この世をば
天正十三年二月、京。
宗順の家の前に、見慣れぬ駕籠が止まった。
供の侍たちは十人を超えていた。門前に並ぶ者だけでも、宗順の家の間口をすっかり塞いでしまう。
近所の者が何事かと顔を出し、通りがかった町人は、駕籠に施された金具や供侍の立派な装束を眺めながら足を止めた。
やがて駕籠から、小柄な男が降りてきた。
鮮やかな紅の小袖に金糸の刺繍が入り、腰には見事な拵えの太刀を佩いている。男は狭い門を見上げると、昔と変わらぬ笑顔を浮かべた。
「宗順殿、おるかね」
奥から老人が出てきた。
「これは……亜相様」
「何じゃ、その呼び方は。昔みたいに、ただの殿でよいがね」
「滅相もござりませぬ」
宗順は慌てて平伏した。
秀吉は高らかに笑いながら草履を脱いだ。供の者が後に続こうとすると、片手を振って制した。
「お主らは外で待っとれ。昔の師匠に会うのに、いちいち見張りは要らんわ」
小さな座敷に通されると、秀吉は懐かしそうに室内を見回した。
「変わらんのう。あの掛物も、昔からそこにあったな」
「よく覚えておいでで」
「忘れるものか。あれを見て、わしが何と申したか覚えておるか」
「さて」
「字が上手いのは分かるが、何と書いてあるか分からん、と申した」
宗順は思わず笑った。
「左様でございましたな」
「今なら読めるぞ」
秀吉は掛物を眺めた。
「独り幽篁の裏に坐し、琴を弾じて復た長嘯す。深林人知らず、明月来たりて相照らす」
宗順は感心して頷いた。
「随分とお励みになりましたな」
「励んだとも。近頃は相国寺の西笑という坊主に漢詩を習っておる。京の公家衆と付き合うには、まだまだ足りんがの」
宗順は茶を差し出した。
「前右府様がお亡くなりになってから僅かに二年半、あれよあれよという間に天下人へと駆け上がられましたな」
「何じゃ天下人とは、人聞きが悪いのう。岐阜の三法師様がおられるがね」
「亜相様が天下の差配をされることを疑う者はおりませぬ。山崎、賤ヶ岳。先頃は大坂に見事な城も築かれました。海道一の弓取りと謳われた徳川殿もいずれは降るであろうとの噂でございます」
秀吉は茶碗を持ち上げて、茶をすすった。
「柴田も滝川も器量が足りんかったからの。わしがこうして貧乏籤を引かされておる。おかげで歌を習う暇も減ってしもうた」
宗順は少し居心地悪そうに、茶道具を脇へ寄せた。
「そういえば神子田殿はいかがなされました。以前はよく、筑前殿のお供をしておいででしたが」
「神子田……?」
秀吉は一瞬、妙な顔をしたが、すぐに破顔した。
「ああ、半左衛門か。あれには暇を出した」
「……左様で」
「昔はそれなりに働いた男じゃがな、今のわしには使えぬ」
宗順は何を言ってよいか分からず、壁の掛け軸に目を向けた。
「ところで宗順殿」
秀吉は懐から、藤原道長の歌を集めた小さな冊子を取り出した。
「近頃、御堂関白の歌を読んでおっての。白露は分きても置かじ女郎花、心からにや色の染むらむ、という歌があるじゃろ」
「ございますな」
「露は花を選ばんというのに、女郎花ばかり色づくとは面白い。あれほど天下を思うままにしたお方にも、こういう歌が詠めたのじゃな」
「御堂関白も、歌の道では一人の歌人でございます」
「そうじゃの。わしもまだまだ精進せねばならん」
秀吉は歌集を閉じ、残った茶を飲み干した。
「そういえば、夏になったら北陸へ行かねばならんかもしれん。越中で佐々内蔵助が強情を張っておるでの。あれも随分とたわけた男よ」
宗順が答えを探している間に、秀吉は懐からさらに数枚の紙を取り出した。自ら詠んだ歌だという。
宗順が言葉の使い方を一つ二つ指摘すると、秀吉は膝を打ち、筆を借りてその場で書き直した。
帰り際、宗順は門まで見送った。
「またお越しくだされ」
「おう。また来るぞ」
秀吉は駕籠に乗りかけ、振り返った。
「宗順殿」
「はい」
「わしがどれほど偉くなっても、歌の間違いは遠慮なく申せよ」
「承知いたしました」
駕籠が動き出した。
宗順は供侍の列が通りの角を曲がるまで、頭を下げていた。
******
同じ年の五月、京。
前関白、近衛前久は、庭に向かって扇を広げていた。
前久の後ろには、丹後宮津の領主、細川幽斎が座っていた。
「羽柴は、また官を望んでおるそうな」
「左大臣をお望みの由にございます」
「元はただの筑前守よ。それとて過分であろう。右府とならば、旧主の総見院と同じよ。越階に越階を重ねて、未だ不満か」
「右大臣では、いささか重みが足りぬとか」
「ふざけおって。それで信輔を動かし、二条殿を動かし、左府を望むか。勧修寺も、朝からその話ばかり持って参る」
前久は扇を畳んだ。
「勧修寺も勧修寺よ。羽柴の威を借りて図に乗りよる。いつから武家伝奏が陣定の差配になった」
「勧修寺殿も、内相国と朝廷との間で随分と難儀しておられるのではございますまいか」
「難儀しておる者が、あのように得意げな顔をするものか」
前久は鼻を鳴らした。
「一昨年は筑前守、去年は左少将であった男が、亜相も越えて、今や内相国と呼ばれておる。どこまで上るつもりじゃ」
幽斎は答えなかった。
「摂関のことまで騒がしゅうなった。二条も九条も譲るまいし、麿の息子とて黙ってはおられぬ。まったく、勧修寺が持ってくる話は、近頃ろくなものがない」
「内相国の御意向も、無関係ではございますまい」
「無関係どころか、あの男が一声発すれば、誰も彼も右往左往する始末じゃ」
前久は扇を閉じた。
「それにしても、羽柴は紀州まで一呑みにしおったの」
「左様にございます」
「前右府も、あそこには随分と手を焼いておった。そこは大したものじゃ。舎弟の美濃守も、なかなかの傑物と聞く」
「美濃守殿は、兄君とはまた異なる御気性にございます」
「兄弟揃って、天下を取るつもりかの」
前久は頬を歪めるように笑った。
「新しい城を、和歌山とやら名付けたそうじゃな」
「若の浦の古歌にちなむとも聞き及びます」
「戦をするにも、今や歌の名を借りるか」
「内相国は、歌を好んでおられます」
「地下も地下の出には似合わぬことよ」
「好むばかりではございませぬ。耳にした歌はよく覚え、意味を尋ね、また自ら詠まれます。以前より、随分と上達なされました」
「幽斎は、あの男を買っておるの」
「才覚には、驚かされることがございます」
「才覚」
前久は庭に目を向けた。
「才覚があれば関白になれるというなら、五摂家などというものは要らぬわ」
幽斎は静かに頭を下げた。
「じゃが、羽柴はそうは思うておらぬらしい」
前久は扇を開いて向き直った。
「あの者、近衛の家に入りたいと申してきおった」
幽斎は顔を上げた。
「猶子に、でございますか」
「さよう。麿の子となって、関白を望むそうじゃ」
「それは……」
「ほほほ。どこぞの木の下から、大した親孝行者が現れたものじゃの」
前久は扇で口元を隠した。その目は全く笑っていなかった。
*
勧修寺晴豊という男と秀吉が最初に出会ったのは天正十年の夏、清須での評議が済んで間もない頃だった。
晴豊は三十を少し越えたばかりで、細面に涼しい目をした男だった。武家伝奏として信長と朝廷の間を往復してきたという。
「武家伝奏とは何じゃ」
秀吉がそう聞くと、晴豊は僅かに目を細めた。嘲笑ったわけでもない。驚いたわけでもない。少なくとも、顔にはそうした感情を出さなかった。
「武家伝奏とは、禁裏と武家との間を取り次ぐ役目におじゃる。主上の御用を武家へ伝え、また武家の申し分を禁裏へ奏上するのでおじゃります」
「武家というのは、公方様か」
「かつては室町殿との仲立ちが主でおじゃった。されど近頃は室町殿に限りませぬ。天下の静謐を預かる武家、古くは細川、三好、近くは前右府様とも、代々、禁裏の取り次ぎを務めてまいりました」
「上様とは、どのようなことを話しておられた」
「御官職のことが一つ。太政大臣、関白、征夷大将軍の三職のうち、いずれかをお受けいただくというお話におじゃりました」
秀吉は膝を叩いて笑った。
「そりゃまた大層な話じゃのう。上様は何と仰せになった」
「確と御返答をいただく前に、かようなことと相成りまして」
秀吉は頷きかけ、ふと晴豊を見た。
「待たれよ、勧修寺殿。柴田殿のところへも参られたのか」
「いえ」
「三介中将殿には?」
「まだ、お目にかかっておじゃりませぬ」
「ほう。これは三介中将殿のところへ持ってゆく話ではないのか。わしが聞いてよいのか」
晴豊は膝の上で袖を重ね直した。秀吉が笑っていないことに気づいているらしかった。
「本日は、何事かをお決めいただこうと参ったのではござりませぬ。前右府様との間に、かような御相談がございましたことを、お伝えしておきたく存じまして」
秀吉はしばらく晴豊の顔を見ていた。晴豊は静かに頭を下げている。
「なるほど。聞くだけなら構わんということじゃな。よし、続けられよ」
「何から申し上げましょう」
「まず、太政大臣と関白は何が違うのじゃ。征夷大将軍は、公方様のお役目じゃろう」
「関白と申しますのは、古く漢土にて、政務に関わることは必ずその人に申し上げよ、すなわち『関り白す』とされたことに由来する名でおじゃりまして――」
秀吉はすぐに遮った。
「待たれよ。関白は藤原氏の者しかなれぬと聞いたことがあるぞ」
「古くより、藤原氏の摂関家が務めてまいりました」
「近衛殿も二条殿も藤原なのか。家の名が違うではないか」
「いずれも藤原北家の御流れにございます。御堂関白と言われし藤原道長公の御血筋で、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五家を摂関家と申します」
「御堂関白か。大層栄えたお方じゃったそうな。いや待て、勧修寺殿は藤原なのか」
「はい」
「ならば、勧修寺殿も関白になれるのか」
「叶いませぬ」
「何故じゃ。同じ藤原であろう」
晴豊は摂関家、清華家、大臣家、さらに羽林家や名家といった公家の家格の違いを説明した。
「待て待て。官位が上がっても、家の格は変わらぬのか」
「原則としては」
「窮屈じゃのう。勧修寺殿ほどのお方でも、生まれた家で行き先が決まっておるのか」
「私どもには、私どもの務めがございます」
晴豊は淡々と答えた。
秀吉はその顔を眺め、それから五摂家の名をもう一度唱えた。
「ところで、ほかにも上様と御相談なされたことはあるのか」
「たとえば暦のことでございます。今年の閏月をどこに置くか、京と尾張の暦師の説が異なっておりまして」
「月は京でも尾張でも同じように出るじゃろう。何故違う」
「暦を作るには計算が要ります。その法に違いがございますれば」
「どちらが正しいかは誰が決めるのじゃ」
「暦師の勘申を受け、朝廷にて御審議なされます」
「上様が変えよと仰せになっても決まらんのか」
「御意向は重く承ります。されど、暦には古くからの定めもございます」
秀吉は腕を組んだ。
「上様は何でも御存じじゃった。わしは長いことお側におったが、暦のことなど考えたこともないわ」
「前右府様は、禁裏の御儀にも深く御関心をお持ちでございました」
「わしも少しは学ばねばならんな。勧修寺殿、これからも折々教えてくだされ」
晴豊は頭を下げた。
それからしばらくして、再び晴豊が秀吉のもとを訪ねたときのことである。
「勧修寺殿。今度は装束のことを教えてもらいたい。禁裏へ参るときは、何を着ればよいのじゃ」
「それは、参内の御用向きと御官位によって異なりまする」
「では、上様がお召しになっておられたようなものは、わしも着られるのか」
「それは……」
晴豊は少し考えた。
「羽柴殿。次に参ります折には、一人、お連れしたい御方がおじゃります」
*
数日後、晴豊は約束どおり客を連れてきた。
秀吉が庭先へ出ると、ちょうど二頭の馬が門をくぐったところだった。
先に降りた晴豊が手綱を小者に渡す。その後ろの馬には、痩せた老人が乗っていた。頬はこけ、額には深い皺があったが、背筋は真っ直ぐだった。
老人は馬を止めると、供の者が駆け寄るより早く鐙を外し、軽やかに地面へ降り立った。
「達者なものじゃのう」
秀吉が声をかけると、老人は振り向いた。
「筑前守か。麿は飛鳥井におじゃる」
晴豊が二人の間に進み出た。
「羽柴殿。こちらは飛鳥井権大納言雅春卿におじゃる。かつて武家伝奏も務められ、禁裏の御作法、有職故実には殊のほかお詳しい御方におじゃります」
「飛鳥井殿か。お噂は聞いておりますぞ」
「筑前殿の武功も、かねがね耳にしておじゃる」
飛鳥井雅春はそう答えたが、にこりともしなかった。
晴豊が取りなすように言った。
「飛鳥井卿は諸国の武家と、顔の広い御方でもおじゃる。昔は陸奥国までも下向されたと」
「永禄の折か。米沢の伊達左京大夫を訪ねる用向きがおじゃった」
「ほう、それはまた遠くへ行かれたものじゃ」
「麿の祖父も父も随分と諸国を廻ったものじゃ。周防にも参った。相模にも参った。北国も旅した」
「公家衆も難儀なものじゃのう」
「武家の御方ばかりが難儀をなさるわけでもあるまい」
雅春は素っ気なく答えた。
「それはそうじゃ。いや、失礼いたした」
「筑前殿は、前右府殿のもとで長くお働きになったそうじゃな」
「うむ。二十年近くお仕え申した」
「ならば、前右府殿が禁裏へ参られる折、どのようなお姿をなされたかも御存じであろう」
「いや、そこまでは。わしは戦の供ばかりでの」
「白粉を塗り、眉を描き、歯を黒く染めておじゃった」
「上様が?」
秀吉は思わず聞き返した。
「禁裏へ参るのであれば、別段珍しいことでもあるまい」
「いや、上様が白粉とは……」
秀吉は信長の顔を思い浮かべたらしく、しばらく黙っていた。
「筑前殿は、我ら公家を、何やら奇態な生き物とでも思うておいでか」
「いやいや、滅相もござらん」
「近衛の龍山公などは、不識庵と越山までなされとる」
「不識庵?」
雅春は顔をしかめた。
「長尾越後守よ。上杉謙信入道とも号しておったな。龍山公は若年の折、謙信入道と馬を並べて東国に入り、伊勢の軍勢と戦うたとの話じゃ。まことかは知らぬ」
「伊勢?」
秀吉が聞き返すと、晴豊が小声で補った。
「相模小田原の北条でおじゃる」
秀吉は腕を組んで唸った。
「勇ましい方がおったもんじゃな。それでその龍山公というのは……」
雅春がまた顔をしかめた。
「近衛の前久と仰せられる、元の関白殿下じゃ。前右府とも親しゅうての。鷹狩りにも参ったし、先年に武田が滅んだ折には、前右府とともに甲州まで下向しておる」
「なんと、全然知らなんだ。いや近衛殿の名は聞き及んでおるが、左様な御方であられたか」
「龍山公は、公方の叔父御でおじゃる」
「公方とは、義昭公か」
「左様。代々の室町殿は摂関家と縁を繋いで参ったゆえな」
雅春はそこで少し言葉を切った。
「前右府殿は禁裏の作法をよく心得ておじゃった。そもそも、武家と公家は上では近い。武家が朝廷の作法を学ぶのも、昔から珍しいことではおじゃらん」
「なるほど。では、わしも覚えねばならんのう」
晴豊が横から言った。
「御所へお出ましになるのであれば、まず装束と御座所の作法からでございましょう」
「そうか。では、歯を黒くするのは後でよいな」
秀吉がそう言うと、雅春は初めて、かすかな笑いのようなものを浮かべた。
*
丹後宮津の細川幽斎が山崎の城に秀吉を訪ねてきたのは、その年の秋の終わりだった。
秀吉は幽斎を丁重に迎えた。幽斎は五十に近く、剃り上げた頭にまだ青みが残っていた。衣服は質素だったが、座るときにも立つときにも、身についた品のよさがあった。
「幽斎殿と膝突き合わせて話すのは初めてかもしれんのう」
「前に会うたは天正五年の松永攻めの折ですかな。筑前守殿は近江や西国で武功を重ねられた。それがしは専ら畿内の近国でござった」
小姓が慎重に茶を運んできた。
幽斎は僅かに目を細めて、その足取りを見た。次にちらりと茶碗を見た。
「幽斎殿は、義輝公にもお仕えしておられたそうじゃのう」
「俗名の藤孝も、光源院様の元の諱から一文字を頂戴いたしました。三好の一党に追われ、光源院様と共に長く近江の朽木に篭ったこともござる」
「義輝公が討たれた後は、諸国を転々となされたとか。難儀なことであったろう」
「全て、昔のことでございます。今となっては夢のごとく」
幽斎はゆっくりと茶碗を持ち上げ、その香りを嗅ぐような仕草をした。秀吉はそれを見ながら、何気ないように続けた。
「惟任日向守とも、その頃から昵懇でござったか」
幽斎は茶碗を口元へ運び、一口含んだ。しばらくその味を確かめてから、静かに茶碗を膝の前へ戻した。。
「──公方様の御用にて顔を合わせることは多うございました」
「長い付き合いじゃったのう。日向守も、幽斎殿のことは、さぞ頼りにしておったじゃろう」
幽斎は茶碗を置いた。
「日向守殿とは、御公儀のために働いたこともござる」
「うむ。わしも上様の御家臣として、あの男とは幾度となく顔を合わせた。まさか日向守があのようなことをしでかすとは、夢にも思わなんだ」
秀吉は茶をすすった。
「ところで、日向守の息女は息災かの」
「あれは丹後の奥へ所払いを致しました」
「与一郎殿がそうなされたか」
「細川の家として、為すべきことを為したまで」
「そうか。与一郎殿も辛かろう。嫁御には何の罪もないからのう」
幽斎は頭を下げたが、返事はしなかった。
「わしも、あの娘御には気の毒なことじゃと思うておる。しかし、日向守のしたことを思えば、細川殿にも御苦労があろう」
「恐れ入りまする」
秀吉はしばらく黙って幽斎を見ていた。
「幽斎殿。わしは三法師様をお守りし、上様の御家を盛り立ててゆくつもりじゃ。幽斎殿にも、これまでどおりお力添えを願いたい」
「しかと」
「与一郎殿にも、そうお伝えくだされ」
「必ずや」
秀吉は頷いたが、すぐには次の言葉を発しなかった。幽斎も黙っていた。
庭の方で、落葉を掃く音が聞こえた。
やがて秀吉は、傍らに積んであった書物を一冊取り上げた。
「幽斎殿。近頃、勧修寺殿や飛鳥井殿から禁裏のことを教わっておるのじゃが、なかなか覚えきれぬ。公家衆が昔どのように暮らしておったか、書物でも読んでみようと思うての」
幽斎は秀吉の手元を見た。
「何をお読みになっておられますか」
「今は、和歌の古い書物を少しずつじゃ。もっとも、知らぬ言葉が多くて、坊主に尋ねてばかりおる」
「しからば、『源氏物語』をお読みになるとよろしい」
「源氏か」
秀吉は妙な顔をした。
「あれは色恋の話ではないのか。朝廷の故実と関わりがあるのか」
幽斎はゆっくりと頷いた。
「関わりは深うございます。公家の歌も、物語も、朝廷の故実も、みな源氏五十四帖のうちにありまする」
「五十四!」
秀吉は扇で膝を叩いた。
「そりゃまた大層なものじゃ。幽斎殿は、それを皆お読みになったのか」
「若い頃より、幾度も」
「公方様にお仕えしておった頃からか」
「その前からでございます」
「ほう。わしとは随分違うのう。わしがその頃しておったことといえば、草履を揃えたり、馬の世話をしたりじゃ」
秀吉は笑った。幽斎も口元を緩めたが、その目は笑っていなかった。
「まあよい。今からでも遅くはあるまい。幽斎殿、分からぬところがあれば、また教えてくだされ」
「俊成卿の言葉も覚えておかれるとようござる。源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり、と仰せられた」
「源氏とは、そこまでのものか」
「後の歌人たちは、源氏の詞を借り、物語の趣を歌に詠み込んで参った。歌だけを読んでも、その心が分からぬことがござる」
「歌を覚えるだけでは足りぬわけじゃな」
秀吉は膝の上で指を折った。
「五十四帖か。戦の合間に一帖ずつ読んでも、随分とかかるのう。だが、どうせ読むなら皆読んでみたい。幽斎殿、わしにも読めるよう、折々教えてくだされ」
幽斎は秀吉の顔をまじまじと見た。
「……筑前守殿は、随分と物好きな御方でござるな」
「知らぬことを知るのは面白いからのう。わしはまだ、知らぬことばかりじゃ」
秀吉は高らかに笑った。
*
秀吉が近衛前久と対面したのは、天正十三年の六月だった。内大臣としての威儀を整え、煌びやかな装束をまとって近衛邸を訪れた秀吉を、前久は上機嫌で迎えた。
「内相国も、随分と御立派になられたの」
「龍山公には、御機嫌麗しゅう」
前久は扇を広げ、秀吉の装束を眺めた。
「その御姿を拝見しておると、昔のことが嘘のようじゃ。初めてお会いした頃は、何とも威勢のよい御仁であった。声も大きゅうて、立つも座るも、ひとつひとつが大仰でのう。さても勇ましき武士と感心したものよ」
「殿下の御目汚しとなり、恐れ入りまする」
「なんの、今では天下を左右する御方じゃ。いや、人の世というは、何とも面白きものよな」
秀吉は無言で軽く頭を下げた。
「前に会うたときは、いつぞやの能楽の折でおじゃったの。筑前、あいや内相国は、何やら末席で難しげな顔をしておった。眠気が差しておじゃったか」
「安土での能楽でございますな。懐かしゅうござる。あの折は、何を見ても珍しゅうございました」
「ほほ。そなたは舞台よりも、周りの御歴々の顔をよく見ておったように思うがの」
「皆々様の御機嫌を損ねぬよう、気が気ではございませなんだ」
「おほほ」
前久は扇を口元に当てて含み笑いをした。目は笑っていない。
秀吉は表情を変えなかった。
「しかし、その言葉遣いは勧修寺に習うたのかえ。なかなか堂に入っておじゃる」
「なにぶんにも、草深き尾張の野人にござりますれば、覚えることばかりで難渋しておりまする」
「おほほ。野人とはよく仰せじゃ。近頃は歌までお詠みになると聞いたぞ。どうじゃ、ここで一首披露してみよ」
「殿下の御耳を汚すようなものではございませぬ」
「遠慮することはない。麿も内相国の御歌を聞いてみたいものじゃがの」
「もう少し上達いたしましたら、ぜひ」
前久は不意に真顔で扇を開いた。
「そういえば、妙な風聞を耳にした」
秀吉は無表情に前久を見た。
「内相国が先の公方に猶子を断られたとか。あれは我が甥ながら、気位の高い男ゆえな。さぞ難儀であったろう」
「存じませぬな。どなたの噂でございましょうか」
「おや、御存じないか。これは麿も、つまらぬことを申した」
前久は扇で口元を隠した。秀吉はまた軽く頭を下げた。
「それにしても、内相国は忙しいことじゃの。先年は小牧の役、今年は紀州、さらには四国。次は越中かえ。なんとも慌ただしい」
「これもひとえに天下静謐、主上の御宸襟を安んじ奉らんがためにございます」
「おほほ。畏きあたりの御名を、みだりに口にするものよな」
前久は扇で口元を覆い、目を細めた。
「恐れ入りまする」
「いやいや、まことに御立派な志じゃ。総見院も今の内相国を御覧になれば、さぞ驚かれよう」
「信長公には、大恩を感じており申す」
「信長公」
前久はその言葉を繰り返した。
扇を開き、秀吉の顔の前でゆらゆらと振る。
「信長公。信長公とな。今や旧主の諱を臆せず呼ぶ。さすがは内相国。いや、見事見事。大したものじゃ」
秀吉は動じずに見返した。
前久は扇でさっと口元を覆い、顔を背けて横目を向けた。
「そういえば、総見院には倅がおったのう」
「御子息は数多くおわします」
「ほれ、あれよ。伊勢の神戸の婿になった……なんと申したかのう。歳のせいか、すっかり物覚えが悪うなったわ」
「三七郎殿でござろうか」
「そうそう、それよ! 三七郎信孝。あれも随分と気の毒なことであったのう」
秀吉は黙って座っていた。
「なんと申したかの。あれの辞世があったじゃろう」
前久はしばらく秀吉の返事を待った。
沈黙が流れる。
前久は滑るような動作でゆらりと立ち上がり、庭に面した障子の前で扇を片手に振り返った。
「昔より、主をうつみの野間なれば」
そこで言葉を切る。
秀吉は無言で前久を見上げていた。
二、三歩、畳の上を歩く。
「報ひを待てや」
また足を止めた。
秀吉に背を向けて扇を胸元に引き寄せ、最後の一句を口にする前に、わずかに顎を上げた。
「羽柴筑前!」
前久はさっと向き直り、扇で口元を覆った。
「ほほほ。そなたもかような歌を詠まれては、なかなかに聞こえが悪かろう。気の毒じゃの」
秀吉は静かに頭を下げた。
「おいたわしいことでござりました」
前久が扇で口元を隠したまま、小さく笑う。
と、突然秀吉が破顔し、大きな笑い声を上げた
「ははははは」
前久は瞬時に表情を消し、扇で口元を被ったまま秀吉の前に膝をつき、顔をぐっと近づけた。
その目には、先ほどの笑いの影もなかった。
秀吉はまだ顔に笑いを貼り付けたまま、前久の目を無言で見返した。
「──この世をば」
謳うような声が漏れる。
「わが世とぞ思ふ、望月の──」
前久が大きく目を見開いた。
扇がその手から落ちた。
「欠けたることも……」
秀吉は低い声で続けた。
「なしと思へば!」
前久は口を開きかけた。
秀吉は動かなかった。
前久はその目を見つめたまま、声を失っていた。




