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秀吉、歌を学ぶ  作者: 灰神楽ねこ


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9/11

奥の海

天正十七年、陸奥国糠部郡(ぬかのぶぐん)三戸(さんのへ)。


南部信直が歌会《うたかい》を催すとき、城中の者たちは、いつもより少し早く仕事を片づけることになっていた。

もっとも、歌会といっても、京の公家が開くような大仰なものではない。信直の居間に畳を敷き直し、硯と短冊を用意して、家中の者が何人か集まるだけである。

政務の合間に開くこともあれば、雨で遠乗りができなくなった日に、信直が急に思いつくこともあった。


その日は、北信愛《きたのぶちか》と八戸直栄《はちのへなおよし》が呼ばれ、信直の嫡男、利直も末席に座っていた。

「今日は鹿だじゃ」

信直が言うと、利直が顔を上げた。

「鹿でがすか」

「そうだ。秋の鹿を詠め。山さおる鹿でも、声ばり聞こえる鹿でもよい」

「父上、まだ秋にもなっておりませぬ」

「歌詠むのに、いちいち季節待ってられっか。秋になれば雪の歌も詠むべし、冬になれば花の歌も詠むべ」

信愛が笑い、直栄も筆を取り上げた。


信直は、こういう席では機嫌がよかった。家中の者が歌を詠むのを好み、出来のよしあしを論じることも楽しみ、よい歌が出れば自分のものより喜んだ。

若い利直が言葉に詰まっていると、すぐに助け舟を出したくなり、信愛からは、少し黙って見ておいでなされと、たびたびたしなめられる。


「鹿といえば、十二代様の御歌ですな」

直栄がそう言うと、皆が一斉に床の間の掛け軸を見た。水墨で描かれた山の景色に、南部家十二代当主、南部政行の和歌が添えられている。


春霞 秋立つ霧に まがはねば

思ひ忘れて 鹿や鳴くらむ


「嶽清公が帝の御前で詠まれた御歌でござりますな」

信愛が言った。

「北山殿の御前でながったか?」

直栄が首を傾げた。


「どちらんしても南部の家には、古くから歌を詠む者《もん》がおった。武辺ばりを家の誉れにしてはならねえ」

信直はそう言ってから、利直の手元をのぞき込んだ。

「ところで、おめはまだ一字も書いてねえな」

「考えております」

「考えてばりいねで、何か書げ」

「父上が先ほどからお話しになるので、考えがまとまりませぬ」

直栄が吹き出した。信愛も笑いをこらえ、信直は息子を睨んだものの、結局、自分も笑ってしまった。

「言うようになったな。ならば、よい歌を詠んでみせろ」

利直はようやく筆を硯に浸した。


障子の向こうでは、城の庭に植えられた木々が風に揺れていた。

三戸の夏は短く、秋になれば山から冷たい風が下りてくる。冬になれば雪に閉ざされる道も多い。

信直にとっては、どの山にも川にも見覚えがあり、そこに暮らす者たちの顔も思い浮かべることができた。


やがて利直が短冊を差し出すと、信直はそれを受け取り、声に出して読んだ。

「ふむ。悪くはねえ」

「本当でございますか」

「悪くはねえ、と言った。よいとはまだ言ってねえぞ」


信愛が身を乗り出して歌を読み、直栄も横からのぞき込んだ。

出来をめぐって三人が言い合いを始めたところへ、廊下から足音が近づいてきた。

「殿。津軽より知らせが参りました」

信直の手が止まった。

「……何だ」

「大浦の弥四郎が、また兵を動かした由にござります」

信直は短冊を畳に置いた。


信愛が立ち上がりかけると、信直は手で制し、取次に詳しく話すよう命じた。報告が進むにつれ、先ほどまで笑っていた顔から表情が消えていった。

「為信《ためのぶ》め。まだ足りねえと申すか」

誰に聞かせるともなく呟いたあと、信直は立ち上がった。

「歌は、またにするべ」


利直が書きかけの短冊を片づけようとすると、信直は振り返った。

「それは取っておけ。あとで見てやる」

そう言い残し、信直は信愛とともに部屋を出ていった。


*


文禄二年五月、肥前名護屋。


海が近いというのに、南部信直には、この城下の空気がどうにも息苦しかった。

名護屋には全国から大名が集まり、その家臣や商人、職人、荷駄を運ぶ者までが入り込んでいた。

海辺の山を削って築かれた城の周囲には、諸大名の陣屋が立ち並び、道を歩けば見知らぬ家紋の旗に出会った。

京や大坂から運ばれた品々が店先を飾り、遠い海の向こうへ渡る軍勢の噂が、朝から晩まで飛び交っている。


信直も、太閤《たいこう》秀吉の命によってここに来ていた。

三戸を発ってから、すでに長い日が過ぎていた。道中の苦労も少なくなかったが、それより信直を疲れさせたのは、名護屋に着いてからの付き合いであった。

前田利家の屋敷へ顔を出し、浅野長吉のもとにも挨拶に行く。ほかの大名からも招かれれば、よほどのことがない限り断れない。

奥州仕置を経てようやく安堵された南部の所領を守るには、太閤の近くにいる者たちとの縁を絶やしてはならない。

信直はそのことを承知していたが、上方の武将たちの座敷に出るたび、ひどく気を遣った。


言葉が通じぬわけではない。京の言葉も、武家の礼儀も、知らぬわけではなかった。しかし、話に夢中になると、三戸で使っている言葉がふと口をついて出る。

相手が聞き返してくると、信直は言い直し、そのうち何を話そうとしていたのか分からなくなってしまう。

ある席では、鷹の話をしていたときに、向かいの武将から言葉を聞き返された。

信直が言い直すと、男はようやく分かったという顔をして、悪気もなく笑った。

「なるほど。奥州《みちのく》では、そのように申すのでござるか」

その場の者たちも興味深そうに信直を見た。

信直は笑って応じたが、帰り道では一言も口を利かなかった。


名護屋には、津軽為信も来ていた。

その姿を初めて見かけたとき、信直は思わず足を止めた。為信は立派な髭を長く伸ばし、上等な衣装をまとって、何人もの供を従えていた。

かつて南部家傘下の国衆だった男が、いまでは太閤から独立した大名として扱われ、堂々と諸侯の間を歩いている。信直にとって、これほど腹立たしいことはなかった。

しかも為信は、上方の者たちとの付き合いにも熱心だった。

自ら話しかけ、相手の話に大きくうなずき、笑い声を上げる。その長い髭も珍しがられ、話の種になっているらしい。


もっとも、為信の振る舞いがいつも歓迎されていたわけではなかった。

前田家の屋敷で、為信があまりに話しすぎ、家老の奥村主計《おくむらかずえ》にたしなめられたという噂が信直の耳に入った。

「主計殿が、そこまで申されたのか」

信直が尋ねると、知らせを持ってきた者は大真面目にうなずいた。

「それ以来、津軽殿は前田殿の屋敷にも、浅野殿の屋敷にも、いっかな顔をお出しにならぬとか」


信直は笑いそうになったが、すぐに口元を引き締めた。

為信の失態は愉快であった。しかし、自分もまた、前田家の座敷を訪ねるのが億劫になっている。

それでは、あの男を笑えぬ。

信直はその日のうちに前田家へ使いを送り、翌日の訪問を申し入れた。


*


北陸、奥羽、東国の諸大名の取次を務める前田利家の屋敷には、すでに何人もの客が集まっていた。

信直が案内された座敷には出羽山形の城主、最上出羽守《もがみでわのかみ》義光(よしあき)がいた。

「南部殿。こちらへ参られよ」

義光が声をかけた。

信直は礼を述べ、義光の近くに座った。上方の武将ばかりの席では気疲れするが、奥羽の者が一人いるだけで、幾分か気が楽になった。


義光が扇を開いて顔をあおいだ。

「肥前は五月でも暑うござるな。南部殿は、こちらへ参られて幾月になる」

「すでに幾月か。三戸を発ったのは、まだ雪の残るころにござりました」

「わしも長うなった。国許へ文を遣わした折、生きておるうちに最上の土をもう一度踏みたい、水を一杯飲みたいなどと書いてしもうた」

「出羽守殿が、そのようなことを」

義満が自嘲するような笑みを浮かべた。

「笑われるか」

「とんでもござらぬ。わしも、糠部《ぬかのぶ》の山が恋しゅうございます」

義光は扇を閉じた。

「京の者には分かるまいな。最上の水は、冷とうてうまいのじゃ」


そのとき、京から来た武将が大崎侍従《おおさきじじゅう》の軍勢について話しているのが耳に入った。

「それが、兵の装束まで揃えておるのでござる。金銀を散らしたような見事なもので、京の町衆が道の両側に集まったとか」

「なんと、それほどに」

「奥州《みちのく》の武士というものは、皆あのように華やかなのでござろうか」


信直は茶碗を持ち上げかけた手を止めた。

義光も、わずかに眉を動かした。


「皆が皆、あのようなことをするわけではござらぬ」

義光が口を挟むと、京の武将は笑った。

「これは失礼。されど、あれほど人目を引く軍勢は、上方にもそうはございませぬ」


その男が別の話に移ると、義光は信直に顔を寄せた。

「聞かれたか、南部殿」

「聞き申した」

「あれが困るのじゃ。陸奥と申せば、誰も彼も大崎侍従のことばかり話しおる」

信直はうなずいた。

「相馬《そうま》殿も、岩城《いわき》殿も、さぞ面白うはありますまい」

「相馬ばかりではない。戸沢も小野寺も、あの男のこととなると顔をしかめる。佐竹殿など、なおさらじゃ」

「津軽も、あれは好かぬと聞きました」

義光は信直の顔を見て、少し笑った。

「南部殿と津軽殿にも、心の合うことがあるのか」

「それとこれとは別にござる」

信直が思わず早口になると、義光は声を立てずに笑った。

「わしも、甥には手を焼いておる」

「出羽守殿には、御身内のことゆえ、なおさらでござりましょう」

「身内だから困るのじゃ。幼いころは、もう少し人の言うことを聞く子であったが」

「今では、どなたの言うことも聞かぬように見えますな」

「聞いておるとも。ただ、聞いたうえで、好きなようにする」

義光はそう言って、また扇を開いた。


そのとき、廊下の向こうから、何かが倒れるような音がした。続いて、前田家の家臣が誰かを制する声が聞こえた。

「お待ちくだされ。こちらは――」

甲高い笛の音が、その声を遮った。


座敷の者たちが一斉に入口を見た。


笛はさらに高く鳴り、今度は太鼓が三つ、腹に響く音を立てた。廊下を走る足音が聞こえ、取次の者が慌てて襖の前に膝をつく。

次の瞬間、襖が左右へ開かれた。



最初に見えたのは、金色《こんじき》であった。


金糸を織り込んだ装束の若侍たちが入口の左右に居並ぶ。腰の刀から履物に至るまで、揃いの飾りをつけている。

その後ろにも同じ装束の者が控える。

そして彼らが一斉に身を引くと、深紅のマントを肩に掛けた若い武将が現れた。


男は入口で足を止め、居並ぶ者たちを見渡した。


「──羽柴大崎侍従、伊達越前守政宗にござる」


笛と太鼓が、もう一度鳴った。



信直は無言で隣の義光を見た。

義光は扇を閉じた。

「……藤次郎《とうじろう》」

若い武将が義光へ顔を向けた。

「叔父御。御無沙汰いたしました」

「前田殿の御屋敷で、何をしておる」

「供の者が、少し趣向を凝らしまして」

「おめが命じたのであろう」

「左様にございます」

政宗は静かに答えた。


義光が笛と太鼓を止めるよう命じると、政宗は供の者にわずかに手を上げた。

瞬時に音が止み、廊下に並んだ若侍たちも、申し合わせたように身じろぎ一つしなくなった。


政宗は深紅のマントを供の者に預け、座敷へ進んだ。

「南部殿もおいででしたか」

「久しゅうござる」

「御領内は、その後いかがでございます」

「おかげさまで、まずは穏やかに」

「それは何より。九戸《くのへ》の一件では、さぞ御難儀でございましたろう」

信直は茶碗を置いた。

「すでに済んだことでござる」

「左様でございましたな」

政宗はうなずき、少し間を置いて尋ねた。

「和賀《わが》や稗貫《ひえぬき》のあたりも、落ち着いておりますか」

「……何ゆえ、そのようなことをお尋ねになる」

「奥州のことゆえ、気にかかりまして。政宗も、知らぬことばかりでは困ります」


信直は若い男の顔を見つめた。

政宗の表情は穏やかだったが、その片目は信直から離れなかった。


「御案じには及びませぬ。太閤殿下の御仕置に背く者は、南部におりませぬ」

「それを聞いて安堵いたしました」

「藤次郎」

義光が口を挟んだ。

「南部殿の御領内を、あれこれ詮索するでない」

「叔父御は、南部殿のことまで御心配なさる」

「おめのことを案じておるのじゃ」

政宗の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

義光はその顔を見たまま、言った。

「小田原へも、そのように早う参ればよかったものを」

政宗の笑みが消えた。


ほんのわずかな間であったが、信直には、義光が扇を握り直すのが見えた。


「叔父御は、昔のことをよう覚えておいでじゃ」

「忘れられるものか」

「政宗も、忘れてはおりませぬ」

政宗はそれだけ答えると、前田家の家臣が差し出した茶碗を受け取った。


やがて別の客から京での軍勢の評判を尋ねられ、政宗はそちらへ向かった。

去り際に信直へ軽く頭を下げたが、和賀や稗貫の話には二度と触れなかった。


信直は廊下に控える伊達家の若侍たちを見た。

先ほどまで笛や太鼓を鳴らしていた者たちは、今では一言も発せず、主君の動きを見守っている。

あれほど奇抜な装束をまといながら、誰一人として勝手な振る舞いをしない。

信直は茶碗を手に取ったが、茶はすっかり冷めていた。


*


それから数日後、信直は太閤秀吉に拝謁することになった。


名護屋城の御殿へ通されると、信直はその広さに圧倒された。

廊下を折れるたびに景色が変わった。金地の襖には松や鶴が描かれ、柱には金具が光り、広間の向こうにはさらに広間が続いていた。

諸大名が控える場所を過ぎても御座所は遠く、信直は、これほどの建物を一人の男のために造るということが、どういうことなのか考えていた。

やがて案内の者が足を止めた。


広間の奥に、秀吉がいた。


金色の装束をまとった小柄な男であった。

遠目には、周囲の豪華な調度に埋もれてしまいそうにも見えたが、信直が一歩進むと、そこにいる者たちが皆、その男の方へわずかに身体を向けていることに気づいた。

武将も、公家も、取次の者も、秀吉が口を開くのを待っている。


その傍らに、一人の若い女が座っていた。

西ノ丸殿である。

信直は、彼女が織田信長の姪であることを思い出した。


信長。

その名を初めて聞いたのは、まだ信直が若いころであった。尾張から出た武将が京へ上り、公方を追い、諸国の大名を従わせたという話は、奥州にも幾度となく届いた。

やがて本能寺で討たれたと聞いたときには、遠い都で起きた出来事ながら、信直もひどく驚いたものだった。

その信長の姪が、いま目の前にいる。

そして信長の後に天下を取った男が、彼女の隣で笑っていた。


「茶々、これが狄《てき》の千島《ちしま》の屋形《やかた》じゃ」

秀吉は、傍らに控える一人の武将を指していた。

信直はその男に見覚えがあった。蝦夷ヶ島(えぞがしま)の領主、蠣崎慶広《かきざきよしひろ》である。


九戸城を攻めた折、慶広も兵を率いて参陣していた。信直にとっては、家中の争いに太閤の大軍を招き入れることになった、苦い記憶の残る戦である。

しかし今日の慶広は、そのときとは見違えるような装いをしていた。

身につけているのは、深い青地に金糸で龍や雲を織り出した、見事な蝦夷錦《えぞにしき》であった。


「ほれ、見事なものであろう。京でも、これほどの錦はそうあるまい」

秀吉が西ノ丸殿に袖を示すと、居並ぶ公家たちも身を乗り出した。

「これは、どこで織られたものでござる」

「蝦夷の地で織ったものではございませぬ。北の海を越え、さらに遠い国から渡ってくる品にございます」

「いかほどに遠くから」

「幾人もの商人の手を経て参りますれば、わたくしも織り手の顔までは存じませぬ」

慶広は袖を少し広げて見せた。

「されど、よい織物でござりましょう」


「そのような遠国にも、これほど美しいものがあるとは」

公家の一人が感心すると、秀吉は得意そうに笑った。

「わしの天下は広いであろう」


別の公家が、千島の名を聞いて口を開いた。

「千島と申せば、古い歌がございますな」

その人は扇を膝に置き、声を整えた。


秋の月 あまねき影を 眺めてぞ

千島の蝦夷も 哀れ知るらむ


「月の光は、都にも千島にも分け隔てなく降り注ぐ。遠い蝦夷の人々も、同じ月を眺めてもののあはれを知るであろうと、詠んだ歌にございます」

「ほう。よい歌じゃ」

秀吉がうなずいた。

「蠣崎。この歌を知っておるか」

「存じております。慈円法師の御歌でございますな」


座敷のあちこちから、小さなどよめきが起こった。

「ほう、蝦夷ヶ島の方が慈円法師を御存じとは」

先ほど歌を披露した公家が、慶広の顔を見直した。

「蠣崎殿も歌をお嗜みか」

「はい。父、若狭守も歌を好みましたゆえ、わたくしも幼いころより親しんでおります」

「存じませなんだ。ぜひ、いずれ御歌を拝見したいものですな」

「このような御方々にお聞かせするには、まだまだ拙いものにございます」

慶広が笑うと、秀吉も愉快そうにうなずいた。


「もう一首、思い出しましたぞ」

別の公家が口を開いた。


奥の海や 蝦夷が岩屋の 煙だに

おもへばなびく 風は吹くらん


「家隆卿の御歌ですな。わたくしには、ことに親しみ深い歌にございます」

慶広が答えると、秀吉は面白そうに身を乗り出した。

「蠣崎には、奥の海が身近であろうな」

「はい。されど、都の御方が詠まれた奥の海を、わたくしどもがこうして殿下の御前で聞かせていただくのは、また格別にございます」


信直は、三戸の床の間に掛けられた十二代様の歌を思い出した。

春霞と秋の霧、鹿の声。幼いころから親しんできた歌である。

蝦夷ヶ島の蠣崎にも、父の代から歌を嗜む習いがあるという。しかも慶広は、天下人の御前で公家たちと少しも臆せず歌を語り合っていた。


「ところで、奥の海とは、まことはどのようなところじゃ」

秀吉が尋ねた。

「海は広うございますが、風が厳しゅうございます。夏も霧が深く、冬は港が氷に閉ざされるところもございます」

「かようなところから、あの錦が渡ってくるのか」

「蝦夷の者たちが北の島々とも往来し、さらに遠い国から品を運んで参ります」


それまで黙って聞いていた武蔵大納言、徳川家康が口を開いた。

「蠣崎殿。こちらからは、何を渡すのでござる」

「米、鉄の道具、漆器、布などにございます。向こうからは毛皮や鷹の羽、海の幸、それにこのような織物も参ります」

「海を越える商いには、よほどの備えが要りましょうな」

「左様にございます。風を読み違えれば船を失いますし、蝦夷の者たちとの約束を違えれば、次の年から品が参らぬこともございます」

家康はうなずいた。


「蝦夷の者というのは、どのような姿をしておるのじゃ」

秀吉が尋ねた。

「わたくしどもとさほど変わりませぬ。ただ、男は髭を豊かに蓄える者が多うございます」

「ほう。どれほどじゃ」

慶広は自分の顎の下に手を当て、長さを示した。

「人によっては、このあたりまで」

「それほどか」

秀吉は自分の顎を撫でた。

「わしも、長い髭を生やしてみたいものじゃ」

西ノ丸殿が微笑んだ。

「殿下は、そのままで十分に御立派でございます」

「そうか。されど、髭があれば、もっと威厳が出るやもしれぬぞ」


秀吉はしばらく考えていたが、やがて何かを思い出したように手を打った。

「そうじゃ。茶々、面白いものがあった」


秀吉は小姓に命じて、細長い箱を持ってこさせた。箱の中には、黒々とした毛の束が入っていた。


「高麗《こま》の虎の尾じゃ。虎之助が献じて参った」

秀吉は得意そうに毛を広げて見せた。

「向こうには、まことに虎がおるそうな。大きなものは、人を一呑みにするというぞ」

「まあ、恐ろしい」

「虎之助め、よう仕留めたものじゃ」


秀吉はしばらく毛を撫でていたが、やがて小姓に紐を持ってこさせた。

「これを、ここへつけてみよ」

小姓が毛の束を秀吉の鼻の下に当てた。

「どうじゃ、茶々」

西ノ丸殿は袖で口元を隠した。

「……たいそう御立派にございます」

「そうであろう」

秀吉は満足そうにうなずいたが、すぐに毛が口元へ垂れ下がってきたので、顔をしかめた。

「いかん。これでは物が食えぬ」

周囲から笑いが起きた。

秀吉は毛を外し、今度は顎の下へ当ててみた。

「こちらならばどうじゃ」

「先ほどの方が、お似合いにございました」

「そうか。では、もう一度じゃ」


小姓が紐を結び直している間に、秀吉は広間を見渡した。

「そうじゃ。津軽はどこにおる」

末席に控えていた為信が、すぐに頭を下げた。

「はっ。これにございます」

「こちらへ参れ。茶々、あれを見よ。作り物ではないぞ」


為信が御前へ進み出ると、秀吉はその長い髭と、自分の鼻の下にぶら下がる黒い毛とを見比べた。

「どうじゃ、津軽。わしの髭も、なかなかであろう」

「はっ。まことに見事な御髭にございます」

「おまえのと、どちらがよい」

為信は一瞬だけ考えた。

「殿下の御髭は、高麗の虎にも勝るものにございます」

秀吉は大笑いした。

「馬鹿を申せ。虎の尾じゃと言うておるではないか」

周囲の大名たちも笑った。

秀吉はすっかり上機嫌になり、付け髭を外して小姓に渡した。

「津軽は面白い男じゃ」


信直は為信の横顔を見た。

あの男は、太閤の御前でも、よくもあれほど口が回るものだ。


秀吉は為信の髭をもう一度眺め、それから何かを思い出したように言った。

「そういえば、南部も参っておったな」

信直ははっとして頭を下げた。

「はっ。南部大膳大夫(だいぜんだいふ)信直、これにございます」

「おお、南部。こちらへ参れ」


信直が御前へ進み出ると、秀吉は二人を見比べた。

「南部と津軽は、近いところにおるのであろう」

「はっ」

「互いによく知っておるのであろうな」


信直は為信を見た。

為信も、こちらを見た。


二人の間には、津軽の土地をめぐる長い争いがあった。

為信は南部家から離れて勢力を広げ、いまでは太閤から所領を認められた大名として、信直と同じ場所に座っている。信直はそのことを、どうしても納得できずにいた。


「殿下。恐れながら、津軽のことにつきまして、今一度――」

為信が顔を上げた。

「南部殿。その儀は、すでに御仕置が定まっておりまする」

「されど、津軽は古くより南部家の支配に属した土地にござる。為信が勝手に兵を起こし、奪い取ったことは――」

「奪い取ったとは、聞き捨てなりませぬ」

為信の声が強くなった。

「津軽の者は、南部の支配を離れてより、ようやく安堵して暮らしております」

「何を申す。おめが――」

信直は言いかけて、口を閉じた。


秀吉が二人を見比べていた。

「まだ、その話をしとるのか」

信直は頭を下げた。

「恐れ入り奉ります。されど、我が家にとりましては、長年の――」

「分かった、分かった」

秀吉は面倒臭そうに片手を振った。

「津軽のことは、もう決めたであろう。今さら蒸し返しても仕方あるまい」


信直は唇を噛んだ。

為信は黙って頭を下げたが、その横顔を見ただけで、信直の腹の底には再び怒りが湧いた。

ところが秀吉は、二人の顔を眺めているうちに、別のことを思いついたらしかった。


「そうじゃ。南部といえば、馬じゃな」

信直は顔を上げた。

「はっ」

「南部の馬は、よいと聞いておる。まことか」

「それは、ぜひ御覧に入れとうございます」

信直の声が、思わず弾んだ。

秀吉は身を乗り出した。

「ほう。それほど自慢か」

「自慢と申しますより、糠部は古くから馬を育てて参った土地にございます。よい草場もあり、馬を扱う者も、代々その仕事を受け継いでおります」

「どのような馬がよいのじゃ」


信直は少し考え、脚の強さや胸の深さ、長い道を歩かせても疲れにくい馬のことを話し始めた。

秀吉は面白そうに聞いた。


「なるほど。大きければよいというものでもないのじゃな」

「左様にございます。大きいばかりで脚の弱い馬は、役に立ちませぬ。山を越え、川を渡り、幾日も歩かせるには、まず脚が肝要でござって」

「津軽の馬はどうじゃ」

秀吉が為信に尋ねた。

為信はすぐに答えた。

「津軽にも、よき馬がございます。南部殿の御領内ばかりが馬の産地ではございませぬ」


信直は為信を見た。

「津軽の馬も、もとは糠部から入ったものが多かろう」

「それを申されるなら、馬はどこからでも移るものでござる」

「育てる土地が違えば、馬も違う」

「津軽の土地が劣ると仰せか」

二人の声が、次第に強くなった。


秀吉はしばらく聞いていたが、やがて膝を打った。

「面白い」

信直も為信も、秀吉を見た。

「それほど互いの馬がよいと申すなら、比べてみればよいではないか」

「……比べる、でございますか」

「そうじゃ。南部も津軽も、それぞれ領内で一番の馬を連れて参れ。わしが見てやろう」


信直は、すぐには返事ができなかった。

為信も、わずかに目を見開いていた。


「殿下。馬を、この名護屋まででございますか」

信直が尋ねると、秀吉は当然のようにうなずいた。

「そうじゃ。遠いところから来るのは、人も馬も同じであろう。南部の馬は長い道にも強いと、いま申したではないか」

「それは、さようにございますが……」

「ならば、ちょうどよい。どちらがよい馬を育てておるか、見せてもらおう」

秀吉は楽しげに笑った。

「津軽。おまえも負けるでないぞ」

為信は深々と頭を下げた。

「ははっ。必ずや、よき馬を御覧に入れまする」


信直は為信を見た。

為信も、こちらを見ていた。


先ほどまで津軽の領有をめぐって言い争っていた二人は、いつの間にか、どちらが優れた馬を連れてくるかを競わされることになっていた。


「南部はどうじゃ」

秀吉が尋ねた。

信直は畳に両手をついた。

「……承知仕りました。南部一の名馬を、必ずや御覧に入れまする」

「うむ。楽しみにしておるぞ」

秀吉は満足そうにうなずき、次の話に移った。


*


陣屋へ戻ると、信直はすぐに北信愛《きたのぶちか》を呼んだ。

「三戸さ早馬出せ。今すぐだ」

信愛が筆と紙を用意した。

信直はしばらく考えてから、命じた。

「糠部中の馬、残らず調べさせろ。家中の馬ばり見てても駄目だ。牧の馬も、村々で飼ってる馬も、よさそうなのはみな見せろ」

「はっ」

「脚の強い馬を選べ。見栄えだけでは駄目だ。長い道を歩かせねばならねえ。肥前まで連れてきて、着いたときには痩せておったなどということになれば、何にもならねえ」

信愛は書き留めた。

「馬を扱う者にも、よく申し聞かせろ。道中の飼葉と水を絶やすな。船を使うところがあれば、その手配も要る。馬を傷めねえよう、道筋を調べておけ」

「承知いたしました」

信直は部屋の中を歩き回った。

「それから、馬を選ぶ者は一人に任せるな。牧を知る者、戦場で馬を使う者、年寄りの馬飼いにも見せろ。皆の目で選ぶんだ」

信愛が顔を上げた。

「それほどまでに」

「太閤殿下の御所望だもの、仕方ねえべ。それに、津軽と比べられるんだ」

その一言で、信愛の顔つきが変わった。

「……そりゃ、負けられねえでがすな」

「負けられねえ。為信の馬なんぞに、南部の馬が劣ってたまるか」

信愛は急いで書状をまとめ始めた。


信直はその背中を見ながら、名護屋城での秀吉の笑顔を思い出していた。

太閤は、ただ面白がっていただけなのだろう。南部と津軽が言い争うのを聞き、馬を比べればよいと思いついた。それだけのことであった。

しかし、その一言を受けた以上、南部家は動かねばならなかった。


三戸では、これから牧を調べ、馬を選び、道を整え、飼葉を集めることになる。馬を持つ者も、育てる者も、運ぶ者も、みな忙しくなるだろう。

信直は机に向かい、書状の末尾に自ら筆を加えた。


津軽に後れを取ること、ゆめゆめあるべからず。


書き終えてから、信直は筆を置いた。

窓の外には、名護屋の海が広がっていた。陸奥の山々からはるかに遠く、見慣れぬ船が行き交う海である。

信直はしばらくその海を眺め、それから書状を信愛に渡した。

「急げ。夜になっても構わねえ。明日の朝には、もう道を進んでおれ」

信愛は書状を懐に収め、頭を下げて部屋を出ていった。

その足音が遠ざかるのを聞きながら、信直は、三戸の城で馬のことを話している家臣たちの顔を思い浮かべた。


太閤のたった一言で、これから糠部中が大騒ぎになる。

信直は小さく息を吐き、もう一度、海の方へ目を向けた。

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