フィクションの中にしか存在しなかったはずのもの
父と母が喧嘩をしていた。
珍しい。なんでだろう……。
私の父と母は、第二子には恵まれないものの、仲睦まじい夫婦である。お互いをしっかりと尊重し、信頼し合っている。喧嘩をしているところなんて、生まれてから一度として見たことがなかった。いったい、何があって?
そこまで考えたところで、私はふと、彼らの髪が黒いことに気が付いた。
声を荒げて言い争いをしているふたり。
リビングで繰り広げられるその光景を、私はわずかに開かれた扉越しに廊下から眺めている。
私は茶色い何かを抱えている。動かすことのできない視界に映るそれは、丸い耳らしきものがふたつ、頭についていることから、くまのぬいぐるみのようだった。
ああ、そうだ。私は、いつも夜寝るときには、くまのぬいぐるみを抱きかかえて布団に潜り込んでいたものだった。このぬいぐるみは、父が気まぐれに買ってきてくれたものだ。
父と母は互いにヒートアップしてきていて、言い争う声がどんどん大きくなってくる。こんな夜中に、近所迷惑ではないのだろうか。
その声がうるさくて、こわくて、私は耳を塞ぎたくなった。だけど両手にぬいぐるみを抱えているので、それができない。聞きたくない。聞きたくない。だけど、ここから立ち去ることもできない。
ヒステリックに叫ぶ母。それをうるさいと一蹴する父。
見慣れた黒髪。その顔は、不自然にぼやけていて、どんな顔をしているのか、わからない。もう、思い出すことができない。
私は忘れてしまったのだ。
それが恐ろしくて、私はぎゅうっと目を固く瞑ったーー……はずだったが、その瞬間、私の両目は大きく見開かれていた。
クリーム色の天井。
そこに、父と母だった人たちの姿はない。
「ゆ、め……」
呆然と、知らず口から漏れた言葉はひどく掠れていた。
*
燦燦とした太陽。
爽やかに透き通った海はキラキラとその水面を輝かせている。眼下には青々とした木々と、その間に埋もれて見える樺色の屋根。
私は城下街にあるカフェの、ウッドデッキのテラス席に座っていた。
白いパラソルが太陽の日差しを遮る。時折吹く潮風。カシスとラズベリーがブレンドされたアイスティー。チューリップグラスの中で溶けた氷が軽やかな音を鳴らす。
ーーすっかり夏である。
山唄の月、第一週、風の日。
明日は土の日なので、休日である。魔術院での授業の後、私はクリスとともに久しぶりに城下街へと下り、こうしてのんびりお茶をしている。
お茶をしているーーとは言っても、私とクリスは大体の時間をともにいるが、その間ずっと互いに気を遣って雑談などをしているわけではない。それではさすがに息苦しく、疲れてしまうものである。
私はだらしなく机に頬杖をついて海を眺めており、クリスはその隣でずっと本を読んでいる。……最近クリスの読む本が恋愛小説ばかりになったのは何故だろうか。前はなんだか難しそうな医学書であったり、薬学書であったり、実用的なものばかり読んでいたはずなのだが。
視線は青い海にやったまま、グラスに刺さったマドラーでアイスティーを無心にかき混ぜる。カラン、カランという音。
この世界の夏はとても過ごしやすい。
日本での夏というと、湿気が多くむわっとしたまとわりつくような暑さがあったが、この世界は日本と同じような気候であるはずなのに、夏はカラッとした気持ちの良い暑さで、しかもそこまでの猛暑ではないのだからご都合主義様様である。夏の良いところだけを取ったみたいな夏だ。
私の日常はと言うと、少しずつ前進しつつある。
魔術院の授業の方は、ようやく座学から実技へと入り始めた。ひと月前からだ。
初めて呪文を唱え、魔法というファンタジーが自分の手で叶ったとき、ここ最近にはなかった感動と喜びが胸の中に湧き上がったものである。
そのときに行った魔法というものは、初歩も初歩で、氷を水に変化させる。水を水蒸気に変化させる。さらに水蒸気を水に、水を氷にーーといった程度の……前世で言う物質の状態変化をさせるというだけのものだったが、それでも道具を用いずに、自分の言葉だけでそれが形を変えるというのは、なかなかに新しく、楽しかった。
そして「断罪も王妃も嫌だ! ヒロインと王子をくっつけよう☆ドキドキ・ キューピット大作戦」の方だが(いまさらだが改めて作戦名ひどいと思う)、こちらの方もなんとなーく、ちょっとずつではあるが、前進してはいる……と、思われる。
アリアとハリクをくっつけるーーという方面に関しては、正直言ってあまり進捗状況は芳しくない。
お茶会のときに本人がそう言っていたし、あの音楽祭での感情の吐露とも言って良いほどの『Lasciar d'amarti』……アリアがハリクのことを好きであるのは、もう疑いようがないのだが、やはり王妃にはなりたくないという姿勢は変わりがないようだった。
恋だとか、愛だとか。
ぼうっと海を眺めながら、頭に思い起こされるのは、あの音楽堂の舞台に立ったアリアの姿である。
数か月が経った今、こうして思い返してみると、まるで映画やドラマのような、現実味のない創作物の中のワンシーンのようだったと感じる。
前世の世界含めて、あんな純愛とも言えるような感情を持った人間を、私は見たことがあっただろうか。
誰も彼もが「彼女がほしい」「彼氏がほしい」とか言って、合コンだとか街コンだとかに参加する。大学や就職なんかの環境が変化する節目で、新しく出会った異性を品定めしては、自分を顧みることなく理想を高らかに語るのだ。
そして最後には聞いていた理想とは、ほど遠い誰かと付き合い、やがて結婚して、彼らの大抵は本当の愛を知ったのだと嘯く。それはだたの妥協であって、本当にそこに愛はあるのか? と、思わなくもないが、そんな言葉は決して口にはせず飲み込んで、私は「よかったね」という祝いの言葉を投げかけてやる。
お茶会の席で頬を染めていたアリアも、結局は一見超優良物件であって令嬢たちの理想そのものであるハリクを、そういう風に見ていただけではないのか?
……ーーただ、彼女たちとスコーンやマカロンをつまみながら、あれこれ好き勝手に恋だとか愛だとかを語る、いわゆる恋バナというやつは、許された無責任といかにも俗物的なところが、妙に解放感があって楽しかった。
前世であれだけ軽蔑にも近い厳しい目を彼女彼らに向けていたくせに、今生の私は十五歳であることもあって、まるで女子高生にでもなった気分で楽しんでいたのだから現金なものである。
それはさておくとして、結局、アリアの語る恋だとか愛だとかも、所詮は上辺だけの薄いものなのだろうと、私はそのとき不躾にもそう思っていた。改めて考えると、私はだいぶ失礼なやつである。でもどうしても、私には恋だとか愛だとか、そんなものが信じられない。信じられない、はずだったのに。
アリアの抱くそれが、私の考えていたような安っぽいものではなかったと気づかされたのは、音楽堂の舞台に立つアリアが美しいソプラノを、その大ホールに響かせたときである。
私は知らない。知らなかった。
もどかしく恋焦がれる姿。そんな純粋な愛は、フィクションの中でしか知らない。フィクションの中にしか存在し得ない、誰かの理想でしかないと思っていた。そのはずであったのに、私はそのとき、初めて現実に目の当たりにしたのだ。
その後、スヴェンから伝達帳で、アリアとハリクの間にあったゲームにはない子どもの頃の邂逅の話を聞いた。
かいつまんだものであったから、ことの詳細や、そのときの彼らふたりのリアルな感情はどうしても不明瞭で知り得ない。
それは今より七年前ーー私たちが八歳のときのことだった。
平民であったアリアとスヴェンは、十一歳になってモロン男爵家に引き取られるまでは、王都の下町に兄妹ふたりで暮らしていた。
彼らには生まれたときから互い以外に肉親はおらず、母親代わりであったという血の繋がっていない女性に育てられていたのだが、その人は彼らが六歳になった年に病気で亡くなってしまったのだという。
彼らは母親代わりであったその人を亡くした後、幼いながらも、ふたりで協力し貧しくはあったが、なんとか生活を営むことができていた。まあ、中身は大人であったから、うまいことやっていけていたのだろうと、スヴェンは言った。
さて、肝心のアリアとハリクの知られざる邂逅についてだが、その出来事自体を、スヴェンは全く覚えていないらしかった。
前に「おれめちゃくちゃ記憶力良いからさ、どやあ」って言ってなかったっけ? と、思ったものの、どうやら彼が弁明するには、死の淵をさ迷うほどの高熱が出たことによって、熱を出したこと含めて前後の記憶がきれいさっぱり消え去っているのだそうだ。
スヴェンがアリアから聞いた話によると、そのときに、たまたまアリアはハリクに出会い、そして彼から特効薬をもらって、スヴェンは一命を取り留めた。……。
ーーというのが、伝達帳に書かれた事のあらましであるのだが……ええ、どういう状況なの、さっぱりわからない。
そもそも王都の下町に、王子たるハリクが足を運んだことにも疑問が残るし(だって当時のハリクは気軽に出歩けるような自由を持っていなかったように記憶している)、たまたま特効薬を持っていたというのも不思議な話だ。
どういうこと? と、詳しく説明を求めたが、肝心のスヴェンにそのときの記憶が一切なくて、自分が死にかけていたことすら、先日アリアに聞かされるまで、全く知らなかったというのだからお手上げである。
しかし、とにもかくにも、そのときにアリアはゲームにはなかった王子ハリクとの邂逅を果たし、彼の人柄を知り、きっと憧憬を覚えたのだろう。たぶん。
兄の命の恩人だからーーという理由で、あれほどの恋心を抱くものか? とも思わなくもなかったが、八歳のアリアがそのときにどう感じたかなど、それこそ本人にしかわからないことである。
まあ話が長くなったが、子どものときに出会った相手に、数年が経って成長し、入学した学校で再会するーーそんな恋愛モノの、フィクションのようなドラマチックな展開があって現在に至っている……にも関わらず、彼らふたりの仲は大して進展していないようだった。
アリアの方は、ハリクを慕ってこそいるものの、王妃にはなりたくないという姿勢であるから、当然そこに積極性はなく。ではハリクの方はどうだといえば、本音は王子スマイルの下に隠されてしまって、すっかり何を考えているのかわからない。
スヴェンの胡散臭い笑みとはまた違った、王族に求められる完璧な笑みである。本音を探られないようにするための、ある種の防衛。
けれどまあ、これでも長年ハリクと付き合ってきた身である。「なるようになれ」といった、周囲任せの受け身になっているのではないか。その辺りがハリクの性格を鑑みれば妥当ではないかと推測する。
音楽祭の後のパーティーで、最初にアリアをダンスに誘っていたことから、アリアへの好感度は結構高い方ではあると思うのだが。ハリクの方も、アリアと七年前に出会っていたことは覚えているだろうし。
それでも積極的にアプローチしないのは、結局「結婚相手は自分が決めることではない」とか、諦めに近い心境であるからなのだろう。たぶん。
そんなこんなで今日に至るまで、ふたりが消極的すぎるがために、音楽祭から何の進展もないまま夏も半ばに過ぎてしまっている次第である。
アリアとハリクに関しては以上のような停滞状態ではあるが、では前進している部分はどこかと言うと、先々月の末に「王太子の婚約者に選ばれなかった場合」について、父と母と、腹を割って具体的な話ができたのである。
話した内容については、簡単に「女公爵として家督を継ぐことも視野に入れる」といったものである。確約こそされていないが、私としては意思表示は明確にできたので、これは前進したと言えるだろう。
ーーと、クリスが読んでいた本をぱたりと閉じて、ふう……と、息をついた。
「読み終わったの?」
「はい、とても良かったです」
とは、一見思ってなさそうな無表情で、クリスはしっかりと頷く。
今まで恋愛小説など一切読むことのなかったクリスが「とても良かった」なんて言うので、少しばかり興味がむくりと首をもたげて、
「どんな話なの?」
そう問えば。
「主人公が幼少期に出会った男の子と、大人になって再会するーーというストーリーです」
「……へえ」
……急に興味がなくなってきた。
こちらから聞いておいて、この反応である。私は誤魔化すように、アイスティーの入ったグラスに口をつけた。
カシスとラズベリーがブレンドされたアイスティー。
それは氷が溶けてしまって、すっかり味が薄くなってしまっていた。




