軒端の松
天正十六年四月、京。
和仁は、自分が帝になることを、幼いころから当然のように考えていたわけではなかった。
父の誠仁親王が生きておれば、まず父が位に即くはずであった。その父が二年前、思いがけず世を去った。
ほどなく祖父の正親町帝が譲位し、和仁が帝となった。十六の冬のことである。
父の葬儀のころ、和仁は人々の顔をよく覚えていた。悲しんでいる者もいたが、それ以上に、これからどうなるのかを案じている顔が多かった。
父を失ったことと、帝になることとが、和仁の中ではまだうまく結びついていなかった。
即位してから、人々の態度は変わった。
それまでも皇孫として丁重に扱われていたが、今は誰もが和仁の言葉を待ち、言葉が発せられれば深く頭を下げる。自分よりはるかに年長の公卿が、わずかな問いにも慎重に答えた。
和仁は、和歌を詠むことが好きだった。物語も好んで読んだ。
父が生きていたころ、宮中の女房たちに聞かされた昔語りには、今も忘れられないものがある。源氏の君が須磨へ退くくだりは、何度読んでも胸に迫った。
しかし、須磨がどれほど遠いところなのか、和仁は知らなかった。
播磨も、越後も、土佐も、国の名なら知っている。歌枕も、古い故事も知っている。
けれど、そこに住む人々が何を食べ、どのような家に眠り、どんな顔で言葉を交わすのかとなると、ほとんど知らなかった。
その和仁が、明日は聚楽第へ行幸する。
関白が築いたという大きな屋敷である。諸国の大名が集まり、帝を迎えるという。
和仁は、少し楽しみだった。
そのことを、誰にも言わずにいた。
*
十四日の朝、禁裏は早くから慌ただしかった。
廊には装束を整えた公卿たちが行き交い、庭先では供奉の者たちが出立の支度を進めていた。
和仁は御簾の内から、その様子を眺めていた。見慣れた宮中の儀式とは違い、今日は武家の者たちも大勢参上している。
見慣れた宮中の儀式とは違い、今日は武家の者たちも大勢参上している。
和仁は、坂上田村麻呂のことを思い浮かべた。
かつて帝の命を受け、東国へ兵を率いて赴いた征夷大将軍である。都を発つときには、さぞ多くの武者が従ったことだろう。
しかし、田村麻呂がどのような顔をしていたのか、和仁は知らなかった。
今日集まっている武将たちも、名は幾度となく聞いているが、顔を見たことのない者がほとんどだった。
やがて、関白が迎えに参上したとの知らせがあった。
秀吉は、いつものよく通る声で挨拶を述べた。和仁が言葉を返すと、深々と頭を下げた。その後ろには、見慣れぬ顔の武将たちが控えていた。
「内大臣殿は、いずこに」
和仁が尋ねると、側に控えていた勧修寺晴豊が、少し離れたところにいる男を示した。
内大臣信雄は、織田信長の子である。
信長の名は和仁も幼いころから聞いていた。祖父の御代、都へ兵を進め、朝廷に多くの献上をした武将。その死によって天下が再び乱れるかと思われたが、今はその家臣であった羽柴秀吉が関白となっている。
信雄は堂々とした体つきの男だった。装束の着こなしも立派で、いかにも高位の公卿らしく見える。
「内大臣は、関白と親しいのか」
晴豊はわずかに言葉を選んだ。
「織田家の御曹司にて、関白殿も相応の御礼を尽くしておいでにございます」
和仁は頷いた。もっとも、その答えだけでは二人の関係がよく分からなかった。
駿河大納言家康と大和大納言秀長も、関白に従って参上していた。
家康は首が太く、肩の張った男だった。宮中の公卿とは、同じ装束をまとっていても、体の作りが違うように見えた。
控えている間、周囲の者が動いても容易には顔を向けず、じっと前を見ていた。
秀長はそれより穏やかな顔つきをしていたが、こちらも肩幅が広い。兄の関白とはあまり似ていない、と和仁は思った。
近江中納言秀次は、ずっと若かった。
和仁とさほど年の違わぬ者が中納言として列し、多くの家臣を従えている。少し羨ましいような、不思議な気持ちになった。
ほどなく、出御の時刻となった。
和仁は鳳輦に乗り、禁裏を後にした。
都大路には、沿道の人々がひしめいていた。
鳳輦の内からは、その顔を一つ一つ見ることはできなかったが、遠くから歓声のようなものが聞こえた。供奉する者たちの足音や、馬の蹄の音も聞こえてくる。
和仁は背筋を正した。
帝は、人々に見られるために出かけるのであって、人々を見物するために出かけるのではない。
そう教えられていた。
それでも、御簾の向こうが気になって仕方がなかった。
******
聚楽第の門をくぐると、和仁は思わず目を上げた。
大きい。
その一言が、まず心に浮かんだ。
宮中の殿舎も決して小さくはない。
しかし、ここでは門を一つくぐっても、なお別の門があり、庭があり、長い廊が続いている。白壁と瓦の屋根が幾重にも重なり、金具の輝きがあちらこちらに見えた。
座敷へ入ると、襖には金地の障壁画が描かれていた。松の枝が隣の襖まで伸び、鳥が飛び、山水が遠くへ続いている。
このようなものを、関白は自分の屋敷として造ったのか。
和仁は感心すると同時に、少し落ち着かなくなった。
御所には古い建物が多い。修理のための費用がなかなか集まらず、雨漏りを案じたこともある。祖父の御代には、さらに苦労が多かったと聞いていた。
それに比べて、ここでは何もかもが新しかった。
「ようこそ、お渡りくださいましてございます」
秀吉が進み出た。
関白豊臣秀吉。
和仁は、この男を以前にも見たことがあった。しかし、これほど近くで、これほど長く言葉を交わすのは初めてであった。
思っていたより、小柄だった。
大納言たちの大きな体を見た後では、なおさらそう感じられた。顔には皺が多く、目がよく動く。笑うと口元が大きく広がり、頭を下げるときにも、何やら全身が動いているようだった。
「御所よりのお道筋、いかがでございましたか。何ぞ御不自由はございませなんだか」
「つつがなし。都人も、たいそう集まりたるように見えた」
「ははあ、それはようございました。皆、主上のお渡りを待ちかねておりましたので」
秀吉は顔を上げた。
「この屋敷も、今日という日のために、いささか手を入れましてございます。どうぞ隅々まで御覧いただきとう存じます」
隅々まで。
和仁は、その言い方に少し驚いた。
宮中の人々は、帝に何かを勧めるにも、まず控えめな言葉を選ぶ。ところが秀吉は、まるで親しい客人を迎えた主人のように話した。
側にいた近衛前久が、わずかに眉を動かした。
前久はすでに出家して龍山と号している。和仁の祖父の御代から朝廷に仕え、幾度もの政変をくぐり抜けてきた人物である。
その前久が、関白の言葉遣いを快く思っていないことは、和仁にも分かった。
だが、秀吉は気づかぬ様子で、庭の造りや座敷の趣向を次々に話した。
和仁は、だんだん面白くなってきた。
*
翌十五日には、諸大名からの誓紙が捧げられた。
関白の命に背かず、互いに争いを起こさず、天下の静謐を守る。
その趣旨を聞きながら、和仁は、これほど多くの武将が一つの約束を結ぶことの重さを考えていた。
彼らは、それぞれ国を持っている。
一人が命じれば、何千、何万という人間が動くという。遠国では朝廷の命より、その国の大名の命の方が人々の暮らしを直接左右するのかもしれぬ。
しかし今、その大名たちが、関白のもとに集まっている。
やがて、儀式を終えた人々のうち、幾人かが改めて御前に進み、挨拶を述べる機会が設けられた。
和仁は、そのとき初めて、武将たちの顔をじっくりと見た。
「──駿河大納言家康卿」
奏者が名を告げると、家康が御前に進み出た。
昨日見たときには、近寄りがたい男に思われた。ところが、頭を下げて挨拶する声は、意外なほど穏やかだった。
「駿河大納言は、幾度も戦に出でたると聞く」
「はっ。若年より、幾度か戦陣に臨みましてございます」
「戦とは、いかなるものぞ」
家康は少し顔を上げた。
「……恐れながら、何をお尋ねにございましょう」
和仁は、返答に困った。
戦とは何か。自分でも、何を聞きたかったのか分からない。陣を構えることか。馬に乗って敵へ向かうことか。それとも、矢が飛び、刀が振るわれることか。
家康が膝に置いた手に目が留まった。指の節が太く、手の甲には濃い毛が生えている。
あの手で、人を斬ったことがあるのだろうか。
そう思った途端、和仁は胸のあたりが冷たくなった。
「……戦場は、恐ろしきところか」
「恐ろしゅうございます」
家康は、すぐに答えた。
和仁は驚いた。
「そなたもか」
「はっ。敵の矢は、身分を選びませぬゆえ」
家康は静かに続けた。
「されど、恐ろしいからと申して、逃げてばかりもおられませぬ」
和仁は、家康の顔を見つめた。
「……よう生きて参ったものな」
「ありがたきお言葉にございます」
家康は深く頭を下げた。
加賀少将利家は背の高い男だった。年齢を重ねているが、立ったときの姿勢がよく、声にも張りがある。長年、戦場にあった人物だと聞いていた。
「加賀少将は、織田の先代に仕えたるか」
「はっ。若きころより、右府様にお仕えいたしました」
「さすれば、内大臣の幼きころも知りたるな」
利家は少し笑った。
「存じております。もっとも、それがしも若輩にございましたゆえ、御曹司のことをあれこれ申し上げる立場ではございませなんだ」
和仁は、利家の顔を見た。
この男は、昨日見た織田内大臣がまだ幼かったころから、その父に仕えていたのである。
「右府は、いかなる人でありしか」
利家の表情が改まった。
「……厳しき御方にございました」
少し間を置いて、続けた。
「されど、よく人をご覧になる御方でもございました。若き者にも、働き次第で大きなお役目をお任せくださりました」
和仁は頷いた。
祖父の御代に天下を動かした男の姿が、少しだけ近くなったように思えた。
備前宰相秀家は、驚くほど若かった。
顔立ちにはまだ少年の面影が残り、和仁と目が合うと、きちんと頭を下げた。
「備前は、都より遠きところなりや」
「恐れながら、幾日かの道程にございます」
秀家はよどみなく答えた。
和仁はもう少し話してみたかったが、何を尋ねればよいのか分からなかった。同じ年頃の相手であるのに、御前にいるかぎり、友人のように言葉を交わすことはできない。
次に進み出たのは、土佐の武将だった。
奏者が「土佐侍従秦朝臣元親、長宗我部の家にございます」と取り次いだ。
長宗我部。
和仁は、その名を聞いたことがあった。四国の大半を従え、関白の軍勢とも戦ったという。
もっと荒々しい男を想像していた。
ところが、目の前の侍従は、すでに五十に近い年齢ながら、顔立ちの整った、静かな男だった。頬には年相応の陰影があるが、若いころは随分と端正な容貌であったのではないかと思わせる。
「土佐より参りたるか」
「はっ」
元親は深く頭を下げた。
土佐。
和仁は、紀貫之の『土佐日記』を思い出した。
舟の旅、荒れる海、都へ帰る人々。幼いころから親しんできた文章に描かれた国から、この男はやって来たのだ。
「土佐の海は、いかなるものぞ」
「海に面したるところ多く、浦々に船を置いております。沖は荒れることもございますが、よき港もございます」
和仁は頷いた。
貫之の時代から、海の様子は変わったのだろうか。そう尋ねようとしたが、次の者が控えていた。
北庄侍従秀政は、すっきりとした身なりの男だった。丹後侍従忠興は若く、目元が鋭い。松ヶ島侍従氏郷は、言葉こそ少ないが、受け答えに落ち着きがあった。
金吾侍従と呼ばれる幼い少年もいた。
和仁は思わず微笑んだ。あの年頃で、すでに朝廷の官位を持ち、こうした場に列している。
「──越後上杉少将景勝」
奏者が名を告げると、一人の武将が御前に進み出た。
和仁は、名前を聞くなり顔を上げた。
「上杉とは、謙信の跡を継ぎし者か」
「さようにございます」
答えは短かった。
景勝は、ほかの武将たちよりさらに口数が少なかった。
背丈が際立って高いわけではないが、体には厚みがあり、顔はほとんど動かない。目を伏せて控えている姿は、石に刻まれた人のようにも見えた。
和仁は、祖父から聞いた話を思い出した。
越後の謙信は、かつて上洛して朝廷に礼を尽くしたという。戦に強く、仏道にも深く帰依した武将であった。
「謙信は、祖父の御代に都へ参りしと聞く」
「はっ」
「そなたも、幼きころより謙信に仕えたるか」
「養父にございます」
景勝はそう答え、再び口を閉じた。
和仁は少し困った。
「越後には、雪が多いそうな」
「多うございます」
「冬には、山も道も雪に埋もるか」
「山道は、通れぬところもございます」
「……さようか」
景勝はそれ以上、何も言わなかった。
和仁は、自分がつまらぬことを尋ねているのではないかと思った。
謙信の死後、越後で争いがあったと聞いている。景勝はその争いに勝って家を継いだという。そのことを尋ねれば、もう少し話が続くだろうか。
しかし、景勝の伏せた目を見ているうちに、和仁は口をつぐんだ。
自分も父を失って帝となった。
けれど、この男が家を継ぐために何をしたのか、和仁はほとんど知らない。
景勝が退出すると、和仁はしばらくその背を見送った。
*
その日の夕刻、和仁は関白の催した小さな余興を見た。
能である。
楽人や囃子方はすでに支度を整えており、武将たちの中にも、芸を嗜む者がいるという。
秀吉は上機嫌で、信雄に一差し所望した。
内大臣は、笑ってこれを受けた。
和仁は驚いた。
信雄は、昼間の儀式では高い官位にふさわしい威厳を保っていた。ところが舞台に立つと、別人のように体が軽くなった。
『竜田』の一節を舞う姿には、少しも無理がなかった。
袖の扱いも、足の運びも美しい。音曲に合わせて体を動かしながら、顔には余計な力が入らない。
和仁は、思わず身を乗り出した。
「内大臣は、能に長じたるな」
「まことに。三介殿は昔から、こうしたことには抜きん出ておいででございます」
秀吉は嬉しそうに答えた。
「では、駿河大納言にも一差し願おうか」
その声に、家康が顔を上げた。
「それがしでございますか」
「そうじゃ。たまには御前で舞うてみよ」
家康は少し困った顔をしたが、断らなかった。
やがて『船弁慶』の一節を舞い始めた。
和仁は、ほどなく、これはあまり上手ではないと思った。
足取りが重い。腕を上げるにも、体の大きさが邪魔をしているように見える。音曲からわずかに遅れることもあった。
それでも家康は、真剣そのものだった。
大きな手を動かし、額に汗を浮かべ、決められた所作を一つずつ丁寧に追っていく。途中で笑いを取ろうとも、取り繕おうともしない。
和仁は、笑ってよいのか迷った。
やがて舞が終わると、秀吉が大きな声で笑った。
「いや、三介殿には及ばぬのう!」
周囲にも笑いが広がった。
家康は額の汗を拭い、苦笑して頭を下げた。
「面目次第もございませぬ」
「何を申す。そなたに能で勝っても、戦ではかなわぬ者が幾らもおろう」
秀吉はそう言って、家康の肩を軽く叩いた。
「駿河殿には駿河殿の働きがある。わしはよう知っておる」
家康は、今度は深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます」
その声音は、和仁には意外なほど真摯に聞こえた。
家康は、関白に屈することを恥じているようには見えなかった。むしろ、秀吉の言葉を大切に受け取っているようだった。
和仁は、昼間見た景勝の顔を思い出した。
この人々は、皆違う。
違う国に生まれ、違う戦をしてきた者たちが、今は一つの座敷に集まり、関白の言葉を聞いている。
そして秀吉は、彼らの誰に対しても、まるで昔からよく知っている友人のように話しかけている。
*
十六日、聚楽第では和歌の御会が催された。
朝から座敷には、墨と紙の匂いが漂っていた。
公卿たちは歌のことになると、武家の儀式のときとは違った顔を見せる。先ほどまで関白に恭しく挨拶していた者が、歌の一句については遠慮なく意見を述べることもあった。
和仁は、ようやく自分のよく知る場所へ戻ってきたように感じた。
細川幽斎も、その席に姿を見せていた。
もとは将軍家に仕え、信長のもとでは兵を率いて丹後を攻めた武将である。
今は家督を子に譲って剃髪しているが、歌道においては当代屈指の人物として知られている。和仁も、その名は以前から聞いていた。
幽斎が関白に何かを申し上げると、秀吉はしきりに頷いた。
「いや、幽斎殿。それでは源氏の君が、あまりに気の毒ではござらぬか」
「物語の趣は、必ずしも人の願うようには運びませぬゆえ」
「そうかのう。わしなら、あのように長々と嘆いておるうちに、何ぞ手立てを考えるが」
幽斎は、笑いをこらえるように頭を下げた。
「関白殿のお考えは、まことに御勇ましゅうございます」
和仁は、思わず微笑んだ。
源氏の君が須磨に退いたくだりの話らしい。
「関白は、源氏を好むか」
和仁が尋ねると、秀吉は顔を向けた。
「はっ。なかなかに面白き物語にございます。もっとも、わしには、あのように思い悩んでばかりおる男の気持ちが、よう分からぬところもございまして」
「源氏の君は、ただ嘆いておるのではあるまい」
「これは、主上に叱られてしもうた」
秀吉が笑い、幽斎も頭を下げた。
和仁は少し得意になった。
「須磨の巻は、昔よりよく読めり。都を離れし人の心を、あれほど細やかに記したるものは少なし」
「まこと、仰せのとおりにございます」
秀吉は素直に頷いた。
「それにしても、あれほど長き物語をよくぞ書いたものにございますな。読めば読むほど、初めには気づかなんだことが見えて参ります」
和仁は、その言葉に嬉しくなった。
「関白は、幼きころより源氏を学びたるか」
秀吉の笑顔が止まった。
ほんのわずかな間だった。
目元から笑みが消え、口が閉じられた。
「……いえ」
秀吉は答えた。
「幼きころは、そのような書物を読む身ではございませなんだ」
和仁は、少し驚いた。
「さようであったか」
「歌を習い始めましたのも、ずっと後のことにございます。まだ上様にお仕えしておったころで」
上様とは、織田信長のことだろう。
秀吉は、膝の上に置いた手を軽く握った。
「京の者に、ずいぶん笑われましてな。歌一つ知らぬ田舎者が、ようここまで来たものじゃと、今でも思います」
笑ってはいた。
しかし、和仁には、先ほどまでと同じ笑いには見えなかった。
幽斎が静かに視線を伏せた。
和仁は、何か悪いことを尋ねたらしいと気づいた。
けれど、何が悪かったのかは分からなかった。
幼いころから『源氏物語』を読むことは、和仁にとって当たり前だった。
父も、祖父も、宮中の人々も、皆その物語を知っていた。女房たちは登場人物の歌を暗誦し、時には一つの言葉をめぐって長く語り合った。
書物を読まずに育つとは、どのような暮らしなのだろう。
田畑を耕す者がいることは知っている。山で薪を採る者も、海で魚を捕る者もいる。そうした人々がいるからこそ、都へ米や品物が届くのだということも教わっていた。
しかし、幼い秀吉が何を食べ、どこで眠り、誰から字を教わったのか、和仁には想像できなかった。
ふと、『竹取物語』の翁が浮かんだ。
山へ入り、竹を切って暮らす老人。幼いころに見た絵巻では、背を丸めた翁が竹林の中に立っていた。
秀吉も、あのようなところで暮らしていたのだろうか。
竹など取りて暮らしたるか。
そう尋ねかけて、やめた。目の前の関白と竹取の翁とは、どうにも結びつかなかった。
和仁は、もう一つ尋ねかけた。
そのころは、どのような家に住んでいたのか。
だが、その言葉も口から出なかった。
秀吉が先ほど見せた顔が、気になったのである。
「……関白は、よく学びたるものな」
和仁は、ようやくそう言った。
秀吉は一瞬、意外そうな顔をした。それから、いつものように大きく笑った。
「いやいや、まだまだにございます。幽斎殿などに比べれば、わしの知ることなど、ほんの僅かで」
「関白殿は、お覚えがたいそうお早うございます」
幽斎が口を添えた。
「歌の詞を一度お聞きになれば、後々までよく覚えておいでです」
「ほれ、そういうところは褒めてもらえる」
秀吉は嬉しそうに言い、周囲に笑いが戻った。
けれど和仁は、しばらく笑うことができなかった。
自分は、関白を傷つけたのだろうか。
誰かに何かを尋ねて、その者の顔色が変わるという経験は、和仁にはほとんどなかった。
宮中の人々は、和仁の問いに答える前に、必ず一度考える。知らぬことでも、知っているように答えようとする者さえいる。
だが、この男は違った。
関白は、自分の知らぬことを知らぬと言い、幼いころに学べなかったことも隠さなかった。
それでも、何かを言われれば腹を立てることがある。
和仁は、初めてそのことを知ったような気がした。
*
歌の御会が進むにつれ、秀吉はすっかり上機嫌を取り戻した。
庭の松が話題になり、長寿を祝う歌が次々に披露された。和仁も歌を詠み、公卿たちの歌に耳を傾けた。
その合間に秀吉が遠国の話を始めた。
「東国には、まだ関白の命を十分に聞かぬ者がおりますゆえ、いずれはそちらも片づけねばなりませぬ」
「北条のことか」
「さようにございます」
和仁も、その名は聞いていた。
関東に大きな領国を持ち、長く諸国と戦ってきた家だという。
和仁は、鎌倉のことを思い浮かべた。
頼朝が幕府を開き、その後は北条氏が執権として長く政を執った。
今の北条は、かの執権の家とは別の出自であると聞いている。それでも、同じ名を称して関東を治めているのが、和仁には少し不思議だった。
「北条は、今も鎌倉におるのか」
「いえ、小田原にございます」
「小田原とな」
「相模の城にございます。なかなか堅固な城でしてな」
秀吉は、まるで見てきたように身振り手振りを交えて小田原の城の様子を話した。
「東国のことが収まれば、天下も静かになろうな」
「さようにございます」
秀吉は頷いた。
「そののちは、唐国までも参ろうかと存じております」
和仁は、しばらく意味が分からなかった。
「……唐国とな」
「はっ」
秀吉は、何でもないことのように答えた。
「海の向こうにございます」
それは知っている。
和仁は、少しむっとした。
唐国が海の向こうにあることくらい、幼いころから教わっている。
しかし、秀吉が言ったのは、ただ唐国へ渡るということではないらしかった。
「唐国に、兵を進むるということか」
「いずれは、そのようなこともございましょう」
秀吉は、あっさりと答えた。
「まずは東国でございますがな」
和仁は言葉を失った。
唐。
その名を聞けば、まず詩が浮かぶ。
李白、杜甫、白居易。
玄宗皇帝と楊貴妃。長安の宮殿。広い河、遠い山々、幾千里も続く街道。
和仁にとって唐国とは、書物の中に広がる巨大な世界だった。日本の歌人たちが憧れ、学び、幾百年もかけてその言葉を取り入れてきた国だった。
その国へ、兵を進める。
和仁は、目の前の小柄な男を見た。
秀吉は庭の松の枝を指して、何やら近くの者に話しかけている。
つい先ほどまでは『源氏物語』のことを話していた。
幼いころは書物も読めなかったという男が、今は天下の大名を従え、帝を自らの屋敷へ迎え、さらに海の向こうの唐国へ行こうとしている。
和仁は、急に胸が高鳴るのを覚えた。
恐ろしいようでもあり、何か途方もなく面白いことを聞いたようでもあった。
近衛前久が、少し離れたところで黙っていた。
その顔には、笑みがなかった。
「関白」
和仁が呼びかけたると、秀吉が振り向いた。
「唐国は、いかにも遠きところならずや」
「遠うございますな」
秀吉は笑った。
「されど、船で渡ればよいことにございます」
和仁は、その返事に驚いた。
船で渡ればよい。
それは確かにそうだろう。
だが、唐国とは、そのように簡単に行けるところなのだろうか。
和仁は、もう一度秀吉の顔を見た。
秀吉は、こちらが何に驚いているのか分からぬような顔をしていた。
*
夕刻、和仁は庭に面した座敷で、しばらく一人になった。
もっとも、本当に一人になれるわけではない。少し離れたところには女房が控え、廊には警固の者がいる。和仁が立てば誰かが動き、何かを求めればすぐに人が来る。
それでも、昼間の賑わいに比べれば、辺りは静かだった。
庭には松が植えられていた。
新しく造られた屋敷の庭でありながら、松は以前からそこに立っていたように枝を広げている。
和仁は、ここ数日で出会った人々のことを思い返した。
大きな手を持つ駿河大納言。
能を美しく舞った織田内大臣。
若い備前宰相。
土佐日記の国から来た侍従。
越後の雪のことを、わずかな言葉でしか語らなかった上杉景勝。
皆、和仁の知る公卿たちとは違っていた。
それぞれに国があり、家臣があり、過去がある。
そして、そのすべてを束ねているのが、関白だった。
和仁は、秀吉が『源氏物語』の話をしたときの顔を思い出した。
あの男は、幼いころから書物を読んでいたわけではない。
ならば、どのようにして、あれほど多くのことを覚えたのだろう。
誰に教わったのか。
何を面白いと思い、何を難しいと思ったのか。
和仁は、少し後悔した。
尋ねるべきことは、ほかに幾らでもあった。けれど、もう一度あの話を持ち出す勇気はなかった。
廊の向こうから、人の声が聞こえた。
秀吉の声だった。
誰かを叱っているらしい。しばらくすると、今度は大きな笑い声がした。
和仁は、思わずそちらを見た。
昼間、唐国へ渡ると言った男が、今は廊の向こうで、何か些細なことで笑っている。
その声は、宮中の誰の声よりもよく響いた。
*
やがて、御会で詠まれた歌が、和仁の前に披露された。
関白の歌もあった。
万代の君が行幸になれなれむ
緑木高き軒の玉松
和仁は、もう一度その歌を聞いた。
幾度も行幸を重ね、軒端の松が帝の訪れに慣れ親しむように。
そういう意味である。
祝賀の歌としては、分かりやすい。松の常緑に君の長寿を重ね、行幸が末永く続くことを願っている。
しかし、和仁には、少し不思議でもあった。
関白は、帝がこの屋敷へ何度も来ることを、当然のように思っているらしい。
それは、聚楽第に来てから何度も感じたことだった。
秀吉は、和仁を恐れていないわけではない。礼を失うこともない。けれど、帝が何を見て喜ぶか、何を聞いて驚くかを、まるで親しい者のように知りたがる。
そして、自分が見せたいものを、少しもためらわずに見せようとする。
和仁は、庭の松を見た。
風が吹き、枝がゆっくりと揺れた。
あの松は、関白が植えさせたものだろうか。それとも、もとからこの地にあったのだろうか。
尋ねれば、誰かがすぐに答えるに違いない。
しかし、和仁は尋ねなかった。
松の枝の向こうに、夕空が広がっていた。
その空のずっと先に、越後があり、土佐があり、唐国がある。
和仁は、それらの国をまだ見たことがない。
おそらく、これからも自分の目で見ることはないだろう。
けれど、今日、その国々から来た人々の顔を見た。
そして、書物の中でしか知らなかった遠い世界へ、いつか行くつもりだという男の声を聞いた。
和仁は、もう一度、関白の歌を思い返した。
万代の君が行幸になれなれむ。
この男は、本当にまた自分を招くつもりなのだろう。そう思うと、少し可笑しくなった。
和仁は、誰にも見られていないことを確かめるように、庭へ目を向けた。そして、声を立てずに笑った。
軒端の松が、夕風に揺れていた。
和仁=後陽成天皇
織田内大臣=織田信雄
大和大納言=豊臣秀長
近江中納言=豊臣秀次
駿河大納言=徳川家康
加賀少将=前田利家
備前宰相=宇喜多秀家
土佐侍従=長宗我部元親
北庄侍従=堀秀政
丹後侍従=細川忠興
松ヶ島侍従=蒲生氏郷
金吾侍従=羽柴秀俊(後の小早川秀秋)
上杉少将=上杉景勝
ちなみに上杉景勝が後陽成天皇の聚楽第行幸の際に拝謁したこと、信雄と家康が能を披露したことは本作の創作です。




