理解できなかった。




