雲の上人
天正十五年四月、日向国根白坂。
根白坂へ通じる街道には、朝から兵と荷駄の列が続いていた。
先に通ったのは四国勢の槍足軽で、その後から中国勢の鉄砲衆が来た。
牛に引かせた荷車が幾十台も続き、俵を積んだ馬が道端で立ち往生すると、後ろの兵たちが怒鳴りながら押しのけた。日向の村々から徴発された人夫も、鍬や鋤を担いで行き来している。
羽柴小一郎秀長は馬上からその列を眺めていた。
一つの備えが通り過ぎても、次の備えが現れる。旗の紋はそれぞれ違い、話す言葉も違った。備前、安芸、讃岐、阿波、土佐。かつて互いに戦っていた者たちが、今は同じ街道を南へ進んでいる。
そのうちの何人が、関白殿下の顔を実際に見たことがあるのだろう。
秀長はそう考えたが、すぐに兵糧奉行を呼び寄せた。昨夜届くはずだった米俵の一部が、まだ到着していなかった。
「島津は、今夜あたり来るかもしれんのう」
軍議の席で秀長がそう言うと、黒田官兵衛が地図から顔を上げた。
「来るとすれば、夜半から明け方にかけてでございましょう。こちらの陣が固まりきる前に、ひと当てしておきたいはずにございます」
陣屋の外では、兵たちが土を掘り、木柵を組み立てる音が続いていた。
根白坂は高城へ通じる要地であり、島津方が城を救おうとすれば、ここを突破せねばならない。
秀長は豊後から南下してきた軍勢をこの一帯に集め、街道を押さえる陣地を築かせていた。
「天文の末の大戦では、陸奥守殿も夜のうちに兵を動かされたそうじゃな」
秀長は傍らに座る小早川左衛門佐隆景へ目を向けた。
隆景は五十を過ぎていたが、姿勢は崩れず、声にも張りがあった。五年前には敵として備中高松で対峙した男が、今は豊臣の大軍の一翼を担っている。
「はっ。父、陸奥守元就は夜陰に乗じて厳島へ渡りました」
「陶尾張守は、毛利勢が渡ってくるとは思うておらなんだのか」
「宮尾城を攻めれば、こちらが救いに参ることは考えておったでしょう。されど、父があの夜、あの風雨の中を渡るとは思わなんだのでござろう」
「島へ渡ってからは、いかがなされたのですか」
備前岡山の城主、宇喜多秀家が身を乗り出した。一昨年に初陣を経験したばかりの少年は、目を輝かせて隆景を見つめている。
隆景はかすかに笑った。
「それがしは、まだ二十を少し過ぎたばかりでござった。あの夜は、父の船が無事に島へ着くか、そればかり気にかけておりました。敵のことを考える余裕もござらなんだ」
「左衛門佐殿にも、そのような頃があったか」
「ございましたとも」
隆景は穏やかに答えた。
「父の船が沈めば、毛利の家もどうなるか分かりませぬ。夜が明けて一文字三ツ星の旗を見つけたときは、ようやく息ができたような心地がいたしました」
秀長は頷いた。
「雨か」
「はい。あの夜は、随分と降りました」
秀長は陣屋の外を眺めた。日向の空は夕方になっても明るく、雲は薄かった。
「島津は海を渡るわけではない。じゃが、闇に紛れて押し寄せるには、都合のよい地形じゃ」
官兵衛が地図を指した。
「こちらの谷筋から来れば、街道へ出るまで姿が見えませぬ。もっとも、そこから先は狭うございます。柵を二重に設け、鉄砲を集めておけば、容易には抜かれますまい」
「容易には、か」
「相手は島津にございます」
官兵衛はそう言って、指を地図から離した。
隆景が口を開いた。
「薩摩の兵は、退くと見せて誘うことも、押すと決めれば死に物狂いで突きかかることもいたします。宗麟公の軍勢も、先年の耳川では随分と苦しめられた由」
「うむ。大友の者どもからも聞いておる」
秀長はしばらく地図を眺めた。
「柵の前へ出て追うことは禁ずる。敵が退いても、夜が明けるまでは陣を離れるな。鉄砲は濡らすなよ。火縄の始末も念を入れさせよ」
官兵衛が頷き、書付を取った。
「討死した者の始末も考えておかねばなりませぬな」
官兵衛が地図から顔を上げた。
「これだけの軍勢がぶつかれば、敵味方ともに相当な数になりましょう」
「うむ。骸を野に晒してはおけぬ。埋める場所も、土地の者と相談せねばならん」
「寺社の境内へ逃げ込む兵も出ましょう。そこも気をつけねばなりませぬ」
隆景がそう言うと、秀長は顔を上げた。
「そういえば、厳島も神の島であったな。あれほどの戦の後、どうされた」
「父は、社殿に付いた血を海水で洗わせました。血の染みた土も、残らず取り除かせたと聞いております」
「土までか」
「はい。島そのものが神域でございますゆえ」
秀長はしばらく考えた。
「勝った後の始末が肝心じゃな」
隆景は、わずかに口元を緩めた。
「大納言様は、兄君によく似ておいででござる」
「そうかの。関白殿下なら、もっと派手なことを考えそうじゃが」
「いや、勝った後のことを、戦う前から考えておられるところが」
秀長は笑った。
「それは殿下に仕込まれたのじゃ。昔は兵糧の勘定ばかりさせられておったからのう」
陣屋の入口で伝令が声をかけた。秀長が呼び入れると、男は島津方の動きを報告した。高城の南に兵が集まり、夕刻になっても陣を解く様子がないという。
秀長は官兵衛と隆景を見た。
「やはり来るか」
「今夜にも動きましょうな」
官兵衛が答えた。
「根白坂には宮部法印がおる。攻めてくるとすれば、まずあそこじゃろう」
隆景が頷いた。
「法印は山陰で毛利方の備えを散々苦しめたお人にござる。守る側に回っても、手強いことでしょう」
「そうじゃな」
秀長は地図に目を落とした。
高城の南を通る道には、因幡鳥取の城主、宮部継潤が守る根白坂の砦があった。
*
夜半を過ぎたころ、根白坂の南で鬨の声が上がった。
初めは遠雷のように聞こえた。やがて法螺貝が鳴り、谷の奥から幾百もの足音が響いてきた。
見張りの兵が叫び、砦のあちこちで火が掲げられる。
島津の兵は暗い谷筋を駆け上がってきた。
先頭の者たちは長い槍を構え、後続の鉄砲衆がその間から撃ちかける。火花が闇に散り、弾が柵を叩いた。
「撃て!」
豊臣方の鉄砲が一斉に火を噴いた。
前列の島津兵が何人も倒れた。
それでも後ろから兵が押し寄せ、倒れた者を引きずり下ろして道を開けた。柵へ取りついた男が鉞を振るい、別の男が槍を突き込む。
「退くな! 押せ!」
聞き慣れぬ訛りの怒号が響いた。
柵の向こうでは、島津兵の一隊が声を合わせて何かを唱えていた。
歌とも掛け声ともつかぬ低い声が、鉄砲の音に途切れながら近づいてくる。先頭の男が撃たれて倒れても、後ろの者がその続きを唱えながら進んできた。
豊臣方の足軽が一人、恐怖に駆られて後ずさった。
「逃げるな!」
組頭がその襟を掴んで引き戻した。
夜明け前の冷たい空気に硝煙と血の匂いが混じるなか、島津兵はついに一重目の柵を破った。
土塁を乗り越え、槍を突き出して豊臣方の足軽を追い散らす。
薩摩の声で勝ち鬨が上がった。
だが、土塁の向こうには、もう一列の柵があり、その後ろに鉄砲衆が並んでいた。
さらに奥には、まだ戦に加わっていない数百の槍足軽が旗を立てて待機している。
島津兵の一人が何かを叫ぶ。
次の瞬間、鉄砲が一斉に火を噴いた。
宮部継潤は土塁の後方で、負傷者を運ぶ兵たちを見ていた。
「法印様、外の柵が破られました」
「見えておる。内側を守れ」
「敵がさらに押し寄せております」
「ならば、まだ撃つ相手には困らぬな」
宮部は兵に水を運ばせ、鉄砲衆を交替させた。谷の下では、島津勢が再び鬨の声を上げていた。
*
秀長の本陣に根白坂から急使が着いたのは、夜もだいぶ更けてからだった。
「宮部法印の砦が攻められております。敵は幾度も柵に取りつき、なお兵を増しております!」
秀長は床几から立ち上がった。
「法印は無事か」
「ご無事にございます。砦もまだ持ちこたえております」
「救援を出そう。兵を集めよ」
軍監の尾藤知宣が進み出た。
「大納言様。この闇に大軍を出しては、敵より先に味方を見失いますぞ。島津が伏兵を置いておれば、なおさらのこと」
「では、法印には朝まで持ちこたえよと申すのか」
「今から兵を出しても、砦に着くまでには時がかかります。夜明けを待って備えを整えるべきかと」
秀長は眉をひそめた。砦を抜かれれば、高城を囲む軍勢の背後を脅かされる。だが、夜の山道へ大軍を送り出す危険も分かる。
「……諸陣に知らせよ。夜明けには動けるようにしておけ」
伝令が駆け出していく。
官兵衛が傍らで言った。
「島津兵庫頭は、あの砦を抜けば高城を救えると見ておるのでしょう」
「そう簡単にはいかんわ」
秀長は陣屋の外へ目を向けた。
「しかし、よう攻める」
「退くに退けぬのでございましょう。高城を見捨てれば、日向の諸城が次々に落ちます」
秀長は頷いた。
*
東の空が白み始めるころ、島津方は再び大きな攻撃を仕掛けた。
今度は鎧武者を先頭に、まとまった兵が柵へ突進してきた。豊臣方の鉄砲が撃ちかけられ、馬が倒れ、槍が折れた。それでも島津兵は前進を続け、鉞で柵を打ち壊し、土塁の上に槍を突き出した。
宮部は予備の兵を呼び寄せた。
「右へ回せ。あそこを抜かれてはならん」
柵の一角が倒れ、島津兵が歓声を上げた。宮部方の足軽が槍を揃えて押し返そうとしたが、敵は次々に隙間へ入り込み、土塁の上でも組み討ちが始まった。
そのとき、砦の北側で新たな鬨の声が上がった。
「宇喜多勢じゃ!」
島津兵は不意を突かれ、柵から離れて迎え撃った。宮部はその隙を逃さなかった。
「今じゃ。押し返せ!」
砦の兵が槍を揃えて前へ出た。
*
島津中務大輔家久は、坂の下から戦況を見ていた。
砦の柵はすでに破れ、あと一押しで中へ踏み込めるところだった。
ところが、横から現れた宇喜多勢に攻め立てられ、先ほどまで柵に取りついていた味方が押し戻されている。
「中書様、敵の新手にございもす!」
家久は馬を進めた。
「慌つんな。宇喜多勢はどいほどおっとか」
「数百ほどかと!」
「ならば、こちらも五百ば回せ。砦への攻めは緩むな」
使番が駆け去り、島津勢は向きを変えて宇喜多勢を迎え撃った。槍を交え、鉄砲を撃ち合ううちに、押し戻されていた兵が少しずつ集まり始めた。
別の方角からも鬨の声が上がった。藤堂高虎の手勢が駆けつけ、島津勢に攻めかかってきた。
「中書様、また新手が!」
「騒ぐな。あいも小勢じゃ。兵ば散らすな、宇喜多勢とまとめて押し返せ!」
家久は坂の上を見た。
砦には依然として豊臣方の旗が翻っているが、攻め手の勢いも戻りつつあった。
そのとき、東の斜面から一斉に鉄砲が撃ちかけられた。
家久が振り向くと、朝靄の向こうから黒田官兵衛と蜂須賀家政の軍勢が姿を現した。斜面を下る兵の列は途切れず、迎え撃とうとした島津勢が押し返される。
さらに小丸川の対岸から毛利の大軍が現れ、谷筋へなだれ込んできた。
「中書様、こちらにも敵が!」
「分かっちょる! 砦への攻めば止めよ。兵ばまとめて、退き口ば開け!」
だが、命令を伝える使番が走っている間にも、島津勢の隊伍は崩れていった。
宇喜多勢を押し返していた兵が側面を衝かれ、砦の前では宮部方が再び押し出してくる。夜通し戦い続けた兵たちは、退こうにも退く道を塞がれ、次々に討たれていった。
家久のもとへ、具足を血に染めた武者が駆け寄った。
「中書様、兵がもちもはん!」
「退くぞ。動ける者ば先に通せ。残る兵は退き口ば守れ」
家久は坂の上を見た。砦の柵は破れている。だが、その向こうにはまだ豊臣方の兵が並び、さらに新たな旗が続いていた。
「武庫の兄者へ知らせよ。根白坂は抜けもはん、と」
*
島津方の法螺貝が退却を告げた。
豊臣方の兵が追いすがった。島津の兵は幾度も踏みとどまって反撃したが、疲れ果てた兵たちは、次第に隊伍を保てなくなっていった。
日が上ると、谷筋を退いてゆく島津軍の姿が見え始めた。隊列は乱れ、負傷者を担いで歩く兵も多くいた。後方では幾組もの槍足軽が踏みとどまり、追撃を警戒している。
秀長の本陣にも、根白坂の勝報が届いた。
「宮部法印の砦は守り抜きました。島津勢は南へ退いております!」
秀長は大きく息をついた。
「そうか。法印は無事か」
「ご無事にございます」
「よう持ちこたえてくれた」
秀長は官兵衛を呼んだ。
「敵はまだ抗っておるか」
「退きながら幾度も槍を揃え、そこかしこに火も放っております。追う側にも損害が出ておるようで」
「そうか」
秀長はしばらく考えた。
「もうよい。追っておる者どもを戻せ。根白坂を固め直すのじゃ」
官兵衛は頷き、伝令を走らせた。
追撃に出た兵が戻り始めるまでには、なお時を要した。谷筋ではしばらく鉄砲の音が続き、負傷者を担いだ兵が次々と坂を登ってきた。
日が高くなったころ、秀長は馬に乗り、根白坂の砦へ向かった。
斜面には折れた槍や旗指物が散らばり、谷の道には退却中に討たれた島津兵の亡骸が幾重にも横たわっていた。
土塁の前では、豊臣方の足軽たちが夜のうちに倒れた味方を運び出している。
宮部継潤が秀長を迎えた。具足には泥が付き、声も少しかれていた。
「法印、見事な働きであった」
「何とか守り通しました」
「ずいぶん柵を壊されたのう」
「直しておきます。もう一度来られては困りますゆえ」
秀長は笑い、柵の修繕と負傷者の手当てを命じた。
島津方の負傷兵も何人か捕らえられていた。手当てを受けながらも、豊臣方の兵を睨みつけている者がいた。
「よい。あの者どもにも水をやれ」
秀長が言うと、傍らの侍が頷いた。
捕虜の一人に、年の頃四十ほどの武者がいた。肩に鉄砲傷を負い、手当てを受ける間も一言も発しなかったという。
秀長が近づくと、男はようやく顔を上げた。
「大納言様。この者は、島津兵庫頭の馬廻りにござったそうで」
秀長は男を見た。
「よう戦うたのう」
男は答えなかった。
「まだ戦うつもりか」
「……太守様が戦えち命じやれば、どこまでも戦いもす」
「そうか」
秀長が馬を進めようとすると、男が不意に口を開いた。
「おはんらは、いったい何人おっとじゃ」
「何人じゃと思う」
「昨日も、今日も、同じほどの兵が出てきよる。こっちは人が減るばかりちゅうに」
男は秀長の背後を見た。新たに到着した兵が隊列を整え、旗を立てていた。
「……まだ、来るのか」
秀長は答えなかった。
藤堂高虎が戻ってきた。具足には泥が跳ね、馬も汗をかいている。
「大納言様。根白坂は守り抜きました。敵は南へ退いております」
「ご苦労であった。宇喜多の先手は戸川肥後守殿と聞いた。戸川殿にも礼を申しておいてくれ」
高虎は馬を降り、秀長のそばへ歩み寄った。
「島津は、これで退きましょうか」
秀長は南の山々を眺めた。
「これほどの負け戦じゃ。もはや高城を救うどころではあるまい」
官兵衛が馬を寄せてきた。
「島津勢は、佐土原を目指して退いていくものと見ます。関白殿下の本軍も、ほどなく肥後から薩摩へ進まれるとのこと。島津はもはや立ち直れますまい」
秀長は頷き、手綱を引いた。
「殿下へ知らせよ。こちらは勝った、と」
*
根白坂の敗報が届いた夜、島津修理大夫義久は陣屋の奥で弟を待っていた。
弟の兵庫頭義弘が戻ってきたのは、灯火を二度継ぎ足したころだった。具足の袖には乾いた泥がこびりつき、頬にも浅い傷があった。
「武庫、戻ったか」
「太守どん。遅うなりもした」
義弘は腰を下ろしたが、具足を脱ごうとはしなかった。
「根白坂から戻った者どもを見てきもした。傷を負うた者ばかりじゃ」
「何人戻った」
「まだ中書が数えちょるところにございもす」
義久は頷いた。机の上には、豊臣方の動きを記した書付が何通も重なっていた。
「豊後の方から、また敵の兵が来たそうじゃ」
「聞いちょります」
「毛利も来た。長宗我部も来た。宇喜多も来た。これまで互いに戦っておった者どもが、皆、関白の旗の下に集まっておる」
義弘は唇を噛んだ。
「じゃっで、何じゃ。敵が多ければ降ると申されるか」
「武庫」
「まだ薩摩がありもす。大隅もありもす。国境まで退いて迎え撃てば、あの大軍とて、いつまでも兵糧を運べるものではなか」
義久は弟の顔を見た。
「武庫。おはんは、あの兵どもに、もう一度戦えと言えるか」
義弘は答えなかった。
陣屋の外では、負傷した兵が水を求めていた。
夜になっても帰らぬ者が多く、各隊の人数はまだ揃っていない。根白坂から逃げ帰った兵たちは、敵の追撃が止んだ後も、山道を歩いてくる味方の足音に怯えていた。
義弘は膝の上に置いた拳を開いた。
「心こそ、軍する身の命なれ……」
義久は弟を見た。
「……そろゆれば生き、そろわねば死す」
義弘は俯いた。具足の袖に乾いた泥がこびりついていた。
義久は机の上の書状を手に取った。関白の使者が届けたもので、島津の家を存続させる条件が記されていた。
「理も法も立たぬ世ぞとて……」
今度は義弘が顔を上げた。
「……ひきやすき心の駒の、行くにまかすな」
義久は書状を畳んだ。
しばらく、二人とも口を開かなかった。
やがて義久が言った。
「武庫。具足を脱げ。傷の手当てをせねばならん」
「……はい、太守どん」
義弘はようやく具足の紐に手をかけた。
*
五月に入ると、島津方から降伏の意向が伝えられた。
秀長のもとには、城の明け渡しや人質についての書付が相次いで届いた。島津の一門はなお薩摩、大隅に勢力を保っており、戦に勝ったからといって、すべてが直ちに従うわけではなかった。
「修理大夫殿は、まだ御自身でお出ましにならぬか」
秀長が尋ねると、使者は頭を下げた。
「ただいま支度を整えており申す」
「支度か」
秀長は苦笑した。
「戦の支度は早いが、降る支度は難しいものじゃな」
使者は答えなかった。
秀長は机の上の書付を取り上げた。
島津方の所領について、兄から届いた指示が記されている。薩摩、大隅の扱い、日向の城々の処置、従軍した諸大名への恩賞。
戦が終われば、今度は土地と人をどう動かすかが問題になる。
「修理大夫に伝えよ。関白殿下は、島津の家を絶やそうとは仰せになっておらぬ。されど、これ以上戦を続けるならば、話は別じゃ」
「ははっ」
「兵庫頭にも伝えよ。根白坂で見せた働きは見事であった。じゃが、次はあのようには済まぬぞ」
使者が退出すると、秀長は深く息をついた。
「ようやく、ここまで来たか」
官兵衛が頷いた。
「九州も、これで大方は治まりましょう」
「治まればよいがのう。殿下はもう、次のことを考えておるに違いない」
秀長は窓の外を見た。南国の日差しが庭に差し込み、木々の葉を明るく照らしていた。
「昔は、一つ城を落とせば大騒ぎじゃった。それが今では、一国二国を治めても、次の仕事が待っておる」
官兵衛は笑った。
「大納言様も、随分と御出世なされました」
「わしは殿下に引っ張られてきただけじゃ」
「それだけで、これほどの軍勢は動かせませぬ」
秀長は返事をせず、書付を畳んだ。
*
六月、筑前国箱崎。
秀長が兄の陣所を訪ねると、秀吉は細川幽斎と向かい合って座っていた。
「おお、小一郎。よう来たのう」
秀吉は顔を上げ、昔と変わらぬ笑顔を見せた。
「関白殿下には御機嫌麗しく」
「何じゃ、その堅苦しい挨拶は。座れ座れ」
秀長は幽斎に一礼し、座についた。
秀吉は上機嫌だった。島津の降伏によって九州平定の大勢が決し、諸大名からは祝いの使者が相次いでいる。
先日には秋月種実が名物の茶入を差し出して恭順を誓ったという。
「秋月の持ってきた肩衝が、なかなか見事でのう。宗易に見せたら、さぞ喜ぶじゃろう」
「殿下は茶碗や茶入を見ると目の色が変わりますな」
「馬鹿を申せ。あれ一つで城が買えることもあるんじゃぞ」
秀吉は笑った。
「ところで幽斎殿が、丹後から九州まで旅をして来られたそうじゃ。道中で歌を随分と詠まれたと聞いての」
「旅の慰みに詠んだものばかりにござる」
幽斎はそう言いながら、懐から小さな冊子を取り出した。
「越前から北国の海辺を巡り、長門を経て筑前へ参りました。道々、古歌に詠まれた名所も訪ねましてな」
「それは羨ましいのう。わしなど、戦のためにあちこち歩き回っておるが、歌を詠む暇もないわ」
「殿下は先頃、安芸の厳島で歌会を催されたとか」
「おう、そうじゃ。厳島は見事なところであったぞ」
秀吉は身を乗り出した。
「海の上に社が建っておっての。潮が満ちれば、まるで社殿が海に浮いておるようじゃ。あれは都の公家衆にも見せてやりたいと思うた」
「その折のお歌を、拝見いたしました」
「ほう。どうじゃった」
幽斎は静かに口を開いた。
「ききしよりながめにあかぬいつくしま、見せばやと思ふ雲のうへびと」
秀長は顔を上げた。
その歌は知っていた。厳島の歌会の後、兄の詠草が書き留められた紙を、家臣が持ってきたことがある。
戦支度に追われていたころで、ゆっくり読む暇はなかったが、兄が都の貴人に景色を見せたいと詠んだことは覚えていた。
「幽斎殿。どう思われる」
秀吉が尋ねた。
「率直なお歌にございますな」
「率直か」
「厳島の景色を見て、ただ美しいと詠むのではなく、これを都の方々にも見せたいと仰せになる。そこが面白うございます」
秀吉は嬉しそうに笑った。
「わしは昔、歌を詠むと、花だの月だのを並べるばかりじゃと叱られたものじゃ。京に宗順という師匠がおっての。今でも時折、歌を見てもろうておる」
「よき御師匠をお持ちでござる」
「幽斎殿も、わしの歌を見てくだされ。まだまだ知らぬことばかりじゃ」
幽斎は頷いた。
「歌は、古いものを覚えるだけではございませぬ。御自分の目で見たもの、心に浮かんだことを、いかに言葉にするかが肝要にございます」
「それは宗順殿にも言われたわ」
秀吉は膝を叩いた。
「皆、同じことを申すのう」
秀長は兄の顔を眺めていた。
かつて長浜の城で、兄が歌の稽古をしていたころのことを思い出した。
仕事の合間に紙を広げ、五文字七文字と指を折って数えていた。寧々が呆れ、小姓たちが笑いをこらえていたこともある。
その兄が今は関白となり、細川幽斎のような当代一流の歌人を前にして、自らの歌を論じている。
「小一郎、何をぼんやりしておる」
秀吉が声をかけた。
「殿下の御歌を拝聴しており申した」
「どうじゃ。少しは上手になったと思わんか」
「昔よりは、随分と」
「昔よりは、とは何じゃ」
秀吉は笑い、幽斎も口元を緩めた。
やがて話は、九州の仕置きへ移った。
秀吉は諸大名の配置や領地の扱いについて、次々に考えを述べた。秀長も日向で見聞きしたことを報告し、官兵衛から聞いた島津方の事情を伝えた。
幽斎は途中で退出したが、兄弟の話はなお続いた。
「兄者。九州は、これで終わりかのう」
「終わりじゃ。少なくとも、しばらくはの」
秀吉は地図を畳んだ。
「次は東国じゃ。北条がいつまでも小田原に籠っておるわけにはいくまい」
「また戦か」
「戦をせずに済めば、それに越したことはない。じゃが、天下を一つにするには、まだまだ骨が折れるわ」
秀長は黙って頷いた。
秀吉はふと、窓の外を見た。
「そうじゃ、小一郎。京へ戻ったら、聚楽の屋敷を見せてやるぞ。今度の屋敷は大層なものになる。主上にも御覧いただけるよう、立派に造らせておるのじゃ」
「主上に?」
「うむ。厳島の社も、いつか御覧に入れたいものじゃが、さすがに九州へお出ましいただくわけにはいかんからのう」
秀吉は笑った。
「せめて京では、何不自由なくお過ごしいただけるようにせねばならん」
秀長は兄の横顔を見た。
昔、二人で尾張の村を歩いていたころ、兄は京の公家のことなど、ほとんど知らなかった。禁裏がどこにあるのかも、官位が何を意味するのかも、よく分かっていなかった。
今では、天皇を自分の屋敷へ迎えようとしている。
「兄者」
「何じゃ」
「よう、ここまで来たのう」
秀吉は不思議そうな顔をした。
「何を今さら。おぬしも今や、大和大納言と呼ばれる身ではないか」
「そうじゃな」
「大和も紀伊も和泉も、おぬしに任せておる。九州でも大軍を率いて働いた。もっと胸を張れ」
秀長は笑った。
「兄者に褒められるとは、珍しいこともあるものじゃ」
「馬鹿を申せ。わしはいつも褒めておるぞ」
「叱られた覚えの方が多いがのう」
秀吉は大声で笑った。
その笑い声は、長浜にいたころと少しも変わらなかった。
*
数日後、秀長は九州を発った。
出立の朝、秀吉は多くの家臣に囲まれていた。諸大名への書状、領地の処置、兵の帰還、博多の復興。次々に人が進み出ては報告し、指示を受けて去っていく。
秀長が挨拶に訪れると、秀吉は人々の間から顔を出した。
「小一郎。気をつけて帰れよ」
「関白殿下も」
「わしはまだ少しこちらに残る。片づけねばならんことが多うての」
「身体をおいといくださいませ」
「おぬしこそ、働きすぎるなよ」
秀長は笑った。
「殿下こそ天下一の働き者にございましょう」
秀吉も笑ったが、すぐに背後から声をかけられた。
「殿下。博多の町割について、島井宗室殿が御目通りを願っております」
「おお、宗室か。待たせておけ。すぐ参る」
秀吉は秀長へ向き直った。
「では、京で会おう」
「はっ」
秀長は頭を下げ、馬へ向かった。
門を出ると初夏の風が吹いていた。
道の両側には兵たちが並び、帰国の支度を整えている。遠くには海が見え、白い帆を上げた船が幾艘も浮かんでいた。
秀長は馬上で、ふと厳島の歌を思い出した。
ききしよりながめにあかぬいつくしま。
あの島を、兄はどのような顔で眺めたのだろう。
小早川左衛門佐にとっては、父が大勝を収めた戦場だった。兄にとっては、都の貴人たちにも見せたい美しい景色だった。
見せばやと思ふ雲のうへびと。
秀長は振り返った。
門の向こうには、まだ多くの家臣たちが集まっていた。兄の姿はもう見えなかった。
「大納言様。参りましょう」
供の者が声をかけた。
「うむ」
秀長は手綱を握り直した。
馬が歩き出すと、蹄の音に混じって、遠くから港の荷を運ぶ人夫たちの掛け声が聞こえてきた。




