第18話 次に消える者
南へ延びる道は、山の陰に入ると急に冷えた。
エリアスとアルトは、荷物を背負い直しながら細い山道を進んでいた。王都を出てから半日ほどが過ぎている。道幅は狭く、片側には岩壁が迫り、反対側は木々の向こうへ斜面が落ち込んでいた。馬を連れて進むのは難しく、二人は途中で街道を外れ、徒歩に切り替えていた。
公式記録に記された旅程なら、山を北側から回り込むはずだった。だが、地図に残された薄い線は、この道がかつて魔王城へ続く経路として使われていた可能性を示している。
その可能性を確かめるために、二人はここを選んだ。
「休むか」
前を歩いていたアルトが振り返った。
「もう少し進んでからでいい。日が落ちる前に、次の分岐まで確認したい」
「記録には、そんな分岐はなかったはずだが」
「だから確認するんだ」
アルトは反論せず、再び歩き始めた。
以前なら、こうしたやり取りはもっと険悪なものになっていただろう。エリアスが調査の必要性を説き、アルトが危険を理由に止めようとする。互いに譲らず、結局は相手の言葉を疑ったまま別れる。
今は違った。アルトはすべてを信じたわけではない。それでも、自分が覚えていないことを理由に、エリアスの見つけた痕跡まで否定することはなくなっていた。
それが協力と呼べるほど確かなものかは、まだ分からない。
ただ、二人は同じ方向へ進んでいた。
昼を過ぎたころ、道が岩場を抜け、低い木々に囲まれた平地へ出た。かつて小さな休憩所でもあったのか、平らな石がいくつか並び、崩れた石積みが草に埋もれている。焚き火の跡らしい黒ずみもあったが、雨風にさらされ、いつのものかは判別できなかった。
エリアスは荷物を下ろし、手帳を開いた。
道の幅、石積みの位置、焚き火の跡。見たものだけを書き留める。誰がここを使ったのか、何のために通ったのかは、まだ書かない。
記録を残すことと、記録に意味を与えることは別だった。
その区別を怠れば、望んだ答えに合わせて事実を並べることになる。彼はすでに、自分の手帳さえ完全な証拠ではないと知っていた。
書き終えたところで、荷物の中に入れていた書類の束が目に留まった。王都から持ち出した治療記録の写しだった。
セレナの名が抜け落ちた記録。
治療の内容は残っている。使用された薬草の種類も、処置にかかった時間も、患者の回復経過も記されている。それなのに、治療を行った者の名前だけが空白になっているものがいくつもあった。
ガレクの消失を追っていたときには、戦闘記録や装備の傷が手掛かりになった。リゼットについては、地図と物資の数量がわずかな足場になった。
セレナの場合、残っているのは誰かを救った結果だった。
その結果が、彼女の存在を証明するものになるのか。それとも、やがて何の説明も要らない記録へ変わってしまうのか。
エリアスは書類を閉じた。
「その記録か」
水袋を手にしたアルトが、隣に腰を下ろした。
「ああ。セレナの治療記録だ」
「名前が消えているというものだな」
「治療そのものは記録されている。けれど、誰が処置したのか分からない。薬草の使用量や患者の証言を照合すると、セレナが行った可能性はある。でも、それだけでは断定できない」
「彼女のことは覚えている」
アルトは水袋の口を閉じた。
「今は、な」
その言葉には、確信よりも警戒があった。
エリアスは顔を上げた。
「何か変わったことがあったのか」
「今朝、王都を出る前だ。宿の主人に、セレナが使っていた部屋のことを聞いた」
「何と言っていた?」
「そんな部屋は貸していない、と」
エリアスはすぐには答えなかった。
宿の主人が記憶違いをしただけかもしれない。そもそも、セレナがその宿に泊まったという記録が正しかったのかも、今となっては確かめにくい。単独の証言だけで白紙現象と結びつけることはできない。
だが、王都の治療記録に現れた空白と、アルトが語る記憶の食い違いが、同じ人物に集中している。
「セレナは、そこに泊まったのか」
「覚えている。旅の途中で負傷した兵士を診ていた。宿の部屋を使って、夜遅くまで治療していたはずだ」
「はずだ、か」
「それ以上は思い出せない。どの町だったか、何人を診たのか、細かいことは曖昧だ」
アルトは自分の手を見つめた。剣を握るための手だった。傷を負った仲間を支えたことも、盾を構えて攻撃を受けたこともあるはずなのに、その一部が記憶から切り離されている。
「お前の言うことを信じたいわけじゃない。だが、俺が覚えていないことが、起きなかった証拠にはならない。それは分かってきた」
エリアスは小さくうなずいた。
その言葉を、和解の証しとして受け取るつもりはなかった。アルトはまだ何かを恐れている。その恐れがどこから来るのか、本人にも説明できないのだろう。
「王都を出る前に、セレナについて誰かに話したか?」
「宿の主人以外には、衛兵に道中の治療記録を見せた。俺たちの旅について尋ねられたからな」
「何か言われたか」
「いや。ただ……」
アルトは眉を寄せた。
「セレナが誰なのか、説明しようとしたとき、言葉が出てこなかった。名前は分かっている。治癒師だったことも分かっている。それなのに、どんな顔をしていたか、一瞬だけ思い出せなくなった」
平地を吹き抜ける風が、石積みの隙間を鳴らした。
エリアスは手帳を開きかけ、止めた。まずは、アルトの言葉を正確に確かめる必要がある。
「今は思い出せるか」
「……ああ」
「どんな顔だ」
「落ち着いた顔だ。人が騒いでいても、怪我人が目の前にいれば、そちらを優先する。誰かが無茶をすると、治療が終わってから静かに叱る」
アルトはそこで口を閉じた。
「だが、今の説明が、俺の記憶なのか、お前から聞いた話をつなぎ合わせたものなのか、もう区別できない」
エリアスはその言葉を手帳に書いた。アルトの証言として、本人が記憶の確かさに疑いを持っていることも含めて。
書き終えるまで、アルトは何も言わなかった。
「ガレクのときと同じなのか」
やがて彼が尋ねた。
「まだ断定はできない。ガレクのときは、存在そのものが記憶から抜け落ちていた。今のセレナについては、記憶が曖昧になったという段階だ。治療記録の空白も、以前からあったものかもしれない」
「だが、同じ方向に進んでいる可能性はある」
「ある」
エリアスは手帳を閉じた。
「もしそうなら、次は記憶だけでは済まないかもしれない」
口にした瞬間、言葉が現実味を帯びた。
ガレクが消えたとき、彼は失われた仲間の存在を証明しようとしていた。今は、同じことが起こる前に止める必要がある。記録を集めてからでは遅い。証拠を十分にそろえたときには、証拠を残した本人がいなくなっているかもしれないのだ。
それでも、何が起きているのか分からないまま走り出すことはできなかった。
必要なのは、急ぐことと、誤らないことの両方だった。
休憩を終え、二人は再び道を進んだ。
夕暮れが近づくころ、山道は緩やかに下り始めた。遠くには、魔王城へ続く山々の稜線が見えていた。城そのものはまだ見えない。だが、王都で地図を広げていたときよりも、目的地は確かなものになりつつあった。
日が沈む前に、二人は岩陰に野営の場所を決めた。
アルトが火を起こす間、エリアスは荷物を整理した。地図、食料の記録、戦闘報告書の写し。それぞれを確認し、濡れたり破れたりしないよう布で包み直す。最後に、セレナの治療記録を取り出した。
昼間に見たときと変わりはない。治療内容も、薬草の使用量も、そのまま残っている。
エリアスは一枚を広げ、空白になった治療者の欄を見つめた。
そこには、名前が記されていたはずの痕跡すらない。最初から書かれていなかったように、紙面は整っている。
彼は別の記録を取り出した。こちらにも、負傷した兵士の治療経過が書かれている。薬草の量は、先ほどの記録とよく似ていた。処置の手順にも共通点がある。だが、治療者の名前はない。
偶然なのか。それとも、同じ理由で欠落しているのか。
確かめるには、もう少し記録が必要だった。
「エリアス」
火のそばからアルトが呼んだ。
「セレナが治療に使っていた魔法を覚えているか」
「基本的な治癒術なら記録にある。彼女が独自に工夫していた方法もあったはずだが、詳しくは分からない」
「俺もだ。傷を塞ぐ前に、患部の周囲を淡く光らせていた。あれが何の術だったのか、思い出せない」
アルトは火に薪を足した。
「さっきまでは、何となく分かっていた気がするんだ。だが、考えようとすると、何も出てこない」
エリアスは記録から顔を上げた。
「今、彼女の顔は思い出せるか」
「思い出せる」
「声は?」
アルトは答えなかった。
火が小さく爆ぜた。
「……分からない」
彼は目を閉じ、何かを探すようにしばらく黙っていた。やがて、諦めたように首を振る。
「話していたことは覚えている。治療が終わるまで動くな、とか、傷を軽く考えるな、とか。だが、声がどんなものだったかは、もう曖昧だ」
エリアスは手帳を開いた。
セレナについての記述を探し、昼間にアルトが語った内容を確認する。落ち着いた顔。怪我人を優先する性格。治療を終えてから仲間を叱ること。
その下に、今の証言を書き加えた。
セレナの記憶に関する異常が進んでいる可能性。現時点では、アルト一人の証言に基づく。記録の欠落との因果関係は不明。
最後の一文を書き終えたとき、彼はペンを止めた。
分からないことばかりだった。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
アルトは、セレナを忘れかけていることに気づいていた。
ガレクが消えたときには、消失が起こる前に何が変化していたのか、誰も確かめられなかった。今は違う。異変が進んでいるときに、その兆候を見つけられた。
それが間に合うという保証はない。
だが、何も知らずに失うよりはいい。
「明日は、できるだけ先へ進もう」
エリアスが言った。
「魔王城までか」
「行けるところまでだ。途中で記録や痕跡が見つかれば、確認する。ただし、セレナのことも調べ続ける」
「王都へ戻るつもりはないんだな」
「戻っている間に、彼女が消えるかもしれない」
アルトは焚き火を見つめた。
「……そうだな」
それ以上、彼は何も言わなかった。
夜が深まるにつれ、山の冷気が岩陰へ入り込んできた。二人は交代で眠ることにし、エリアスは手帳と記録を枕元に置いた。
眠りにつく直前、彼はもう一度、セレナについて書いたページを開いた。
名前は、そこにある。
彼女が治癒師だったことも、仲間たちを治療していたことも、まだ書き残せている。
だが、その記録が明日も同じ形で残っているとは限らなかった。
ガレクを失ったとき、エリアスは、消えた者の痕跡を集めれば存在を証明できると考えていた。
今は、その考えだけでは足りないと分かっている。
痕跡を集めるだけでは、消失を止められない。
そして次に失われるかもしれないのは、彼らの傷を癒やし、何度も旅を支えてきた仲間だった。
セレナが消えれば、アルトは彼女の声を思い出せなくなる。王都の人々も、彼女の名前を知らなくなる。治療記録からも、彼女が救った人々の記憶からも、その存在は少しずつ失われていくのだろう。
エリアスは手帳を閉じた。
魔王城に何が残されているのかは、まだ分からない。
ただ、答えを見つけるまでに、これ以上誰かを失うわけにはいかなかった。




