第19話 帰還した魔王城
夜明け前、山の冷気が岩陰にまで入り込んでいた。
エリアスは、外套の襟元を押さえながら目を覚ました。身体の下に敷いた毛布は湿気を吸い、背中には岩の硬さが残っている。眠った時間は短かったが、これ以上横になっていても疲れが取れるわけではなかった。
すぐそばでは、アルトがすでに起きていた。岩に腰を預け、膝の上に置いた盾を眺めている。朝の薄明かりの中で、盾の表面についた傷が鈍く浮かび上がっていた。
エリアスは、その傷を見た。
放射状に広がるひび。内側へ押し込まれた金属。曲がった補強部。鍛冶職人に見せたとき、強い衝撃を斜めから受けた可能性があると説明されたものだ。
その傷が、誰を守ったときについたのか。アルトはいまだに思い出せていない。
「眠れたか」
アルトが尋ねた。
「少しは」
「顔を見る限り、そうは思えないな」
「そちらも似たようなものだと思いますが」
アルトは答えず、盾を膝から下ろした。
昨夜の話し合いは、結論らしい結論を出さないまま終わっていた。セレナが使ったはずの宿を、宿の主人は知らないと言った。アルトは彼女の声さえ、少しずつ思い出せなくなっている。
それでも、二人にできることは限られていた。
セレナが今どこにいるのかも、彼女に何が起きているのかも分からない。手掛かりを探すにしても、王都へ引き返して記録を調べ直すだけでは、同じ場所を回り続けることになる。
魔王城には、まだ確かめていないものがある。
エリアスは荷物をまとめ、昨夜の焚き火の跡を土で覆った。灰の中に赤い火が残っていないことを確かめてから、手帳を取り出す。
昨夜、アルトから聞いたセレナの異常については、すでに記録してあった。
その下に、今朝の日付と天候を書き足す。続けて、現在地と出発時刻を記した。
手帳のページをめくると、いくつもの空白が目に入った。
そこに何が書かれていたのか、エリアスには分からない。紙が破り取られたわけでも、インクが滲んで読めなくなったわけでもなかった。最初から何も書かれていなかったように、文字の並びだけが途切れている。
彼はしばらくその空白を見つめていたが、やがて手帳を閉じた。
今は、そこに答えを求めても仕方がない。
「行きましょう」
エリアスが立ち上がると、アルトも腰を上げた。
二人は岩陰を離れ、山道を進み始めた。
*
魔王城へ続く道は、地図に記されたものより複雑だった。
山の斜面を縫うように続く細道は、場所によって幅が狭まり、岩壁に行く手を阻まれることもあった。崩れた石積みを迂回し、傾斜のきつい斜面を避けるために遠回りをする。足場の悪い場所では、荷物の重さが普段以上に感じられた。
王都で調べた公式の旅程には、魔王城へ至る道筋が記されている。しかし、その記録だけでは、今歩いている道を十分に説明できなかった。
地図の線は簡潔だった。山脈を越え、谷を抜け、魔王城へ向かう。大きな地形の位置関係は示されているものの、実際に人が通るための細かな経路までは描かれていない。
それ自体は不自然ではなかった。軍の地図は、旅人のための案内図ではない。細い山道や、すでに使われなくなった道が省かれていたとしても、それだけで異常とはいえなかった。
問題は、複数の記録を重ねたときに生じる食い違いだった。
物資の数量。旅程に記された日数。地図に残る薄い別の線。どれか一つだけなら、記録の誤りや単なる偶然として片づけられる。
しかし、それらをまとめて考えると、公式の記録にある旅路だけでは説明しきれない部分が残る。
エリアスは、王都を出る前に写し取った地図を取り出した。
折り目を広げ、現在地の見当をつける。地図に記された道は、ここから先で大きく谷を回り込んでいた。だが、二人が進んでいる道は、その線から外れ、山の奥へ向かっている。
地図の端には、かすかな線が残されていた。
消し損ねた跡なのか、別の地図を重ねたときについたものなのか。王都で調べたときには、それ以上のことは分からなかった。
エリアスは周囲を見回した。
細い道は、岩壁の陰へ続いている。人の手が入った形跡はあった。道の両側には、自然に崩れたものとは違う形で石が積まれ、斜面の一部には古い石畳が顔を出していた。
ただし、長い年月を経ているらしく、石の隙間には土が入り込み、草が根を張っている。これがかつて人の往来に使われていたとしても、いつの時代のものなのかは判断できなかった。
「この道を通った記録はないのか」
アルトが尋ねた。
「公式の旅程には、ありません」
「だが、道はある」
「ええ。地図にも、かすかに跡が残っています」
エリアスは地図を示した。
「ただ、これだけでは、私たちが実際に通った証拠にはなりません。昔からあった道を、別の人間が使っていた可能性もあります」
「分かっている」
アルトは短く答えた。
以前なら、彼はこうした調査そのものに難色を示しただろう。記録にない道があったからといって、それが消えた仲間の存在を証明するわけではない。曖昧な痕跡を拾い集め、都合のよい物語に仕立て上げることもできてしまう。
アルトが恐れていたのは、そうした推測がいつの間にか事実として扱われることだったのかもしれない。
だが、今の彼は、記録にないものを最初から存在しなかったことにするのも危険だと理解し始めていた。
「ここを通ったかどうかは、まだ分からない。それでも、確かめる価値はある」
アルトはそう言い、先へ進んだ。
エリアスはその背中を追った。
彼らが探しているのは、ただ一つの証拠ではない。記録に残された情報と、目の前にあるものと、二人の記憶。それぞれを照らし合わせ、食い違いの理由を探る必要があった。
記憶は曖昧になる。記録は欠ける。物証も、必ずしも一つの意味だけを示すわけではない。
それでも、互いに独立した証拠が同じ方向を指すなら、そこには確かめるべき何かがある。
エリアスは、そう考えることにしていた。
*
昼を過ぎたころ、道は谷底へと下っていった。
山から流れ落ちる水が、岩の間を細く走っている。かつては橋が架かっていたらしい場所には、石造りの橋脚だけが残されていた。川幅はそれほど広くないが、水の流れは速く、底にある石の形を見定めることは難しかった。
二人は橋脚の近くで足を止めた。
橋があったなら、この場所は山道を横切る重要な通路だったのだろう。今は橋桁が失われ、対岸へ渡るには上流まで回り込まなければならない。
アルトは周囲を見渡した。
「ここを渡ったのか」
「記録からは分かりません」
「そうだろうな」
アルトは水面へ目を落とした。
川の音が、谷間に響いている。
その音を聞いているうちに、彼の眉間にしわが寄った。
何かが、記憶の奥に引っかかっていた。
水音。濡れた石。足元を確かめながら、狭い場所を一列になって進む感覚。前を行く者の背中が、岩の向こうへ消えていく。
断片は、あまりにも短かった。
そこにいたのが誰なのか、何人いたのか。自分がどこに立っていたのかさえ、はっきりしない。
アルトは目を閉じた。
思い出そうとすると、像はかえって遠ざかっていく。無理に追いかければ、記憶ではなく、今見ている風景を材料にした想像を作り上げてしまいそうだった。
「アルト?」
エリアスが声をかけた。
「何か思い出しましたか」
「……少しだけだ」
「どんなことですか」
アルトはすぐには答えなかった。
頭の中に残っているのは、川を渡ったという確かな記憶ではない。もっと曖昧な感覚だった。水音を聞きながら、長い時間をかけて山を進んでいたという感覚。
王都で見た旅程には、これほど細かな道筋は記されていなかった。
「この辺りを通ったかどうかは分からない。ただ、魔王城までの道は、俺が思っていたより長かった気がする」
「公式の旅程よりも、ですか」
「公式の旅程が正しいのかどうかも、今となっては分からないがな」
アルトは苦笑しかけ、途中でやめた。
「山を越えて、谷を渡って、それからまた山を登った。そんな感覚がある。だが、どこを通ったのかは思い出せない」
「何日くらいかかったか、覚えていますか」
「分からない。日数を数えていたはずなのに、その数が出てこない」
それは、以前にも聞いたことのある言葉だった。
アルトは自分の記憶に欠落があることを認めている。しかし、認めたからといって、失われた記憶が戻るわけではなかった。
エリアスは地図を畳んだ。
「今の話は記録しておきます。ただし、実際にこの場所を通ったという事実とは分けて書きます」
「好きにしろ」
「そのつもりです」
エリアスは手帳を開き、アルトの発言を簡潔に記した。記憶の断片であること。具体的な場所や日数は不明であること。公式の旅程よりも長く、複雑な道のりだった可能性があること。
書き終えたあと、彼はページを読み返した。
証言を記録することと、その証言を事実として認めることは違う。
その区別を曖昧にすれば、手帳は真実を追うための道具ではなく、思い込みを補強するための道具になってしまう。
エリアスはそのことを、以前より強く意識するようになっていた。
「先へ進みましょう」
二人は川を渡れる場所を探し、上流へ向かった。
*
対岸へ渡ったあとも、道は途切れなかった。
山腹を回り込み、岩場を抜け、崩れた石段を登る。途中には、かつて道の両側を支えていたと思われる石積みが残っていた。ところどころに、人の手で削られたような岩もある。
それらは、長い年月の間に風雨にさらされていた。表面は摩耗し、角は丸くなっている。新しい傷と古い傷を見分けることさえ、簡単ではなかった。
それでも、道は自然にできた獣道とは違っていた。
人が荷物を持って通ることを想定し、斜面の傾斜を緩め、足場を整えた形跡がある。大勢が通行したのか、少人数が繰り返し使ったのかまでは分からないが、少なくとも一度きりの偶然で生じた道ではなさそうだった。
エリアスは、石段の脇にしゃがみ込んだ。
石の表面に、細い擦過痕が残っている。何か硬いものが触れたような傷だったが、剣や槍のような武器によるものなのか、荷車の金具なのか、それ以外のものなのかは判断できなかった。
彼は手を伸ばしかけ、触れる前に止めた。
痕跡を見つけるたびに、意味を与えたくなる。リゼットがここを通ったのではないか。ガレクが仲間を守りながら進んだのではないか。セレナが負傷者を治療し、遅れた一行を待ったのではないか。
どれも、あり得ない話ではなかった。
しかし、あり得ることと、実際に起きたことは同じではない。
エリアスは傷の位置と形を手帳に描き、見つけた場所を記した。それから立ち上がった。
「何か分かったのか」
「ここが人の通行に使われていた可能性は高そうです。それ以上は、まだ何とも言えません」
「慎重だな」
「以前よりは」
アルトは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「悪くない」
それだけ言って、彼は歩き始めた。
エリアスは手帳をしまい、そのあとに続いた。
道を進むにつれ、空の色が変わっていった。山の向こうへ太陽が傾き、岩壁の影が道を横切る。足元が見えにくくなる前に、今夜の野営場所を探す必要があった。
だが、坂を上り切ったところで、アルトが突然立ち止まった。
前方の山並みの向こうに、黒い影が見えていた。
最初は、岩山の一部かと思った。自然の岩肌にしては輪郭が不揃いで、山の稜線とも異なっている。二人が少し進むと、その影の形が次第にはっきりしてきた。
高い城壁。
崩れた塔。
山の斜面に沿って広がる、巨大な建造物の残骸。
魔王城だった。
エリアスは、足を止めたまま、その姿を見つめた。
王都に飾られた絵画や、戦勝記録に添えられた図版では、何度も見たことがある。黒い石で築かれた城壁。天を突くような塔。人間の王が築いた城とは異なる、威圧的で無骨な造り。
しかし、実物を前にすると、記録に描かれた姿とは違う印象を受けた。
城は、ただそこに立っていた。
勝利を祝うために整えられた絵の中では、魔王城は勇者の偉業を際立たせる背景だった。討伐された敵の居城として、歴史の終わりを象徴する場所だった。
だが、目の前の城は、何かが終わったことを示してはいなかった。
崩れた城壁の向こうには、暗い窓がいくつも並んでいる。折れた塔の先端は空を指し、風が吹くたび、石の隙間から低い音が響いていた。
ここで何が起きたのか。
何が残され、何が失われたのか。
エリアスには、まだ何も分からなかった。
「……戻ってきたな」
アルトが呟いた。
その声には、安堵も喜びもなかった。
エリアスは隣に立つ勇者を見た。アルトは城から目を離さず、右手で盾の縁を握っている。指先に力が入り、革の留め具が小さく軋んだ。
「ここに来れば、何か思い出せると思いますか」
「分からない」
アルトは、すぐに答えた。
「思い出したくないのか、思い出せないのか。それすら、もう自分では判断できない」
彼は一度、目を伏せた。
「だが、ここまで来た以上、確かめるしかない」
エリアスは頷いた。
二人がここへ来たのは、過去を懐かしむためではない。魔王討伐を成し遂げたという記録の裏側に、説明されていない出来事がある。その痕跡を確かめるためだった。
リゼットの存在。ガレクの消失。セレナに現れ始めた異常。そして、誰も正確に思い出せない旅路。
それらが、この城に残されたものとつながっている保証はない。
それでも、王都で得られる情報には限界があった。記録に残らない道が実際に存在し、アルトの記憶には公式の旅程では説明しきれない断片がある。ならば、旅の終着点で何が起きたのかを調べる必要があった。
エリアスは手帳を取り出し、城の輪郭を簡単に描いた。
塔の位置。城壁の崩落箇所。山道から見える門の方向。地形との位置関係。
見たものを記録する。分からないことは、分からないまま記しておく。
それが今の彼にできることだった。
描き終えたページを閉じると、エリアスは魔王城へ続く道を見た。
道は城の手前で二手に分かれていた。片方は崩れた石橋へ向かい、もう片方は山腹を回り込んで、城壁の切れ目へと続いている。
地図に記された道筋と、目の前の地形は完全には一致していなかった。
どちらを進むべきか、まだ判断できない。
「今夜は、城の手前で野営しましょう」
エリアスは言った。
「暗くなってから中へ入るのは危険です。明るくなってから、周囲を調べます」
「異論はない」
アルトは城から目を離した。
二人は道を少し戻り、風を避けられる場所を探した。夜が訪れるまでに、荷物を下ろし、火を起こし、周囲の様子を確かめる必要があった。
その作業の間も、魔王城は山の向こうに黒くそびえていた。
かつて、勇者一行はこの場所へたどり着き、魔王を倒した。
それは疑いようのない事実だった。
しかし、そこへ至るまでに何があったのか。誰が道を見つけ、誰が仲間を守り、誰が傷ついた者を治療し、誰がそのすべてを記録したのか。
公式の歴史は、それらの問いに十分な答えを与えていなかった。
エリアスは焚き火の前に座り、閉じた手帳を膝に置いた。
明日からは、記録に残されなかった場所を調べることになる。
そこに真実が残っているのか、それとも新たな疑問が増えるだけなのかは分からない。
それでも、もう引き返すつもりはなかった。
魔王城の暗い輪郭を見つめながら、エリアスは手帳の表紙を指でなぞった。
失われたものを、なかったことにはさせない。
その決意だけは、今も変わっていなかった。




