遊びをせむとや
天正十五年八月、大坂城。
千宗易は、廊下の先にある襖が開かれるのを待っていた。
夕刻が近づいていた。西日が廊下の板敷きを照らしていたが、襖の向こうから漏れてくる光は、それとは違った色をしていた。
案内の小姓に声をかけられて座敷へ入ると、金地に描かれた松の大枝が目に飛び込んできた。狩野永徳の一門が手がけた障壁画である。
幹は画面の端から太く伸び、枝は襖の継ぎ目を越えて隣の面へ広がっていた。
昼間には金箔が一様に輝いていたはずだが、今は部屋の奥が暗く沈み、灯明の近くにある松葉だけが細かく光っている。
宗易はしばらく立ち止まって眺めた。枝の重なりが、明るいところよりも暗がりの方で深く見えた。
「宗易殿」
振り向くと、津田宗及がいた。
「お待たせいたしました。殿下は、もうしばらくでお見えになります」
「これは宗及殿。先にお入りでございましたか」
「昼から参っております。今度また茶会を催されるとかで、何かと相談がございましてな」
二人は座敷の奥へ進んだ。
その先に、黄金の茶室が設けられていた。
柱も壁も、天井も、金に覆われている。障子には赤い紗が張られ、茶道具も金色のものが取り揃えられている。宗易は以前もこの茶室を見ていたが、日が傾いてから入るのは初めてだった。
小さな空間の中で灯火が金の壁に映っていた。
光は一度壁に当たり、向かいの柱に返り、さらに天井へと広がっている。どこも同じように明るいわけではなく、隅には思いがけず深い陰があった。
宗易は畳に腰を下ろし、炉の位置から客座を見渡した。
黄金の茶室を初めて見たとき、これでは茶碗より壁の方が目立つと思ったものだった。今もその考えが変わったわけではない。
ただ、灯火を落としたときの金の色には、土壁にはない働きがあった。暗い茶碗を置けば、その輪郭はかえって鮮やかになるだろう。
「どうじゃ、宗易」
声とともに、関白豊臣秀吉が入ってきた。
宗易と宗及が平伏すると、秀吉は二人に顔を上げるよう促し、機嫌よく座についた。
「今日は少し暗うしてみた。昼とは違うであろう」
「まことに。金の色も、時刻によって変わるものでございますな」
宗易が答えると、秀吉は満足そうに頷いた。
「永徳の絵もそうじゃ。あれは明るいところで見るばかりがよいのではない。夜になって灯を入れると、松がこちらへ伸びてくるように見える」
「殿下は、よく御覧になっておいでで」
「安土でも、上様は絵の見え方にうるさかった。あの御方は、何でも人を驚かせねば気が済まぬところがあったからのう」
秀吉は笑い、金の柱を軽く叩いた。
「宗易。安土と比べて、どうじゃ。こちらも負けてはおらぬであろう」
宗易はすぐには答えなかった。
織田信長が築いた安土の城の壮麗さは、今も目に焼き付いている。
だが、あの城で信長が人々に見せようとしたものと、今この茶室で秀吉が見せようとしているものは、似ているようで違っていた。
「安土の御城には、また安土の御城の趣がございました」
「うむ。あれはよい城じゃった。だが、少々高すぎたのう。上まで登るのに骨が折れたわ」
宗及が小さく笑った。
秀吉は続けた。
「上様は、下から仰ぎ見させることをお好みであった。わしは、客を中へ入れて驚かせたい。聚楽の屋敷も、そのつもりで造らせておる」
宗易は秀吉の顔を見た。
かつて安土の天主を仰いでいた男が、今はその造りを論じ、自分の城や屋敷と比べている。
信長を懐かしむ口ぶりに敬意がないわけではないが、昔のように言葉を選ぶ様子もなかった。
秀吉は茶碗を取り上げ、宗易の方へ向けた。
「これを使おうと思うが、どうじゃ」
宗易は茶碗を拝見した。黒い釉のかかった、形のよい茶碗だった。
「よろしゅうございましょう」
「そうか。ならば、これじゃ」
秀吉は茶碗を手元に置き、自ら茶を点て始めた。
手つきは慣れていた。昔は茶碗を回す向きさえ迷っていたとは思えないほどである。
ただ、宗易は途中で、秀吉が茶杓を置く位置を変えたことに気づいた。
以前に教えた置き方とは違う。客から見やすくするためか、あるいは単にその方が手早いからか、秀吉は何のためらいもなく道具を動かした。
宗易は黙っていた。
茶が運ばれると、宗及が懐かしそうに笑った。
「殿下。昔、堺の拙宅へお越しくださった折のことを覚えておいででしょうか」
「堺か。宗及のところへは何度も行ったぞ」
「まだ筑前守様とお呼びしておりましたころでございます。松井友閑殿と御一緒にお見えになりまして」
「ああ、友閑か。覚えておる。あのころは、茶の飲み方をいちいち教わっておった」
「お帰りの折、次に参るときには茶の作法をすべて覚えて、私を驚かせると仰せになりました」
秀吉は目を丸くしたあと、大声で笑った。
「そんなことを言うたか。では宗及、どうじゃ。驚いたか」
「驚き通しにございます」
「それはよかった。約束を果たしたわ」
宗及も笑ったが、宗易には、その返答が茶の上達だけを指しているようには聞こえなかった。
秀吉は茶碗を置くと、ふと思いついたように尋ねた。
「宗易。京の公家衆は、わしのことを何と申しておる」
「さて、さまざまに申し上げておりましょうが」
「遠慮せずに言え。悪口でも構わぬ」
宗易は少し考えた。
「平相国になぞらえる向きもあると聞き及びます」
「平相国?」
「平清盛入道にございます」
「ほう。清盛か」
秀吉は面白そうに身を乗り出した。
「武士から太政大臣になった男じゃな。わしと似ておるということか」
「さようなところもございましょう。清盛公は朝廷に重きをなし、宋との商いを盛んにし、厳島の社を厚く崇敬なさいました」
「厳島か。あそこはよいところじゃ。先だっても、幽斎殿とその話をしたわ」
秀吉はしばらく厳島の景色を語ったあと、清盛が福原に都を移そうとしたことを聞き、たいそう興味を示した。
「都まで動かそうとしたか。大したものじゃな」
宗易は頷いたが、その先を続けるべきか迷った。
清盛の栄華が長く続かなかったことを、秀吉が知らぬはずはない。『平家物語』の冒頭は、都の者なら誰もが耳にする。それでも秀吉は、清盛の事業の大きさばかりを面白がっている。
宗易が何か言いかけたとき、秀吉が先に口を開いた。
「そのころの帝は、後白河院であったな」
「さようにございます。あの御方は、今様をたいそうお好みでございました」
「今様とは、歌か」
「歌にございますが、和歌とはまた違います。後白河院は、都の歌い手や遊女からも歌をお習いになり、数多くの今様を集められました」
「帝が遊女から歌を習うたのか」
秀吉は声を上げて笑った。
「それは面白い。宗易、どんな歌じゃ」
宗易は記憶をたどり、ゆっくりと口にした。
「遊びをせむとや生まれけむ、戯れせむとや生まれけん。遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動がるれ」
秀吉は黙って聞いていた。
「もう一度、初めから申してみよ」
宗易が繰り返すと、秀吉は膝を打った。
「よい歌じゃな。遊ぶ子供を見て、我が身まで動き出すというのか」
「そのようにも聞こえまする」
「後白河院は、よほど歌がお好きであったのじゃな。身分の高い低いなど、構わず習われたとは」
秀吉は茶碗を眺めながら、しばらく何かを考えた。
「宗易。茶も同じではないか」
「茶でございますか」
「公家も武士も、町人も茶を飲む。上手下手はあろうが、好きな者は皆好きじゃ。ならば、一度に集めてみたらどうじゃ」
宗及が顔を上げた。
秀吉はもう茶碗を見ていなかった。
「京中の茶好きに声をかける。道具のよしあしは問わぬ。持っておるものを持ち寄らせ、思い思いに茶を点てさせるのじゃ。場所は……そうじゃ、北野がよい。松もあるし、広さもある」
「北野にございますか」
「うむ。わしも茶を点てよう。宗易も宗及も来い。京の者ばかりではない、遠国から来る者も迎えてやろう」
秀吉は立ち上がり、部屋の外に控えていた小姓を呼んだ。北野の境内の広さを調べさせよ、京の茶人を集めよ、という命令が次々に出た。
宗易と宗及は顔を見合わせた。
後白河法皇の今様の話が、いつの間にか都を挙げての茶会になっていた。
******
九月に入ると、北野には諸方から人が集まり始めた。
宗易は何度も境内へ足を運んだ。
松の間に茶席を設けるには、地面の傾きや木の根を見なければならない。雨が降ったときの水の流れも気になった。茶を運ぶ者の通り道と、客が行き来する道を分ける必要もある。
大坂から黄金の茶室も運ばれてきた。
木立の間に金色の小さな建物が姿を現すと、職人たちまで仕事の手を止めて眺めた。
宗易はその様子を見ながら、城の中で見るのとはまた違うものだと思った。松の幹の黒さと金の壁が、互いを際立たせている。
ある日、宗易が茶席の位置を確かめていると、金森長近が蒲生氏郷を伴ってやってきた。
古くから織田家に仕えて飛騨の国主となった長近も、信長の娘婿で伊勢松ヶ島を領する氏郷も、茶の湯に熱心で宗易のもとへたびたび教えを請いに来る。
「宗易殿。こちらの席は、なかなか面白い場所にございますな」
長近は松の枝を見上げた。
「日が高いうちは明るく、午後になれば陰が入る。客も過ごしやすかろう」
「雨さえ降らねば、でございます」
宗易が答えると、氏郷が笑った。
「殿下は、雨でも茶会をなさると仰せになるやもしれませぬ」
三人はしばらく設えについて話した。
やがて長近が、自分の茶席で使う道具の配置を説明し始めた。宗易は聞いているうちに、先日、大坂城で秀吉が見せた置き方と同じところがあるのに気づいた。
「そのように置かれますか」
「はい。殿下がなさっておいででしたので、これは面白いと思いまして」
氏郷も頷いた。
「私も先日、殿下のお手前を拝見いたしました。あのように扱えば、客からもよく見えますな」
宗易は長近の手元を見た。
以前、茶杓の置き方を尋ねられたとき、宗易は道具の扱いやすさだけでなく、席全体の落ち着きについても話した。その教えを長近が忘れたとは思わない。
「なるほど。客からは、よく見えましょう」
宗易はそれだけ答えた。
長近と氏郷は、また別の道具の話を始めた。
二人の言葉には、茶を好む者らしい熱心さがあった。秀吉の真似をすることも、彼らにとっては新しい趣向を試す楽しみの一つなのだろう。
その日の帰り際、宗易は別の茶席で織田源五郎長益に出会った。
源五郎は一人で茶碗を眺めていた。宗易が挨拶すると、顔を上げて笑った。
「宗易殿、ちょうどよいところへ。これを見てくだされ。なかなかよい色ではござらぬか」
宗易は茶碗を手に取り、縁の釉の流れを確かめた。
「よいものでございますな」
「そうであろう。先日から使うておるが、茶を入れるとますますよい」
源五郎は満足そうに茶碗を受け取った。
秀吉の茶の作法について話題を向けても、源五郎はさほど関心を示さなかった。自分の茶席のことを話し、次には兄信長が昔好んでいた道具のことを思い出したように語った。
「兄は、何でも人より先に珍しいものを手に入れたがった。あれは困ったものじゃった」
そう言って、可笑しそうに笑う。
宗易は源五郎の横顔を見た。天下人であった信長も、この男にとっては、昔からよく知る兄なのであろう。
******
十月一日、北野。
朝早くから、境内には人があふれていた。
松の間には数多くの茶席が設けられ、道具を抱えた者、茶釜を運ぶ者、客を案内する者が行き交っている。
立派な茶道具を揃えた武士の席もあれば、粗末な釜と茶碗だけを持ち込んだ町人の席もあった。
宗易の席にも、朝から客が絶えなかった。
一人を送り出すと、次の客が入ってくる。茶を点て、道具について尋ねられれば答え、また次の客を迎える。松の枝から落ちた葉が畳の端に乗り、弟子がそっと取り除いた。
昼近く、宗易はようやく席を離れることができた。
境内の奥では、秀吉が自ら茶を点てていた。
黄金の茶室の前には人だかりができている。秀吉は客に声をかけ、茶碗を手渡し、時には大声で笑った。身分の低い者が恐縮していると、もっと近くへ寄れと手招きしている。
宗易は少し離れたところから眺めた。
大坂城で今様の話をしたとき、秀吉がこれほどの催しを思いつくとは考えていなかった。今や北野の松林は、茶を好む人々で埋め尽くされている。
やがて秀吉が宗易を見つけた。
「宗易、どうじゃ。面白かろう」
「まこと、これほどの茶会は、かつてございませぬ」
「まだまだじゃ。来年はもっと大きくしてもよいのう」
秀吉は笑いながら、次の客を招き入れた。
宗易はその場を離れた。
少し歩くと、長近と氏郷が茶を点てている席が見えた。二人の手つきには、先日気づいた秀吉の趣向が、すっかり馴染んでいる。
宗易は立ち止まらずに通り過ぎた。
その先では、能の支度が進められていた。
信長の次男、織田信雄が舞を披露するという。
宗易は数日前、信雄から稽古を見てほしいと頼まれていた。
「宗易、そなたは能も見るであろう。少し意見を聞かせてくれぬか」
そう言って信雄は、支度の整わぬ座敷で扇を手に取った。
初めは軽い気持ちで引き受けた宗易だったが、信雄が舞い始めると、思わず姿勢を正した。
足の運びに無駄がなく、扇を開く動きには勢いがありながら、次の所作へ移るときには少しも慌ただしさがない。謡の声もよく通り、言葉の終わりが崩れなかった。
信雄は一節を終えると、宗易の方を向いた。
「どうじゃ」
「見事にございます」
「そうか。だが、今のところは少し急いだように思う。もう一度やってみよう」
宗易が止める間もなく、信雄は同じところから舞い直した。
二度目は、確かに先ほどよりよかった。
「こちらの方が、よろしゅうございますな」
「そうであろう」
信雄は嬉しそうに笑った。
その後も、謡の一節を口ずさみ、扇の角度を確かめ、宗易に感想を尋ねた。茶の湯の話をしに来たときとは、まるで違う熱心さだった。
宗易は、信雄が舞う姿を思い返しながら、能の行われる場所へ向かった。
すでに多くの大名が集まっていた。
秀吉も上機嫌で座についている。
「三介殿の舞は見事じゃぞ。今日は皆、よく見ておけ」
秀吉がそう言うと、周囲に笑いが起こった。
信雄は装束を整えて現れ、丁寧に礼をした。
舞が始まると、場の空気が変わった。
信雄の声は、広い場所でもよく響いた。ゆっくりと足を運び、扇を返し、身体を巡らせる。その動きには、稽古で見せたときよりも一段と深い落ち着きがあった。
宗易は舞に見入った。
信雄は、戦場で大軍を率いるときよりも、このような場に立つ方が似合うのではないか。
そんな考えが浮かび、宗易は自分でも少し驚いた。
もし、この御方が織田家の御曹司としてお生まれにならなかったならば。
そこまで思ったところで、宗易は信雄の父を思い出した。
信長もまた、芸能に鋭い目を持っていた。
安土の城を飾る絵を選び、茶道具を集め、舞を好んだ。気に入らぬものには容赦がなかったが、優れたものを見つけると、身分や来歴に構わず取り立てるところもあった。
宗易は、信長が幸若舞の『敦盛』を好んでいたことを思い出した。
人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。
信長が死んでから、五年が過ぎていた。
その息子が今、かつて父の家臣であった秀吉の前で舞っている。
宗易は周囲の大名たちを見渡した。
皆、静かに舞を見ている。だが、この光景をただ能の出来栄えだけで眺めている者が、どれほどいるだろうか。
織田家の御曹司が関白殿下の御前で芸を披露する。昔を知る者ほど、そこに何かを読み取るに違いない。
だが信雄は、そんなことを考えているようには見えなかった。
舞の終わりまで姿勢は崩れず、最後の所作を終えると、ゆっくりと礼をした。
しばらくして、秀吉が手を打った。
「見事じゃ、三介殿。まことによい舞であった」
信雄は顔を上げ、嬉しそうに笑った。
「ありがたき幸せにございます」
周囲からも賞賛の声が上がった。
信雄はそれを受けながら、宗易の姿を見つけると、ほんのわずかに目を合わせた。稽古のときと同じ、出来栄えを尋ねるような顔だった。
宗易は小さく頷いた。
信雄の表情がさらに明るくなった。
******
日が傾き始めると、北野の境内には長い影が伸びた。
茶席の片づけが始まり、松の下には茶碗を包む布や、道具を運ぶ箱が並んでいた。遠くでは、まだ名残を惜しむ客たちの声が聞こえている。
宗易は自分の席へ戻る途中、黄金の茶室の前を通った。
昼間はあれほど人が集まっていたのに、今は周囲も静かになっている。金の壁には西日が当たり、松の影が揺れていた。
宗易は立ち止まった。
茶室の向こうから、秀吉の笑い声が聞こえた。誰かと信雄の舞について話しているらしい。
「三介殿は、あれほど能が上手であったか。上様も舞がお好きであったが、あれはまた違うのう」
宗易はしばらくその声を聞いていた。
やがて、信雄自身の声がした。
「殿下、次には別の曲も御覧に入れとうございます」
「おお、よいぞ。楽しみにしておる」
宗易は思わず微笑んだ。
松の枝を風が渡り、頭上で葉が擦れ合った。
大坂城で秀吉に聞かせた今様が、ふと胸に浮かんだ。
遊びをせむとや生まれけむ。
宗易はもう一度、黄金の茶室を眺めた。
西日が弱まるにつれて、金の色は少しずつ沈んでいった。やがて小姓が中に灯を入れると、壁の一角が明るく浮かび上がり、その奥にあった陰が深くなった。
宗易はしばらくそれを見てから、松の下に置いた自分の茶道具のところへ戻っていった。




