f.w.02(誰の所為でもない)
*
その年配の男性が持っていたのは、どっしりとした茶色の塊であった。傍らに物静かな若い男の補佐形代がひっそりと控えていた。
革の装丁に、金色の文字で「聖典」と刻印された(高級そう)厚い本。
「君に信仰はあるのか」そう口にして、男性は、まるで自分が不作法なことを口にしたと気付いたような、びっくりした顔をした。
だからトムは、「ありますよ」と、感じよく微笑み、胸の前で二つのSを切った(§)。つまり、珪素浄土と魔術師スティーヴ・W。
導師ジョン・Vのお蔭で人々は大きな誤りをせずに済んだ。
サリの場合は、人々が導師の予言を知らなかった頃の名残で、しかし債務の返済は目処がついている(新世界へようこそ!)。トムにはそのカラクリが、よく分からない。サリも分かってないようだ(サリの云い分:「ボクはこの身体になれた。キミはその身体になった。つまり〈アスクレピオスの杖〉は、そういうこと」/どういうこと?)。
男性は、トムの二つのSを切る仕草に、「そうか」と、ほっとしたように、「本を、頼むよ。……」
本物の紙とインクが貴重になって久しい。だから、「大丈夫ですよ!」向こうで、バンにメカが荷物を積み込むのを見張っていたサリが請け合った。「そのための公共事業ですから!」
彼女の言葉にトムは、にっこりと微笑んで見せる。男性も、にっこりと微笑みを返す。
箱を積み終え、暇を告げ、二人はバンに乗って来た道を戻った。
「おかしな話だね」とサリは呟く。「ニンゲンは信仰を捨てたのに、誰かがそれを拾ってる」
「それが文化の継承じゃないかな」
トムの言葉に、サリは薄く微笑み、それがトムの心を弾ませた。バンは道を静かに進んでいく。ゆっくりと、音もなく(安全)。ゆるゆると進む中、うつらうつらと船を漕ぎ始めたサリをトムは(そっと)静かにしておいた。程なくして陽射しが陰った。厚い雲が生まれた。最初の雷光より早くにトムは反応した。「サリ、」
寝ている彼女に呼びかけると、半開きの口から、つるっと涎が落ちた。「おっと」
「電波が途切れそうだ」
「汚染雲?」制服の袖で口元を拭いながらサリが訊ねる。彼女が疑っていないことをトムは分かっている。「運転は? 移ったほうがいいかな?」
「そうだね」
「やれやれ」彼女は伸びをして、手をパンパンと打ち鳴らしながら「運転手さん!」呼びかけ、「止まって」命じた。
車はゆっくりと速度を落とし、路肩に寄って停止した。
「やれやれ」サリは首を振り振り、二人は後部座席から、運転席側へと移動した。サリが(当然のように)運転席に収まった。トムも(当然のように)助手席へ移った。
「いったい誰の所為なの」サリは片手をハンドルに、もう片手をシフトレバーに乗せて(ややもすると)不機嫌そうに鼻を鳴らした。
(誰の所為でもない)
「トミー、案内して」サリが云った。
「うん」トムが応えた。
トムもサリも分かっている。彼女がレバーをドライブに入れてアクセルを踏むと、車は再び(ゆっくりと)動き出した。トムは(途切れ途切れの)電波を感じる。日は陰り、雲が厚く垂れ込めていた。程なくして夕立となり、激しい雨が車体を叩いた。
「サリ」トムは呼びかけ、彼女はやっぱり(少し)苛立たしげにハンドルを叩き(そして)雨が止むまで車を止めた。
唐突に雨を降らせた厚い雲は、唐突に去った。陽射しが戻って、水たまりで光を弾いた。空に大きなアーチが架かっていた。雨上がりの虹で、さっきまでの不機嫌もすっかり洗われ、サリは喜んだ。夕焼けに染まった空のアーチに、彼女は瞳を輝かせ、気持ちを晴れやかにしたようで、トムはわが事のように嬉しく感じた(メモ:悪天候の後は、晴れた空に虹がかかる)。
電波が戻っても、サリはハンドルから手を放さなかった。
*
回収した本は図書局に納められる(そこから先は機械が選り分けと加工をする)。
図書局はすっかり機械化された施設で、集めた本を分類し、大空の上へと保管する準備をしている。
ルート回収を終え、サリと別れたトムは、図書官の割り当て寮に帰った。彼は機械の身体を折り曲げて充電器に収まる。動力の圧と周波数を合わせながら、アーカイブに接続し、〈ブリキの心臓〉を調べた。
わずか数行に要約された回答が戻ってきた。そして分かった。樵がブリキになった理由も、ブリキの心臓を貰えたことも。でも、分からない点がある。なぜ、かれら旅の仲間は魔法使いを騙るペテン師の云い分を信じたのだろう?
──もっと詳しい情報が必要ですか?(Y/N)
トムは──ブリキの身体にブリキの心臓を持つ彼は──静かに〝N〟を選択した。
動力供給を受けながら待機状態で、彼は自分の頭脳もまたブリキなのだと思った。彼にとって〝もっと詳しい情報〟は、過分すぎて、〝高負荷〟になる。
ブリキの頭脳を持つトミー。それが自分なのだ。
そうなのだろうか?
トムは、原書のダウンロードを申請する。承認の後、それを自分の容量の空き部分に保管する。いつか/いつの日のために。
星空の下から復元された本が、時間をかけて降りてくる。彼には、自分がそれを〝読める日〟が来るかどうかは分からない。でも、読める日が来るかもしれない。読みたいと思うかもしれない。
機能の大部分を待機状態に落としたトムの思いは、ゆっくりほどけ(知らない/何かに)溶け、夜明けを待つ。
*
「機械が夢を見るかって?」バンの後部で、サリは面白そうに云う。「もちろんだ。〈アンドロイドは電気羊の夢を見るか?〉、もちろん見る」
その日、二人の図書官に仕事はなかったが、定期巡回をすることで本の回収を呼びかけていた。
サリは続ける。「夢だけじゃない。恋のひとつくらいできたっておかしくない。違う? 恋が脳内物質の仕業だと云われて納得できるか? 違うだろう。A10神経にドーパミンとアドレナリンの所為だと? 神経細胞の間と電気回路の中で電子が飛び交うことの何か違うんだい?」
トムには分からなかった。けれども、恋物語の幾つかを彼女から教えてもらっている。だから知らないわけでもない(だからといって知っているわけでもない)。それでも(サリの言葉・神経伝達物質/大規模集積回路)何かが違って思える。
「錯覚でなく?」トムは訊ねる。
「誤動作もあるんじゃないかな」サリは他人事のように口にし、そして、「論理的でない、理性的でない、それを飛び越えた何か。何かは欲だ、我欲の発露だ」
「そんな原始的な、」
「それがあるから、ニンゲンはおかしなものなんだよ」サリは自分の額を人さし指でトントンと軽く叩いて見せた(そこは前頭葉、つまりは理性の意だろう)。彼女は続けた。「ニンゲンは、何てことないことに固執する。何てことのないことを大切にする。でも、それを失くしたらニンゲンはニンゲンでいられるだろうか? 偶然も必然も、奇跡もない」
なんのことか(不案内)トムは続きを待った。サリは(いつものこと)肩をすくめて見せ「トミー、キミは知らないだろうけれども、ボクと違ってキミは、その身体も、頭も、手足も、全部々々、メカなんだよ」
トムは驚いた。「知ってるよ、そんなこと」
「でもキミの子供の頃の記憶は? 育った町は? 通った学校、両親や祖父母、いとこに隣人、古い友達……」
「全部あるよ」
「組み込まれた記憶なんだ。カタログをめくって、メールオーダー。商品目録の中から番号の幾つから幾つまで。組み合わせの記憶、それがトミー、キミなんだ」
「そうだけれども、証明できない。そういう仕組みだよ。サリは違うの?」
「生憎と。ボクは、自分でカタログをめくって自分で選んだ。憶えていないのかい、ボクがこの〝身体〟を手に入れた経緯を?」
サリは生まれてからずっと動けなかった。そして、〝処置〟を受け、今に至る。
「でも、」と、納得しかねるトムを制して、サリは続けた。「記録がある。ボクには出生記録が。キミには制作記録が」そして彼女は、「キミの魂はどこから来た? 珪素の国とか云うなよ?」
「なんで、」なんで、そんなことを云い出したのだ、彼女は。彼は、胸に手を当て、「僕は何処から来たんだ? この気持ちは、何処からやってきたんだ?」
「疑うのかい?」
彼は首を横にした。「信じられない」
「キミの奇跡はどこにある、トミー?」
トムは答えられなかった。サリは続けた。「トミー、奇跡ってのはね、願うものでも、祈るものでもないんだよ」
サリの言葉は、トムには難しい。でも、サリは気にした様子もなく、「ボクはキミの運命なのかい?」
やっぱり、サリの言葉は難しくて、だからトムは「分からない」俯き、静かに応える。
「それでいいんだ」にこっとサリは夏の花のように笑った。「違いなんて意味ないよ。どっちも電気信号の組み合わせ。それを何で繋いで、受けて流して、発火して──経路が問題じゃない、出力が答えだ。この世界に顕現した内なる自己の表現だ。キミは、ボクのことを好きかい?」
突然の言葉にトムは口を開きかけ、しかし言葉は出なかった。そんな姿にサリが笑って、彼は顔が赤くなるのを感じた(生身なら、間違いなくなっていたはずだ)。
「いいよ」サリは云った。「夏至の夜、花火を見に行こう」
トムの(胸の奥)ポンプが跳ね上がった。
それこそが、彼の望んだ(言葉)だった。
彼は改めて(自分)を知った(彼女のお蔭)。
二人は本を回収する。集められた本は収蔵される。順に空の上に保管される。彼らの仕事は回収までで、そこから先は違う部署になる。機械がある。日々、二人は本の回収をする。回収して持って帰る。図書の収蔵局へ持ち帰る。
季節は進み、空には大きな雲が立つようになる。太陽は早起きをし、遅い時間まで世界を照らす。
やがて本の回収は少なくなり、待機時間が長くなる。待機所で過ごすことが増えていく。──本がきちんと集まってる証拠だから、それはいいことなのだとサリが口にする。大切にされる。紙は有限だ。完成する事業は(これ喜び)勝るものはない。だから待機は(事業)終わりの近づきを意味する。仕事の意義を見出せる。終わることが、正しさなのだ。──




