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f.w.03(娯楽)

   *


「ねえ、トム」ある時、待機所で、ふと、サリが云う。「これはね、〈さいごの戦い〉なんだと思う」


「また何かの引用?」


 するとサリは小さく笑って、「そうなるかな」


「どう云う意味?」


「本を読むために、別の本を読んでいないといけないだなんてことは正しいことかな」


「どうかな」トムは答えた。「よく分からない。分からないよ」


「いいよ」サリは依然、微笑んだまま、「それでいいんだ。界に属する必要なんてない。界を知り、場に詳しくないといけない、なんてことはない。文化資本も感動の分析もいらない」


「どういうこと?」トムは驚く。「本のこと、分からないままでいいの?」


「そりゃあ、知ってりゃ物の捉え方も変わるだろうさ。けど、知らなくたって、知らないなりの楽しみがあっていいじゃないか、でなけりゃ、そんな文化は閉じられたまま消えてしまうよ。そんなことより、読後感をありのまま受け入れること──知識や教養だとか、チットモご大層なものじゃない。読書なんて、余暇をひとりで豊かに過ごす娯楽なんだ。だから本は、とても贅沢なんだ」


「それで?」どうなの、と、トムは訊ねる。


「だからボクたちの仕事は、やっぱり、〈さいごの戦い〉なんだと思う」


「集めるべき本を集めたら、適切な保管事業が待っているよ」


「そうだね」とサリ。「ボクはそう云われた」


「ねえ、サリ。〈さいごの戦い〉はどんなお話なの?」


「ワードローブの向こうに異世界(ナルニア)の創造と終焉を見て、現実世界には、現実的な子だけが取り残されるお話」


「面白い?」


 トムの言葉に、ややあって、「そうだね」と、サリは小さく口にして、ほうっと細い溜め息を吐いた。「いい本だよ。でもね、──ボクには、分からない」


「ねえ、サリ」トムは一拍置いて、続けた。「本を読むために、別の本を読んでいないといけない、そう云ったよね?」


「うん」サリは頷いた。「キミは〈アキレスと亀〉を云ってるのかい?」


「なんのこと?」


「微分だよ、で?」


「やっぱりそれはおかしいよ。そういうことが本をダメにしたって思わないか?」


 すると彼女は、自分の二本の指で唇を交互に軽く叩き、「そうだねェ」トントン、と唇を弾いて、離した。「例えば、キミの回路がショートしたとする」


「そんなことはないよ」トムは否定した。「起こりっこない」


「例え話だよ。キミは時々、正気に戻る。その隙間を狙ってキミは云う。尼寺へ行け、とボクに云う。尼寺へ、尼寺へ行け!」


 トムは困惑して、彼女の話の続きを待った。


「ボクは思う。ああ、トムは〈ハムレット〉を読了(インストール)したんだ、って。もしかしたら、彼の父親が回路に進入したんだ、って。彼の叔父が黒幕だ、って」


「いったい何の話をしているの?」


「そうしてボクはキミの叔父にあたる〈ビッグ・ブラザー〉をやっつけなければならないことを知る。その時はきっと〈カシオペイア〉がボクを導いてくれる。〈さかさま小路〉を抜けて〈どのにもない家〉を訪れるかもしれない。もちろん、回路のショートしたキミは役には立たない。でも、キミが必死にボクに伝えたことを、ボクは、絶対に忘れない」


 トムは、首を振って、「全く、分からない」


「つまりだ、トム。ボクらの生活の中には、そんな()()()()()()()()が入り込んでいる。教養って言葉は好きじゃあないけれども、知らないことより、知ることで得たものの量で話は違ってくる。そう思わないかい?」


 やはりトムにはサリの言葉はよく分からない。でも、「ひとつ、いいかな、サリ?」


「ん」


「尼寺、って何?」


 サリはにっこり微笑んだ。「本当にキミは面白いね。いいよ、今から超特急で沙翁(しゃおう)について講義しよう」


 トムは、降参、とばかりに、両手を上げて見せた。サリは笑顔のまま、身を乗り出す。


「まず始めに、きれいは(きたな)い、穢いはきれい──、」


 彼女は機嫌よく、そして唄うように、声に音に、言葉を乗せた。トムにはそれが嬉しくて、だから翌日の彼女の態度は、解せなかった。


   *


 その日、サリはまるで具合が良くないようだった。どうかしたのかと訊ねようとし、トムは迷った。(それはたぶん)個人的なことかもしれない。余計なことかもしれない。彼女の機嫌が悪くなるかもしれない(悪くする・かもしれない/かもしれない)。


 二人を乗せたバンが走り出して、風が流れ、雲が流れ、景色が流れ──暫くの後、窓枠に肘を突いて外を眺めたままのサリはふと、「彼女、亡くなったって」


 トムはサリを見た。「自分で。自宅で」サリはトムから背を向けたままだった。


「あの女性のこと?」


 サリが小さく頷いた。「本を引き渡した後に、」


 なんてことだ(バイ・バイナリー)。──


 どうして、と訊ねられなかった。それはつまりニンゲンの問題で、だからトムには知らされなかった。


「クスリを」サリの目はくらい。「空っぽの家の中。ベッドで。ひとりで」サリは小さく溜め息を吐く。「クソッ」呟くサリをトムは(視線で)咎めた(汚い(カース)言葉(ワード)は彼の倫理回路が許さない)。


「悪かった」と彼女が云って、だからってトムうちでは、さざ波が立ち広がる。


「夏至祭り、どこで見る?」不意に、サリが訊ねる。


「海岸」勿論そうだ。花火なのだから。


「ちょっと下見に行かないか」


「仕事中だよ」


「海岸に寄るくらいで問題になる?」


 トムは少し考え、「うん」ならない、と応える。バンは、巡回の経路(ルート)を外れ、海岸へと向かった。潮風の吹く中を走っていった。夏至祭りが行われる準備の様子はまだどこにもなかった。


 砂浜は誰も歩いたことのないような畝があった。バンを降りた二人は、そこにブーツの足跡をつけた。海風が二人をいざなった。水面みなもは陽を弾いて煌めいていた。


 潮騒が満ちていた。寄せては返す波があった。それは何千年も、何億年も前からそうであったように、そしてこれから先の何千年も、何億年もそうであるかのように、白く淡く、泡立っていた。


 そうして二人は、空と雲と海と波の境界を、浜辺に並んで遠く見た。


 幾ばくの時間が過ぎた後、「行こう」彼女は云った。


   *


 サリはバンの運転席に乗り込み(だからトムは助手席坐った)、ギアを入れて、車を走らせた。


「どこに行くの?」トムの疑問にサリは、「保管庫」と答える。「局から教えられている、本の保管庫」


 トムは思う。海を見て、潮騒と潮風を浴びて、彼女は何かを決意した。彼女の目に決意を見た。

 だからトムは黙って風景の流れるままにしていた。


「トム」ようやくサリは口を開いた。「本はね、役目を終えたんだよ、やっぱり」


「何を? ──」


 ややあって、ぽつり、と彼女は呟く。「最後の一冊は、何だったんだろうな」


 サリが、それを(特段・強く)知りたいわけで口にしたのでないことは分かっていた。だからトムは黙っていた。サリは続けた。「ニンゲンは過去の遺産を消費するだけの存在になる。いや、なった。もうニンゲンは芸術を作ることがない。作る必要がない。自分の手を動かすこともない。


 無限にある〈遺産〉の中から、自分の好みに合うものを探してもらって、組み換えてもらって、お仕着せの娯楽をそうと知らずに気持ち良くなるもの、自分が好むものだけに囲まれるのに充分な環境が整った。


 嫌なことは考えなくていい。辛い思いはしなくていい。作ることの悩みや苦しみは必要ない。()()()苦悩はいらない。いつまでも完成しない()んだ思いも、成し遂げられずに惨めな気持ちも抱かなくていい。思いついたものは、いつでも、どんな形でも、銀の皿に乗って用意されてる。いつでも届けてもらえる。口を開けて待てばいい。願望(オーダー)は次の配達で届けられる。それだけのこと」


 サリはトムを見詰め、「それだけのこと」と、繰り返した。


 そうだね。と、トムは小さく頷いた。だから僕らは本の回収をしている。──


 いつの頃からか、紙とペン、インクは贅沢品になり、配給制になった。電子ペーパーとスタイラスなら、どのご家庭にも配布されている。


 違う? そうじゃない?


 そうなのだろうか? 何が違うのだろうか。トムは胸の奥で(不安)何かを感じとる。


「ねえ、トム」サリは云った。「キミは以前、云ったね。ひとつの本を読むのに、別の本が必要だと。それは正しいことだろうか、って。


 本は余暇の為のものだ。学問は有閑階級のものだった。印刷技術で書籍が生まれ、社会が成熟し、文字の読み書きが浸透し、娯楽化した。本は権威でも正しいことでもなくなった。本はそれで良かった。難しくないから良かったんだ。


 日々の隙間で本を読む。ちょっと待つ間に本を読む。なのにそれでも、やっぱり本は、本のために別の本を必要とする。どうして余暇にそんなことを? 読書で何を作れる? 何を得られる? 違う。特別視するな。消費を待つ娯楽のひとつ、高尚なことなど何もない、たかが本だ。なのに読んでも読んでも終わらない。だから本を読まなくなった。本は必要なくなった」


「サリ、──」彼女の発する言葉が強くなるのを感じた。トムは居心地の悪い思い抱いた。


「でも違ったんだ」きゅ、とサリは唇を噛んだ。トムは彼女の言葉の続きを待った。


「摂氏二三二・八。ニンゲンが自ら率先して本を焼き始めたんだ。自発的に始めたんだ。誰かの本をあげつらい、誰かの言葉を糾弾し、よってたかって、燃やしたんだ──祭りのように。その温度〈華氏四五一〉、紙に火がつき、本が燃えた。言葉は散った。火の粉が舞い上がり花火(ファイア・ワークス)のように舞い落ち、次々燃えて弾けて消えて。きっと楽しかったのだろう。


 乱痴気騒ぎはそれで終わらなかった。ひと仕事終わる前に次の火種をそのまた次の火種を誰かが探して持ってくる。最高の娯楽だった。社会や政治のおかしさよりも、町中まちなかの瑣末なことを探り始めて、地域も社会も国家も手放し、格差と階層の拡大と固定化に頬っかむりを決め込んだ。そんな面倒よりもこっちの水が甘いぞって。酸っぱい葡萄だなんてことにも思い至らない、日々の目眩し。闘技場(コロッセウム)の出し物、民衆の気晴らし、(パン)娯楽(サーカス)


 サリの言葉の奔流に、トムは(何も云えない)自分を知った。

 依然、彼女は続けた。──


「楽なほうへ、楽なほうへ流れていくのは、おかしなことじゃない。水は〝低きに流れる〟ものだ。辛いことから目を背けていい。楽しいことだけ触れていけばいい。愉快になれたらそれでいい。誰も自分が焼かれると思わない、焼かれたいと思わない。代わりの誰かを、何かを焼くことにした。余計な口を挟まず、火種を作ることを怖れ、自主的に規制と検閲を行い、自らを火中に投じることは愚行とし、遠くから指さし野次を飛ばし冷笑する。差別も自由も、自分たちが本質的に差別的であり本能的に自由を(おそ)れているからだ。


 自分の主張の正しさのためなら、何をどう曲げてもいい。おかしいのは自分ではなく法律だ、世間だ、ルールが間違ってる。根本が揺らいでくる。本質が歪んでくる。道徳は滑稽になった。規律は守るに値しない。信仰に理由がなくなった。奇跡は奇術の種明かし。感情の共有は軽薄に、感動や共感は億劫に、向き合うことも忘れそして置き去られた。作るより壊すほうがずっと苦労なく楽しいことだと知って、だから新しい本は生まれなくなって、次いで古い本を次々と無くし、そして本を、そして本は、──」


「……必要なくなった?」


 トムの言葉に、サリは、小さく溜め息で応えた。そんな彼女にトムは反発を憶えた。


「おかしいじゃないか、サリ。ニンゲンがどうしてそんなことを望んだ? 皆、本を大切にしている。大切な思い出を、記憶を、記録を託してくれる。なのにどうして、」


「トム」ふと、サリは、穏やか口を開いた。「実際、本はもう作られないんだ。作れないんじゃない。作らないんだ。誰かが始めたことじゃない。時代の所為せいでもない。何かが悪いってことじゃあない。何故かそうなった。どうしてか、そうなった。煎じ詰めるに、あたしたちは、きっと、そういう生き物なんだと思う」


「──文化的でない?」


「その考え方を、あえて口にし、持たねばならないほど、つまりそう、ニンゲンは野蛮なんだ」サリは(くら)()を向け、「だから」と、続けた。「だからニンゲンは、キミたちに、ニンゲンは似た姿を与えて、ボクたちの在りたい姿を投影させて、そのように振る舞うことを期待しているのだと思う」


「そんなことは、」


「善かれ悪しかれ、だと思うよ。ただ、そういう嫌いはないとは、云い切れないんじゃないかな。どうだろう、トム。キミは、ニンゲンは、そもそも自分たちがそんな存在だと気付いてなかっただろうか?」


 サリの言葉に、トムはやるせない思いを抱くだけだった。


「おかしな話だ」サリは静かに続ける。「逆説的なのだけれども、ニンゲンは自由を手にしたら。どうしてか途方に暮れる。ねえ、トム。一八一二年は分かるかい?」


「……なにかの独立した年だったかな、」


「遠からずだ。〈序曲一八一二年〉。鐘楼の鐘が鳴り響き、大砲が轟く」


「何に向かって? 撃ったの?」


 サリは自分の左胸を手のひらで軽く叩き、「42。ハートだよ。心を打つ」まるで上手いことを云ったかのように彼女の笑いが弾けた。


「ねえ、サリ。〈42〉って?」


 すると彼女は、「──気にしないでいい。忘れて」そして、「ボクたちには関係ない」 


 それから腕を伸ばして背筋を伸ばし、「さてと、トム」彼女は云った。「ここから先は、無理強いしない。ボクは集めた本をどうしているのか、見学の申請を出した」


 トムが驚くより先にサリは彼を真っすぐ見て云った。


「一緒に来る?」

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