あり得ない ※スヴェン視点
ーー禍々しい。
机の上に描かれた魔法陣。その上に乗っている右腕の範囲にのみ、その赤黒い血は浮かび上がり、まるでひとつの生き物のように蠢いていた。注視すれば、それらは複雑な紋様を描いているようだった。
「ーー呪いね」
ベルリンが愕然とした表情で言う。
「の、ろい?」
「あり得ないわ……」
「……え?」
「呪いというのは、とっくに失われた魔術なのよ……それにーー」
ベルリンはそこで言葉を切って深いため息をついた。
魔法陣へと送っていた魔力を断ち切ったのか、浮かび上がっていた赤黒い血は、腕の中に吸い込まれるようにして消える。……のろい。 頭の中で反芻した。呪い?
「おれにかけられてるのは、呪いなんですか?」
「ええ……とても信じがたいことに」
未だ体は熱かった。
「腕はもう下げても?」
「ええ」
上体をだらりと背もたれに預け、顔を覆う。全身にかいた汗が気持ち悪かった。
呪い、呪い。
その言葉の意味はわかる。だが、呪いとは魔術の一種なのだろうか?
魔術のひとつであるとしたら、聞いたことも見たこともないーー呪いとは何なのか。すっかり思考回路は停止していて、頭を働かせることができない。ぼうっとする。ただ思ったことは、やっぱり、きっとおれの意思ではなかったーー……
「まずいことになったな」
シアが浮遊魔法で魔法陣の描かれた机を端に寄せて、代わりにポットとグラスの乗った机を呼び寄せた。
ポットは踊るようにひとりでにグラスへと水を注ぐ。冷たい水の入ったグラスが、おれとベルリンの手元へとふよふよ浮かんで飛んでくる。シアに礼を言ってグラスを受け取った。
水を飲む。
痛みはすでに引いたが、重い頭では何も考えられない。倦怠感。冷たい水を一気に飲み干したが、喉の渇きは癒えぬままだった。それでもなんとか口を開く。
「ええと……呪いというのは……?」
「少し待てーーベル、もう一重結界を張れるか?」
「ええ……これでいいわ、大丈夫よ」
「よし」
辺りに変わった様子はない。ベルリンも呪文を唱えてはいなかったが、今の一瞬で結界を張ったのだろうか。
シアは引き寄せたイスに腰かけて、その長い足を組んだ。
「さて、どこから話したものか」
「そうね。まず呪い……呪術について話そうかしら」
「呪術」
「ええ、魔術よりも高度で凶悪な術よ」
魔術よりも高度で凶悪な術。知らず眉を寄せる。それはかなり大変なことではないのだろうか。ベルリンとシアの顔は強張って見えた。
「魔術とは別物なんですか?」
「全くの別物よ。そもそもの系統が異なっていて、魔法の法則に縛られないものなの。……まあ、その辺りのことは省くとして。問題は、その呪術が世界から抹消されたものであることよ」
世界から、抹消。
「話は少し長くなるわ。遅くなっちゃうけれど、どうしても大事なことだから」
「はい、大丈夫です。お願いします」
「ありがとう」
部屋にひとつある窓は、シアの魔法によってカーテンが閉められていた。外がどのくらい暗くなっているかはわからなかったが、モロン家には門限というものはなく、とりわけ自分は放任されているので、帰宅が遅くなろうとも特に問題はない。
「まずエルメス魔道魔術機構が設立されたのは、今から約一千二百年前のことなんだけど、設立した目的が、この世界から呪術というものを失くすためだったの」
おれは黙って聞いていた。
「機構は、呪術に関するあらゆる書物を燃やし、知識を制限し、歴史上の呪術が関与した事件までも記録から抹消した……一千二百年という気の遠くなるような長い時間をかけて、人々の記憶から忘却させ、その新たな使い手を生まないようにしたの」
「…………」
「今では呪術という力、あるいは概念が、この世界に存在していたことを知っている人間は、ごくわずかに限られているわ。私たちも、知ってはいるけれど、呪術を使うことはできない」
「解く方法は?」
思わず口を挟んだ。ベルリンが目を伏せて首を横に振る。
「残念だけど、私たちには解くことはできないわ」
「せいぜい、どういった呪いがかかっているか調べることができるくらいだな」
「それも、また結構時間がかかるんだけどね」
というと、現段階では、その呪いとやらの具体的な内容はまだかわらないということか。
「きみの様子を見るに、何かしらの精神に影響を及ぼす類だとは思うが……厄介なことは、ひとつひとつを重ねて施す魔法とは異なり、呪術は複合的な要素を孕んでひとつの形を成す。精神に影響を及ぼすだけでなく、他にも何かがあると考えて良い」
「例えば、視界を盗んだり、体を操ったり、魔力を吸い上げることができたりーーといった具合ね」
「はあ……なるほど」
いよいよまずいことになった。一周回って気の抜けた声が出る。
「呪いをかけた相手を殺すこともできるんですか?」
「可能だ」
シアは即答した。
「今この瞬間、殺される可能性だってある」
ええ……呪術やば……。
生殺与奪の権利を誰かに握られているということである。背筋がぞわりと粟立った。
「シア! そこまで言わなくても!」
「……すまない」
いたずらに生徒を不安にさせることを口にしたからか、シアが申し訳なさそうに目を伏せる。おれとしては包み隠さず話してもらった方がありがたいのだから良いのだが。
ーーしかし。なるほど、そういう術だからこそ、エルメス魔道魔術機構は撲滅活動に勤しんだわけなのだろう。しかし、おれにその件の呪いとやらがかけられているということは、まだ呪術を使える人物が存在しているということになる。
「やばくないですか」
「やばいとか、やばくないとかいう次元じゃないわよ。ーー国家の一大事ね。呪術だなんて、あり得ない」
「この件は、国に報告する必要があるし、きみの処遇は上の判断を仰ぐことになる」
「はあ」
再び緊張感のない声が出る。
どうにも現実味が感じられないのは、脳が考えることを拒否していて、どこか他人事のように聞こえているからだろう。というか、いつ呪いなんてかけられたの。何の目的で? それに、誰が。
「ちなみに、心当たりはあるか?」
ちょうど考えていたことを問われ、おれは力なく「まったく」と答える。シアは何だか納得のいっていなさそうな顔をしていた。
「術の反応から見て、かなり定着しているから……ずいぶん前から呪いがかかっていたと考えられるわね」
「だとすると、ますますあり得ない話になってくるな」
「そうね……」
「……どういうことですか?」
要領を得ず問えば、シアは「本来ならあり得ないことが、三つ、起きている」と言った。
「三つ?」
「ひとつ目は呪術が現代に存在したこと」
「…………」
「ふたつ目は、きみが自力で呪いによる違和感に気づいたこと」
普通は気づけないものだーーシアはそう語るが、いまさらながら、このふたりは知識や書物が制限されているはずの呪術というものをよく知っている。限られたごくわずかの人間しか知らないと言っていたが、それはどのくらいのものなのだろうか。
「そして最後が……ーー死ななかったことだ」
赤い双眸と視線が合わさる。
ようやく、シアが奇妙なものを見るような目で、おれを見ていることに気が付いた。
「死ななかったこと?」
「呪術は、程度によるが、かけられた際に肉体と精神が堪え切れず、死に至ることがある」
「あなたにかけられていた呪術は、まだ一部しか見えなかったけれど、あまりにも禍々しく強大な力だわ。……それが、ずいぶんと前ーーもっと幼い子どもの頃にかけられていたとするならば、普通は堪えられない。死んでいないことの方が、おかしいくらいね」
「…………」
言われて、押し黙る。
ここまで言われても、自分の身に起きていることを正しく理解できていないような気がした。
あまりに突飛な話だった。
最初はただ、アリアを避けなければいけないーーという、自分の意思に反した強迫観念のようなものがあって、それをシアに相談しただけだった。それが、あれよあれよという間にずいぶん大事になっている。
アリアを避けているのは、呪いのせい。
今にも殺される可能性だってある状況なのに、安堵する気持ちの方が大きいのは、おれがおかしいからだろうか。安堵する気持ちがあるから、ことの重大さを実感できずにいるのだろうか。当人であるおれよりも、シアとベルリンの方が深刻そうな顔をして何事か考え込んでいる。
「……七年前」
ふと、言葉が口をついた。
「そういえば、七年前に、高熱で死にかけたことがあると……」
思い出したのは、七年前に実はアリアがハリクに出会っていたという話である。
アリアはそれをハリクが助けてくれたと言っていた。
今になって思えば、高熱が出たからといって、その前後の記憶を少しも残すことなく失くすことなど、はたしてあり得るのか。あのとき、おれは何をしていた? 王都の下町。薄暗い路地裏。おれは……ーー誰かと、会った?
「……っ」
ズキリと頭が痛んだ。咄嗟に頭を手で押さえる。
「大丈夫か」
慌てたようなシアに答えることができず、荒い呼吸を繰り返す。ぎゅっと目を瞑った。考えないようにすると、やはり痛みは引いていく。きっとアタリなのだろう。
「……おれはそのときのことを、全く覚えていません。アリアから聞いたので」
「アリア・モロンか」
「そのときに王太子殿下が助けてくれたと聞いています」
「なに?」
ひとつ大きく息を吐いて、イスの背に凭れ掛かる。
「アリアには黙っていてもらえますか」
「当時の話はハリク・ラ・メルローから聞くことにしよう。どのみち王室には報告しなければならない」
「殿下のことを呼び捨てにしないの!」
ベルリンがぎょっとしたように声を荒げたが、シアはどこ吹く風といった様子だった。
「一先ず、今日のところは普通に帰っていい。このことは院長と王室にのみ報告させてもらう」
「機構には一旦伏せておきましょう」
「なぜです?」
「呪術なんて、よほど魔力の高い人にしか使えないから……最悪、機構に属する人間の可能性があるわ」
「なるほど」
頷いて、普通に帰っていいと言われたので、懐から時計を取り出し時間を確認する。ーー二十時前。
「……本当は、いますぐにでも保護したいところではあるけれどね」
ベルリンがため息混じりに言う。
今、保護したとしても、できることはないのだろう。しかし、呪いの効果とやらで、体を操られるような可能性もあるのであれば、即刻身柄を拘束してほしいところではある。……。
「呪いって、思考を読み取られたりすることもあるんですか?」
ふと思って聞いてみれば、シアは黙ってベルリンに視線を向けた。……なるほど。呪いに関してはベルリンの方が詳しいと見える。
「記録にはないわね。絶対にない、とは言い切れないけど」
歯切れの悪い物言いに、何とも言えない気持ちになる。
「……まあ、今まで一応は無事でいるのだから、すぐに殺されるようなことはないだろう」
シアが気遣うように言ったが、先ほど「視界を盗むこともできる」と言っていた。この状況を、おれの目を通して、もし盗み見られていたとしたらどうだろうか。遺言でもしたためておくべきか?
「とりあえずは処遇が決まり次第、声をかけるから、それまでは普段通りに過ごしていてほしい」
「わかりました」
現状、打つ手はない。シアは歯痒そうな顔をしていた。
何か対策を打てるまでは、今まで通りに過ごすことが最も安全ではあるのだろうと考えている。おれが呪いの存在に気が付いたことが、術者に気づかれれば、最悪のケースもあり得るのかもしれなかったが、今は視界を盗まれていないことを祈るしかできない。
イスから立ち上がって、端に置いておいた鞄を手にしたところで、ふと動きを止める。
「あの……呪術について、あまり口外できないことは承知しているんですけど、どうしてもひとり、状況を伝えたい人がいまして」
言いながら鞄を開ける。
「誰だ?」
「ピエリス嬢です」
取り出したのは伝達帳だった。
『かなメロ』の各ルートの概要を書いたのを最後に、その返事にも目を通していない。おれは文字を読まないようにして、やりとりをしていた数ページを破り取った。
もし、もし万が一。
おれやアリア、ピエリスの他にも転生者がいたとしたらーー日本語で書かれていたとしても安心はできなかった。
破り取ったページを魔法で燃やす。
「魔術院の外で魔法を使うんじゃない、スヴェン」
シアの咎める声に力がないのは、呪術なんてものをかけられたおれを憐れんでいるからだろう。
「ピエリス嬢と共有している伝達帳です。預かっていてもらえますか」
「まあ……!」
そういえば、ピエリスはベルリンと面識があったなと思い出す。手を口にやって驚きの声を上げたベルリンは、絶対何か勘違いをしている気がする。
当然のように何故ピエリス・アシュレイなんだと、シアに突っ込まれたが、うまく誤魔化す言い訳は思いつかず、ただ「どうしてもお願いします」と言うことしかできなかった。
シアは一言「考えておく」とだけ返して、伝達帳を受け取った。
呪いのことは、ピエリスには関係のないことかもしれないが、
『どうして、アリアを避けるの?』
ーーあの怒ったような顔。
あのときおれは、何と答えたんだったか。
鞄を閉めて手に取ると、少しだけ考える素振りを見せていたシアが口を開いた。
「最後にひとつ……アリア・モロンに嫌がらせをしている人物に心当たりはあるか?」
え? と、間の抜けた声を出す。
アリアに嫌がらせをする人物。ああーーそういえばここ数日、アリアが嫌がらせを受けているという話をちらほら聞いた。特に気にも留めていなかったが、考えて、そんなの思い当たるのはひとりしかいない。
おれは微かに首を横に振って、言った。
「わかりません」




