第17話 魔王城へ
王都を発つ準備は、思いのほか早く整った。
必要な物資は少ない。旅の途中で何が起きたのかを確かめるための道具と、記録を残すための紙やインク。それに、魔王城までの道中をしのぐ食料があればいい。かつての旅で使った装備の多くは、討伐を終えて帰還した際に整理され、王国の管理下に置かれていた。今からすべてを集め直すことはできない。
エリアスは出発前に、王立記録院で借り出した資料の写しを確認した。公式の旅程、補給記録、戦闘報告。そこには、魔王城へ至るまでの出来事が一応の筋道を持って記されている。だが、細部を突き合わせると、説明が途切れる箇所がいくつもあった。
特に気にかかるのは、魔王城の手前にある山地だった。
公式の地図では、勇者一行は山の北側を大きく迂回し、整備された街道を通って城へ向かったことになっている。しかし、別の地図には、岩山の南に細い道筋が薄く残っていた。道筋のそばには「先行確認済み。後続通行可」と記されている。誰が確認したのか、記録には名前がなかった。
その道を誰かが見つけ、通行できると確かめたのだとしても、今の資料からは、それ以上のことは分からない。
エリアスは地図を丸め、革の筒に収めた。
記録院の建物を出ると、朝の王都はすでに動き始めていた。荷車が石畳を進み、店先では職人たちが品物を並べている。魔王討伐から戻った勇者たちを称える旗は、通りのあちこちにまだ掲げられていた。
この街の人々にとって、魔王討伐は過去の出来事になりつつある。勇者が勝ち、脅威が去り、生活が元に戻った。それが彼らの知る歴史だった。
その歴史に欠けているものがあると訴えたところで、誰が耳を傾けるだろう。
エリアスは、通りの向こうに立つ記念碑を見た。そこにはアルトの名と、魔王討伐に参加した仲間たちの名が刻まれている。もちろん、リゼットもガレクもいない。
記念碑の前を通り過ぎる人々は、刻まれた名前を見上げ、誇らしげに話していた。彼らにとって、そこにある名前がすべてだった。
エリアスは足を止めずに歩いた。
記念碑の文字を削り直せば済む問題ではない。彼が調べているのは、誰かが名前を刻み忘れたという程度の話ではなかった。人々の記憶も、公式記録も、同じ方向へ変化している。その一方で、物資の数量や地図の線、戦闘の痕跡は、完全には消えていない。
何が起きたのかを知るには、記録の中だけで答えを探すのをやめなければならなかった。
待ち合わせ場所には、アルトが先に来ていた。馬の手綱を持ち、荷物の固定具を確かめている。かつて魔王城へ向かったときと同じように、剣と盾を身につけていたが、その姿を見ても、エリアスの記憶に旅の全容が戻るわけではなかった。
「準備はできたか」
「できている。借りた資料の写しも持ってきた」
「記録院は、よく貸し出しを認めたな」
「閲覧と写しの作成は許可されていた。持ち出しは認められていない」
「相変わらず、規則には忠実だ」
「規則を破ったところで、失われた記録が戻るわけではない」
アルトは小さく息を吐いた。笑ったというほどではなかったが、出発前の緊張をわずかに和らげる反応だった。
エリアスは荷物を馬に積み、革紐を締め直した。
「王都で調べられることは、ひとまず調べた。これ以上、同じ資料を見返しても、新しい答えは出ないと思う」
「魔王城に何が残っているかも分からない」
「分かっている。記録が残っている保証もないし、物証が見つかる保証もない」
「それでも行くのか」
「ここにいても、何も確かめられないからな」
アルトは返事をせず、馬の首を軽く叩いた。
エリアスは、彼が魔王城へ戻ることをどう考えているのか、まだ分からなかった。過去の記憶を取り戻すことを恐れているのか。それとも、記憶が戻らないことを恐れているのか。あるいは、その両方なのかもしれない。
以前のアルトなら、調査を止める理由を探しただろう。今も不安が消えたわけではないはずだ。それでも彼は、自ら出発の準備を整え、エリアスを待っていた。
その変化を、エリアスは記録にどう書けばよいのか分からなかった。
ただ、行動は確認できる。アルトは調査に同行することを選んだ。その事実だけは、疑いようがなかった。
門を出ると、王都の喧騒が少しずつ遠ざかっていった。
街道沿いの景色は、記録に残る旅程と大きく変わらない。宿場町があり、川を渡る橋があり、畑と牧草地が広がっている。人々は日々の仕事を続け、魔王討伐後の平穏を当然のものとして暮らしていた。
その平穏を乱すつもりはない、とエリアスは思った。
彼が求めているのは、誰かを不安にさせるための秘密ではない。何が起きたのかを知り、なぜ仲間たちが消えていくのかを確かめることだった。原因が分からなければ、次に誰が失われるのかも、どうすればそれを止められるのかも分からない。
リゼットの消失は、すでに過去の記録だけの問題ではなかった。ガレクまで消えたことで、同じことが繰り返されている可能性が高くなった。セレナの治療記録にも異常がある以上、調査を先延ばしにする理由はない。
エリアスは馬上で手帳を開き、出発の日付と同行者の名を書いた。
アルト。
自分の名も続けて記す。二人分の名前を確認してから、彼は筆を止めた。
かつての旅には、もっと多くの仲間がいた。
そのことを、手帳に書き加えることはできる。しかし、今の彼には、それを裏づける新しい証拠が必要だった。記憶だけを根拠に書き続けることは、もうしないと決めている。
彼は手帳を閉じた。
失われた旅路を取り戻すためには、まず、実際に通った場所を自分の目で確かめなければならない。
昼を過ぎたころ、二人は街道を外れ、山地へ向かう古い分岐路に入った。
公式の旅程によれば、この先は北へ進み、山を大きく迂回する道を通ることになっている。だが、エリアスが地図の写しを広げると、南側にも細い道が記されていた。線は途中で薄れ、最後は紙の汚れと区別しにくくなっている。
「この道を通った記憶はあるか」
エリアスが尋ねると、アルトは分岐路の先を見つめた。
「ない。少なくとも、今は思い出せない」
「公式の記録では、俺たちは北へ進んだことになっている」
「なら、北へ進んだんじゃないのか」
「その可能性はある。だが、こちらの道には先行確認済みと書かれている。誰かが通行できるか確かめたらしい」
「それがリゼットだったと考えているのか」
「考えてはいる。確かめるまでは、そう書かない」
アルトは地図をのぞき込み、薄い線を指でなぞった。
「道があるなら、歩いて確かめればいい」
二人は馬を降り、南へ延びる道の入口を調べた。
草木が伸び、ところどころ地面が崩れていたが、人が通れないほど荒れているわけではない。岩の間には古い踏み跡らしい窪みがあり、斜面の一部には、崩れた石を脇へ寄せたような場所もあった。長い年月の風雨によってできたものか、人の手が加わったものかは、すぐには判別できなかった。
エリアスは周囲を歩き、地形を手帳に描き写した。道幅、斜面の傾き、通行を妨げる岩の位置。記録に残された線と実際の地形を比較するため、目についた特徴を一つずつ書き留める。
しばらく進むと、道は岩壁の脇を抜けていた。馬を連れて通るには狭いが、人が一列になって進むことはできる。大きく迂回するよりも、距離はかなり短くなるはずだった。
「ここを抜けられれば、北の街道より早く山の向こうへ出られる」
アルトが言った。
「ただし、崩落の危険がある。大人数で通るなら、先に確認する必要があるだろう」
「誰かがそれを確かめたんだな」
「地図の記述を信じるなら、そうなる」
エリアスは岩壁を見上げた。道の脇には、何かを引きずったような浅い筋が残っていた。石が転がり落ちた跡かもしれないし、荷物を運ぶ際にできたものかもしれない。古い跡であることは分かったが、それ以上の判断はできなかった。
かつてこの道を通った者がいたとしても、その人物の名前も、ここを選んだ理由も、今の二人には分からない。
それでも、地図に描かれた道は、単なる想像ではなかった。少なくとも、そこには実際に人が通行できる場所があり、公式の旅程とは異なる経路が存在していた。
エリアスは、その事実を記録した。
以前の彼なら、こうした痕跡をリゼットの存在を証明する材料として、すぐに結びつけようとしたかもしれない。今は違う。道があることと、リゼットが見つけたことは別の事実だ。二つをつなぐには、さらに証拠が必要だった。
だが、道を確かめること自体には意味がある。
記録に書かれた旅路が実際の地形と一致しないなら、記録のほうが不完全なのかもしれない。公式の旅程だけを正しいものとして扱えば、記録に残されなかった出来事は、最初からなかったものとして扱われてしまう。
エリアスは地図をしまい、再び馬にまたがった。
魔王城までの道のりは、まだ遠い。
これから先にも、記録と実際の地形が食い違う場所があるかもしれない。戦闘の跡が残っているかもしれない。あるいは、何も見つからないかもしれなかった。
どれであっても、調べる価値はある。
彼の目的は、リゼットとガレクが存在したことを、誰かに認めさせるだけではなくなっていた。二人の存在を裏づける痕跡を集めても、なぜ彼らが消えたのかは分からない。次に誰が消えるのかも、消失を止める方法も分からないままだ。
必要なのは、消失そのものの原因を突き止めることだった。
その答えが魔王城にあるとは限らない。それでも、二人が魔王を倒した場所には、王都の記録院では確かめられない何かが残っている可能性があった。
日が傾き、山の影が街道に伸び始めた。
アルトは前を向いたまま、静かに言った。
「魔王城に着いたら、まず何を調べる」
「残された記録と、実際の戦闘の痕跡だ。旅程にない道がほかにもあるなら、そこも確認する。記録と地形が一致しない場所を探したい」
「それで、消えた仲間のことが分かると思うか」
「分からない」
エリアスは答えた。
「だが、分からないからこそ、確かめる必要がある」
アルトは、それ以上は何も言わなかった。
二人は山道を進み続けた。王都から遠ざかるにつれ、道端の集落はまばらになり、やがて人の姿も見えなくなった。夕暮れの空の下、前方には魔王城へ続く山並みが広がっている。
かつて六人で進んだ道を、今は二人でたどっている。
その違いを、エリアスは忘れないようにしようと思った。
しかし、手帳にその事実を書き残すだけでは足りない。なぜ二人がいないのか。なぜ世界は、彼らが最初から存在しなかったかのように変わっていくのか。
その理由を知らないままでは、記録に名前を書き足しても、同じことが繰り返されるだけかもしれなかった。
エリアスは前方に目を向けた。
魔王城へ行くのは、失われた過去を確かめるためだけではない。
これ以上、仲間を失わないためだった。




